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もしも孤独を失くしたら:ボヘミアン・ラプソディ

母の月命日には花を買おうと思っていたのに、あっという間にやめてしまった。

罪滅ぼし、といってはなんだが、今日は『ボヘミアン・ラプソディ』を観に行ったのだった。

昔から真面目だった母は、意外なことに学生時代、ロックが好きだった。

彼女が中学だか高校のときに友達と回し合っていたノートを見せてもらったことがある。

「お母さん、KISSとQUEENの違いがわからないんだよ!」
そうノートに書いていた人が将来、ミスチルとスピッツの区別がつかない母親になるなんて、驚きである。

母は闘病の末亡くなったから、不治の病で亡くなる人が出てくる作品を観るのは、やはり苦しい。
病気の様子を見るのも苦しいのだけれど、病気のせいで孤独が尖る感じがフラッシュバックするのが、またつらいのだ。

母は父の傍若無人な言葉に長年苦しめられていたのに、それでもある日言ったのだった。
「あの人は、私のことなんて、どうだっていいんだ」

重い病気になった人やその周りの人は、人間関係について、そうでない人よりシビアになると思う。

「この人は、私がいなくなってどれくらい悲しんでくれるんだろう?」

「この人は、貴重な時間をともに過ごすことに使いたいと思うほど、私のこと愛してくれてるかしら?」

「この人は、私がどん底にいるとき、ちゃんとそばにいてくれるのかな?」

自分で蒔いた種でも、病気のフレディがどんどん一人ぼっちになっていくところは、みていられなかった。

やめてくれ!

孤独を忘れていられるように、私は創作をしているんだから、そんな才能を持ってしても孤独だなんて、真実を見せないでくれ!

私は心の中で何度も叫んだ。

特にメアリーとのエピソードは(病気になる前から)、見るのが忍びないシーンばっかりだった。

相思相愛だったメアリーと
関係がぎくしゃくしていく中で、
相手の「愛してる」に返答できなくなる
二人の正直さ、とか。

フレディが自分は同性愛者だと自覚して
もう恋人ではなくなったから
隣の家に住んでいるのに、
窓から見える互いの部屋の電気を
付けたり消したりしあうところ、とか。

もう一緒にはやっていけないのは
フレディだってわかっているのに、
メアリーから
他の人の子を妊娠したと聞いて
どうしようもなく
動揺してしまうところとか。


誰かの一番になることは
どうしてこんなに難しいんだろう。
一番であり続けることは、 
どうしてほとんど不可能なんだろう。


まあ、でも、ともに孤独だから、
私はフレディの歌に、
心震わすことができたんだろう。

本当は孤独なんて、
その辺に置いていきたいけど、
でもこれは、みんなの共通の持ち物だから。
なくしたらきっと
わかりあったような気持ちにすら
なれなくなる。  


母の代わりに、と思って観に行ったけど
やっぱり誰かの代わりに
観るなんてできないもんだなあ。
私は私の経験と、価値観を使ってしか
観ることができなかったよ。

だから、やっぱり、
母と一緒に観に行きたかったなあ。

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