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ララララララ/5分で読める現代短歌04

立てるかい 君が背負っているものを君ごと背負うこともできるよ
/木下 龍也


 一首評というにはぼんやりしたことを書きます。すみません。
 短歌そのものにまだあんまり興味のないひと、なんとなく辿り着いて「いいかも」と思ったひと、夏休み終わって憂鬱なひと、歌だけ覚えて帰ってください。

 “短歌”という詩形のことをおもうとき、キャッチコピーやシュプレヒコール文句とどう異なるのかを意識せずにはいられない。短歌定型の七五調は、その馴染みの良さから広告や街宣、歌詞においても多用される。古くから短歌を用いた遊びには既定で共通の下句に各々が好きな上句をつけて披露する「付け句」もあるが、Twitterでは2014年ごろに“万能下句”として #そして輝くウルトラソウル というハッシュタグが流行ったりもした。戦前の近代短歌が時に〈私〉と“われわれ”を一体化し鼓舞する戦争翼賛の道具となっていたこと、そしてその反省から現代短歌が虚構性の獲得へ邁進したことも、短歌という七五調の器が持つ力と無関係とは言えないだろう。

 木下の短歌には、掲出歌に限らず“キャッチコピー的”馴染み良さが散見される。決して難解ではなく、破調(七五調を崩すこと)や句跨りといったリズム面でのフックもすくない、メッセージ性のある三十一音。

立てるかい 君が背負っているものを君ごと背負うこともできるよ
/木下 龍也

 掲出歌においても、一読して歌意を理解できないという読者はおそらくいないと思う。歌全体が「鍵括弧」に閉じられる、誰かから誰かへの呼びかけ。ここで発話する“誰か”は書かれないのであれば〈私〉という短歌主体であり、呼びかけられる“誰か”が〈君〉であることは自然と理解される。この不文律が短歌らしさと言えばそうなのかもしれない。

 これは主義主張信条信仰の問題になってくるが、わたしは“作者”のメッセージをそのまま三十一音に加工したような作を好まない。あからさますぎる主張は押しつけがましく、べつに歌として読みたくないです。

 そのうえで、木下の歌はどうか。
 第一歌集、第二歌集と毛色が異なっているとは言え、前述のとおり木下の歌には馴染み良さがある。掲出歌はそのなかでもポップス感の強い歌で、ひとによっては短歌として良しとはしないだろう(と仮想敵みたいな乱暴想定をお許しください)。短歌のうしろにただひとりの顔が見えないとかなんとか。そういう流派があることはわかります。好みの問題だもの。ぼくもどちらかといえばその国に住んでいます。

立てるかい 君が背負っているものを君ごと背負うこともできるよ
/木下 龍也

 でも、ぼくはこういう歌のことも、別軸で良い歌だと思っています。
 短歌、基本的に情報の圧縮率が高いので、疲れているときつくるのはおろか読むのもかなり難しい。かといって小説なども字が脳裏を滑るばかりで読み進められず、できるだけメロディのあいまいな音楽でこぼれてしまう意識を“そういうもの”にして自分ごとあいまいにするくらいの感じなのかな、などと思います。たぶんひとそれぞれのしんどさがあって、そこに優劣はないでしょう。

 そういうとき、掲出歌のような、偽善的なまでの耳触りのよさが、わたしではない誰かの救いにはなりうる、かもしれない、と思っています。短歌はその短さゆえ、覚えることができる。口ずさむことができる。読む小説のすべてを書き写すことはできなくても、聴こえる音楽のすべてを再生することはできなくても、短歌はあなただけの声であなただけのためにあなただけから読まれる。

 やっていきましょう。



 いけなかったらお風呂入って寝ましょう。



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