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第74回フランクフルトブックフェア2022

3年ぶりにフランクフルトブックフェアに参加してきました。まだパンデミックが収束したわけではありませんが、今回は参加するための強い動機と目的がありました。

ひとつは日本の小説の海外への売り込み。今年に入ってから日本の小説の英訳を出版社からいくつか請け負っており、売り込み先を見つけるお手伝いをさせていただいています。ただ英訳するだけではなく、海外の出版社探しから、現地で出版されるプロセスまで見届けたい。もうひとつは海外のエージェントや編集者から「3年ぶりに会ってお互いのアップデートをしよう!」と熱烈ともいえるメッセージを春頃からたくさんいただいていたのです。中にはここ最近転職した海外編集者もいて、新しい職場のこと(求めるジャンルも含め)を聞き出しておく必要もありました。

結論からいえば、参加して本当によかったです。海外の新刊を取り寄せるだけならメールでこと足ります。3年近くオンラインでの仕事が当たり前となり、わざわざ旅費を払って対面で会う意味は何なのか。今回は(私も含め)多くの参加者がそのことを自問自答していたようです。しかしやはり、直接会い、意見や情報を交換し、お互いの「目指しているところ」や「仕事への想い」を共有することによって、理屈を超えた「仲間意識」が醸成され、新しいビジネスの芽も生まれます。

とはいえ、リモートワークの利点もたくさんあります。これまで慣例で行ってきた出版記念パーティーの開催など、時間とお金まで使って開催することは本当に必要か、と考え直した出版社も多いと聞きます。

さて、前置きはこのくらいにして、ブックフェアの様子をレポートしたいと思います。

世界の政情や経済状況が色濃く表れた今回のブックフェア

今年はロシアやイランは不参加(事実上の出禁)、また、中国もゼロコロナ政策のため不参加、そしてアジアからの参加も比較的少なかったため、全体の参加者はコロナ前の7割程度だったようです。それでも85カ国から約4000社の出展があり、リテラリー・エージェント・センターの450テーブルは完売でした。

ブックフェア会場の入り口にはドイツ国旗とともにウクライナ国旗が掲げられ、強い連帯の意思を表明していました。ちなみに街中や駅の至るところにウクライナ国旗が掲げられています。日本で報じられている以上にウクライナでの戦争による精神的ショックとエネルギー危機による経済の混乱は深刻なようでした。ブックフェア側の支援もあり、ウクライナから30社を超える出版社に加え、ウクライナのファーストレディ、オレナ・ゼレンスカ氏をはじめ、ウクライナ人著者やイラストレーターらも多数参加していました。

ブックフェア会場に掲げられたウクライナ国旗
ウクライナ関連特設ブース
ウクライナのブースで展示されていたウクライナ関連書籍
会場は厳重なセキュリティが敷かれた
ブックフェアにビデオメッセージを寄せたウクライナのゼレンスキー大統領

また、世界的なインフレの影響もあり、書籍価格も上昇しています。イギリスではこれまでペーパーバックが平均£7.99だったのが£8.99〜£9.99に、ハードカバーは£12.99だったのが£16.99、大著だと£25あたりまで上昇。原価である紙代も印刷費も輸送費も押し並べて上昇しており、価格への転嫁は仕方ないようです。イギリスの出版社とそんな話をしていたところに、英トラス首相辞任のニュース速報が入ってきました。しばらくは世界の政情不安と経済不安に出版業界も翻弄されそうです。今の為替レートですと、版権を海外から買いつけるには不利ですが、輸出には有利ともいえます。

また、ドイツでは、ロシアからの天然ガス供給が完全にストップした場合、光熱費を含め固定費が跳ね上がるため、各都市にある書店の経営が困難になり、業界全体が大打撃を受ける可能性も指摘されています。

オーディオブック市場は好調。Spotify、Bookwire、Beat Technology社らが存在感を示す。

今年のブックフェアのテーマは「翻訳」

今回のブックフェアは「Translate. Transfer. Transform.」というスローガンのもと、「翻訳こそが世界を豊かにし、良い方向に変えていく」という強いメッセージを発信していました。

翻訳が今年のテーマ

日本は明治以来の翻訳大国ですが、日本以外の国では翻訳者の待遇とステータスはあまりよくありません。ところがここ最近は翻訳者の地位向上を巡っていくつか大きな動きがありました。

#TranslatorsOnTheCoverキャンペーン

海外、とくに欧米では、翻訳者の名前が本の表紙にクレジットされることはこれまでほとんどありませんでした。このことに異を唱えたのが翻訳者のJennifer Croft氏。ポーランドの人気作家オルガ・トカルチュク氏の『逃亡派(Flights)』を英訳し、国際ブッカー賞を受賞しています。彼女はツイッターで、「今後は翻訳者の名前を表紙にクレジットしないなら翻訳を受けない」と表明し、大きな話題となりました。さらに2021年9月30日の国際翻訳デー(International Translation Day)に合わせて#TranslatorsOnTheCoverキャンペーンを展開。これまでに、ジュンパ・ラヒリ氏、オルガ・トカルチュク氏らを含む著名作家1800名を超える署名を集めています。「例えばオーディオブックを選ぶときにナレーターは誰かを気にするように、誰による翻訳かを気にする読者のことも考慮すべき」とCroft氏。翻訳者も作品の「共同制作者」として認知されるために、まずはクレジット掲載されることが大事で、さらには印税での支払いや、その他の権利保持も当然という認識が業界に広がってほしいと考えているようです。

YouTubeチャンネルTranslators Aloud

パンデミックの間、文芸翻訳家らによって翻訳作品の紹介映像がどんどんアップロードされた結果、400近い作品が集まり、出版社も重要視するプラットフォームに。翻訳者自らプロモーションに携わることができ、また、翻訳書の素晴らしさを啓蒙できる場として認知されつつあるようです。
https://www.youtube.com/c/TranslatorsAloud

 注目度の高いブッカー賞と国際ブッカー賞

今年の国際ブッカー賞はインドのジータンジャリ・シュリー氏の『Tomb of Sand』が受賞。受賞後の1週間ですぐに3万5000部が売れたそうです。版元のTilted Axis(イギリス)は、2015年に当時28歳だったデボラ・スミス氏によって設立されたNPO出版社で、『Tokyo Ueno Station』(原題『JR上野駅公園口』、モーガン・ジャイルズ訳)も刊行しています。代表のデボラ・スミス氏は2010年から韓国語を独学で勉強し、2016年にハン・ガン氏の『菜食主義者』の翻訳で国際ブッカー賞を受賞。今はインドに移住し、南アジア、東南アジアの文学を英訳することに力を注いでいます。ちなみにアメリカではHarperCollinsが『Tomb of Sand』の版権を取得。現在、英語圏の出版社は東南アジアの著者や作品に大変注目しています。

ブックフェア直前に発表があったイギリスの権威ある文学賞「ブッカー賞」は、スリランカの作家シェハン・カルナティラカ氏(47)が、小説『The Seven Moons of Maali Almeida』で受賞しました。スリランカ作家としては2人目の受賞。ブックフェア期間中に、ポーランド語、ポルトガル語、ハンガリー語、日本語、スペイン語でオークションとなり、さらにブラジル、セルビア、トルコからもオファーが相次ぎました。ちなみにこの小説は、最初大手出版社に持ち込んだ際には断られ、イギリス独立系出版社のSort of Booksから出版されて今回の快挙となりました。

TikTokの影響力で世界的ベストセラーに

つい最近までただのダンス動画アプリと思っていたら、いまやアメリカのティーンの3分の2が使用し、世界で最もダウンロードされ、Googleに次いで閲覧数の多いプラットフォームに成長(少々意外ですが、中国国内ではTikTokは使えません)。#BookTok というハッシュタグのついたTikTok上の本好きコミュニティには600億を超える動画がアップされ、ここから爆発的な人気を得る著者が出現しています。テキサス在住のColleen Hover氏のロマンス小説『It Ends with Us』は2016年に刊行された本ですが、#BookTokで熱烈な支持を得た結果、アメリカだけではなく、オーストラリア、南アフリカ、イタリア、アイルランド、イギリス、ニュージーランド等でも売上ランキングの上位を席巻し、書店でも#BookTokのリコメンドコメントを積極的にポップ等で紹介しています。

また、オーストラリア出身で現在はカリフォルニア在住の作家Jessa Hastings氏によるMagnolia Parksシリーズは、もともとセルフパブリッシングでしたが、TikTokで人気に火がつき、大手出版社がシリーズ10冊まとめてオファー。ちなみにTikTok上で#MagnoliaParksには800万以上の閲覧があります。

このようにTikTokの提供するプラットフォームの爆発的人気と影響力は増大する一方で、中国の企業が運営するサービスを使うことに、個人情報の漏洩や、偽情報を流すために使われる可能性を指摘する声も出ています。

TikTokのブース
TikTokのブース内の様子

JAPANブース

今年は文化庁主導の助成金「令和4年度日本書籍翻訳・普及事業」を活用して書籍のシノプシスやサンプルの翻訳が活発に行われ、ブックフェア会場で積極的に売り込みを行っていました。

JAPANブース
JAPANブースに出展した各社
講談社は映像プロモーションも積極的に活用
芥川賞を受賞した『おいしいごはんが食べられますように』のシノプシス翻訳は小社が担当

なお、講談社さんの海外プロモーション用の翻訳をお手伝いさせていただいている関係で、ポーランドの出版社Tajfunyとのミーティングをセッティングさせていただきました。

講談社とTajfunyのミーティング

Tajfunyはまだ5年目の出版社ですが、創業者のKarolinaさんもAnnaさんも日本に留学経験があり、2人とも翻訳者なので、日本語の作品に対する理解が非常に深いことに講談社の方々も驚いておられました。ポーランドの人口は日本の3分の1ですが、小川洋子作品などは2万部を超えているのもすごいです。

Tajfunyのカタログ

ポーランドは大変な親日国家で、日本に対するネガティブな印象はゼロに等しく、それだけに伊藤詩織氏の『Black Box』のポーランド語版が出版された際には「日本でこんなことが起きるなんて信じられない」という読者の反応が多かったといいます。

また、太宰治や中原中也の作品もポーランドでは人気があるそうです。そのきっかけは、マンガシリーズ『文豪ストレイドッグ』だそうで、そこに登場する日本の文豪たちに興味が広がったとのこと。

ポーランドではウクライナからの避難民への支援が活発で、今年の前半は出版業界も自粛ムードだったそうですが、今は積極的に出版活動を展開しています。

アジアの作家祭

小社はこれまで、シンガポールやミャンマーなどの作家祭や文化イベントと協働し、中村文則氏、綿矢りさ氏、田口ランディ氏、和合亮一氏ら日本人作家を現地にお連れしてきましたが、今回、台湾出身でシンガポールで出版社を運営しているRoh Shuan氏と打ち合わせを行い、台湾の助成金を使って李琴峰(り・ことみ)氏の作品を英訳し、シンガポール作家祭に招聘する計画について話し合いました。最近、日本でも「越境作家」が増えてきましたが、台湾出身の李琴峰氏の作品を台湾の助成金を使って翻訳するという発想は日本にいては浮かばなかったので、今回フランクフルトでこのようなお話をいただけてとてもよかったです。

ブックフェア参加を終えての感想

2002年に初めてフランクフルトブックフェアに参加して20年の歳月が経ちました。この間に電子書籍やオーディオブックの隆盛、本の売れ行きをTikTokのような動画プラットフォーマーが左右するようになるなど激変しましたが、著者や編集者や読者を含め、ブックフェアでは毎回、人間の持つ「熱量」のようなものを感じます。そんな中にあって、私たちトランネットは、国内向けの和訳はもちろん、英訳を含め、経験豊かな翻訳者をさらにネットワークし、国内外の関係者と密にコミュニケーションを取ることにより、新たな価値を創造していきたいな、と改めて思いました。

フランクフルトの後はミュンヘンに移動し、ここでもいろいろと面白いことがあったのですが、こちらはまた別の機会にご紹介したいと思います。

近谷浩二

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