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支配から降りて、同じ目線で歩くこと、そのまぶしさ:『聖なるズー』

ノンフィクション作品『聖なるズー』が、ものすごくものすごくよかったから、熱烈におすすめします…。

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ズーとは…
動物性愛者を意味するズーファイル(zoophile)の略語。

動物性愛とは…
人間が動物に対して感情的な愛着を持ち、
ときに性的な欲望を抱く性愛のあり方。
獣姦とは、似て非なるもの。

⇔獣姦(bestiality)
 ・動物とセックスすること
  そのものを指す用語
 ・そこに愛があるかどうかは関係がなく、
   ときに暴力的行為も含むもの

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著者の濱野ちひろさんは、長年、性的なものを含む1人の男性からの暴力に苦しんでいた。

愛やセックスを軽蔑する過程を経て、それでは傷が回復しないと気づいた濱野さんは、ドメスティック・バイオレンスに反対するパレードに参加してみる。しかし、パレードに参加することで濱野さんは自分たちの「ぎこちなさ」「異質」さが暴かれるような思いを抱き、正面から問題に取り組むことが難しいと感じてしまう。

しかし、「愛とセックスが絡まり合いながら人を変え、人を傷つけ、人を食い尽くすことがあるということ」、および、それを「捉え直さなければ」ということについて考え続けた濱野さんは、学術的に愛やセックスを研究してはどうか、と思い至る。

そこで選んだテーマが、動物性愛だった。

人間と動物という組み合わせは、人間と人間の関係やセックスという行為を抽象化して照らし出してくれるのではないか。極限的な事例を通して、愛とはなにか、セックスとはなにかという、より大きな問題を捉え直すことができるのではないか(『聖なるズー』より引用)

濱野さんが、世界唯一の動物性愛者による団体「ZETA/ゼータ(寛容と啓発を促す動物性愛者団体)のメンバーを中心とする「ズー」たちと真摯に向き合い、語り合った内容についてまとめられたのが、この本『聖なるズー』である。

この本の中に登場するズーには、いろんな人がいる。

犬を妻にする人、7匹のはつかねずみと「群れ」として暮らす人、ふたりの人間と一頭の犬で、セックスを分かち合いながら、家族でもあり恋人でもあるような生き方をしている人もいる。

動物とセックスしている人も、していない人もいる。挿入を伴うセックスをする場合、受け身となる人も、その逆となる人もいる。

異性の動物を好む人も、同性の動物を好む人も、(あるいは両方が愛着を抱く対象となる人も)いる。

自分は生まれつきズーだと感じる人もいるし、途中からズーに「なる」人もいる。

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この本の興味深いポイント

数えきれないほどあるのだけれど…そのうちいくつか挙げてみる。

◆ペットを「子ども扱い」すること/汚れなき存在は性と遠くにいなければいけない、という考え方について

日本でもドイツでも、周囲の人々にズーの話をするとしばしばこんな質問をされる。「ペドフィリア(小児性愛)の問題に関してはどう思う?」「ズーがいいなら、ペドもいいことにならない?」

〔中略〕

ここには対等性にまつわる問題が横たわっているように私には思える。「大人と子どもは対等ではない」という感覚と、「人間と動物は対等ではない」という感覚は近似している。人々がこのふたつを並べがちなのは、「人間の子どもも動物も、人間の大人ほど知能が発達していない」という認識があるからだろう。

〔中略〕

家族ではあるが、ペットは父親にはならない。母親にもならない。ペットに与えられる地位は自動的に「子ども」となる。

〔中略〕

(けそ注:かつて、欧米で少年の自慰行為が嫌悪され、大人によって管理されようとしていた例が述べられたのち)保護すべき、純粋な存在であるはずの子どもの性の目覚めは、大人にとっておぞましいものだった。これと似た現象が、ペットの犬に対して現在、起きているように思える。十八~十九世紀の子どもたちに続いて、今度は犬たちがセクシュアリティの抑圧を受けている。汚れのない「子ども」である犬には、生々しい性があっては不都合だからだ。

〔中略〕

一方、ズーたちの犬に対するまなざしは、一般的な「犬の子ども視」のちょうど逆だ。彼らは成犬を「成熟した存在」として捉えている。彼らにとって、パートナーの犬が自分と同様に、対等に成熟しているという最たる証拠は、犬に性欲があるということだろう。彼らにとって犬は人間の五歳児ではないし、犬が「人間の子どものようだから好き」なのではない。

(『聖なるズー』より引用。太字はけそによるもの。)

濱野さんはドイツ・ブレーメンに初めて降り立った日、「動物性愛者撲滅」を標榜する「アクツィオン・フェア・プレイ」という団体と接触する。彼らは「人間の男性にペニスを挿入され、性的虐待を受けた動物たち」という文言を、性器や肛門が腫れ上がった犬の写真とともに掲げていた。

性的虐待はもちろん許されるものではないが、濱野さんはズーたちと接する中で、こう考えるようになる。

彼女たち(けそ注:「アクツィオン・フェア・プレイ」のこと)のまなざしは、動物の「子ども視」そのものだ。動物は人間に庇護されるべき弱いもの。そういう見方が強固にあるからこそ、動物とのセックスがすぐに虐待と結びついてしまう。
(『聖なるズー』より引用)

存在している性欲を
無視することや抑え込むことは、
「相手のため」だと言えるだろうか?
「虐待でない」と言い切れるだろうか?

日本の遅れた性教育についても、同じことを考えた。
「寝る子を起こすようなことをするな」とは、誰のための台詞なのか。
子どもに、なるべく長く御しやすく弱い存在でいてほしいと考えている「大人」のエゴが、この台詞を言わせるのではないか。

◆暴力/支配すること/利用することについて

私が人間関係について考えるとき、いつも「損得勘定問題」にぶち当たる。
時々、「私は相手から不当に与えてもらいすぎているのではないか?」と考えることもあるけれど、基本的に感じることは、「自分が与えているものに対して、相手にもらっているものは少なすぎないか?(自分は損をしていないか?)」(根ががめついことについては自認している)。

あるいは、「上下関係問題」もすぐに立ちはだかる。
相手の発言が上から目線だと感じると、すぐにカッとなってしまう。自分を下に見られるのが嫌だ。学歴で、収入で、受賞等の実績で、とにかく何かでは相手に勝っていたい、と思っていることに、あるとき気づいた(だから、『彼女は頭が悪いから』に出てくる東大生たちを手放しに批判できないと思った)。

暴力に煮え立つような怒りを感じながら、私は自分の中にも、暴力の芽を感じる。人よりも上に立とう、優位でありたい、「もらう」側でありたい、という、抑え込んでもにじみ出てきてしまう、強い思いがある。

先日、ヤマシタマサトシさんが書かれていた記事(↓)から

小山晃弘さんの記事(↓)に飛んだときも、

浮かんできた感想は「なんてひどいんだろう」ではなく、「私は、ともすれば、いつでも『そっち側』に行くだろう」というものだった。

自分が、圧倒的・絶対的に弱者・被害者でいられたらどんなにいいだろう。条件さえそろえば、きっと私は人をぼこぼこに殴りきるだろうし、殺すことだってできるはずだ。すでに、言葉の暴力を振りかざした経験は、一度や二度と言わず、あるのだから。

本書のタイトル『聖なるズー』の「聖なる」とは、ゼータを抜けた元メンバーが、ゼータの強すぎる倫理観を皮肉って表現した言葉だ。彼らの「聖なる」ぶりは、まぶしい。時にまぶしすぎる。

ハンスにとって、犬を飼うのは幼いころからの夢だった。いま、ともに暮らすクロコは彼が初めて飼う犬であり、初めてのパートナーだ。

〔中略〕

ハンスはリードを短く持って歩いていたが、クロコをきちんとコントロールすることができず、しばしば引きずられるようなかたちになっていた。
端的にいえば、ハンスはしつけに失敗している。そうなってしまった理由は、彼が特にこだわった対等性にある。

「僕は、クロコと対等でありたいと初めから思っていたんだ。人間の僕と犬のクロコは、種は違うけど対等な存在だよ。だからしつけのためとはいえ、強く叱って彼に衝撃を与えるのはどうしても気が引けた」

(『聖なるズー』より引用)


パッシブ・パート(けそ注・動物とのセックスにおいて、挿入される側の立場の人をこう呼ぶ)のクラウスは、「自分が犬をコントロールしようとする気持ちを捨てたとたんに、犬とのセックスは自然に始まる」と言った。これが意味するのは、パッシブ・パートたちが、人間と動物の間に従来あると思われている支配と被支配の関係から、セックスのときには脱するということだ。
(『聖なるズー』より引用。太字はけそによるもの)


でも私はいつからか、女性を愛することに決めたの。男性とのセックスで、私は快感を得るための道具として男性を扱っているのではないかと、あるころから懐疑的になってしまったから。
(『聖なるズー』より、ロンヤの言葉を引用。なお、ロンヤはゼータでの表立った活動はしていない)

私が彼らをまぶしく思うのは、彼らが、外からの圧力(例えば世間体や常識のものさし、周囲の人の声など)からでなく自分の真心から、(動物であれ人間であれ)相手と対等であろう、相手を利用するようなことは避けよう、としているからだ。
私は、彼らよりもむしろ、暴力に身を落としてしまう人の気持ちの方が理解できると思ってしまう。

そもそも他人の苦痛とわれわれ自身との間に、どんな共通なものがあるというのだ?われわれが他人の苦痛を理解するのは、ただ自分も同じような運命になったら怖いと思うからではないか?
(『悪徳の栄え』の一節(『あなたの中の異常心理』から孫引きになっちゃって申し訳ない…)))

濱野さんは、「暴力には不思議なことに、何かを終わらせる力よりも何かを生む力があることを、私は体感的に知っている」と述べている。
暴力は、糖度が高いし、引力が強い。

だから、暴力や支配のことについては引き続き考えていきたい・考えないといけないと思う。依存症の治療のように、「素面の状態を続ける」努力をしないといけないと思う。

ズーたちのセックスは、それ自体が目的ではなく、パートナーとの関係の中で対等性を叶えるための方法にもなっている。そのようなセックスのあり方は、性暴力のセックスのちょうど対極にある。

性暴力もまた、実はセックスを目的とはしていない。もちろん、一方的な射精欲の発露があって、その先にセックスがあるのだが、その欲望の根源にあるのは「相手を支配したい」という願望だ。暴力のなかのセックスは、目的ではなく、支配するための方法になる。そして、支配こそが、性暴力の本質だ。
(『聖なるズー』より引用)


◆「パーソナリティ」という概念について

パーソナリティを日本語に直訳するなら〝人格〟や〝個性〟になるが、その訳では彼らが指し示すものを正確には理解できない。 たとえば、ミヒャエルにとって動物のパーソナリティとは、キャラクターよりも判別に時間がかかるものだ。キャラクターは、直訳すれば〝性格〟や〝性質〟となるが、動物それぞれの気性と言い換えるとわかりやすいかもしれない。荒々しい馬、おとなしい犬、いたずら好きの猫。こういった形容詞で表現できるのがキャラクター、すなわち気性に当たるものだろう。誰から見てもある程度は変わらない、それぞれの動物に固有の特徴ともいえるかもしれない。一方で、パーソナリティとは、自分と相手の関係性のなかから生じたり、発見されたりするもののようだ。じっくり時間をともに過ごすうちに、相互に働きかけ合って、反応が引き出され合う。そこに見出されるやりとりの特別さを、ズーは特定の動物が備えるパーソナリティだと表現している。 そうであれば、相手のパーソナリティは自分がいて初めて引き出されるし、自分のパーソナリティもまた、同じように相手がいるからこそ成り立つ。つまり、パーソナリティとは揺らぎがある可変的なものだ。

〔中略〕

このように考えれば、人間同士の関係であってもキャラクターとは異なるパーソナリティが生じていることに気づかされる。誰かにとって、ある誰かが特別なのは、共有した時間から生まれるその人独特のパーソナリティに魅了されるからだ。

〔中略〕

それが揺らぎ続け、生まれ続けるからこそ、私たちはその誰かともっと長い時間をともに過ごしたくなる。そして同時に、その人といる間に創発され続ける自分自身のパーソナリティにも惹かれる。

(『聖なるズー』より引用。太字はけそによるもの。)

恋愛は…というか誰かとの関係は…
この概念なしに語ることができないと思うのだけれど、
どうも性格というのは「絶対的なもの」だと見られがちだと思う。
そして、そのことでうまくいかなくなることがあるように思う。

(高校生のとき、
 「イケてる」グループにいる
 男の子のことが 
 なんとなく話しかけにくい・
 怖いと思っていたんだけど、
 1回じっくり話してみたら
 かなり真面目なところがある人だと
 わかって
 驚いたのだった…)

誰かと話してるところを遠巻きに見て「こういう人っぽいから避けよう」と思うことは、身を守るための術・自分のエネルギーを取っておく術ではあるけど、これ一辺倒だと可能性を狭めちゃう。「私」と話したら、また違うその人が、見られるかもしれないのに。

文脈は違うんだけれど、漫画『青のフラッグ』でも、マミちゃんがこう言ってたよね。

何系だとか
何キャラっぽいとか
誰誰に似てるからこういう性格だろうとか
見た目から
何何してそうだとか
嫌いな知り合いに
似てるから
どうせ同じこと
考えてるだとか

バ…
ッカじゃねーの?って

勝手に
思い込んで
アタシの中身
ネツゾーしてさ


もっとみんな(もちろん私含め)、パーソナリティについて、ゆるやかに捉えてもいいんじゃないだろうか…。

それは相手のパーソナリティだけじゃなくて、自分についてもそう。

対峙する相手が変われば、もっとお調子者の、あるいはロマンチストの、あるいは皮肉屋の自分が、出てくるかもしれない。

相手によって立ち現れる自分が変わることを楽しんで、自分を枠から解放してあげて、いいんじゃないだろうか。

―――

最初に濱野さんがゼータのメンバーにコンタクトを取ったとき、メンバーのミヒャエルから返ってくるメールの文面には「興味本位で連絡してきたのならお断りだ」という雰囲気がいっぱいだったという。

残念ながらというか申し訳ないながらというか、私自身は動物の人間のセックスについて、「興味本位で」この本を読み始めた。色で言えば、赤や黒の、こってりしたものを求めて。

しかしどうだろう、読み終えてみると、そこにあった気持ちは色でいうならばアイボリー、静かで、少しだけ風が吹いていた。

濱野さんのお人柄によるところが大きいだろう。真摯で、でもチャーミングで。落ち着いているけれど温かい。

何かが削ぎ落ちて、何かが満たされる、素晴らしい読書体験だった。

傷は癒えなくてもいいのかもしれない。傷は傷としてそこにあることで、他者を理解するための鍵となることもあるのだから。
(『聖なるズー』より引用)


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