探究をめぐって 6.分裂症と『悪霊』
『罪と罰』と神経症
ドストエフスキーの『罪と罰』が神経症によって神経症を治癒する小説だとすれば、『悪霊』は分裂症の治癒を目指した小説です。
実際、ラスコーリニコフの精神疾患は神経症的です。彼は潜在的に社会≒経済的にも自立し、立身出世を望んでいるような大学生です。愛する兄妹の幸福(=幸せな結婚)も強く望んでいる。その意味で、彼は通常の道徳的な価値観を抱き、社会に適応しようとしているのですが、それがうまくそれができない人物として描かれているのです。彼は、結果的に幻覚に悩まされ、知らぬうちに老婆を殺害してしまう。
そして、その無意識の罪、つまり原罪に悩むのです。ここでも、彼の悩みはいわば宗教的で、神経症的だと言わざるを得ない。彼は「悪人」なのではなく、むしろ極めて道徳的だと言って良い。彼を悩ましているのは、まさに良心の呵責だからです。
彼は結局、ソーニャに惹かれ、ソーニャによって救済されますが、ソーニャもまた神経症的です。ラスコーリニコフは、ソーニャによる宗教的な治療、すなわち別の神経症によって救済されたのです。
『悪霊』と分裂症の治癒
『罪と罰』のこうしたわかりやすさが、これをドストエフスキーの代表作に押し上げ、不朽の名作にしたのだと思います。
しかし、これに比べると『悪霊』はとてもわかりにくいし、そもそも登場人物がみんな破滅してしまって救済がない。
もちろん、登場人物は皆、救済を必要とし、それを求めてすらいるのです。たとえば、主人公のスタヴローギンは、物語の半ばでチホン僧正を訪問し、自らの半生を告白し、かつて少女を陵辱した末に自殺させたことがあることを懺悔します。彼は明らかに救済を求めているのですが、その面談は決裂に終わります。また、リザヴェータと一夜を過ごすことで性的な解決を探しているかに見える節もありますが、失敗に終わる。無政府主義者たちの反乱に首謀者として担がれ、そうした政治活動に熱を入れる機会はいくらでもあったのですが、彼はそうした政治活動にある種の共鳴を見せながらも、距離をおきつづけます。
ラスコーリニコフは救われたのに、スタヴローギンは救われない。この明確な相違は、ドストエフスキーが宗教(別の神経症)によって救済されうるのは宗教(神経症)に過ぎない、ということに自覚的だったことにあるのではと思います。
実際、『罪と罰』以降の小説においては、明確な救済が消失していきます。『罪と罰』の直後の著作『白痴』は、主人公のムイシュキン侯爵が精神病院から退院してきたところで物語は始まり、精神病院に再び戻るところで終わる。『カラマーゾフの兄弟』では、やはりイワンがアリューシャに救済を求めますが十分にかなわず、アリョーシャの師であるゾシマ長老(ちなみにゾシマのいう名前は中世ロシアの著名な苦行僧です)の長い説教が始まりますが、ここで小説は終わっており、未完となっています。ドストエフスキーはゾシマ長老の説教で「大団円」を迎えるつもりはなかったのです。
イワンもそうですが、スタヴローギンも神経症というよりは、分裂症に近い。何か不道徳的な行為を抑圧している、または強く道徳的な行為を求めている、というよりも、彼らは根本的に不道徳な人物として描かれています。彼らは、世間的な道徳などまるで価値を認めないニヒリストなのです。
通常のニヒリストはシニカルで諧謔的で、それゆえ世間的な道徳を軽視しますが、自分のプライドや尊厳のようなものはその外部に置いている。『悪霊』のピョートルがその典型です。ピョートルの人物像は、当時の「ネチェーエフ事件」という無政府主義秘密結社が起こした首領ネチェーエフをモデルとしているといわれていますが、彼は宗教を初めとした社会秩序を否定するニヒリストです。
しかし、ピョードルがスタヴローギンと違うのは、稀代の皮肉屋として描かれている、という点です。その上、彼は、革命の後で自分が権力の座を襲うことを当然視している。革命に冷めた感情しか抱いていないスタヴローギンとは根本的に異なっています。
スタヴローギンは、そういうピョートルに対しても絶大的な思想上・精神上の影響力を持っていて、そのために運動の首領として担がれるわけですが、革命には根本的に無関心です。彼は、自分自身も含めたすべての価値に対して、自分の利害についてすら無関心なのです。彼がエゴイスティックであることは確かですが、そのエゴイズムは自分の利害にすら無関心を貫きます。政治的欲望にも、性的欲望にも、宗教的欲望にも彼が情熱を見せることはありません。無関心だからこそ、彼は不道徳的な振舞いが平気でできるのです。
現代の職業病である神経症
中井久夫は、分裂病が明確な治療対象となるのは神経症が拡大した後の時代においてであって、そこにおいて分裂病は不道徳的な振舞いとして現れる、といっています。たとえば、勤勉は近代の道徳ですが、勤勉は言うまでもなく神経症を生み出します。最近の例で多いのは、うつ病でしょう。これはサラリーマンの職業病と言ってもいい。毎朝、満員電車に揺られ、決まった時刻に出勤して夜遅くまで会社で過ごす。こうした道徳が抑圧的に働き、神経症を生み出すのです。だから、多くのうつ病は会社に行かなくなると治りますが、社会復帰すると再発する。だから、「怠け病」だと言われていたのですが、そもそもこうした世間的な道徳がその要因となっています。
中井久夫は、こうした神経症は道徳的な振舞いとして現れるが、分裂症は根本的に不道徳だと言っているのです。そして、分裂症の痕跡を狩猟採集生活に見いだしている。彼によれば、狩猟採集生活は、他人に対する無関心が中心となっているからです。そこではチームで狩りをすることはあるが、食糧が少なくなればいくらでも採集してくるものはある。だから、他人の分け前が多いとか少ないとか、細かいことは余り気にならない。無関心なエゴイズムが成立するわけです。
中井久夫によれば、分裂症が病として現れ始めるのは、農耕生活が中心になって以降です。牧畜農耕は、収穫物をその時点で消費してしまうのではなく、貯蔵し再分配する。ここに権力が生じ、他人に対して強く干渉し始めるのです。この干渉が道徳を生むのは間違いありません。
狩猟採集生活においてあったような無関心のエゴイズムは、他人に対して卑劣で不遜な対応であると評価されるようになる。もちろんこれが一種のナルシシズムと親和的であるのは、指摘するまでもありません。こうした症状は、自己に内向するようにみえますが、そもそも統合的な自己を欠いています。僅かな外部の兆候に機敏に反応し、それと同一化して、自己を失うために、やがて自己についての無関心だけが残ります。そして、それは分裂病と呼ばれるようになります。
暇と退屈と定住革命
ここで思い出すのは、国分功一郎『暇と退屈の倫理学』です。彼も、人類はいつから退屈するようになったのかと疑問を掲げ、定住革命より後だと結論づけています。
スタヴローギンを初め、『悪霊』に登場する無政府主義者たちは皆、退屈に悩んでいます。彼らは、退屈であるが故に、無政府主義的な政治革命を望んでいるのです。既存価値を否定するニヒリストは、それ故に退屈なのですが、ここでも最も深甚な退屈に悩んでいるのはスタヴローギンです。彼がこうしたニヒリストたちにとって思想的・精神的支柱になりえたのは、おそらく最も真摯に退屈と向かい合っているからでしょう。彼が諧謔や皮肉に近づかないのは、このためです。
国分功一郎によれば、人類はそもそも狩猟採集生活にふさわしい流動性があるのであって、定住革命によってそれが抑圧されたから、退屈になったのだ、ということになります。ハイデガーの「環世界」概念によれば、動物はそれぞれが認知する特定の「環世界」の中で生きているが、人類は特定の「環世界」とは別の世界を想定することができるといいます。こうしたユクスキュルに影響を受けた思想は、二十世紀に特徴的です。
柄谷行人と「この世界」としての単独性
しかし、私はこうした思想より、『探求』において柄谷行人が論じた世界の方がよりよく『悪霊』の世界を示しているような気がします。柄谷によれば、超越論的意識によって、いわば現在の世界が異化され、「この世界」としての単独性が現れます。柄谷の『探求』においては、その意味で「この世界」しかなく、「革命」は存在し得ない。存在するとしたら、それは妄想でしかない。
ですが、同時に柄谷がここで言っているのは、そうした「この世界」の無根拠性でもあります。つまり、「革命」は存在し得ないが、それもまた無根拠であるということを意味しているのです。
スタヴローギンが退屈に悩んでいるのは、いわば「この世界」が無根拠だからです。それに対して、その他の無政府主義者、ニヒリストたちは既存価値の無根拠性と「この世界」の無根拠性を混同してしまっている、といいうるかもしれません。本来、無根拠なのは、既存の社会的・経済的・宗教的価値だけではありません。こうした諸々の既存価値は、「革命」によって価値あるものに換えることができるかもしれない。しかし、スタヴローギンが悩んでいるのは、「この世界」がそもそも無根拠で意味がない、ということなのでしょう。
それゆえ、ハイデガー(国分功一郎)と柄谷行人との違いは重要で、看過すべきものではありません。しかし、定住革命の前の人類の流動性のようなものが対抗運動の鍵になるという発想は、共有していると言って良いでしょう。定住革命は人類の流動性を抑圧したという発想は、スコットやグレーバーのような人類学者が、人間は本来的に国家による支配を嫌っている、と考えていることとも符合します。
中井久夫とて、農耕生活の病が神経症で、狩猟採集生活の病が分裂症だ、といっているわけではありません。そもそも狩猟採集生活を送っていた人類に、どんな精神疾患があったのか明らかではありませんし、分裂症が「病」かどうかすら疑わしい。これは、分裂症が神経症と同様に抑圧によって生じたものであることによっています。神経症は道徳によって不道徳的な何かが抑圧されることによって生じますが、抑圧によって生じた社会にあっては分裂症はそもそも不道徳なのです。その意味で、根本的な違いがあるとは言え、それが「病」となったのは農耕生活以降というべきだ、と中井久夫は考えています。
この違いは、たとえば「選挙に行くべきだ」という道徳律のために、たとえば他のレクリエーション、旅行などを諦めたときに、旅行に行かなかったことが強迫的に精神を圧迫する原因になるならば、それは神経症であり、これに対して、「選挙に行くべきだ」という道徳律に違和感を表明せざるをえず、投票日に家でゴロゴロして無為に過ごすという怠惰な、不道徳な振舞いが分裂症だ、ということになります。そして、もちろん後者の分裂病では退屈を持て余しているのです。神経症に悩む人が道徳的な行為の強迫に悩むのに対して、分裂症とは退屈なものです。それゆえ、中井久夫は道徳/不道徳を神経症と分裂症のメルクマールにしています。
したがって、神経症は道徳を別の道徳によって置き換えることによって治癒できます。しかし、抑圧そのものはなくならない。道徳はいつだって抑圧的だからです。
分裂症の治癒
これに対して、分裂症は道徳によっては治癒できない。それは、いかなる道徳に対しても不道徳な振舞いとして存在するからです。それは、いかなる道徳も無根拠だと感じるニヒリズムを根源としている。つまり、分裂症とは、いわば抑圧そのものに対してある、と言ってもいい。
ドストエフスキーが『悪霊』において、すべての無政府主義者たち、ニヒリストたちを破滅させ、スタヴローギンも自殺に追い込んでいったのは、この問題を明確に意識していたからだと思います。『カラマーゾフの兄弟』もそうですが、分裂症はいかにして治癒できるのか、そもそもそれは「病」なのか、と彼は問うていたのだと思います。柄谷流に言えば、『罪と罰』は共同体の小説ですが、『悪霊』は外部に出ようとしていたのでしょう。
もちろん、このテーマが重要なのは、分裂病を何らかの形で治療する必要があるからです。「病」であるか否かは別としても、何らかの救済が不可欠であることは間違いないからです。それは、退屈をどのように処理すべきかという、国分功一郎の言うように、まさに倫理的なテーマです。
スタヴローギンの狩猟最終民的な生育環境
ちなみにスタヴローギンが退屈に深刻に悩むのは、彼の育った環境がいわば狩猟採集生活に近かったからかもしれません。
スタヴローギンは大地主の息子で生活には何一つ不自由しない環境で育っています。それはまるで豊かな大自然に囲まれて生活していた狩猟採集民のようだった、といっても良いかもしれません。お腹がすいて手を伸ばせば、そこには木の実がある、というような生活だったのです。それを他人に奪われることがあったとしても、また近くから採ってくれば良いのです。だから他人に対しても寛容さを保持できます。
もちろん、この寛容さとは無関心の別称に過ぎません。根本的に他人に無関心だから、他人と共有すべき道徳にも、法にも価値を認めないのです。彼の性生活は不道徳で乱れていますが、そうした生活を正しいと考えているわけでもない。貞操とか、結婚とかいうような、道徳や法に無関心で価値を全く認めていないからに過ぎない。
これからの資本主義社会はどうなっていくのでしょうか?
同僚や家族などといった利害を共有するものたちとのコミュニケーションばかりではなく、SNSによって利害を共有しない他人のコミュニケーションも増えていくでしょう。利害を共有しないということは、無関心でいられる、ということです。都合の良いときだけ関心を示すが、根本的には無関心な関係です。逆に、会社の同僚や家族など利害関係が濃密な集団においては、無関心ではいられない。寛容なんて言ってはいられないことも珍しくない。
人口減少が始まり、ある程度の経済的豊かさを維持しながらも競争関係が薄くなっていくならば、かえって住みやすい世の中になるのではという気もしています。産業革命以降の経済成長に疲れた人々は、ベーシックインカムによって最低限度の生活を保障された上で、好き勝手な仕事に熱中しながら世の中のために役立てば良い、なんて考え方も出てきています。その方がずっと、自由で文化的だと。
私は、どちらかと言えばこうした将来像に夢を感じてしまう種類の人間です。しかし、『悪霊』を読んで感じたのは、むしろ資本主義社会がそうした穏やかな、人に優しい、寛容なものに向かっているとするならば、いっそう問題となるのは、そうした退屈な生活をいかに送るべきか、という点になるような気がします。そうした寛容な社会は、きわめて不道徳な社会でもあるでしょう。そして不道徳な行為が増えれば増えるほど、自由であり、寛容なのです。それは退屈で、無関心だからです。
資本主義社会は、どのように克服すべきでしょうか?
神経症を克服するように資本主義社会を克服することに、私は希望を感じません。分裂症を克服することこそ、最大の課題であるような気がしています。それは退屈を適切に処理すること、ニヒリズムの克服という課題でもあります。
(続く)
(筆・田辺龍二郎)