僕が幸せになるためのnote
※僕が道を見失ってしまっている時に読む用のnoteです。自分に向けて書いています。
楽して生きることが幸せではないと思います。かといって、社会の期待に応えんと生きることも幸せではないと思います。
アドラーは人間を斜面で転がり落ちる石ころに例えています。石ころは自然の原理に任せ、転がり落ち、丸くなっていくしかない。しかし人間は違う。自分の意思を発揮し、転がることを拒むことができる。「意思を発揮し、転がることを拒むこと」これこそが人間のもちうる唯一無二の能力だそうです。
「楽したい」「無理したくない」このような力に抗うこと。人生を自然の原理(本能)に支配されることを拒むこと。これにより、自分で自分の人生をコントロールすること。これこそが幸福だとしています。
幸福の解像度をさらに上げていきます。人間は意思を発揮しない限り、斜面を転がり続けるという話を先ほどしました。「楽したい」「無理したくない」という本能に負けてしまうからです。
これに負け続けるとどうなるか。お察しの通り、酒に溺れる、異性に溺れる、ドラッグに走る、ギャンブルに走る、こういった状態になります。このような人たちは好きなことをして生きているように見えますが、きっと心は辛いはずです。欠乏感が渦巻いているはずです。僕も大学生時代、「好きに自由に生きているはずなのに辛い」こんな感覚がありました。
でも、大抵の人が真っ当に生きていますよね。社会的責任を果たし、努力して生きています。転がり落ちないように必死に抗っています。でもなぜか苦しい。努力することが苦しいし、なぜか満たされない。このように感じてしまう人もいるのではないでしょうか。僕もその1人です。
でも実は僕たち、斜面に抗っているように見えて、斜面から転がり落ちているんです。「楽したい」という本能には抗っています。でも、本能はこれだけではありません。「認められたい」「褒められたい」「地位を得たい」これらも本能なのです。
これに抗えず斜面を転がり続けるから、最初はみんな違う形の石だったのに同じような丸い石になっていくのです。そして死ぬ間際になって「もっと自分らしく生きればよかった」「もっと好きなことをすればよかった」と感じるわけです。
じゃあ、「自分らしく」生きるために仕事をやめ、好きなことだけをして生きていく。これで幸せになれるのか?
違いますよね。これでは「楽したい」という本能に負けることと同義です。結局丸い石になります。
楽して生きれば丸い石になり、社会的責任を果たそうと一生懸命生きれば丸い石になり、「自分らしく」楽して生きれば丸い石になる。堂々巡りです。幸せになる方法などないのでしょうか?
そうではないと思います。「自分らしく」の意味を捉え直すのです。僕は以前、自分らしさとは「自分の好きなもの」「得意なもの」など自分の特徴だと思っていました。
でもこれらって本当の自分らしさなのでしょうか?
例えば僕が「カツ丼が好き」な特徴をもっているとして、これだけを食べ続けるのが「自分らしさ」なのでしょうか。これが幸福なのでしょうか。
例えば僕が「子供がと関わるのが得意」な特徴をもっているとして、子どもにとって都合の良い自分であり続けるのが「自分らしさ」なのでしょうか。これが幸福なのでしょうか?
違うと断言できます。その人がもつ特徴というのは自分らしさの一部ではあっても全てではないのです。
では自分らしさとは何か。
7つの習慣の著者コヴィー博士の言葉を借りるなら「ミッションステートメント」
アドラーの言葉を借りるなら「ライフスタイル」
仏教の言葉を使うなら「中道」
です。
どれも、「自分で決めた、他者に貢献できる生き方」という意味をもっています。この生き方に従っている人こそが「自分らしく」生きている人であり、幸せな人なのだと思います。
嫌われる勇気で有名な一節があります
この言葉には実は続きがあって、
というものがあります。
人間は他者に貢献することだけでのみ、幸福を感じられるのです。
いや、これでは不十分ですね。”自分が決めた方法で”他者に貢献することで幸福を感じられるのです。
じゃあPuはどう生きるのか。どうやって他者に貢献するのか。
周りをポジティブにすることです。
とにかく周りを明るくするんです。「自分も頑張ろう!」「前を向いていこう!」周りにこう思ってもらえるように生きるんです。
息子として、兄として、友達として、先生として、同僚として、部下として、noterとして、これらの役割を通して関わってくれる人をポジティブにする存在で”ある”ことが僕のミッションです。
このような自分で”ある”ために、僕は7つの習慣を身につけ、人生のタスクに挑戦します。
一刻も早く、自己中心性を排し、私的成功(≒自立)を果たさなくてはいけませんね!!!
今日の僕も頑張ってください!!!
完全に余談です。
僕は小学1年生くらいの時、異常に灯台が好きだったんです。何にロマンを感じたのかわかりませんが・・・。
お土産屋さんに行くとまず探すのは灯台の模型
自由研究は灯台の模型
海にいくと灯台を探しに行く。
すごい執着でした。
やがて、このような熱意は薄れていきました。
ずっと灯台が好きだった意味がわからなかったのですが、今だったら意味付けることができます。
僕のミッションが「周りをポジティブにすること」だからです。「周りを明るくすること」だからです。
周りを照らし、人々の前進を促す灯台に自分を重ね合わせ、幼い僕は魅力を感じていたのかもしれません。
完全に後付けですが笑
でも、意味不明だった過去の一つに意味づけはできましたね!
「現在の自分が過去を規定する」。本当にその通りだなって思います。
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