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私がやっと幸せになれた話②

前回の続きです!!



7.今に至るまで


“人と比べること”をやめて私は幸せになった。

 自然体を目指すといっても何をすれば良いんだろう。僕はこれまで人との比較の中で自分の価値を見出してきた。比較をやめると決めた今、僕は何に価自分の値を見出せば良いんだろう。結局考えるだけでは結論が出ず、自己分析サイトの力を借りたり、自己啓発本を読み漁った。

 そんなことをしているうちに、僕は素の自分を受け入れてくれている人たちの存在に気づいた。家族、彼女、仲の良い友達、サークルの先輩たち、バイト先の先輩達、みんな僕の劣っている部分も受け入れてくれた。今までいつも一緒にいてくれたのに、僕はみんなに感謝するどころか、自分より優れている嫉妬対象か、自分より劣っている、自分を安心させてくれる対象としてしか見ていなかった。マジでひどい話だ。ごめんなさい。

また、僕が自分で劣っていると思っていた部分は見方を変えれば、良い部分とも言えるということに気づいた。例えば、僕ば何度も述べたとおり、バイトの仕事ができない。僕はそのことでめちゃくちゃ劣等感を感じていた。でも、後輩ができ、仕事を教える立場になって気づいた。僕は仕事ができないからこそ、できない人の気持ちがわかる。どこで詰まっているのかわかる、できないことに対して寛容になれるということに。これは僕にとって大きな視野の転換だった。初めて仕事ができない自分を認めてあげることができた。

さらに僕は自分の希少性に気づいた。こんなものが好きで、その中でも特にこれが好きで、仕事ができなくて、やたら旅行先で「写真とってくれませんか」と頼まれ、道路で小学生によく話しかけられる、自分と全く同じ見た目の人間がこの世界のどこにいるだろうか。絶対にいないだろう。ということは僕はこの世界で唯一無二の存在で、ほかに替えの効かない絶対的な存在なんだ!!。だから僕は自分の希少性を高めるために、役にたたなさそうな資格を取ったり、みんながしなさそうなことしたりした。そしたらどんどん自分に価値が感じられるようになった。

ついでに僕は“理想の自分との比較”を辞めた。『p』や『俺』との比較だ。もっと正確に言えば、『俺』に至れていない自分を責めることをやめた。僕はずっと『俺』になれない『僕(劣っている自分)』が大嫌いだった。『俺』じゃない間はずっと不幸だった。だからずっと苦しかった。でももうそれをやめる。『僕』も好きになれるように、『僕』の間も幸せになれるようにしていこう。

 そんなこんなしているうちに僕の価値に大きな変化が起こっているのを感じた。今までは他人と比較して勝利した時に幸せを感じていたが、今では朝起きて自分が存在していることを実感した時、自分を受け入れてくれる人がいると実感できた時、自分の得意なことで少しでも人の役に立てた時など、日常のちょっとしたことで幸せを感じられるようになった。そして、これは思ってもいなかった効果だが、本当の意味で他人を思いやれるようになった。今まで比較対象として他人を見ていたときは、自分の方が上だと知らしめるために、どこか打算的な関わり方をしていた。しかし、自分に価値があると実感でき始めた今では、他人も同じように価値がある存在として見ることができるようになった。その結果、他人を尊重することが、この年齢になってやっとできるようになった。

弟は常に他人に優しかった。その理由がやっとわかった気がする。自分のダメなところも含めて、自分を認め、自分を偽らなかったからこそ、他人の価値に気づき、他人に優しくでき、みんなから愛されていたんだ(本当にそんな大層なことを思っているのかはわかんないけど)。こんな近くに素晴らしいお手本がいたのに、勝手に見下して、見習おうともしなかった。ごめんね・・・弟。

 価値が変われば行動も変わる。

『僕』は『私』になった。

 私は基本的に自然体でいれるようになった。そのお陰かはわからないが、以前よりもずっと幸せで、他人と良い関係を築けている。まだ無意識に人と比較して落ち込んでしまうこともある。きっと人と比較してしまうのは生物としての本能なのだろう。そしてその競争の勝利で幸せを感じるのも間違いのない事実だ。でも、今の私は知っている。競争の勝利だけが幸せではないと

8.これまでの自分を振り返ってみて


 こうやって改めて自分を振り返ると、ずいぶん可哀想な奴だったなって思います。他人との比較の中でしか自分の価値を見出せず、その価値を維持するために自分すらを偽る、こんな奴でした。ではかつての私みたいな人は稀にしか存在しないのでしょうか?。きっと、意外なほどに多いのではないかと思ってます。周りにいませんか。ゴシップが大好きな、他人の不幸話が大好きな人、常に何かしらのマウントをとってくる人、SNSで充実している場面を異常な頻度で投稿し続けている人などです。かつての私ですね。このような人たちみんながそうだとは思っていませんが、少なくとも自分は「あいつよりは僕がマシ」、「お前より僕がすごいんだから」、「みんなより充実してる、みんなよりイケてる」というように、他人との比較で自分の価値を測っていました。その結果私はどうなっていったでしょう。そうです、不幸になりました。

 “人との比較”で幸せになっているように見える人たちがいます。それは社長やプロスポーツ選手など所謂成功者と呼ばれるような人達です。このような成功者は“比較”に勝ち続けた人達です。恐れ多いですが小学生の時の私もそれに近い状態でした。そりゃあ勝ち続けられれば幸せでしょう。実際小学生の時の私は幸せでした。そういう人たちは側から見たら誰よりも幸せに見えるはずです。でも、本当にそうでしょうか。

 そもそも常に勝ち続けられる人間なんているのでしょうか。一流のスポーツ選手達を例にしてみましょう。彼ら、彼女らは幼いことからその分野で勝ち続けてきたのでしょう。それはプロになってからも同様で、周りから尊敬の眼差しで見られるようになります。それに応じて多額の年俸も支払われ、誰もが羨むような俳優さんや女優さんと結婚する人も少なくないでしょう。めちゃくちゃ幸せそうですよね。しかし、年齢を重ねて身体的に衰えてきたらどうでしょう。今まで当たり前に勝ってきたのに、次第に勝てなくなってきます。世間は一転、「衰えた」、「潮時だ」と言ってくるようになります。そしてそうなった場合、過去の自分との比較、他の若手選手との比較で苦しむようになるでしょう。どんなに一流の選手でも勝ち続けるのは困難なんです。

それはスポーツに限りません。人との比較で、常に幸せでいようと思ったら常にN01でいる必要があります。そして、仮にある分野で常にNO1になれたとしても、今度は別の分野が気になり始めるでしょう。(例、サッカーではNO1だけど、顔は残念。なんでイケメン俳優のようにかっこよくなれないんだ)。っていうことは、比較をすることによって一生幸せでいるためには全ての分野でNO1になる必要があります。そんなの不可能ですよね。どうせ幸せになれないのなら、人と比較することなんて最初から無意味です。一時的な比較で勝ったとしても、どうせいつか負けるんですから。

持論ですが世界で最も成功した人とは、一番お金を持っている人でも、歴史に名を残した人でもないと思っています。世界で最も成功した人とは、“世界で最も幸せだった人”だと思います。幸せでなければどんな富もどんな名声も無意味だと思います。逆に、幸せであれば富も名声もいらないんです。「富と名声がある人が結局幸せなんだ」という反論が聞こえてきそうですが、さっきのスポーツ選手の例でも出した通り、そこで得られる幸せなど一時的なもので、長続きはしないんだと思います。“一番幸せだった人”になりたいのであれば、人との比較は絶対オススメしない、めちゃくちゃコスパの悪い方法です。だってあらゆることで勝ち続けなくてはならないのですから。相当な努力と相当な才能が必要です。しかも失敗して不幸になる確率の方が圧倒的に高いです。ハイリスクローリターンです。誰がこんな方法で幸せになろうとしてるんですか。

とはいえ、現代社会で人と比較せずに生きるというのはあまりにも難しい方法です。なぜなら、私たちは小学校に入った瞬間から、いや、もしかするともっと前から、自分が望むかどうかに関わらず、勝手に他人と比較されて生きていくことになるからです。兄弟がいれば、まず兄弟が比較対象になるでしょう。「兄に比べて弟は〜」なんてことを言われたことがある人も多いでしょう。小学校に入ると今度はテストや足の速さ、なんなら年間読書冊数などでも比べられます。さらに、中学校以降になると部活で比べられたり、点数に応じて学年ランキングをつけられます。そしてもっと言えば、SNSの普及により、今まで比べる必要が無かった人たちとも比較する機会が増えました。テレビの芸能人が圧倒的にキラキラしてるのはなんとなく諦めもつきますが、一般人がキラキラしてたらとんでもない嫉妬の念にかられちゃいます。ちくしょう。こんな環境にいるうちにみんな“他人と比較する癖”がつくんだと思います。では、このような環境で人と比較しないようにするためにはどうすれば良いのでしょうか。

実は私も明確な答えは持ち合わせてません。ごめんなさい、専門家じゃないんで許してください。ただ私の経験から、人と比較してしまった時はこうしたらいいよっていうのを伝えていけたらなって思います。

 1つ目は「一般的に学校や社会で優秀と言われる能力なんて一部に過ぎないことを理解する」ことです。「ん?」て感じですよね。でも、これ冷静に考えたらそうなんですよ。学校を例に出します。学校で先生や友達に評価される能力ってせいぜい「学力」、「運動神経」、「コミュ力」、「リーダーシップ」、「面白さ」、「ルックス」などですよね。では人間の能力ってこれだけって言えるんですかね?。例えば私なんかは「やたら道端で小学生に話しかけられる」、「観光地で写真を撮ってくれと頼まれやすい」という能力を持っています。これは「人に話しかけられやすい能力」だと言えます。この能力は学校で評価してくれるでしょうか?。きっとしてくれないと思います。学校で評価できる能力なんて限られてるんです。だから、もし学校で劣等感を感じていても、「僕の能力は学校で発現しないタイプの能力なんだ!」って思いましょう。「どうせ能力があるなら、学校や社会で役に立つ能力が良いじゃん!」って思うかもしれません。ご安心を。先人たちが一生懸命作ってくれた今の社会に役に立たない能力など存在しないと断言できます。一昔前の「いい大学に入っていい企業に入れば一生幸せ」という価値観を大半の人が信じていた時代なら、「学力」という能力の価値がめちゃくちゃ高く、それ以外の能力は軽んじられていたでしょう。学校はいまだにこの価値観を引きずっています。しかし、今は価値観が多様化し、どんな能力も仕事になる時代です。「指パッチンがうまい」っていう、到底学校では評価されないような能力が仕事になるような時代です。こんな時代に生まれることができたこと自体が幸せなのかもしれませんね。だから、自分に良いところがないって感じている人にはぜひこのことを実感して欲しいなって心から思います。

 2つ目は「自分は唯一無二であり、存在そのものに価値があると信じる」ことです。先ほど能力の話をしましたが、私はひとつひとつの能力そのものより、その組み合わせに個性が出ると思っています。そしてそこに大きな価値があると思っています。どういうことか、私を例にして説明していきたいと思います。先ほどあげた私の能力、「人に話しかけられやすい」という能力があります。この能力だけで私が語れるでしょうか。絶対無理です。むしろ語って欲しくないです。私の個性は「人に話しかけられやすい」という能力と「容姿」、「学力」、「声色」、「ポンコツ」、「好きなコンテンツ」など数えられない能力が足されることで成り立っています。今、個性=能力の総和的なことを今言いましたけど、単純に能力同士の足し算ではないかもしれません。能力同士は複雑に絡み合い、影響しあっています。例えば、K―POPアイドルが好きであれば「容姿」はK―POPアイドルに寄るだろうし、私は「ポンコツ」だから警戒心を持たれず「人に話しかけられやすい」のかもしれません。だから個性=能力の総積って言った方が正確かもしれないですね。書きながら新たな発見がありました。書くって大事ですね。
 結局何が言いたいかっていうと、「その個性を持ってるのは全宇宙で絶対あなただけ。だからめちゃくちゃ貴重で、めちゃくちゃ価値がある」ってことです。能力の組み合わせによってできた個性が自分にとって満足できないものだったとしても、それは宇宙から見たら死ぬほど貴重なんです。あなたは価値があるんです。たまたまあなたの個性が“今”の“地球”の“日本”の“学校”や“会社”に役にたたないからってなんですか。いまあげた“”の中の条件のうち、1つでも変えたら、あなたの個性が輝くかもしれません。ここで、書きながら名言を思いつきました。かつての私のように、

「環境に合わせて個性を偽るのではなく、個性を活かせるように環境を変えろ」

どうでしょうか?自分で言っときながら、「確かに〜」ってなってます。自分の個性が今の環境に合わないなら、学校を辞めても良い、会社をやめても良い、なんなら日本人をやめても良い。超狭い環境の中で自分の個性に価値がないと決めつけるのはまだまだ早いかもしれませんよ!。

3つ目は「開き直る」ことです。さっき、個性は全て等しく価値のあるものだと言いました。それは間違いのないことです。ですが、ひとつひとつの能力で悩むことはあるでしょう。私もありました。その最たるものが「ポンコツ」です。これには本当に苦労させられました。はっきりと自覚したのは大学生になってバイトを始めてからですが、今思えば昔から監督の指示の理解が遅く、意味のわからない行動をして怒られていまいした。筋金入りの「ポンコツ」です。この能力に向き合うために私はどうしたのか。それは「受け入れて開き直りました」。もっと具体的に言うと「私はポンコツだ。だけど、ポンコツで何が悪い!これも自分なんだ!」って感じです。最初は自分に言い聞かせるようにして開き直っていましたが、いまでは本気で「ポンコツで何が悪い!」って思ってます。なんなら「ポンコツ」な自分すら愛おしいとすら本気で思ってます。また、「ポンコツ」だからこそ仕事ができない人の気持ちが分かり、寛容になれるという側面もあります。多少周りに迷惑はかけるので申し訳ない気もしますが、仕方ないんです。「ポンコツ」だから。その限られた能力の中で最大限のパフォーマンスができるように努力すれば、それで良いんだと思います。とはいえ、私は今アルバイトなので最高の仕事ができなくても良いんですが、誰しも自分が貢献できる場所に居たいはずです。そして、他人や組織に貢献できることは何よりの幸福感が得られます。開き直って、それでも劣等感を抱いてしまうようなら、その仕事や学校、部活なんて辞めちゃえば良いんです。人生はたった一度しかないので、自分が幸せであること以上に優先順位が上のことなど何もないと思っています(法に引っかかる行為、子供がいる、などはまた考える必要はあるでしょうが・・・)。世間体とか気にせずに、自分が幸せになるために行動しましょう!

4つ目は「比較して負けたところで死なない」ってことを実感することです。本来、自然界では敗北=死を意味します。そして、その事実がまだ人間の脳に残っているから、勝ったら気持ち良く、負けたら嫌な気持ちになるのではないでしょうか。知らないですけどね。仮にそうだとすると、人間は今や地球上の生態系のトップです。基本他生物に負けませんし、そもそも戦いにすらなりません。普通に日常生活を送っていたらまず、死なないんです。
日本はめっちゃ恵まれた国だと思います。負け続けて借金まみれになったとしましょう。それで、死ぬでしょうか。死なないんです。生活保護制度があるから。これを読んでるあなたが人間で日本人なら、あなたはいくら負けたところで簡単には死なないと思います。だから安心して負けましょう。そして、負けても生きていけること、その環境があること自体に幸せを感じましょう。

5つ目は(個人的にはこれが一番大事だと思っています)、「どんなときも一緒にいてくれる人の存在を再確認する」ことです。かつて私は自分が優れていなければ誰も一緒にいてくれない、必要としてくれないと思っていました。しかし、そんなことは全くなかったんです。自分を偽らず、ありのままでいれば、受け入れてくれる人がどこかに必ずいます。そして案外そのような人は身近にいるものです。自分が受け入れられていない、誰からも必要とされていないと感じるなら一度周りを見渡してみるのをお勧めします。もし、それでもいないと感じるなら環境を変えたら良いかもしれません。その集団は根本的に自分に合っていない可能性があります。環境に合わせて自分を偽るくらいなら、自分に合わせて環境を変えましょう。さっきの名言と被りますけど。とはいえ、大人ならまだしも子どもが環境を変えるというのはすごく難しいですよね・・・。学校には行かなきゃだし、学校のメンバーは固定化されてるし、部活も辞めづらい雰囲気あるし、転校とか簡単にできないし・・・。そういう時は、地域にある子ども食堂に行って見たり、地域の集まりに参加してみたり、オンライン上で仲間を見つけたりと、今まで自分が見てこなかった世界に目を向けてみると良いかもしれません。さっきも同じようなことを言いましたが、日本という国の限られた地域の、限られた学校の中の、限られたコミュニティという死ぬほど狭い交友関係の中で居場所がないからと言って、世界中どこにも居場所がないなんてことはありえません。自分が居心地が良いと思える、ありのままでいられる居場所を探して見ましょう!

9.結局、幸せとは?


  幸せとは何か。きっと、人それぞれに幸せはあるでしょうし、同じ人が同じことをしていても幸せに感じる時とそうじゃない時があります。だから、幸せを1つに定義することは、少なくとも私にはできません。ただ、逆に最もコスパ良く不幸になれる方法はわかります。それは、「人と比較する」ことです。散々主張してきました。

 「人と比較するな」と言ってきましたが、何も「人と比較すること」全てが悪だとは思っていません。理想を持ったり、ライバルと競い合うことでことで成長する側面があるからです。しかし、理想やライバルが嫉妬対象になっていたらそれは危険です。それはもはや理想でもライバルでもありません。自分を偽物にするためのお手本です。ではこうならないためにはどうすれば良いか、私はいつもこのように考えています。「最悪、能力は比較して良いが、絶対に個性は比較しない!!」

前の章で少し述べましたが、私は能力の組み合わせに個性が現れ、個性にこそ価値があると考えています。能力が複雑に絡み合って形成された個性は唯一無二であり、他のものとは変えられないからです。しかし、能力単体で見たらどうでしょう。顔が似ている人はたくさんいるし、足の早さが全く同じ人もいる。能力は唯一無二ではないんです。だから競い合う余地があるし、高めることもできます。だけど、個性は違います。比較することも、高めることもできません。なぜなら、繰り返しになりますが、個性というのは唯一無二で、全ての個性が、どこかしらの環境で活きる可能性を秘めているからです。理想やライバルが嫉妬対象になっている場合、それは個性を比較させてしまっている可能性があります。「なぜ私は彼女のようになれないのか」、「なぜ俺は彼より劣っているんだろうか」、こういう思考は自分の個性を自分で否定していることになります。1つの能力で劣っていると感じてしまっても、だからと言って人間的に劣っているなんてことあるわけないんです。もし、人間的に劣っていると感じてしまうなら、きっとあなたの嫉妬対象が、自分よりも今の環境や時代に適応した個性をたまたま持っているだけです。どうしても自分が劣っていると感じてしまうなら、何度も言いますが環境を変えちゃいましょう。

 さっきは幸せを1つにすることはできないと言いましたが、数ある人間の幸せのうちの1つは分かった気がします。それは、
「ありのままの自分でいられること」
です。使い古された言葉ですが、結局ここに至りました。やっぱり昔から伝わっている言葉って偉大です。自分を偽る必要がない環境、つまり人と比較しなくて良い環境に身をおくことで、人は幸せになれるっぽいです。少なくとも自分はそうです。自分を偽る必要がなくなってからは、なんか存在しているだけで幸せです。だから、今それなりに健康だし、家族もいるし、お金にも困ってないし、友達もいるのになんか不幸っていう人は、人と比較するのをやめてみると良いかもしれないです。そうしたら、「存在しているだけで幸せモード」に突入できるかもしれません。絶対そうとは言い切れないですけどね。でも、試す価値はあるかと。

10.感想とお願い


 ここまで、私の拙い主張におつきあいしてくださってありがとうございます。どうだったでしょうか?。まさか「感動した」っていう人はいないでしょう。それどころか「当たり前じゃん」ってことを延々と主張し続けてるだけだと感じた人も多いでしょう。当たり前だと思えた人はきっと自分を偽らず、ありのままで生きている人なんだと思います。ただ、かつての私のように人との比較で不幸になっている人もきっといるはずです。そういう人たちの助けに少しでもなれたらなって思います。

何度も言いますが人と比較することは本当に無意味ですかなりの確率であなたを不幸にするでしょう。だから何者とも比較しないで良いんです。比較されたら耳を塞ぎましょう。比較しそうになったら自分の価値を思い出しましょう。あなたは存在しているだけで価値があるんです。だから探しましょう。あなたがあなたでいられる場所を。

これが22歳時点で私が考える幸せです。なんせまだ22年しか生きていないので、幸せについての理解は浅はかなものでしょう。でも、この時期に自分の幸せについて考えられたことは私にとって大きく価値があることだったと思います。「世界で1番の成功者は世界で1番幸せなもの」と述べました。本当にそうであるならば、自分にとっての幸せとは何かを、足踏みして考えることは非常に重要だと思うからです。なので、是非皆さんも自分にとっての幸せを考えてみてください。そしてあわよくば文章にして、私に見せてください。私はそれを参考にしてもっと幸せになっちゃおうと思います!!

ごく普通の大学生が4年生後期に、「幸せ」について考えてみました。




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