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Meaningful City〜意味から都市を考える〜 公開ミーティング #1 「リアルの場の意味」

意味から都市を考える、「Meaningful City」。

そんなコンセプトを掲げ、都市計画に関わる「都市の作り手たち」と、街を舞台に様々なコンテンツを作り出す「都市の使い手たち」を、コミュニティとして融合させていきます。

第一回の開催から半年が経ち、コロナという未曾有の社会状況の中、ある意味で理想論的ビジョンでもあった「Meaningful City」というコンセプトは、以前よりもずっとリアリティを持って人々と対峙することになるのではないでしょうか。

6人のチームでスタートした本プロジェクトですが、普段のミーティング自体が密度あるものであるため、ここからオープンに開いてしまい、このコンセプトに共感してもらえる仲間たちをもっと巻き込んでいくことにしました。

今回の公開ミーティングのテーマは「リアルの場の意味」です。さまざまな職種や働き方をしている6人のメンバーたちが、それぞれの視点から考えたリアルの場の意味を語り、ミーニングフルシティの一片を探ります。

最大公約数による没個性的都市ではなく、個人という最小単位が持つ意味を保ちながら都市という大きな単位をデザインしていく。そんなビジョンを共有できる仲間たちと、食、デザイン、テクノロジー、建築など、あらゆるボーダーを超えてつながることができる機会を創出していきます。

7/26 オンライン公開MTGは、youtube にてご覧いただけます

<各々の「リアルの場の意味」>

公開MTGにて、各々が考える結論と内容を語り、共有しました。youtube で話している内容の補足として、並行して読んでいただけると嬉しいです。

YAMASAKI MASAKI

タイトル:身体の経験の豊かさ

■今の状況の把握

①外出自粛下の在宅時間増
②社会変化によるバーチャルとリアルの関係変化
③それによる都市と地方の関係変化

ここでは、②の議論を中心に、個人的なリアルの場の「価値」を考える。そして、個人的なリアルの場の「意味」に結び付けていきたい。

■バーチャルがリアルへ侵食加速中
・シミュラークルとシミュレーション
1970年代以降の現代は、記号のコードに基づく差異の変異がシミュレーションであり、価値は現実の対象から解放された。
記号と実在が等価であることに由来する表象(現在の瞬間に知覚してはいない事物や現象について、心に描く像。イメージ。)ではなく、あらゆる表象の体系全体をシミュラークル(一般的には現実を別の何かで置き換えられたもの)として包み込む。不在の現実の記号。
シミュレーションは、真と偽、実在と空想の差異をなし崩しにしてしまうハイパーリアル。現実自体をシミュレーションとして消滅させてしまう次元。

・バーチャル一辺倒はすでに始まっていた。では、今何が体感的に変わってきたか(WEB会議中心の生活などで)というと、バーチャルの中の体験性。
バーチャルとリアルの境界線がぼやけてきて、バーチャルが妙にリアルな体験っぽくなってきた。
・これによって、リアルの時間が(絶対的に)減ってくるのか。
・これから、(特に都市家や不動産屋などは)、リアルの空間や空間の体験に対して、価値づけができるかということが問われてくる。

■バーチャルで埋め尽くされる世界と不安
・在宅勤務を経て、もう全てバーチャルでいいんじゃないかと思う一方で、若干の不安を覚える。その不安の原因は、”いき過ぎた”没入感、ではないか。そこに生きているという自分自身の存在を確認できなくる、「生まれて死ぬ一生」というフレームから抜けてしまいそうな不安感。自分の生をないがしろにしてしまう、されてしまうことの漠然とした恐怖感。
・電話、メールもすでにバーチャルだった。そういう意味で、脳まではすでにバーチャルに入っていた。
・今、バーチャルの時間が増えてくると、身体の活動や経験が相対的に減少し、身体までがある意味でバーチャルに入りそうな不安感。アバターなどは、身体までも表現されている。

■ちなみに、別世界指向の場所(レルフ)と比べてみると
・テーマパークやモデル化された歴史公園や万博は、実在の地理的環境と無関係な歴史や神話や現実、幻想の組み合わせ、合成された場所。
生を感じるか、感じなくなるかという点では、やはりそこに実在する、五感で感じられる、事物が、あるから、そうした不安はそこまで無い。
・また、そこには自分で選択して踏み入れるという、判断が求められる境界線がある。これまで、電話をかける、メールをうつ、ウォークマンをきく、これはリアルからバーチャルに向かう、判断が求められる境界線があった。
それが、今、知らぬうちに、侵食され、境界線は消えてきている。
・バーチャルへ問題意識、リアルの必要性と価値
 自分では意識しないうちに知らないうちに、身体の活動や経験が奪われることへの不安があるのではないか。つまり、逆説的に、身体の活動や経験が、リアルの必要性と価値になるのではないだろうか

■在宅による感情の起伏の低下
・前提から①外出自粛下の在宅時間増、について分けてきたが、ここでのみ、少し触れさせていただく。
・過去のことだが、受験の時、出来事の起伏がなくなると、心の起伏、感情の起伏、哀楽がなくなると、興奮がなくなると、物事が感じなくなることを経験した。
数年間、心からの感動が消えた。景色をみても、自然をみても、なにも感じない、以前感じていたことを感じにくいという認識だけは残っていた。
今回の自粛は、なんとなく似ていた。少し鈍ってきた感。
毎日同じ場所を見て、毎日パソコンを見て、出来事の起伏は正確にはパソコンの中で起こっていて、それは脳の中での起伏で、身体で体験した起伏じゃなかった。
・リアルの必要性と価値は、やはり、ここからも、身体で出来事を体験する場所なんじゃないだろうか。(肉体と精神、身体と脳といった二元論の話をしたいわけでは無い。)

■身体の経験の豊かさから見るリアルの場の価値
これまでの話をまとめると、私が、リアルの場にとって大切な視点は、「身体の経験」の豊かさではないかと考えた。
その際、リアルの場に求められる価値を羅列すると、下記のようなものではないだろうか。
 ・移動
 ・自然との触れ合い
 ・人との触れ合い、コミュニケーション
 ・演劇、美術、スポーツなどの鑑賞
 ・食
 ・映画自体、音楽自体には意味がなく、その鑑賞体験

■身体の経験(五感)の豊かさから考える、個人的な、リアルな場への意味づけ(心が満たされること)と要素
価値ではなく、個人的な意味から考えるとどうなるか。個人的な意味とは、分かりやすく言うと、心が満たされる状態。そんな状態を生み出す、都市とはどういう状況か。(具体的な都市空間や環境のアイディアや例までは今後考えていく必要がある。)

<個人的な意味①:素の自分の状態に浸れる>
○五感を解放できる自然ネイチャー(風、光、木、人)・・・都市の風土化

<個人的な意味②:自己の発見(新しい知覚)や活動(アレント)につながること>
○五感を刺激される多様性、複雑性が表象される景観、創造物(商品・食)、人の雑踏
○これら五感発動中の時に、価値観を、感覚次元で共有出来ること 

■(おまけ)リアルの場をどう使うようになるか
・会いたい人とだけ会うようになる(不要な付き合い、精神的疲労は意図的に避けられるようになる)※誤解を与えないように補足すると、気の合う人だけと会いたいという意味ではない。
・バーチャルで済むモノ、人間関係は、バーチャルですませて、リアルの場を豊かな場にするようになる(消費的なモノ・コトの排除、資本主義社会をバーチャルに押し込める)。残るのは、例えば、「自然」を楽しむ、エシカルなライフスタイルを(自己満的にも)楽しむなどなど。
・時間が作られることで、リアルの場にいれる時間自体を増やす。
 ・情報検索は素早く、選択は多様で多く、AIが提案してくれる
 ・「制限のある」時空間がリアルの強みとなり価値とならないか。ex. 美術図書館、ネットが繋がらない場所、離島など


HOSOKAWA SARA

■ 前提

・人間として、当たり前に「リアル」が好き。コロナで実感したように、基本外に出たいし友達と現実世界で話したい。

・私のライフワーク (と呼べるほどでもない) 「街歩き」
ふと目についたまちの風景は、時に美しく、時に寂しく、時にツッコミどころ満載!
自分のフィルターを通すだけで作品になる =「街ギャラリー」と呼んでる

・なんで好きなんだろう?→ 人間のコントロールを超えているから。自分でいくらでも遊びを獲得していける余白が、まち (ストリート) にはある

・まずオンラインになくてオフラインにあるものは
 ① 人間のコントロールを超えた風景や体験
 ② 遊びを獲得していける余白 
  (それぞれが違う過ごし方、まちの使い方をしてていい)

■ が、現状リアルの都市に感じる違和感は以下

・リアルな場に作られて意味あるの?と思うものがほんとに多い!!!
マジョリティ、多数決、平均化された、ものたち (ex. 公園、渋谷ストリーム、虎ノ門の新しいビル (ヤマサキサンごめんなさい) )

・これらの場所は大体「素敵!」だけどその素敵さは誰のもの?
結局は、セレクトされた人々の平均 を取っているだけ。そこからあぶれた人がたくさんいる (話変わるけど、そういう意味で最近ホームレス気になってる。)

・そういう場所は、自分の居場所だと感じない。(つまり私もあぶれている) むしろ「街歩き」のストリートに居場所を感じる。
なのに、そういう場所で生活することが半強制的に求められる😠 (追従せよと言われてるみたい)

・個人的に自分の居場所と感じる場所 = ストリート または 家 = 究極のパブリック または 究極のプライベート

・世の中の文脈的に「多様性」「ダイバーシティ」とか言いつつ (言ってるだけ)、特定のひとに合わせた計画になってるのがとても気になる。

・しかも、そこに「クリエイター」とか「アーティスト」が度々持ち出される (余談) 私の知ってる「アーティスト」の定義ではない
書籍「公の時代」では「公」の対義「個」と「私」を使い分ける。アーティストの定義は「個」として「公」に訴える人々のことではなかったか

・現在 (コロナ以前から) 「コミュニティ」という言葉をよく耳にする
コミュニティ、クラスタ は同じ思想や趣味を持った集団。たとえば TPG も MC を目指そうとする「コミュニティ」であって、居心地はいい
が、違和感も同時にある。

・自分自身、わからないものへの興味の方が大きい (最初の「街歩き」の話、自分のコントロールを超えたものとの対話、につながる)
「わかるわかる〜」と同調し合う「コミュニティ」には興味がない、というより、そこからあぶれたものの方が気になってる。(なんども言うけどホームレス。または障碍のあるひと、などなど。この人たちはわかりやすく”マイノリティ” と位置付けられてしまうが、決して社会が決めた「平均化された素敵さ」からあぶれているのは彼らだけではないはず)
(環世界やフィルターバブルの話にもつながる)

・『公の時代』的に言えば、「私」の集まりである「コミュニティ」を目指すより、「個」の集まりである「コレクティブ」を目指す方がしっくりくる
この場合、「私」とは「プライベートの個人」であるのに対して「個」は「社会的スタンスを持った個人」。(余談)

■ 結論
・細川的 都市に求められるリアルな場の意味は、
自分にとって「わからない」ものに出会う機会と、それに傾聴し、対話する場。
・教育、人文、アート、がうまく都市に介入していくといいなぁということ


ISHIKAWA YUKAKO

リアルな場として都市に求められる機能とは?

●背景:コロナを通じて感じたこと
・リモートである程度仕事できる
・通販で食べ物でも必要物資でもある程度まかなえてしまう
・東京の家はなかなか居心地が悪い(狭い)=暮らしの機能には向いてない
・改めて都市は「移動(利便性)」と「消費」が濃密にある住環境であると実感

●仮説
リアルな場として都市に求められる機能はよりシャープ化するのではないか?

都市:よりONモード化
・高い家賃を払って都心の一等地にオフィスを置かなくなる
・簡易的なデスクや簡易宿泊機能を兼ね備えたシェア型の施設へ月額登録
・福利厚生の変化
・都市は新しい人脈を作ったり、刺激を受けるための機能にフォーカス
→遊び場化 / ビジネスtinder的な偶然性を演出するサービつの普及など
・最低限のライフラインの確保の場
・感性や心を使う場
→新しい刺激や人の教育

リアルな場としての働く環境の変化
・重要度の高い打ち合わせやコミュニケーション
・自宅にない昨日の活用
・自宅(家族)からの逃げ場
・モチベーションの維持・アップ

都市周縁:よりOFFモード化。生活の豊かさを求める機能に
・お金を使わなくても楽しめたりプライベートな生活を満たせる機能が求められる
・テラスの拡大
・キッチンや風呂のゴージャス化
・畑ブーム
・WIFIやネットワーク機能の拡充
・車の普及(times car share的な)

リアルな場としての働く環境の変化
・家の仕事場としての機能のアップデート


MIYAZAKI YU

■宮崎の視点・人は環世界の中で生きている

■タイトル「 無作法な情報からの待避所」

前提 として、「オンラインの世界」は、どんなに発展したとしても虚構の世界であることに変わりはない。筒井康隆は先日のインタビューで、「炎上を怖がっちゃいけない。電源を抜いたら消えてしまう世界です」と語った。

では、リアルな場がフィクションではないかと言われるとそうではない。

我々は環世界の中に生きている。オンラインは、その中で(現時点では)視覚に特化した環世界の延長であり、オフラインはそうでないというだけのこと。いずれ視覚以外の五感すべての情報が追いつく時が来るだろう。

例えて言うならば、まず最初に「光あれ」という言葉があり、そこから世界が創造されたとする聖書の如く。ここで大事なのは「順序」で、まずは「言葉」という情報があり、名前がついていくことで世界を人は認識していく。今現在だけでいえば、オンラインの世界は視覚情報のみだが、そのうちに追いつくことは創造に難くない。

最終的には人類がオンラインとオフラインを自在に行き来する活動をし始めるという未来というものがあると仮定した上で、現在をそのスタート地点として以下考察する。

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今現在でいうと、人は「存在」としての莫大な情報量をその身にやつして生きている。それが「ノイズ」になることも多い。
例えば僕は、オフラインの世界でオフィスを使用するが、本当に集中したい場合は、カフェに移動する。オフィスには知人がいる。知人がいるだけで、その一挙手一投足に意味を感じ、強烈なノイズを受け取っているからだ。
カフェにも誰かという「存在」がいるが、自分の「知人」ではないので、情報量がいくらか抑制される。我々は『風の谷のナウシカ』に登場する腐海の支配する世界の住人と一緒である。彼らが腐海の微毒に適応しているように、我々もまた、全くノイズがない世界では生きられない。

また、情報というものは双方向的だ。発信している側だけでなく、受け手も自分の観世界を通して新たな情報を生み出している。同じ情報を受けたとしても、受け手が反射する情報の内容は異なっている。なぜなら、情報というのはどこまでいっても「主観」を通すものだからである。「全ては僕の捉え方次第だ」というのはミスチルの『CENTER OF UNIVERSE』の歌詞だが、まさにそんなところだろう。どこまでも感受性というフィルターを通してしか、人はものを感じ取れない。

そんな中、オンラインというのは本来、情報と距離をとりやすいもののはず。それはそうだろう。筒井康隆の言うように、今現在でいえば電源を抜いたら消えてしまう世界で、IoTもAIもオフラインの生活までには干渉してこない。

だが、それでも人は情報との距離を計れずに溺れていく。有名人が誹謗中傷に耐えかねて訴訟したり、あるいは自死をしたりしてしまう。
つまりは、人という受信機は、その感受性が強すぎるとぶっ壊れてしまう。

現在のオンラインは、戦後の日本の混乱期と一緒で、ルール整備がまだ行き届いてないから、「受信機」を守るところまで手が回っていないのはあきらかだ。

しかし大局的に見ればそれもいずれは解消されていく。ツイッターにせよなんにせよ、「見ない自由」をも実装した整備が可及的速やかに行われているところだろう。

前段が長くなった、話を戻そう。

今現在でいえば、リアルな場の意味というのは「情報からの待避所」として僕は捉えている。

情報量だけでいえば「リアルな場の情報」の方が莫大である。何せ視覚だけではなくて五感に訴えかけてくるし、ノイズだってある。

ただそれはアンコントローラブルなものではなく、様々なオフラインの施作により、コントロールできるものとして進化したものだ。

先にいう「ノイズ」も、「濃すぎる瘴気の場所は退避できる」という前提。端的に言えば、ノイズが邪魔ならば、立ち去ればいいのだ。その自由がオフラインの人間社会では整備されてきた。むしろそのノイズは、新たな「発想」を生むためのきっかけとなることだって少なくない。

オフライン文化の成熟は、オンラインのそれの比ではない。
そんなことはありえないのだが、もしもこの進化の中にオンラインの存在がまるっとなかったら、人間はそれなりに幸せに生きていたのではないか。ただ、人間はオンラインの情報世界の金脈に足を踏み入れてしまった。存在すると分かれば、そこまで欲望の触手を伸ばすのが人間だ。ならばこれを整備して使うしか生きる道はない。

自分としてはコロナは促進剤であって、何かを生み出したり、パラダイムシフトを起こしたとは思っていない。せいぜい5年の未来が先に来たと思うべきだろう。ソーシャルディスタンスも、いずれは鎮静化する。それくらいにオフラインの積み上げてきた文化は深い。

これから僕らが率先してするべきことは、発展途上のオンラインコミュニティを、いかに整備されたものとして運用するか。それがオフラインに強烈に作用するだろう。


NAKAMURA TAKURO

■タイトル「誤読を生む場としてのリアル」

◇キーワード
・デジタルとリアルの融合
・設計思想からみたリアルとデジタルの違い
・誤読可能性を含むリアルの場


◇経済・社会・文化的にOnline merges with Offlineに向かっている?
・COVID-19によるデジタル体験への馴化
・スーパーシティ法案の制定
https://www.kantei.go.jp/jp/singi/tiiki/kokusentoc/supercity/openlabo/supercitycontents.html


◇UXからみたリアルとデジタル
・リアルかデジタルという対立はそもそも有効ではない
ex. リアルの場で使用されるデジタル、共有を前提とした体験

・リアルなものへの没入度、ヴァーチャルなものへの没入度

スクリーンショット 2020-07-26 16.33.40


◇オブジェクト指向とタスク指向
・リアルな場
→オブジェクトとして存在しているところをタスクに合わせて編集してきた
→そもそもがオブジェクト指向、物理的性質に準じた弱い文脈を持つ
→ユースケースを包括する設計思想
・デジタルな場
→タスクドリブンにより生まれた
→そもそもがタスク指向、機能要件を元にした強い文脈を持つ
→特定のユースケースに準じた設計思想

◇「誤読可能性」からみたリアルの場

・これからの都市はよりタスク指向へと向かう可能性が高いのでは?
・オブジェクトとしての都市を再考することの重要性
・偶然性、創造性から生まれる変化は誤読の産物である


OTANI SHOGO

■大谷の視点
・自社 飲食店経営(No.)
・他社 ブランド全体のコミュニケーション戦略立案(SIPSMITH、HOOK、TAIL etc)
・協業? TAIL、OPEN FACTORY

■「出会いのロングテール」

飲食店やっていて気づいたこと↓
コロナおちついてきて、たまに店にいるだけでも、毎日「約束していない人」がNo.にきてくれて会話する、ということが1-2回はある
これって結構すごいこと

・顔をあわせるから話すことって結構ある 
→タスク視点 アイゼンハワーのマトリックスでいう緊急度低いが重要度高い
→感情視点? 第一層想起群=ぱっと頭に思い浮かぶ人 ではなく、第二層想起群=ぱっと思いつかないけど距離を縮めたいと思っていた人 
現時点ではデジタルではこれを解決できない(Amazonのような仕組みがあればよい?)
出会いのロングテールをつくる?

・人生を面白いものにする 予期せぬ何かとの出会い
・人生を奥深いものににする 一つの対象への多層的な視点

※人は同じ空間にいて同じ行為をしている時間が一定以上あると、親しさを感じるように遺伝子にプログラムされている

ではなぜ来るのか?といったら「人」がいるから
何か場所とかブランドとかをつくるときに、コンセプトとか戦略というのは物事を前進させるための片輪でしかない。
もう片輪は、そこにいる人たちが自分ごと化してパッションを持って取り組めるかどうか。
他社のプロジェクト(TAILは他社ではないが…)でも、同じような発想で考えている

故に正解というものはない。ミーニングレスな発想では、正解があるという幻想に支配されている。
ある意味で20世紀は自分ごと化と経済発展が近似していたからミーニング議論的なことが起きなかったのかもしれない

それで、コミュニティ・サークルという発想になってくる
リアルの場があることで、コミュニティサークルの内側への引力が強くなるという仮設
※リアルの場を求めるオンラインサロン(Newspicksのリンクはる?)
※中田はオンラインコミュニティという言い方に変えたのは、ファンのためのサロンではなく、共有できる価値観を持つ人たちに対して開かれたコミュニティであるという意図ことでは? 
※この企画も、今自分が手掛けている他のプロジェクトも、そういう発想をしている

幸せとは何か?
①幸せ=Meaningと、②そのための過程、に分けて考える
効率化や合理化などは、②のためのルールであって、①はルール外である
この勘違いが悪の元凶
幸せの答えは100人いれば100通りあるはずなのに、正解のようなものがあるように社会は振る舞う

■MC的なリアルの場の意味
・出会いのロングテールを生み出すこと


<まとめ>

初回の公開MTGということもあり、時間がかなりオーバーしてしまいました。また、それぞれのテーマに対するアプローチや、結論の出し方もばらつきがあり、全体としては、理解しずらい部分もあったかと思います。
改善すべきところは改善しつつ、この多様なアプローチや結論は、整えるというよりは、それぞれ理解してもらえるように個々の表現の水準を高めるようにしていきたいと考えています。都市に多様性があるように、都市に対する表現にも多様性があっていいのでは、という想いのもと。

また、参加者からのコメントもいただき、せっかくご参加いただいたので、ここのディスカッションの時間をもう少し取りたかったという反省点がありました。このプロジェクト自体、コアメンバーで閉じて議論するというより、価値観が共有できる人と、様々な議論をしていけるよう開いていきたいと考えています。何か、こういう議論がしたい、こういう実践企画やってみないか、などがあれば、ぜひコンタクトしてください。

今後、公開MTGは継続していく予定なので、これに懲りずに、ぜひまたご参加ください。


<イベント概要>

■日時 
7月26日(日)17:00から(90分程度を予定)

■内容
・「リアルの場の意味」というテーマでの発表とディスカッション
・ディスカッションを踏まえてのQ&A

■参加方法 
オンラインにて Youtube Liveをご覧ください。 
Youtube Live
https://youtu.be/9FPMEhKJ56Q

■発表メンバー
山﨑 正樹 
森ビル株式会社 / 日本大学理工学研究所客員研究員。大学・大学院で都市計画を専攻。都市開発と公共空間の研究を行い、2010年森ビル入社。これまで都市計画、タウンマネジメント、住宅新規事業の業務に従事。また、都市の文化やアイデンティティを創ることに繋がる都市開発論について研究を行う。

大谷 省悟 
301 プランナー/ディレクター/CEO。映像プロダクションにてCM制作に携わった後、プランナー兼ディレクターとして独立し、多様な文化領域を横断するプロジェクトを多数主導。2014年、株式会社301を設立。ビジネスとカルチャーを横断する様々なブランド開発プロジェクトに参画。プロジェクト全体のコンセプト開発やスキーム設計を担う。

石川 由佳子 
N/A アーバン・プロジェクト・ディレクター。ドイツで暮らしていた経験から日本の都市のあり方や人の営みが起こる“源”に関心を持ち上智大学にて都市社会学を専攻。(株)ベネッセコーポレーション、(株)ロフトワークを経て独立。体験をつくることを中心に「場」のデザインプロジェクトを数多く手掛ける。渋谷の都市づくりをボトムアップ型で実践していくShibuya Hack Project、足立区との産業支援プログラムGood Survive Projectの立ち上げ、日本財団主催のTrue Colors Festivalにて学びの場のディレクターを務める。http://na-tokyo.com/

宮崎 悠 
301 グラフィックデザイナー/ディレクター/CCO。1984年 東京生まれ。たった0.1秒のコンタクトでも人の心を射つビジュアルコミュニケーションに魅了され、グラフィックデザインの道を志す。多摩美術大学グラフィックデザイン学科卒業後、広告会社を経て独立、301設立に参加。同社Chief Creative Offcerとして活動中。グラフィックデザインに軸足を置きつつも、ブランドコンセプトやビジネススキームの設計提案など、多岐に渡る表現を得意とする。フリーランスデザイナーとのパラレルワーカー。

細川 紗良 
301 プロジェクトマネージャー。2019年武蔵野美術大学 空間演出デザイン学科卒業。片山正通ゼミでインテリアデザインを学ぶ過程で、インテリアという領域を超えて食文化や音楽、都市空間など、人をとりまくあらゆる領域を横断的に行き来できるようなプロジェクトに関わりたいと感じ、デザインチーム301に参画。No. の立ち上げではプロジェクトマネージャーを経験。

中村 拓朗
1996年生まれ。慶應義塾大学SFC在学中。大学では、前半でデザインや心理学を学んだ後、現在は人間と計算機の関係性に興味を持ち、脳波データと機械学習を使った研究を行なっている。学外ではフリーランサーとして主にUX/UIデザインに取り組んでいる



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