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生まれてくることの困難さ

昨日、人間の尊厳性は生まれてきたときに自然から与えられるものだ、という記事を書きました。

生まれてくることの神秘性を考えていると、高校生の時に聞いた話を思い出しました。
僕は仏教校の出身なので仏教の授業があったのですが、その中で生まれてくるのがどれくらい難しいことかという話を聞きました。

生まれてくることがどれだけ難しいかと言うと
海のどこかに落とした縫い針を探し出すくらい難しいそうです。
また、山頂から糸を垂らして山のふもとにある縫い針にその糸を通すくらい難しいそうです。

何故か縫い針で例えられてます。
聞いただけで無理だと思いますよね。

仏教は、生まれてくるのはそれくらい困難なことだと言うのです。
だからこそ命には価値があるのです。
それくらいの困難を乗り越えて、今僕たちはこの世界に生きている。これは奇跡的なことだと思いませんか?

それに加えて、仏教には縁起の考え方があります。
この世のすべての現象は、現象や条件が相互に関係しあって成立しているものであって独立自存のものではなく、条件や原因がなくなれば結果も自ずからなくなる。これが縁起というものです。

生まれてくることは奇跡だと言いつつも、生まれてきたことには原因(縁起)があったと言うわけです。生まれるべくして生まれてきたのです。
これが腑に落ちるとき、生まれてきたことの尊厳性を感じることができるのではないでしょうか。

仏教学者の中村元さんは現代の自己観を近代的自己と呼び、その危うさに警鐘を鳴らしていました。神(キリスト教)の下で互いに独立した個人だと認め合う人権という考え方は素晴らしいもののように聞こえますが、絶対の神と人間を対比した結果、個人は相対的な存在になってしまったのです。
相対的な人間関係の中で自己の尊厳性を保つのは難しいことだと思います。完璧な人間なんて一人もいないのですから。

特に日本人は、中途半端にキリスト教の思想を吸収しているのでその近代的自己を支える思想がありません。
思想が無いまま他人と比較することばかりを覚えてしまい、自己の尊厳性を保つことができなくなるのは当然の結果です。

仏教を学ぶことで、それに気がつくことができます。
生まれてくることの困難さを学び、縁起を学び、自己の尊厳性を取り戻すこと。これは現代の日本人に必要なことだと僕は考えます。

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