世の中の隅に、ちょっと立ち止まる時間と空間を確保しておく、という仕事。
今日は私が自分の仕事について、日頃から心がけていることを書き留めておきたいなと思ってnoteを開いた。
noteの白い空間で深呼吸
新しい記事を書き出す前にいつも思うことだけど、noteのインターフェイスはとってもよくできている。ブラウザで開くアプリやSNSは、目に忙しいものが多い。対照的にnoteはただただ白い空間が目の前に広がる。
その白い空間に、「カタカタ、カタカタ」と文字を置いていき、「ポチポチポチ」と文字を消し、「カタカタカタ、タタタタタ」と編集していく。
気持ちや考えを文字に置き換えていくことは、心の深呼吸になる。noteのなかの、邪魔するもののないこの白い空間は、散らかった部屋のちょっと奥まったところの、間仕切りの向こう側の静かな空間のようだ。忙しない日常から少し離れたところにいつも自分を連れてきてくれ、「ここなら静かに考えごとできるよ」と言ってくれる。あー、この深呼吸がしたかったんだ。
私の仕事:研究の役割ってなんだろう
さて、本題の私の仕事について。私は現在、大学に籍を置き、研究者として働いている。専門の違いはあれど、研究者は誰しもが研究しているテーマを持っている。そして、それを探求していくために、生物学、経済学、文学、というような特定の学術分野を切り口として使っている。そんな知の探求をする研究という営みは、この世の中に対してどんな役割を担っているのだろう。
私は、「世の中の隅に、ちょっと立ち止まる時間と空間を確保しておく」というのが研究の役割だと思っている。
「社会」と呼び替えてもよいと思うけれど、世の中は、放っておくとなるべくムダのない仕組みになろうとする。ムダがないということは効率的ということであり、効率的ということは手間も時間も資源も浪費しないということだ。そんな仕組みが内在化されていて、それを常に改善させ続けているのが今の世の中、つまり現代社会だと思う。
さて、ムダなものがないということは、私たちをどこに向かわせるのだろうか。
例えば、電車の乗換案内のアプリが示したとおりの電車に乗るために、走ったことはないだろうか。電車をひとつ逃したところで次の電車は5分と経たないうちに来るのを知っているのに、アプリに示された電車に乗れるようにと、焦った気持ちで階段を駆け上ったり、閉まりはじめのドアをするりとすり抜けたことはないだろうか。
電車が1時間に1本あるかないか、方面といえば一路線の上りと下りしかないようなところで生まれ育った私には、乗換案内アプリは都内あちこちでの打ち合わせに時間通りに辿り着くために欠かせないツールなのだけれど、スマホ片手にスイスイと路線を乗り換える私は、メガシティを闊歩する存在ではなく、アプリと閉まるドアに急かされて飛び回っているウサギのような存在だ。そうして打ち合わせをいくつかこなした日の夜は、あまりその日を振り返る余裕もないままに疲れ切って寝てしまう。そうして起きた次の日あたりに、また同じようにして効率的な仕組みに急かされながら、あちこちを飛び回る。そうしていると、私はどこにむかっているのだろうと、ふと思う瞬間がある。
研究は、立ち止まることで多様性を守ること。
効率的でムダのないことがよいこととされるのはなぜだろう。そんなことを考えてみると、普段あまりツッコミを入れない常識とされるようなことの様々が気になってくる。日々の暮らしは続き、打ち合わせには相変わらず時間どおりに行かなければならないのだけれど、少し立ち止まって、考えてみる。私はこれが研究ができることの1つだと思っている。
研究は、私たちを立ち止まらせてくれる。今手を付けていることを保留して、考えてみる時間と空間を与えてくれる。これに答えがなければ走れないわけではない。結局色々考えてみたあとに、考えてみる前と同じ行動をするかもしれない。その時は、この時間と空間はムダなものになるのかもしれない。でもそれでいい。ある事柄についての考えの道筋を自分自身で辿る、ということが大事なのだと思う。
研究者は、もちろん一般的には、まだよくわかっていない事柄について探求をしていき、これまでわからなかったことをわかるようにして、知の生産をしている。でもそのことの本質は、これまで当たり前とされているようなことを疑ってみて、しばし立ち止まってそのことについて考えてみて、これまでの見方が妥当だったとか、これまでとは違う捉え方ができると示したりすることだと思っている。
そのような営みを安心してできる時間と空間を、世の中の隅においておく。そうして、世の中を多様な視点で見れるようにしておいて、社会がムダを省くことに傾向しすぎないようにする。それが私の仕事だと思っている。
どこに向かうのかわからなくしておくための多様性
多様性を豊富に内包した社会はどこにむかうのかわからない。でもわからないからどこにでもいける可能性が生まれる。どこに向かうのかわかっている社会は将来に向けての備えまでムダなくできるので最高に効率がいい。でもどこにむかうのかわかっている社会は、私たちをどこに向かわせるのだろう。わかりきった方向にしか進まないのならば、それは進化をやめることと同義なのではないだろうか。
世界が常に一定の多様性を持てていたなら、私たちはきっともっと面白くなっていける。ワクワクできる世の中になるはず。世の中の隅に、ちょっと立ち止まる時間と空間を確保しておくことで、そんな展開が生まれてきたら嬉しい。これからもそういう気概で研究していきたい。
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