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探究をめぐって 4.資本主義と共産主義の境界

必要に応じて与えるとは?

マルクスは、能力に応じて与えるのが資本主義であるのに対して、共産主義においては必要に応じて与えるのだといいました。しかし、ここで必要とは何でしょうか。障害者には障害者の、健常者には健常者の必要があります。大事なのは、個々人それぞれに、つまり特異的な存在者の一人一人に固有の必要なり、能力がある、ということです。そして、それは世の中の、つまりその個々人を取り巻く環境の変化によっても刻々と変わっていく。それらは、個人の能力と環境との外面的事実、つまり「関係」によって変わるのだといってもいい。

センのケイパビリティ

アマルティア・センのケイパビリティという用語はしばしば「能力」と翻訳されます。だからといって、センが能力によって与えるべきだと主張していると考えることは、馬鹿げています。それは、センがケイパビリティを網羅的に列挙することを拒み続けた態度によく表れています。センは個人の能力と同時に、それを活かし、拡張ししうるような環境、社会的資産の重要性を訴えていたのです。ケイパビリティとは外面的事実によってその都度つくられる「関係」によっている。だから網羅など出来はしない。その意味で、それは無限の様態の一つとしての、個人の有限な能力を指しています。

マルクスのいう必要も同じです。それは有限な個人にとっての、無限の様態の一つとしてある欲求です。それを特異的な個々人の欲求と呼ぶならば、何らその個人の能力とかわりはしない。人の能力は限られているがゆえに欲求するのであり、欲求の対象は有限であるがゆえに、特定の能力によって獲得しうるのです。個々人にはそれぞれ個々人の能力があり、必要があります。能力と必要には実は本質的な区別はない、一つの事態を表わしています。同じことだといった方が良い。

それゆえ、マルクスが言いたかったのは、私的財産が個人の「能力」によって固定化し、正当化される資本主義社会にあっては、必要に応じて与えることを自分は信条としたい、それが共産主義として相応しい立場だ、ということにすぎない。共産主義とは現実の資本主義との差異においてしかないのです。つまり、現実の資本主義の揚棄としてしか存在しない。

資本主義と贈与

前述したように、資本主義社会を前提とすると、商品交換と贈与との間には無数と言って良いほどの区別があり、明確な境界がありません。資本主義社会においては、贈与が商品交換を帯びるからです。その様態は無限のものとして存在する。マルクスは『資本論』第三巻で資本主義的生産様式は貸付資本に基づいていると言い続け、債権と利子との関係を論じ続けました。つまり、両者が商品交換の関係、すなわち商品と対価の関係にあると言い続けたのです。そして、同様の論法で、株式投資と配当の関係についても言及するのですが、ついに株式会社は資本主義的生産様式の最終的な形態である、と断言するに至ります。資本主義社会においては贈与すら商品交換を帯びるのですが、そうした無限の変容の形態の一つとして共産主義社会は考えられうるのです。


実際の金融を見ても、資本性劣後ローンや新株予約権付き転換社債など、負債なのか資本なのかよく分からないものが多い。実は資本主義経済を支えるものは、(純粋)贈与としての債務免除だとすらいいうる。具体的に最も分かりやすい事例は、破産と免責のことです。こうした法的制度がなければ、合法的に不良債権を処分することが出来ず、信用制度は地に墜ちてしまう。ゼロ金利政策、もしくはマイナス金利政策などというのも一種の贈与と言えるかもしれません。いずれにせよ、贈与のない資本主義は、実は信用が機能不全に陥るので、おそらく数年と持たないのです。

このことは、狩猟採集社会の構成原理は相互扶助的な交換だったとしても、その社会を限界つける支柱は贈与であることによく似ています。それゆえ、レヴィ・ストロースは相互扶助的な交換を贈与の変容とみなしたのです。これは、商品交換を贈与の変容と見なす考えに等しい。

必要と能力は違うものなのか

このことから、将来、共産主義社会があり得るとしても、その社会的構成原理となる交換形態は、おそらく贈与の変容としてある、という仮説が導かれます。そして、今ここでの文脈で大切なのは、資本主義社会における贈与の商品交換の変容が資本の運動によっているのだから、共産主義社会への移行もまた資本の運動によってのみ生じるだろう、ということです。

このことは、共産主義者たちが能力に応じて与えることを攻撃するとするならば、その意味が、能力によって私的財産を正当化するブルジョワ的価値観においてしかないように、株式会社を攻撃する意味は現実のイデオロギーにしかない、ということを意味しています。必要に応じて与えることが良くて能力に応じて与えることが悪いというのは、イデオロギーの問題にすぎない。同様に、株式会社が悪いとか、良いとかいうのも、実はイデオロギーの問題です。それは商品交換が良いとか悪いとかいうのも、イデオロギーの問題だ、ということを意味しています。というのも、商品交換と贈与の間には、そしてこれらのものの間には、明確な境界がないからです。これらの現象はすべて資本の運動がもたらす無限の様態の一つに過ぎない。

能力に応じて与えるのではなく、必要に応じて与えるというとき、能力と必要という二つの概念は図と地の関係に他なりません。だから、この意味で言うなら、能力(凸面)において与えることと必要(凹面)において与えることは同じ事態の二つの側面を捉えた表現に過ぎません。特異的な個々人の能力を最大限に発揮させるために、個人を取り巻く環境が発展するとき、個人が必要とする固有の内容は、その環境条件によって生じる個々人の能力によって決定されるようになります。個人に必要とするものを与えるとき、その能力が発揮できるのだからです。

だから、必要と能力とは同じものを指しています。しかし、マルクスがそれを区別したのは、ブルジョワ的なイデオロギーを攻撃したかったからです。つまり、マルクスがやりたかったのは、資本主義社会に表象として生じる能力という概念を攻撃することによって、そのイデオロギー(表象)を批判することだった、と言って良いでしょう。

スピノザとイデオロギー批判

実は、こうしたイデオロギー批判の先駆は、スピノザにあります。スピノザは、言葉や記号、直接的な表象、感覚による認識第一の認識といって批判しましたが、これは一般概念による認識を指しています。「リンゴ」という一般概念は、紅玉やフジなどの亜種を含むし、それらの表象としてのリンゴを指すと考えられます。重要なのは、スピノザは、一般概念によるこうした認識は無益な対立しか生まない、と考えていたことです。「リンゴ」と同様に、例えば「資本主義」や「共産主義」などといった「定義」は、多くの場合で紛争の源となります。

これに対して、第二の認識とは、スピノザによれば、理性に導かれた共通概念による認識です。ここで理性によるとは、原因を究明する力によって為される、原因からの認識ということです。スピノザによれば、実体としての神を除くあらゆる物は、自己の外部に原因を持ちます。相互に原因として必然的な因果関係を為す自然の法則に、あらゆる物は従っている。そして、神は自然そのものとしてあらゆる物の原因としてそこに内在します。要するに、あらゆる物は、相互に外面的事実として相互に「関係」する力の場として存在するのです。

そのときはじめて、例えばリンゴは一般概念、つまり一般性-特殊性の関係ではなく、普遍性-特異性の関係における共通概念として現れる。というのも、たとえば「このリンゴ」は、長い人間社会との関わりによる品種交配や土壌、気候変化などを含む様々な力関係の織りなす場として、唯一無二の存在としてあるからです。それは亜種として紅玉とフジの間にある、移行途中の名の知れない亜種かもしれない。そうした普遍的な自然の法則によって必然となったのが、特異的存在としての「このリンゴ」だったわけです。たとえそれが紅玉またはフジといった名称で市場に流通したとしても、それは一般概念としての紅玉でもフジでもない。

特異性に注目したとき、それが人間であれ物であれ、自然の普遍的な法則に直面せざるを得ない。これは、「定義」によって区別される一般概念による認識ではなく、自然あるいは神としてある共通の普遍性による認識です。自然におけるあらゆる物を、唯一の実体としての原因から見ることだと言っても良い。そのとき、あらゆる物は無限の様態の一つとなる。

共産主義は、イデオロギー闘争を廃したところにしか存在しない

その意味で、資本主義も共産主義も資本の運動の変容に過ぎないのです。人々が直面する社会が、「この社会」として特異性を帯びたものとして現れるのは、このときです。そしてこのとき、個々人は普遍的かつ特異的な存在として、相互に関係する力の場として、必然的な自然の法則に貫かれた個物として存在する。

それゆえ、第二の認識は、あらゆる物を差異として扱いつつ、相互に共通する法則性のもとに認識するものです。第一の認識は、一般概念としてあらゆる物を、たとえばあらゆる「リンゴ」を同一性のもとに認識するので、紛争や対立、矛盾を生みます。が、共通概念による認識はそうではない。あらゆる物どうしの必然的で普遍的な相互関係において、あらゆる物を自然の差異として扱うからです。そもそも共産主義は、イデオロギー闘争を廃したところにしか存在しないのです。

(続く)

(筆・田辺龍二郎)


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