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死者の思春期

 私たちの体の特徴は、紫・腐敗・異様に白くて、すぐに破れる。
 でも、黒い髪の毛や制服で、体の多くが覆われているから、白い肌はあまり人目につかない。
 私が、池のそばの道を歩いて帰っていたら、前方から男の子が、シャボン玉を吹きかけてくる。

 私たちのなかには、目玉が溶け落ちそうになっている私がいる。涙は白くて、目玉もほとんどが白くて、溶け出している白目と涙の区別がつかない。

 指が取れそうな私もいる。ネズミの肌と、同じ色をした指。左手の薬指、せっかく銀色に輝く指輪をもらったのに、指が取れたら、指輪はつけられないと泣いている。

 薄暗い理科準備室に立っている、つるつるした人体模型が彼氏という私もいる。
 人体模型のむき出しの腹から、冷たくて硬い内臓を取り出し、丁寧に床に並べて、正座して拝む。窓から日が差している。

 小学校低学年の男の子や、中学三年の男子を彼氏にしている私もいる。
 中学三年の男子は、不敵な笑みを浮かべて、四つん這いになった私を見ている。それは、普通、十五歳では手に入れることのできない支配者の笑みだ。場合によっては、ついに人生で一度もその笑みができないまま、死んでいく男もいるという。
 支配下に置かれた私は、自分が踏み台にすぎないのを知りながら、嬉しがっている。
「俺はネクロマンサーになりたいんだ」と彼は言う。

 黒い犬の吠え声が聞こえる。
 犬は、私たちに噛み付いたり、付き従ったりする。
 犬が横に付き従っているときは、私たちの手は犬の背を撫でる。
 おとなしくしていた犬は、何の前触れもなく手首に噛みつき、簡単に、それはちぎり取られ、持ち去られてしまう。
 凶暴なときの犬が何匹か集まってきたら、私たちは地面に倒れて、どんどん食いちぎられて、肉の破片になっていくしかない。

 私たちの体に触れると腐臭が移るので、寝かせてもらえるベッドはない。
 お墓で眠りたいけど、墓の数が足りない。墓をつくるにはお金もいる。死んでも動いている私たちは冒涜的で、ちゃんと供養してもらえないから、お墓もつくってもらえない。

 私たちの家族は、ひとり残らず私たちを避ける。
 家族だった頃の情を取り戻せないようなつくりになっているらしい。私たちの体が腐っているのと同じく、それは、そういう構造なのだ。
 生きている人は、心が、特別なものだと思っているけど、そんなことはない。
 心も機構だと、私たちは知っている。

 男の子は私たちのようにはならない。
 私たちは、恋に未練があって、こんなふうになるのだと言われている。
 日夜、体を引きずって、恋の相手を探し求めているけど、本当に欲しい人が私たちの手に入ることはない。

 私たちは、辻斬りの試し斬りに使われたりすることがある。
 死んでいるものをいくら切り刻んでも、生者の法律は働かない。
 私たちに法律はない。
 校則に縛られている男子が、それを羨ましがる。

 私たちが体を曲げて横たわり、折り重なっていると、辺りの地面からは紫色の花が咲く。
 そこは屋敷の庭で、濃い霧が立ち込めている。
 屋敷の主人である少年が、花を摘んでいく。
 花を咲かせるかわりに、私たちは寝床を提供してもらっている。
 といっても、私たちが眠ることはない。
 横たわってもまぶたは開きっぱなしで、まばたきの仕方は忘れていた。
 生きていた頃は、あんな素早い動きをどうやって無意識にやっていたのかと不思議に思う。

 丘の上には、白い資料館がある。天文台みたいな丸天井の白い小さな建物で、今日は風に吹かれている。
 白いスーツを着た少年が管理人をしていて、ショーケースの中には、小さな骨が飾ってある。
 繋いだ手の骨。
 肉が溶け落ちてなくなった先輩たちの骨だ。

 月夜や、肌寒い秋や、桜が流れていく春、寂しさを埋めるために私たちは、互いに手を伸ばして触り合う。
 温度もなく、感触さえほとんどない接触で、何の足しにも引きにもならない。自分のものではないように見える体に触れるという行為を認識することが、脳みそに理屈上の安らぎを与えるけど、心は微動だにしない。賞味期限切れの麻薬のように、何も解決はしてくれない。
 それでも、いざ終わるとなると、誰かに触れていないとやりきれないという私は多かった。

 私たちはもう死んでいるので、死ぬという言葉を使うことは許されていない。
「死ぬ」を使ったのが生者にバレたら、棍棒でタコ殴りにされる。
 殴られていると、痛くはないけど、だんだん、鈍い悲しみが募ってくる。
 それは、体が溶けたり、ばらばらになったりするより、私たちにとっては辛いことだ。
 だから、ただ「終わる」と言うしかない。

 私たちの外見が美しいと褒める者はいる。
 裸にさせて、絵を描いたり、自慰に使ったりする。
 でも、触りたがる者はいない。
 真摯な愛を持っていると自負していた者も、私たちに身を寄せると、かならず嘔吐して寝込んでしまう。
 寝込んだ人の額に氷枕をのせて、真っ暗な部屋をそっと去り、それから二度とその人には会わない。
 なかには、私たちが腐っていて、冷たいがゆえに私たちを愛する者もいるけど、そういう者を、私たちは好きになることができない。

 路上で、カエルの尻に爆竹を突っ込んで破裂させることに飽きてきた悪童は、つぎに、私たちを破裂させようと考える。
 私たちは抵抗しない。飛び散った私たちの破片は、人間に近い姿をしているので、大概の場合、悪童もおぞましいことをしたと思って逃げ去り、それからは悪夢に悩まされ続ける。悪夢のなかでは、勝手に登場させられた私たちが、現実には無い恨みをもって彼らを苦しめる。起きているときに私たちに会うと、幽霊を見たように青くなって逃げ出す。
 一匹、逃げずにその場に残り、じっと私たちの破片を見つめている悪童がいた。破片の上では、蝶が飛んでいた。天気のいい、のどかな日中で、悪童は目を細めていた。
その悪童は、成長して十五歳になり、私たちの彼氏になった。このあいだ、青い夜のダイナーから女を連れだして、腹をナイフで刺し、ついに後戻りができなくなった。
「これでいいんだよ」と、彼は私に言った。「昔からの計画通りだ。この歳で、これをやるつもりだったんだ。あとはこの女を、お前らと同じにしてやる」
 私のせいで、あなたがそうなったのならごめんなさい、と腐った胸の内で私は言う。口に出すと、彼が怒るのはわかっていた。
 口に出さなかったのに、鬼のようにギョロリと目を剥いて、彼は私を見た。
「おい、お前、驕ってんじゃねえぞ。お前ごときが、俺の人生に影響したなんて思ってみろ。木っ端微塵にして、焼却炉に放りこんでやるからな」
 彼のその言葉に、私は恋を感じた。
 ここはモーテルのバスルームで、浴槽には女が目を閉じて寝ている。
女はタイトなドレスを着ていて、真っ赤な口紅を塗っていた。
 まず、その派手なドレスを脱がして、口紅を落とさないとね、と私はアドバイスをした。
「んなこと言われなくてもわかってるよ」
 彼は自分の着ているワイシャツを引っぱって無理矢理ボタンを外しにかかっている。シャツの下は裸だ。
 それから、まぶたは押し上げて、下がらないように安全ピンでとめておかないとね、と私が言う。
「それ、目玉落ちるんじゃねえの」
 だから、落ちる前に済ませてしまわないと、落ちてしまったら、かわいそうに、片目が黒い空洞の私になっちゃうよ。
「それはそれで良さそうだな」意地の悪い笑みを浮かべる。
 彼が上を脱いで、作業をしているあいだ、私はハンガーにかけた黒い制服を持って、後ろに立っている。
「お前、それどこで手に入れた。誰か、いま裸のやつがいるのか」
 いいや、これは、ついさっき、焼却炉に入った私が、脱いでいったものだよ。

 生者が風呂に入るみたいに炎の中へ入って、ゆっくりと目を閉じて燃え尽きる私もいる。
 口元はかすかに笑んでいる。
 森の中に打ち捨てられた白い浴槽の腐った緑色の水に浸かって、同じように目を閉じて微笑んで見える私もいる。
 水面には黒ずんだ茶色い枯れ葉や小さな芋虫が浮いている。
 水は冷たく、森の空気は涼しい。
 目を閉じた時点で、ほとんど私ではなく先輩になっている。
 その証拠に、水に浸かっているその私の胸の中央には、ナイフが突き立てられている。
 とても精確な突きであることは確かだった。
 でないと私が目を閉じたり、微笑んだりすることはできないのだ。

彼が初めての仕事で手間取ったせいで 新しくできた私の片目は黒い空洞になっていた。 唇も、口紅を落とし忘れていたから深く濃い紅色で、私たちのなかではとても目立った。
「いいだろ、十分形になったんだから」
 彼の言うとおりだった。
 私たちが私たちであるために、いちばんわかりやすい条件は、体が人間の形を保っているかどうかだった。
 彼は、たしかに、私たちのことをよくわかっていたのだと思う。
 でも、だから私たちにとって自分は特別だと、少し勘違いをしていたのではないだろうか。
 たとえ、彼が優れたネクロマンサーになって、私たち全員を軍隊のように動かせたとしても、残念ながら、私たちを本当に支配できたことにはならなかった。
 結局私たちにとっては、彼も、理科室の人体模型も、そこら辺のザリガニも、道端に落ちている一枚のメンコも、何も変わらないのだ。
 メンコを拾い上げてポケットに入れ、それを彼氏と呼べば、彼氏になる。

 空が真っ黒な雲に覆われた大雨の日、彼は墓地で仰向けに倒れて、なんとか起き上がろうとしていたけど、肘が地面に張りついたみたいに、どうしても起き上がることができなかった。
 私たちは灰色の林のように彼の周りに立ち並んで、彼を見ていた。
 そこにいる私たちのなかには、一度も彼と会ったことのない私もいた。その手の私は、死に場所を求める野良猫のような気持ちに引かれて、ここまでやってきたのだった。
 傘を持っていない私は、道中、ゴミ捨て場や溝から拾ってきた。
 そのため、みんな傘をさしていたけど、誰一人、彼に差し出したりはしなかった。
 彼は顔を歪めて、ときどき雷に白く照らされながら死んだ。
 私たちは、どれくらいの間かわからないけど、そのまま彼を見ていた。彼は腐って形をなくして、そして最期まで、私たちのようにはならなかった。
 初めからわかっていたけど、彼にとっても、私たちは本当の恋の相手ではなく、私たちごときのために、死んだ彼が再び動き出すことはないのだった。
 彼の骨は、分解したり、大きいところは砕いたりして、私たちのあいだで分け合った。
 全員に骨が行き渡ったら、私たちは振り返って、前へ、それぞればらばらの方向へ進んで、私たちが去ったあと、地面にわずかに残された彼の骨の滓も、白い子犬がやってきて舐め取り、ついに何もなくなった。

 トンボのような丸いメガネをかけている小学生の男の子は、真剣に私に恋をしているようだった。
 私たちが恋のために死にながら生きながらえているのだとすれば、その男の子も、私への恋を引きずったまま死ねば、私たちと同じになるのかもしれなかった。
 そこで、その子がしゃがみこんで土を固め、カエルか何かのお墓をつくっているとき、私は後ろで尖った木の枝を振りかぶり、その子の背中から肺を貫いた。
 目を見開いたまま倒れたその子の口から血が流れ出て、生き物のように地面を進んでいくのをじっと見下ろしていたけど、結局その子も骨になっただけだった。
 恋は、関係ないのかもしれないと私は思った。
 もしくは、この男の子も、私を本当に恋していたわけではなかったのかもしれない。
 すぐにどちらでもよくなった。
 そして、またすぐに彼氏が欲しくなるのだ。
 私たちは、首につけられた鎖を引っ張られている恋の奴隷だった。

「いいじゃないですか」
 私が原稿用紙に書いた「恋の奴隷」という文字を見て、資料館の管理人の少年は言った。
「これを題名にして、詩とか、文章を書いてみたらどうですか?
 死者の書いた詩なんてめずらしいし、意外と読んでもらえるかもしれませんよ。
『終わって』しまう前に、たくさん書いてみてくださいよ。
 ちゃんとぼくが後世に伝えますから」
 つまり、ここの資料の一つになるんですねと私が言った。
「まあ、そうなると思いますね。でも、新しい資料ですよ。ものを書き残した人は、一人もいなかったから。
 あなたは生前、なにか書いていたんですか? 覚えてませんか?」
 …………。
「こういう質問をしてはいけないんでしたっけ」
 いいえ、そうじゃないんですけど。
 何かを書いていたような、それらしいイメージは、浮かんでくるんです。でもその物語は、まだ与えられていない、形になっていないので、語ることができないのだと思います。
「物語を語る、ですか。記憶を思い出す、ではないんですね」
 はい、それはまた、その時が来たら、もしかしたら語ることができるかもしれない。その時がこないまま、終わってしまうかもしれない。わからないのです。
 少なくとも、記憶というものとは、私たちは切り離されていると思います。
「なんだか、難しいですね。たぶん、ぼくはあなたちのことを一番よく見ている人間だと思いますが、あなたたちはわからないことだらけです。いくらでも探求することができそうなんですが……たぶん、深く関わりすぎると、命を失うはめになるんでしょうね」
 はい、たぶん。どうしてだかはわかりませんが。
 だから、あなたは恋人になってくれないんですね。
「そうですね」
 でも、私たちはよく思うんですが、たぶん、私たちの「彼氏」ではなく、本当の「恋人」になれるとしたら、それはあなたのような人なんです。
「それは、光栄です」彼はにっこりと笑った。
そう、そういうところなんです。と私は言った。

 黄色い日の光が斜めに差し込み、池の水を琥珀色にしている。
 その池に、男の子が背中を上にして浮いている。
 くらげみたい。
 あのまま水に浸かってたら、私たちみたいに腐るのかな。
 私たちよりもっと酷くなると思うよ。見とく?
 うん。
 黄色い蝶々がのどかに飛んでいる。
 浮かんでいる男の子が生きているのか死んでいるのか知らないけど、どっちにしろ、私たちに助ける義務はなかった。
 私たちが生者を見殺しにしたところで、生者は私たちに何も言えない。もしくは言うのを諦めている。
 逆も同じで、生者が私たちを見殺しにしようが、積極的に殺そうが、法律の問題にも、倫理の問題にもならない。
 私たちが生者を殺しにかかったら、燃やされたり、刻まれたり、引き裂かれたりと、ものすごい勢いで仕返しをされて、私たちは一人も残らないだろうけど、殺りたいなら殺っても、私たちはかまわないのだ。
 いまのところそんなつもりはないけど、いつか、何かのスイッチが入って、私たちは目が赤く光ったりして、生者に襲いかかるかもしれない。
 そう思えば、私たちを殲滅せずにとりあえず放置している生者は、寛容で、気がたるんでいた。
 ねえ、あの子の体が、私たちより酷く腐ったら、私たちは喜んだほうがいいのかな。
 それとも、あの子の体が、わたしたちと同じように腐ったら、喜ぶべきなのかな。
 どっちだと思う?
 うーん。わからない。
 みんなに相談してみる?
 どうでもよくない?
 うん。なんとなく、言ってみただけ。
 暇なの? 暇だったら、行っていいよ。わたしが見てるから。
 でも、私が行ったら、そっちが暇になるでしょ?
 見てるだけで大丈夫だよ。見ることにかけては、プロだから。

 この私は、自分が恋人にしたい人が誰なのか、わかっていて、その人とその人の彼女がベッドの上で抱き合っているのを、茶色く錆びた窓の格子をつかんで覗いていた。
 他の私が、その覗きの現場に通りかかって、あなたはちゃんとした人間になれそうだねと言った。
 ちゃんとした人間になったら、私の恋は叶うかな。この心の齧り取られた部分も治るかな。
 心はネズミに齧られた灰色のチーズみたいだった。
 うーん、わからないな。私はちゃんとした人間じゃないから。
 はは。そりゃそうだけど、もうちょっとがんばって考えてよ。
 先輩のなかには、ちゃんとした人間になれた私、いないのかな。
 聞いたことある? そんな話。
 ない。
 そういうことだよ。
 私たちには秘密なのかも。
 誰が隠してるの?
 さあ。そんなことしても、なんにもならないよね。
 そうだよ。ああでも、ちゃんとした人間になったら、私たちとはもう、縁を切りたいんじゃないかな。
 疫病神のような過去だもんね。
 そうか、でも、誰かの過去になれるんなら、嬉しいな。
 そうかもね。
 あの人たちの情事を見て、性的興奮を感じる?
 そう言われて、窓の向うに目を戻すと、人の姿はなく、汗に濡れたベッドだけが見える。
 そうして改めて、茶色い格子の向こうの部屋を見てみると、動物園の檻みたいだと思った。
 うーん、どうなんだろう。自分の股間を触ってみる。わからないな。
 私たちって、性的興奮をするのかな。
 しないのかもしれない。
 じゃあなんで、情事を覗いたりするの。
 恋だから。
 でもあなたは、情事しか覗かないよね。二人が町でデートしてるところなんか、見に行かないでしょ。
 あんたは、私のことをいつも覗いてるんだね。恋?
 さあ。私たちどうしで恋ができたら、それはとてもいいよね。
 できるんじゃない? あんたなら。
 そうかな。がんばってみようかな。
 がんばってみなよ。応援するよ。
 ありがとう。
 とりあえず、手を繋いでみた。
 やっぱり太陽が黄色く辺りを照らしている。

 男の子は、薄暗い部屋に私を招いて、シャボン玉を教えてくれた。
 男の子は椅子に座り、私はその前の床に正座していた。
 そして男の子は、黒い革(?)のカメラで私を撮った。
 私を見ているレンズの中には、私ではなく、円く赤い太陽が静かにあった。太陽は燃えているものだと、人や本やテレビが言っているのを聞いたことがあったけど、なんだ、黒い宇宙に浮かんでいる太陽は、こうして離れてみると落ち着いていて、燃え盛ってなんかいないじゃないかと思った。
 私は白い手で太陽の丸みを撫でたかった。私の、体温のない白い手なら、もはや誰にも触れることのない掌なら、太陽に触れて黒く爛れてもかまわず、微笑んでいられると思った。せっかく、生きている人間にはできない、そういうことのできる体があるのだから、それをしなければならない。何か大きなもののためにそうすることが、私の使命だと思った。
 それで手を伸ばしたら、払われた。何が起こったのかわからずにいるうちに、レンズも退けられ、かわりに男の子のしかめっ面が現れた。
「余計なことしないでよ。ぼくは夢を見たいんだからさ」
 夢?
「そうだよ。この世界はぼくの思う通りに在ってくれない。大変なんだ! これだっていう光景をそのままとどめて撮るのはさ。特に動物は大変だよ。勝手に動くし、こっちを見てくるやつまでいる……お姉さんたちなら動かないでいてくれると思ったのに……」
 ごめんなさい。もう一回やりなおそう。
「ダメだよ! ぼくのさっきまでの気持ちはどうやったって戻ってこないじゃないか」
 写真にはあなたの気持ちが表れるの?
「他の人が見てどうかって話をしてるの? 知らないよそんなの。ぼくは他人のために撮ってるんじゃない。
 ああ、言葉は汚いな。こんな、うだうだ、ぐたぐたと……もういいよ、出てってくれ」
 悪いことをしてしまった、と思いながら、家の前の道を歩いた。私たちは、おおよそ、人の役に立つということができない、というより、期待してくれる人間がいない。さっきの男の子は、珍しく私たちに期待をかけてくれていたのに、そしてその期待の内容は決して見当はずれじゃなく、上手く応えられたかもしれないのに、途中で裏切ってしまった。
 蝶が、私についてくるみたいに頭の横を飛んでいる。人差し指を曲げて差し出すと、蝶はそれを止まり木にした。
 私は立ち止まって、蝶のゆっくりした羽の動きを間近で眺めながら考えた。あの男の子と私を裂いてしまったのは、太陽だった。私たちを魅了する静かな太陽。

 庭で寝ていた私たちが目を覚ますと、お腹の上に封筒が置いてあった。寝たままで、あるいは起き上がり、あぐらをかいて封筒を開き、紙を取り出し、
「静かな太陽に気をつけて」
 と書いてあるのを読む。
 見上げると、庭に立ち込める霧は少し薄くなっていて、その向こうから白い日ざしが差し込んできているのがわかる。日ざしはだんだん濃くなる霧に阻まれて途中で消えている。
静かな太陽って、あれのことかな? あれに当たったら、肌が焼けるとか? そんなベタな存在だったっけ私たち。
まあ、私たちも増えたり減ったりしてるし、条件が変わってるんじゃない?
ここから出られないの? えー、何のために生きてるんだよー。
え、何のために生きてるとかあったの?
うーん。まあ、特に無いけどさ。でも、こんなとこにずっと閉じこめられてるくらいなら、とっとと終わったほうがましじゃない?
 私たちって、「死ぬ」って言うのは禁止されてるけど、「生きる」は大丈夫なのかな。
 さあ。それも知らないけど。でも、生者にとって、生きてるのは当たり前だから、気にならないんじゃない? 死ぬのは怖いから、軽々しく使ってほしくない的な。
死んでみれば、大したことないのにね。
 また言った。長生きしそうにないね、私たち。
 私たちが笑っていると、屋敷から主人が出てきた。湯気を立てるコーヒーカップを、皿に乗せて運んでくる。
「おはよう」
 おはようございます。
「いい天気だね?」
 そうなんでしょうか? この霧じゃ、分かりませんけど。
「この霧も含めて天気なんだよ、ここでは。そして僕はこのくらいの天気が一番好きなんだ」
 それは何よりです。
「目覚めの一杯をどうかな?」
 どういう風の吹き回しですか?
「もちろんただのコーヒーじゃないよ。妹の指が入ってるんだ」
 ??
「ああ、ごめん。もっと正確に言わないとね。妹の、人差し指の、第一関節から先。皮は剥いであるから、新鮮なピンク色の肉と骨だよ」
 私たちは、べつに人の肉を食らうゾンビではありませんよ?
「知ってる知ってる! 知ってるとも。
 そうだね、ちゃんと、物語が必要だ。妹の話をしてもいいかな? コーヒーが冷める前に終わらせるから」
 私たちに、何も許可なんて取る必要はありませんよ。ふと思い立ってチェーンソーでばらばらにしようが、火を放とうが、あなたの自由です。
「それもわかってるって。わかっているからこそ、僕と君たちのあいだに権威を挟みたくない。それもわかってるね?」
 はい。
「本当は、敬語で話すのもやめてほしいんだ。できるかな?」
 お望みとあらば。
「じゃあ、いまからスタートだ」
 わかった。

 妹は、僕の大切なものを盗んでばかりだった。
 誕生日に買ってもらったおもちゃのロボットも、三千枚の果てにやっと手に入れたレアカードも、お気に入りの服も、馬も、ボードゲームもビー玉も地球儀も……そして父さんと母さんも。
 あいつは、全部自分の胸に抱きこんで、床に座り、放そうとしなかった。血の色の絨毯と本棚、そしてあいつのワンピースも深い血の色だった。
 怒鳴ったり、殴りつけたりして、力ずくで奪い返すことは、しようと思えばできたはずなんだ。
 でも、兄だからできなかった。それをあいつもわかってた。僕はそこに立って、それ以上妹に近づくこともできず、拳を震わせながら歯ぎしりをしていた。
「なんで僕のものを奪うんだ?」と、あるとき直接聞いてみた。
「奪うなんてつもりはないの。ただ欲しくなっちゃうの」
「僕が持っているものを?」
 うなずいた。
「それじゃあ、僕はこれから何も持てないじゃないか」
「持っていいよ?」
「嫌だよ。お前に奪われるってわかってて持つもんか」
「でも、たとえば激しい恋に襲われたら、どうせ奪われるってわかっていても、手を出さずにいられないと思うわ」
「でもそれも奪うんだろ!?」
「うん。仕方ないの」
「何が仕方ないんだよ。我慢しろよ」
「我慢したら、死んじゃうよ」
「永遠に僕を不幸にして生きていく気なのか」
「それくらいでお兄様は不幸にならないよ」
 にっこりと笑った。
 僕は何も言い返せなかった。
 それからは、何も持たないようにした。僕のまわりには、くだらないガラクタしかない。楽しみは、僕のものにできない窓の外の景色を眺めることくらいだった。でも、毎日見ていたら、その景色も灰色に枯れてしまっていた。僕は頭を抱えて、ベッドへ駆け込んだ。
 その晩は嵐だった。気づくと、妹が僕の上で四つん這いになっていた。
「なにもなくなったね、お兄様」
「そうだよ。これ以上、お前に奪えるものなんてない!」
「いいえ。まだあるよ。
 お兄様はお兄様を持ってる」
 妹は僕の首筋に噛み付いた。
 乱闘が始まった。そのドタバタのなかで、僕はついに妹の人差し指を噛み切った。
 妹は逃げていった。それ以来見ていない。いまもこの屋敷のどこかに隠れているのかもしれない。
 妹が生きているとしたら、つぎはこの屋敷と僕自身を奪いに来ると思う。そのときには、君たちも一緒かもしれない。君たちがどうなろうと、僕はどうでもいいんだけど、一つだけ、どうしても奪われたくないものがある。
 うちの中にはとても広い浴室がある。長いこと使われていないから、いろいろ破けて、汚れている、白いタイル張りの浴室だ。
 カーテンに囲われている中に、水色の汚れた浴槽があって、その中に一人の女性の水死体が浸かってる。
 彼女が誰なのかは知らない。でも薄い水色で、とても美しい死体だ。
 君たちが生やしてくれる紫の花は、実は彼女への贈り物にしているんだ。彼女が浸かっている汚い水にあの花をいくつも浮かべる。そうするのが彼女に似合うから。僕は毎日膝をついて、彼女の手のひらに口づけをしている。片方の目から透明な涙が光ってこぼれ落ちる。

 私はもうあくびをしていた。
「ああ、ごめん。話が長すぎたかな。ねえ、この話をしたのは、一つお願いがあってのことなんだ。
 彼女を……僕の大切な水死体を、君たちの仲間に入れてもらえないだろうか?
 妹が帰ってきても、奪われてしまわないように。彼女を君たちの内に隠したいんだ」
 あなたがそうしてくれと言うなら、私たちに拒む権利はない。
「権利はあるよ。その権利を使ってくれてもいいんだ」
 わかった、じゃあ、使わない。
 こうして、また私たちに新しい私が増えた。

新しい私のうち、一人は赤くて、一人は水色だ。二人とも、浴槽出身というところは同じだった。
 赤い方は、ネクロマンサーになりたいと言っていた、死んだ元彼の忘れ形見だ。赤いといっても、それは唇だけだけど、全体に色が乏しい私たちの体にあって、その赤だけが鮮烈に、強い意思を持った別の生き物みたいに見える。
 赤い私が、私たちの中で頭角を現すのに、時間はかからなかった。頭角なんて、だれひとりとして持っていなかった私たちのなかで、赤い私はまずその赤さによって、生者からも特別な存在のように、有り体に言えばリーダーのように見られた。
 色だけではなかった。
 赤い私は、私たちの天敵であるあの黒い犬を、素手で殺すことができた。殺し方は、まず、飛びかかってきた犬の首根っこを掴んで持ち上げる。もう片方の手で、尻尾の根元を掴む。そして、雑巾絞りをする。バキバキと骨が折れ、肉が裂け、黒いアスファルトの地面に血が滴る。
 絞られた雑巾の姿になった犬は、そのまま放り投げられる。
 黒い犬には、おとなしいときもあったけど、赤い私は、おとなしい犬にも容赦しなかった。
 悪の芽は、摘み取っておいた方がいい。と言った。
 あの犬たちは、悪なのかな。私たちの方が悪ってことはないかな。
 どっちも悪でいいんじゃないの。
 じゃあ、私たちも滅ぼさないと。
 滅ぼして欲しいの?
 ほしくはないけど、仕方ないんじゃないかな。
 ……私には、正義とか悪とか、どうでもいい。正義でも、気に食わなかったら殺す。
 強いねえ。あなたを私たちのなかに含めておくのは、無理があるかもね。
 じゃあ仲間はずれにする?
 いや? そもそも、仲間でもないからね。
 じゃあ何なの。ほんとによくわからない、私たちって。
 そのうちわかるさ。というのは嘘で、ずっとわからないと思うし、わかる必要もない。
 それからも、赤い私は黒い犬を駆除し続けた。
 そして、ある日、
 これで最後?
 そう。
 そこは池のそばで、赤い私が股を開いて立っている、その下に、骨を抜かれて折り畳まれた絨毯のようになった黒い犬が、目を閉じて舌を出している。
 これで、もうこの町に黒い犬は一匹もいなくなった。と、赤い私がパンパン手をはたきながら言う。
 じゃあ、これで、私たちはもう永久に、誰も減ることがないのかな。
 死にたければ、わざと生者を怒らせてみればいいんじゃない。
「死にたい」は、ダメだよ。と唇に人差し指を当てる。
 ふふっ。私、けっこう偉業を成し遂げたんじゃないかな。私たちの歴史に、名を残せるかも。
 名なんか残したいの?
 まあ一応ね。
 あなたは本当に不思議だね。私じゃないみたい。
 そう、私は、私たちの革命者なのさ。銅像でも立ててもらいたいね。
 でも、私たちには、歴史っていう縦の糸はないんだよ。
 横の糸もないでしょ? 液体と気体の中間みたいなものが、間に漂ってるだけ。
 そう。
 だから、私たちのかわりに、資料館が記録を取ってるんだ。
 資料館に、頼んでみたらいいんじゃない? 銅像とか。
 無理ってわかってて言ってるでしょ。あいつは、私が頼んでも聞いてくれないよ。求めるものには与えない、求めないものに与える、それが原則だと思ってる。
 管理人さんのこと、嫌い?
 嫌い。
 私たちはみんな、あの人のこと好きなのに。
 いけすかない。
 やっぱり、あなたって私じゃないんじゃない?
 そんなこと言わないでよ。私たちのためにがんばったのにさ。仲間に入れといてよ。がんんばった甲斐が仲間外れじゃ酷い。
 私たちは誰も、がんばろうなんて思わないし。
 好きな人のためでも?
 あなたの好きな人って?
 私たち。
 男の人は?
 男? さあ。
 やっぱり、あなたを創るだけ創って死んだ、あの人なんじゃない?
 そうかな? どうでもいいや。
 ……はあ。
どうしたの?
なに、ニヤニヤしてるの。
べつに。
……こんなやりとりが、ずっと続くんだよね。もうずっと、終われないんだよね、私たち。
殺してもらえば?
それはできないよ。私たちの構造上、性質上。ああ、絶望だ。
 そうかなあ。幸福じゃない? 私たちだけで、ずっと仲良くしてればいいんだから。生者には絶対手に入らない、幸福だよ。
 違う。永遠は、絶望だよ。
えー。だとしても、私たちは、絶望と友達でしょう?
……まあね。

 制服を着ていても学校に行かなくていい私たちは、ときどきたわむれに学校へ行ってみる。
 といっても、白い校舎の、今なお稼働している普通の学校へ行くと、見つかりしだい追い出されたり、捕まって迫害を受けたりするから、大抵はもう使われていない、山の中の木造校舎へ行く。
 木でできた教室のなかにいると、窓の外、明るい日中のグラウンドに、灰色の、人型になろうとしてなりきれない靄のようなものが立っていて、それが絶望だ。
 絶望は私たちに優しい。ガラス越しに、私たちは手を合わせる。
 この場合の私たちとは、私と絶望の二人のことだ。
 絶望は、私たちみんなに優しい。
 絶望が私たちの恋人になれれば、物事はうまくいくのに、悲しいかな、私たちはお互いを埋め合わせることができない。
 絶望が私たちとはっきり違うのは、自分の運命の相手がわかっているところだ。
 絶望にとってのそれはもちろん希望で、明るい日中のグラウンドで、その明るさよりさらに眩しい希望の光が近づくと、絶望はたやすく私たちの存在を忘れて、希望の前に膝をつく。地面を向いている絶望の頭を希望がさらっと撫でると、絶望はかき消えてしまって、今度は残された希望が私たちの方を見る。
 希望が近づいてくると私たちは退く。影の中へ、影の中へ。あの光に抱かれたら私たちは終わってしまう。
 終わっていいんじゃないの? と、教室の後ろの棚に座った赤い私が言う。赤い私は汗をかいていて、あくびをしながら下敷きで自分を扇いでいる。黒い眼窩から涙が流れる。
 私たちが終わるのが悲しいの?
 私たちは終わらないよ。終わるのはあんた一人。それに涙は悲しみじゃない。ただの生理現象だ。
 私が終われるようにしてくれたの?
 裏を読むのが好きだね。怖い? 終わるのは。
 …………。
 守ってやろうか。
 え?
 赤い私は棚から飛び下りて、腕まくりをした。私たちと同じ、異様に白い腕が露わになった。
 私が希望を打ち倒してやるよ。
 窓に掌を当てて待っている希望の方を向いた。
 そして赤い私は死んだ。
 短く、鮮烈な命だった。

「死んだ?」
 私はうなずいた。
「『死んだ』でいいんですか?」
 うなずいた。
「わかりました。あなたがそう言うなら。
 それで、希望を倒すことはできたんですか?」
 一応は。でも、また戻ってくると思います。
「あなたたちの心に絶望の影が寄り添う限りは、それに連なり希望の光もやってくるというわけですね」
 はい。希望はぱっくりと口を開けて、私たちを頭から丸呑みしてしまいます。
「あなたたちの天敵は、黒い犬だけじゃなかったんですね」
 黒い犬は、外にいるものです。でも、希望は、私たちの心の揺らぎから生じるものです。
「心は、あってはならないのですね」
 はい。終わりたくなければ。
「でも、それは難しいですね。この世界には、美しいものや悲しい出来事が多すぎる。それらすべてに動じない心というのは、すごいですよ。
 もしかしたら、あなたたちはその心を完成させるために存在しているのかもしれませんね」
 いいえ。私たちに、目的はありません。
「揺らぎませんでしたね。その意気です」パタン、と管理人は本を閉じた。「あなたはこれからも終わらないように、気をつけてくださいね」
 そうしてその日の夕暮れ時、資料館のショーケースに赤い私が加わった。それは、血のように真っ赤な手帳の姿をしていた。ボタンで留められて、血塗れのワニのように輝いていた。

屋敷の主人は、もう少年ではない。ずいぶん成長して、大きくなった白い裸の体で、水色の空っぽの浴槽に座り、大笑いしている。
白いタイル張りの床には、枯れ葉や土くれが散らばっていて、開いた窓の向こうに、秋晴れの青空と、紅葉した山並みが見える。その景色は遠く静かで、じっと見ていると気が狂ってくる。いま、窓枠に足をかけて、一人の少女が部屋に入ってきた。そして、浴槽の前に立ち、笑い声が止んだかと思うと、銃声が響き、屋敷の主人の顔面は、大きな黒い穴になっていた。
妹が帰ってきたのだった。白いブラウスに、黒いワンピースを着て、兄を撃ち抜いた黒い拳銃は床へ投げ捨てた。
妹が外へ出ると、屋敷にかかっていた霧は晴れて、豊かな緑と山並みが見渡せた。庭に、私たちはもういなかった。
 妹は、よくわかっていた。さっき殺した兄には、もう価値がなくなっていたこと。兄のなかにあった大切なものは、別の器の中へ移ったことを。

 それが、水色の私だった。
 水色の私は、服を着ようとしない。制服を着せても、すぐに破いてしまう。裸のまま、辺りを歩かせておくわけにもいかないので、小屋に閉じこめておいた。
 水色の私は、まだあの屋敷の浴槽にいたころ、水面に浮いている紫の花を食べていた。
 いまも、食べたがっているけど、屋敷の主人がああなってしまってからというもの、私たちには寝る場所がなく、そのため、紫の花を咲かすこともできない。
 仕方なく、おばさんの営んでいるビニールハウスへ行って、ビニール袋の中へ、スコップで土ごと紫の花を恵んでもらった。
「あんた」と、帰ろうとする私をおばさんが呼び止めた。「晩御飯食べていかない?」
 そのときは、何も言えず首を横に振って、帰ってきてしまったけど、次に行って、同じことを言われたら、少し考えてみてから、誘いに乗った。
 木のテーブルについて、おばさんと差し向かいでミネストローネを食べた。
「あんたたち、普段は食べ物どうしてるの?」
 いりません、
「いらないの?」
 はい。
「へえ。便利ねえ。便利だけど、楽しみがないね」
 楽しみはいりますか?
「いらない? あたしはいるけど。生きてるからかね? でも、あたしが死んでもあんたたちの仲間には入れないんだろうね」
 おばさんの体は大きく、太っていて、朱色の服の上に、白地に赤チェックのエプロンをつけていた。おばさんの背後には別の部屋があったけど、真っ暗闇だった。
「あんたたちの中に、太ってる子はいるの?」
 そういえば、いないかもしれません。
 死んでると、痩せるんだと思います。
「そりゃそうだね」
 そりゃそうでしょうか。
「そりゃそうだと思うよ」うんうん、とおばさんは深くうなずいた。

「またきてね」
 と、私を見送るときにおばさんはわざわざ玄関ドアから顔を出して言ってくれたけど、その私は、帰り道、生者にハンマーで頭を執拗に叩き潰されて、終わった。
 その生者は、首のない私の体を、自分の部屋のハンガーにかけて、カタツムリを這わせた。
 次におばさんのところへやってきた私は、また別の私だった。
「あの子はどうしたの? 風邪?」
 終わりました。襲われて。
「……そう。あんたたちが死んでも、誰も知らせてくれないんだねえ」
 もう死んでますからね。癖っ毛をいじりながら、私は言った。
「でも、あたしだって変わらないよ。このままここで、一人で死んで、関わりのある人は葬式くらいしてくれるかもしれないけど、すぐ忘れられるんだ」
 葬式があるなら、マシじゃないですか?
「本当にそう思う?」
 全然。
「あんたたちは、恋のために生きてるんだっけ」
 恋のために、死んでいる。と言われています。でも、最近は、あまり恋に執着している私は、少ないです。なんだか、マンネリになってきたのかもしれませんね。
 と、癖っ毛をいじりながら言った。
「じゃあ、あたしに花をもらいにくるのが、生きる目的なのね」
 花をもらうのは、手段です。
「何のための?」
 花を食べて暮らす、奇態な私がいるんです。
「その子のために、自分の時間を割いて、尽くしてやっているんだね」
 時間は、いくらでもありますから。べつに、水色の私は、花を食べないと生きていけないわけじゃないんです、私たち、何も食べなくていい体ですから。水色の私は、つまり、楽しみとか、潤いとか、もしくは何かのこだわりや習慣で、花を要求するんです。そういうものは他の私にはないものだから、……
「あんたはもう、恋に興味がないの?」
 恋? ああ。
 私の彼氏なら、釣りをしています。川で。
 もう、戻ってくることはないでしょう。
 そのまま撃ち抜かれて、川に頭を浸して、終いです。
 川のせせらぎは、きれいですよ。水面がきらきら光って。
 メダカが耳の穴から入って、彼は蘇るかもしれません。
 脳みその真ん中にメダカが棲みついた、メダカ人間としてね。べつに私はそれでもいいです。そのほうがいいのかもしれないな。
 迎えに来て、夜、うちの玄関の前で、ぬめぬめの手を差し出す。笑っている彼の手を、笑いながら私が取って、後ろの家の中の真っ暗闇に身を寄せ合って立っている父さん、母さん、妹に、私は手を振る。
「あんたたちは、そろそろ終わりたがってるんだね」
 その言葉に、私は笑顔をつくる。

 窓際に、二人の私が立っている。
 一人は、黒い制服の袖を捲り、白い手首にカッターの刃を押し当てる。
 もう一人の私は、くすくす笑う役だ。
 笑う役がいないと、悲劇になってしまうかもしれない。
 ぱっくり裂けた手首から、黒い血が滴り落ちると思っていたけど、何も出てこない。
 生きている生徒たちが体育の授業を終えて教室に入ってきて、私たちを無視して着替え始める。
 私たちはそれに合わせて服を脱ぐ、
 そして、次の授業が始まってからも、そのまま窓際に立っている。
 秋の空気は静かで澄んでいて、とても細い銀色の針金みたいに肌に食い込んでくる。

 私たちに、本気で恋をしている男子が現れる。
 私たちと変わらないくらい肌が白くて、走ってきたので息を切らして、思い詰めていて、私に恋文を手渡す。
「あんたが好きなんだ」
「じゃあ、」と私はお願いをする。

 ついに妹が、水色の私がいる小屋を見つける。
 小屋の暗がりに座っておもちゃの車を前後させていた水色の私の顎を妹は持ち上げ、口から口へ息を吹き込むように囁く。
「あなたもすぐに、私のものにしてあげるからね」
 戸口に別の影が現れる。
 妹がゆっくり振り向くと、それは黒い学ランを着た男子だ。覚悟を決めて、一つの道だけを思い詰めて、彼自身が一つの弾丸になっている。
 二人は向かい合う。妹は左手に黒い拳銃を、男子は右手に銀色のナイフを持っている。
 水色の私は、学校でよくわからない演劇を観させられている子供のようにトロンとした顔で二人を見ていて、ふいにゆったりと笑う。
 それから、床に折りたたんであるブランケットの上に頭をのせて眠りに入る。

 私たちはまた、どこだかの庭で眠っている。眠っている私たちの上に落ち葉が積もっていく。
 誰もいない明るい校庭の真ん中で、希望と絶望は音もなくワルツを踊っている。太陽と青空と静止した時間だけがある。
 やがて私たちの体は落ち葉の下に隠れて見えなくなり、その心地よい薄闇のなかで私たちも目を閉じる。ネズミが脛をかじっているけど気にしない。体なんて穴ぼこだらけにしてしまえばいい。
 資料館の管理人の少年は木の椅子に座って、私たちが訪れないのでずっと座ったまま、気づけば床に杖をついた老人になっている。彼には大人の時期が無かったのだろうか。ふと、自分の両手を見下ろして、皮膚がたるみ、皺だらけになっていることに気づき、それを見ている自分の目は、丸い老眼鏡を介してしか世界を見られなくなっていることに気づく。
 そのまま資料館は廃墟になった。
 踊っているうちに希望は消えてしまった。

 あるとき、庭の落ち葉を竹箒で掃いていたおじいさんが、掃いたところに私の顔が埋もれているのを見つける。
 死体にしか見えない。実際死体だ。でも、頬に手を触れると、私は目を開いた。
 おじいさんは私を家に招いて、温かい飲み物を出す。たぶんコーヒーだろう。コーヒーだった。ずいぶん大きな白いマグカップに注がれた茶色い液体で、中には緑色のアマガエルが入っている。
「アマガエルにしてはずいぶん大きいですね」
「家内が育てたんです」
「へえ」外は明るい。でも相変わらずの秋だった。「奥さんは今どちらへ」
「天国に」
「ああ。それじゃ、このカエルには、奥さんが宿っているかもしれませんね」
「そうですとも」
 いまや、白い小さな皿の上に乗った、茶色い液体をかぶったアマガエルの頭を、おじいさんは柔和な笑顔で撫でていた。
「ねえ、お嬢さん。私は昔、あなたに恋をしていたような気がしますよ」
「そうですか。あなたは、どの人だったんでしょう。すいません、思い出せなくて」
「いいんですよ、忘れたままで。それとも、あなたが覚えている人、誰でもかまいません。思い出したら、その人が、私だということにしてください」
「私を、笑顔で刺した人かな。虫取り網で捕まえた人かな。ホースで水と虹をかけてきた人かな。赤い蠍を、眠っている私の体の上に這わせた人かな。私を、母親みたいに優しく包みこんだ人かな。ばりばり落ち葉を食べていた人かな。道路に赤いペンキで字を書きなぐっていた人かな。一緒にクラブへ行ったけど、笑顔で警察に連れて行かれた人かな。取調室でも、手錠をかけられているのに笑顔で、机を叩かれても、弛緩しているみたいに笑顔で。牢屋で、隣の男にしつこく話しかけて殴られて顔が黒く汚れても笑顔で。
 それとも、私のために、水晶のような目玉をくり抜いてくれた人かな。透明な液体が滴っていた、あの目玉。私はそれを、ちゅみちゅみと食べました」
「おいしかったですか」
「毒でした」
「それは、悪いことをしました」
「いいんですよ。過ぎたことです」
 私はあの人と同じ弛緩した笑顔になった。机の下で意味もなく失禁していた。まるで意味のある失禁があるみたいだ。

 大きな古井戸の近くで、赤いセーターを着た男の子が三角形の凧を飛ばしていた。そのうち凧は男の子の手から離れて自分で飛んでいった。男の子は追いかけて捕まえようとしたけど無理で、車にはねられた。
 かつぎこまれた病院で、同じ急患の、きれいな女の子に会った。女の子は眠っていた。病院は暗くて、北極みたいだった。
 同じ病室の、隣のベッドになった女の子へ、男の子は絵本を読み聞かせた。
 退院してから、ナイフを突きつけて無理に女の子へ迫った。女の子は弱々しい笑顔をするしかなかった。
 その子が私たちのようにならないことを私は祈った。
 私は双眼鏡で毎日二人を覗いていたのだ。
 ある夜、黒い車に乗った若い男が女の子をドライブへ誘った。女の子はなぜかそれに乗ってしまった。
 男の子は部屋で折り紙を折り続けていた。床にもベッドにも本棚の上にも、折り紙で創られた生き物たちがいて、ベッドにはそれに加えて、女が座っていた。女の手には重そうな黒い鎖がつけてあった。
 男の子と女の子、二人の運命は、交錯して、すれ違って、そのまま反対方向へ進んでいく。
 女の子は、ブルーシートを被せられて、スコップで土をかけられるのかもしれないし、男の子は、裸にされて、体に大きな鉄輪を通されるのかもしれなかった。
 私は海辺の崖に立つ暗い教会のシスターになった。
 ときどき庭で町の人たちを招いてバーベキューパーティーをした。
 赤い殻のロブスターや、かぼちゃやキャベツや玉ねぎが焼けていく。潮の香りが、風に運ばれてくる。
「どうしてシスターはここにいるの?」
「私は昔死んでいたの。聖なる油をかけられて、燃やされた」
「それって嘘だよね」と、小さな死神のように黒い格好をした子供は言った。
「そうね、でも、嘘でいいの」
「うん、ぼくも、ママにウソをつくのが好きなんだ」
 海のずっと向こうに、太陽が眩しい光の道をつくっていた。その道のなかを、鯨が、太陽へ向かって突き進んでいたけど、その音は、私たちまでは届いてこなかった。

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