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「カラオケ行こ!」にみる過去への旅としての成長譚

 年始から良い映画を観たので感想を共有しようと思って,先日書いたばかりだけれど再び note を開いている。「カラオケ行こ!」というとんでもなく安直なタイトルだけれどこの映画は映画としてのクオリティがかなりたかいと思う。以下,大いにネタバレを含むので,これからみようとする人は読まない方がいいかもしれない。笑


 野木亜紀子脚本・綾野剛主演ときいてドラマ好きならまっさきに頭に浮かぶのは,2020年に放送されたTBSのドラマ「MIU404」だろう。MIUと同様,今作も綾野剛の朗らかなほほえみと鋭い眼光の強烈なコントラストが,野木の脚本に深みを与えていることはいうまでもない。
 しかし今回は,和山やまの同名漫画が原作で,「アンナチュラル」や「MIU」のように野木のオリジナル脚本というわけではない。また,演出も「苦役列車」などを手掛けた山下敦弘だった。
 今回私は,原作も知らず,「苦役列車」をはじめとする山下作品もあまり観ない状態でこの作品を観た。だから今から批評めいたことを言うがこれはまったく批評ではない。本当にただの雑感と思ってもらいたい。そして,原作と映画作品との違いも私にはわからないので,ひとまず映画作品についての感想であることを了承願いたい。

 さて,さんざん言い訳した上で改めて言い訳するが,私は映画の撮影技法などには決して明るくはない。だが,私がこの作品を見て真っ先に思ったのは,明度の違いが,過去と未来という時間の交錯を現わしてるように感じられるということだ。情景描写で,物語のプロットと映像の光の加減が対応しているというのはよくあることだと思うのだが,暗がりと明るみとが,過去と未来の交感のなかで交わるような経験がこの映画のなかには見られるように思った。

 主人公の聡実(さとみ)は中学三年生で,合唱部の部長をしている。合唱コンクールで全国への夢をつかみ取れなかった聡実は,コンクール当日に,組のカラオケ大会を控えて歌の指導者を求めていたやくざ者の狂児(きょうじ)に出会う。狂児にカラオケに誘われた聡実は,いやいやながらもカラオケについていき,その後も彼らは何度もカラオケで落ち合うようになる。物語の展開はこのくらいに留めておこう。
 問題は光だ。スポットライトを当てられた舞台,そして舞台に立つために日々練習をする合唱部部室としての音楽室,それはどちらも光に満ちた,まるで希望溢れる未来のための場所として描かれている。しかし,中三で声変わりを迎えた聡実はソプラノを歌いにくくなり,変わりゆく自らの身体への違和をだれにも明かせぬまま日々を過ごす。だから彼にとって,光に満ちた場所はあまりにも明るすぎる場所になっていく。だからこそ,彼はやくざ者の狂児のわけのわからない誘いに乗ってカラオケに行くのだ。
 聡実の歌うソプラノの高音は,未来へ向って直線的に伸びているようだ。対する狂児のファルセットは決して気持ちの良いものではない。ピッチがずれ,しゃがれていて,やたらと声が大きい(しかしこの点,綾野剛はちょっと歌がうますぎると思う)。そして彼の居場所は町の路地裏,中心街からはおそらく忘れ去られている仄暗い商店街だ。だから合唱部が光なら,狂児のいる「みなみ銀座商店街」はまさに闇,未来に伸びるソプラノの音から,ズレてはじき出されたしゃがれたファルセットなのだ。それは単なる闇なのではなく,未来という光に置いて行かれた過去でもあるのだ。
 この映画で,過去と暗がりという組み合わせはもう一つある。それは,映画部の部室だ。狂児といる時間が増えた聡実は,学校のなかでも合唱部からの逃げ場を見つける。彼が行く先は,映画部だ。この映画部は,今は亡き映画部顧問が遺したものであるらしく,部員は聡実のような幽霊部員を除くとたった一人しかいない。だから映画部は,まさに存在それ自体が過去の遺物である。そして,そのたったひとりの映画部員と,合唱部から逃げてきた聡実が,横並びで鑑賞しているモノクロ映画は,ビデオテープに録画されていて,再生するためのビデオデッキもかなり古い。これらもまた過去の遺物,だれからも見向きもされなくなった残骸であり,それが暗い映画部の部室のなかでひっそりと再生され,命を吹き返している。
 壊れたビデオデッキを買い直すため,聡実が「みなみ銀座商店街」の中古品店に足を踏み入れる場面。この場面は,「みなみ銀座商店街」という過去と,そのなかで平積みにされたビデオデッキという過去とが同時に現われる場面であり,やはり仄暗い場面である。ビデオデッキを買いに来た聡実は,男に絡まれ,狂児に助けられる。そして狂児に,なにか欲しいものがあってこんな場所に来たのかと問われ,聡実は無言でビデオデッキを指さす。
面白いのは,この指さした場面の次にはショットが変わり,おそらくは「みなみ銀座商店街」のなかにあると思われる雑居ビルの屋上で二人が会話する場面へと移る。
 この場面において,暗がりと光,過去と未来とが交錯する。このシーンは,さっき聡実が指さしたビデオデッキのアップから始まっていた。だから「みなみ銀座商店街」のさびれた店に平積みにされていたビデオデッキという過去の遺物は,聡実という未来によって発掘され,風通しのいい屋上へと持ち出されて,光のもとに現われている。風が吹き抜ける屋上の開放感は,聡実の心をも溶かしていく。聡実はようやく声変わりのこと,ソプラノがもううまく歌えないことを狂児に打ち明ける。狂児は聡実にいう。きれいなものだけが残るのなら,この街はもうなくなっているはずだ,と。ここに過去と未来の交錯がある。前進する時代に取り残されたビデオデッキ,みなみ銀座商店街,そして狂児。彼(それ)らは,これから成長を遂げようとしつつ戸惑い迷う聡実という存在によって光を放っていが,当の聡実のほうもこの過去に遺された暗がりに棲む者たちから勇気をもらっているのだ。この混淆が生じる場所,それがこの天井のない突き抜けた青空のもとにある屋上という空間なのだ。屋上は「現在」だ。過去が未来を求め,未来が過去を求める場所なのだ。ドイツの文芸思想家ヴァルター・ベンヤミンが語ったように,過去は過ぎ去り消え去った今ではなく,直進する未来から振り落とされた瓦礫でありつつ,現在において歴史の連続性を突如として破壊する爆発力を秘めた宝石なのだ。この宝石が未来——右肩上がりの直線的な「未来」とは別の未来——と出会う場所,それが屋上としての現在だ。
 少年の成長物語は大抵,異界譚として語られる。多くの絵本などに典型的にみられるように,子どもの成長を物語として描き出すとき,主人公の子どもは未知の世界へと迷い込み,親なしで自分の未来を切り開いていくことができるようになると,現世へと戻ってくるという筋で書かれることがしばしばある。今作は,決してファンタジーではないけれど,こうした子供の成長譚と似たような側面を持っている。つまり,自分が知らない「みなみ銀座商店街」という異界に迷い込んだことで,聡実は成長することができたのだと,そうみることもできるのである。しかし,多くの成長譚においては,成長の過程で異界の出来事は幻想として処理され,過去は成長したことで否定される。
 今作においても最終盤の卒業式後の場面で,狂児から聡実への連絡がなくなり今までのことはすべて夢だったかのように語られるシーンがある。卒業によって,映画部は最後の部員がいなくなり,廃部が示唆されているし,「みなみ銀座商店街」も再開発でなくなってしまう。だから,今作もまた,過去を抹消し,未来へと突き進む少年の成長譚として読むことができる。
 しかし,今作はエンドロールの後に,旧「みなみ銀座商店街」跡地に聳えるホテルを見上げながら聡実に連絡する狂児の姿が描かれている。そのため,むしろ未来へと突き進む中で忘れ去られた過去の遺物を,開かれた現在において幾度も拾い集めること,それによって今とは違う未来を描き直すこと,これこそが「成長」なのだと,この映画は教えてくれるようである。

過去を抹消することなく,むしろそれを絶えず思い出しながら共に歩むこと。これが成長であるとするなら,この映画は最後に少しだけ描かれる前進志向の社会へのアンチテーゼになっていることだろう。

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