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あなたの知らない物語(4)

1980年代後半、ちょっと特殊な学校の、ちょっとおかしな青春の記録

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昭和の夜と平成の朝

平成初日のデート


 本章タイトルは、アラン・シリトーの『土曜の夜と日曜の朝』のもじりですが、実際、昭和最後の日である1989年1月7日は土曜日、平成の1日目である1月8日は日曜日でした。

 ちなみに…というほど因んでもないのですが、私は1月6日、日比谷シャンテ・シネ(現・TOHOシネマズ シャンテ)で、ラッセ・ハルストレムの映画『マイライフ・アズ・ア・ドッグ』を見ました。
 健気で美しい少年少女が名演技を見せるこの本作は、当時本当に大評判だったようで、そのときも客席数よりも多くの人が詰めかけ、立ち見や階段での座り見まで出たほどでした。
 だから私が昭和最後に見た映画は『マイライフ…』です。当時も入替制の劇場はありましたが、立ち見とか、何度も繰り返し同じ映画を見るというシチュエーションもまた、昭和っぽいなと改めて思います。

◇◇◇

 私は20歳の誕生日直前から現在の夫と付き合い始めた。

 1歳年下で、同郷だったが当時は千葉で働いており、週末に新宿で映画を見たり、買い物したり、お酒を飲んだりしていた。
 相手もまた寮暮らしだったこともあり、電話連絡が極めて取りづらかった。
 約束をしていて急遽変更があっても、その伝達がうまくいかない場合もあるからだ。

 1989年1月8日(日曜日)も、以前から会う約束をしていた。
 しかし、その前日1月7日に伝えられたニュース「昭和天皇(※)崩御」はあまりにも大きかった。

「学校が学校だから、遊びに行くなと釘を刺されているかもしれないと思って」と、彼は8日当日の朝、確認の電話をよこした。「そういうのはなさそうだから、約束通り行くよ」

 衆議院の附属ということで、物堅いとか厳しそうというイメージで見られがちだったのだろう。しかし、正直通っている本人が一番よく分かっていなかった。
 私たちはただの学生で公務員ではないが、公務員に準ずる身分という言い方もできた。だから逆に、「そういう」理由で行動を制限したら、民間よりもずっと騒ぐ人が多かった可能性もある。

 日曜日にもかかわらず、東京ディズニーランドを初め、多くの施設が休業していたようだ。前年のご不例の状況から、ずっと自粛ムードも続いていたので、当たり前といえば当たり前だった。
 特に考えずに行った「いわさきちひろ絵本美術館(現ちひろ美術館・東京)」がしっかり開いていたのには、不謹慎だけれど笑ってしまった。いわさき氏やその界隈のイデオロギーを考えたら、まあそうだろうなあと。

 行きつけの、いつもはロックを流していた洋食屋さんも、その日のBGMは落ち着いたクラシックだったし、FEN(現・AFN)でも、レクイエムのような曲を終日かけていた。

 もちろん、時代の象徴たる人物の死を悼む気持ちがないわけではない。
 ただ、まだ年齢が若かったこともあり、おとなしく喪に服すやり方というのがピンと来なかった。(大きな声では言えないが、当時は多少サヨク思想な毒されていたのも無関係ではない)
 ダンガリーシャツを着て、スニーカーを履いて出かけ、美術館で絵本を読んで、開いている店でお茶や食事を楽しみ、20時頃いつものように「またね」と言って別れた。

おくりななので、厳密にはこの時点ではまだこの呼称ではなかった

タッチの差


 その翌々日から新学期が始まったが、始業式の所長講話の中で「チョットマッテクダサイヨ!」(CV森久保祥太郎さん)な発表がしれっと行われた。

「国家公務員の4週6休制導入に伴って、当養成所も今月から偶数週の土曜日が休みとなります」

 私たち本科の2年生は2月早々に卒業なので、その恩恵に浴せるのはたったの2回だけだった。前年から公務員の4週6休制はぼちぼち始まっていたので、せめてあと半年くらい早くてもよかったのになと、恨めしいことこの上ない。

 広島出身の美少女Tちゃん(1年生)が、寮から家に電話をし、「今月から土曜日が2回だけ休みになる」と、嬉しそうに話していた。
 いつもならかわいいなあと思って聞いていた広島弁が、そのときばかりは妙に憎らしく感じた。

【本編 完】

あとがき


 『あなたの知らない物語』へのアクセス、まことにありがとうございます。

 この養成所での寮生活は、それなりに楽しいこともありましたが、人生で最も仲間はずれ感を味わった2年間でもありました。
 自ら望んで「ぼっち」を選んだシチュエーションがあったことも否定できませんが、それだけならば、今さらああだこうだ言うこともありません。
 全体の流れ的に合わない恨み節になるので、そこでは書きませんでしたが、例えばこんなことがありました。

 速記以外の学科テストは、毎年テスト問題がほぼ変わらないため、過去問さえ手に入れれば、暗記だけで満点を取れるというお粗末さでした。その「過去問のコピー」とやらが、私のところに回ってきた試しはありません。テストが終わった後に存在を知ったのです。

 だから、みんなが90点取っているテストで、ひいひい言いながら80点とか60点(赤点)とかいう感じでした。
 私がその結果に軽く落ち込んでいるのを見て、「実力でとったんだからすごいよ」と、しゃあしゃあと言ってきた人もいるのですが、慰めたつもりだったんでしょうか。

 意地になった私は、その次のテストのときはコピーの受け取りを自分から拒否し、以後は何も声がかからなくなりました。
 うれしかったのは、小論文形式で「○○について述べよ」という問題が1問ぽろっと出てきた法律系の科目で、ほかの誰よりも好成績を収められたことです。こればかりは暗記ではどうにもならなりません。

 速記の学校だったので、速記技術が素晴らしいことが全てですから、正直言って、それ以外の学科は姑息まにあわせ的手段で点を稼いでも別に構わないと個人的には思います。
 でも「みんな90点とってるのに、私だけ過去問知らなかったから…」と書けば、負け惜しみとか恨み節にしか見えませんよね。まあ実際負け惜しみでもあるのですが、正攻法とは言えない方法でいい点を取っていたほかの生徒と私の不出来を単純に比べ、「君は授業をちゃんと聞いていたのか?」と叱責した教官の方によりカチンと来ました。よほど密告してやろうかと思うこともありましたが、多分それを言っても、こう返されたことでしょう。

「そういう方法があるなら、どうしてみんなみたいに活用しなかったの?」と。

 そんなふうに思うのは、それなりの大事件エピソードを根拠にしてのことです。それは以前、ネット上にアップしたことがありますが、いろいろ考えて封印することにしました。
 いまだに、間違っていたのは自分なのか周囲なのかと悩むことのある話なので、実話ではなくフィクションのネタとして、全く別な名前で小説仕立てにする可能性はあります。こちらを読んでくださった方とは、縁があったらそこでお会いしたいと思います。

 意地を張る、見栄を張る、なんか面倒――いろんな理由で他人となじめないだけで、全部自分で選んできたことではありますが、それで何か理不尽な目に遭ったとき、「たまには愚痴りたくもなるのよ。愚痴ぐらいいいでしょ」という気持ちで書きました。
 清々しく自戒するには人間としての修行が足りませんが、書いただけで救われる魂もあります。
 少々大それたことを言いますと、「自分で自分の首絞めてる系の生きづらさを感じている全ての人」にささげたいと思います。


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