勝手に整数にしないでよね:『夫のちんぽが入らない』
※この作品には漫画版もありますが(漫画版も好きなのですが)このレビューは原作の小説について書いたものです。
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面白いものをカテゴライズする方法って無限にあると思うけど、私の考える一つは、「交響曲的か、非交響曲的か」。
交響曲にも色々あると思うけど、今日日本で人気の高い曲の多くは、計算されまくってカタルシス(多くは第4楽章)に向かってくものだと私は考えている。それぞれの楽章にも緩急あるんだけど、一番派手なシーンがやってくるのは第4楽章、ってイメージ。
例えば、ディズニーの映画は交響曲的。きっちりハラハラさせられ、でもちゃんと最後にはシンバルが響き、トランペットが駆ける。カタルシス!ブラボー。レールに乗せられてるのはわかるのにやっぱり心動き、涙してしまう(若干ミスリードしてしまっている気もするので補足すると、交響曲的=作り手が作品に対してドライ、いけすかない、という風には私は考えない。どうしてもどうしても上手に伝えたいことがあって、計算しまくっているケースもあろう)。
で、だ。『夫のちんぽが入らない』だ。これは完全に「非交響曲的」作品だと思う。なんというか、波が高くならない。遠目には、静かなのだ。
だけど読み進めていけば、この作品の「高くならない」ことが、「波がない」ことと全く違うことがわかる。
枕に顔を押し付けて泣く、というのが近いかもしれない。
例えば、妊娠が難しいとわかったこだまさんに、お母さんが話しかけるこんなシーンがある。
「向こうのご両親に一度謝りに行かないといけないね」
母が前々からその話を切り出そうとしていたことに、私は気付いていた。だから、なるべく二人きりにならないよう、話を持ち出す隙を与えないよう、神経を働かせていたのだ。でも、その日はなぜか、もういいやと思った。指名手配犯が無防備に商店街を歩くような諦めと清々しさで、母に言われるまま、観念して腰を下ろした。
脳内の怒れる12人の私(ハモる)
「なんだそりゃ」
私がこだまさんの子供で、こだまさんからこの話を聞いたなら、叫んで怒るだろう。
どうして、がんばってきた人が、「指名手配犯」の気持ちで謝らなくちゃいけないの?
担当してたクラスが崩壊して、食べられなくなって眠れなくなって、同じく教師の夫はまっすぐに、正しく、子供たちを導いて、子供たちに親しまれて、少なくともそう見えて、何も言えなくなって。やっとの思いで作ったご飯を夫はまるまる捨ててしまって(それでも夫が好きで)、夫はポイントカードを作るほど風俗に通い、自分はネットで知り合った知らない人と、楽しくないけど、交わって(それでも夫が大切で、それはたぶん夫も同じで)。なぜかお互いに、相手とだけ、うまくセックスができなくて。
自己免疫疾患なんかになっちゃって、手足が赤く腫れ上がって、たくさん薬を飲んで、妊娠するために少し薬を中断したら、家の鍵も開けられないくらい力が入らなくなって。
それなのに、なんで諦めちゃうの?
なんでこんな理不尽が許されるの!
でも、どんなに私が叫んでも、そうだねぇ、とか、言いながら、こだまさんはお母さんを責めないんだろう。
ぎゅっと気持ちを潰して、人に見えないところで泣いて、そして、
最後に彼女は、笑ってしまうのだろう。
こんなに胸を締め付けられる言葉にさらされながらも、商店街のことを考えちゃう、彼女のユーモア。
私はそこが、好き。
そして、母のお葬式の日のことを思い出した。
参列してくれた人の一人は、参列できなかった人に、私の様子を「悲痛でした」と伝えたらしい。
なんか(参列してもらいながら恐縮だけれども)、いらっとした。
私の小数点以下の気持ちを、勝手に切り捨てられてしまったみたいで。
もちろん、悲しい。
大事な人だから、当たり前。
でも、たくさんの人がいる会場で、家族写真のスライドが流れたとき。
幼い頃きょうだいの間ではやっていた馬鹿みたいな表情(ひょっとこ風の)が大写しになって、最前列なのに、笑ってしまったんだよな。
悲しくてもおかしくて、
腹が立つのに愛しくて、
声には出さなくても泣いている。
それが私達で、
きれいにできないぐずぐずがあるから、
楽しくてかわいくて豊かなんじゃんか?
だからもっと、こういう整数にできない気持ちが、蔑ろにされないようになるといい。
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