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20230319-星野源と店員と交差点の記憶

帰省、一週間、その記録と言うか、考えたことというか、思ったことというか。それをただただ書く。

こんな普段ならしないことをやろうと思ったのは、今日の散歩の帰り。残しておくってすごく大事なことだと思って、明日生きてるかどうかもわからないし、生きていても記憶がなくなってるかもしれないし、生活できてるかどうかもわからないし。てなわけで、書こうと思った。

別に誰に見せるわけでもない、ダラダラとした一週間の帰省で起こったことと思ったこと。


散歩をした。暇だったから。やることはないし、正確に言うとあるけれども。家にいてもやることないし、空気も良くないので。一人にもなりたかった。次の日帰るけど。

家を出た。周りの住宅街を歩いた。池についた。家の近くにある大きめの池。土地柄ため池が多い。その堤防に、なにかあるかな、どんな景色だったかな、と思って上がった。特に何もなかった。犬の散歩をしているおじさんと、ただ歩いているおじさん、そして俺。強いて言うならば虫がいた。あの、水辺に出る、自転車で高校から帰ってたら川沿いに大量にぶんぶん飛んでる小さい虫。あいつが大量にいた、ひさしぶりの再会。気持ち悪い、本当になんであいつらはあんなにいるんだ。服にとにかく引っ付く。久しぶりに虫と対峙した結果いつもどおり、全身が震え、汗がとまらず、本当に気持ち悪くなった。虫はどうやってもだめ。そいつらが群れをなして飛んでいるところを、なにも悪びれる素振りもなく、手だけは顔の前で振りながら突破していった。結果的には、池の上には特になにもなく、虫が大量にいて、なんなら目的地から少し遠回りになるという、いいことはなにもなかった。「あ、なんか良いな」と思うことは最初に堤防にあがった一瞬しかなかった。後悔。

池から離れて、大通り沿いへ。その途中、まだ池から少し離れても虫がいた。しかも足首あたりが少し痒い。キモチワルッッと思いながら少し小走りになった。


最初の目的地、昼ごはん。店につく直前、前からまあまあなスピードでこちらへ向かってくる自転車がいた。すれ違うとき、すこし見覚えのある顔が見えた。同級生のような、あのガリガリのいろいろダメなあいつのような気がした。でもあいつがクロスバイクなんて買わないよなあと思って別人判定、なんて失礼なんだ、4年間会っていないのに。4年経つと人は変わる。というかクロスバイクを買うか買わないかなんて変わるというほどでもない。なのに別人と判断した自分が気持ち悪くなった。

ストイックに昼ごはんを食べ終わって、本屋へ向かった。高校時代までは何度か通った道だが、4年経つとさすがに少し変わっている。古着屋ができていた。居抜き物件だろうけど、前にそこがなんだったかはまだわからない。その古着屋から、若い女性の店員がふたり出てきて、ひとりの店員がもうひとりの店員をスマホで撮影し始めた。おそらくSNSで宣伝するための写真なんだろうな。その間に自分は店の前に差し掛かった。店の駐車場には車が端のほうに一台のみ、おそらく客はゼロ。儲かっているのかな、といらぬ心配をしてしまった。悪い癖。そのときは、まあ撮影していた店員さんは楽しそうだったしいいか、と思ったけど、本当に悪い癖が発動してしまっていた。自分は、客があまり店内に見えない、盛り上がっていなさそうな店に入るのが心底苦手な人間だ。個人店はそういう理由であまり入れない。もちろん店員が話しかけてくるのが、入ったらなにか買わなきゃいけないというのが怖いという理由もある。自分はひっそりと、店員さんから離れて生きていたいのだ。なにか店に入っても、そこで空気でいたい。自分のことは気にせず、透明になってものを見て回りたい。こう言いながら「個人店で話しかけられるのが、なにか買わなきゃいけないのが怖い」とか言っているな自分。それはないだろ。性格が悪い。これはだめだ。つぎ。

本屋では特になにもなかった。最近よくいっていたからなにか新しい発見があるわけでもなく、そういえば星野源に対して少し憧れを持っているのにも関わらず、彼の本を一冊も買っていないことに気づき、彼の最初のエッセイを買った。

そのあと、大型スポーツ用品店には寄った。前と店内のレイアウトが変わっていて入った瞬間変な声が出かけた。でも特に欲しいものはなく、「あー今住んでいるところよりも自転車多いなーしかも安いなー」とか思うだけだった。


さっき買った文庫を読もうとスタバに入った。その頃14時くらいだったがあまり混んでおらず少しホッとした。そこで最近(と言っても数ヶ月前)近くにもうひとつスタバができていたことを思い出す。地方都市の郊外のくせしてこのあたりはスタバが多い。でも良いことだ。スタバは安心できる。古着屋の話でも言った自分の苦手なところがひとつもない。中学ニ年生あたりのころの「スタバなんて、、おしゃれ、、入れないよ、、、」と、高校一年生あたりの「スタバwあんなの高いだけだし、意識高い系がたくさんwwwww」という、思春期特有の気持ちの切り替わりを思い出す。

そういえば確か高校1年生のころ、中学時代に好きだった女子に数学を教えてと頼まれて、スタバで勉強したことを思い出す。当時はスタバを小馬鹿にしていたから、「え?いやフラペチーノとかwおれブラックコーヒーでいいわ」と言っていた気がする。たぶんその女子のほうは慣れた感じで少しむずかしい注文をしていた。そのときなんか負けてるな、と思ったことは覚えている。なにに負けていたんだろう。よくわからない。青春だ。

余談は置いておいて、記録に戻る。レジが少し混んでいたし、注文にも時間がかかっていたので、初めてモバイルオーダーを使ってみることにした。とりあえず注文した、しかしどこで待てばいいのかわからない。レジで注文した人と同じ列に並んでみたがなんか違う気がする。画面に表示された「ザンビア*14」が自分の名前らしい。席で待っているときに遠くから「モバイルオーダーでお待ちのザンビア*14~~」と呼ばれるのも恥ずかしい。結局受け取りの列から少し離れた場所でひとりカッコつけて待つことになった。相棒のiPhoneはツイッターとインスタグラムをいったりきたり。ごめんこんな仕事しかさせてあげられなくて。
数分後モバイルオーダーの方ですね、とひとり俺だけが受け取り場所に残った状態で声をかけられた。これは正解なのか?まだよくわかっていないが、とりあえず注文の品を作ってもらい、受け取った。受け取るとき、手元に集中して相手の顔を一切見ることができなかった。本屋でも同じで、本を受け取るためにそこに目線を落とすと、もう顔を上に上げて店員さんの顔を見ることができなかった。こういうときに自分が情けなくなる。レジのバイトをしていたとき、最後にこちらの顔を見て「ありがとう」と言ってきてくれるお客さんが本当に好きだった。あのおかげで途中で嫌になったバイトを少し長く続けることができたほどに。だから自分もそうなりたいと、そんなお客さんと同じふるまいをしようとあの頃から心がけてる。でもできない。いつも行くスーパーでも、そこは支払いのみセルフレジなのだが、自分がかごを横に移すタイミングで店員さんが「ありがとうございます」と言う。自分のその店員さんに向かって、はっきりと目線を移して「ありがとうございます」と言いたい。でも手元のかごにすべてを集中してしまう。結局中途半端な場所を見ながら小さい声で「ありゃとまいます」みたいな情けない感謝の言葉となってしまう。そのスーパーに通い始めてもう4ヶ月くらい経つが未だに改善の兆しが見られない。どうしたものか、だから自分が嫌いになっていくんだよなあと、スタバの窓際で病みそうになった。

その席で「そして生活はつづく(星野源)」を読む。面白い、思わず顔がにやける。そして少し救われる。
「子育てはつづく」という章がある。とにかく面白いと読み進めていた。笑いが止まらない。しかしその終盤、急に目頭が熱くなった。少しリミッターが外れると、店員と目を合わせられず悩む22歳男性がスタバの窓際の一人席で号泣するところだった。あまりここに内容を書こうという気にはなれないから割愛するが、あと1万回は読めるな、ことあるごとに読みたいな、と思うものだった。


号泣仕掛けたところで帰る。帰り道は少し細い道を通ることにした。昔通っていた道が今どうなっているか気になったので。
思ったより変わっていたし、思ったより変わっていなかった。新しい家や、小さな店が入れ替わっていたりしたが、ああそうなんだなあとしか感じなかった。この道ではいつもと違って、新しいものには感動せず、変わっていないものに感動していた。完全にふるさとなんだなあこの町が。あの駄菓子屋もおそらくまだやっているし、やっているかよくわからない古い美容室のネオンサインもまだあった、光るかどうかは知らない。
こういったずっと変わっていないものに感動していたが、ついには交差点に感動し始めた。交差点を見ると、いろいろ思い出すものがあることに気づく。「あの交差点はあいつと別れるところだな」とか「この交差点はあそこに行くときに通るところだな」というふうに。もちろん車一台がぎりぎり通られる道同士の交差点ばかりだが、そんな数メートル四方の場所にもたくさん思い出が詰まっていることに気づいた。そのとき、今回の帰省の意味がわかったような気がした。本当に幸せで、いま自分が生きていることを実感したときでもあった。まさか家の近くのなんでもない交差点を通ってこんな気持ちになるとは、今まで一度も想像したことはなかった。でも「生きていて良かったな」と感じたことは事実であり、今度の帰省はこの「交差点の記憶」を巡る散歩をすることに決めた。なんだかゼルダの伝説ブレスオブザワイルドみたいだな、早くクリアしないと。

おそらく次の帰省は暑い8月になるだろうけど、「今度の帰省」って怖いなあとふと思った。「今度の」と当然のように言っているけど、本当に生きているのかとか、元気なのかとか、自分がまだ存在しているのかとか、そういうことを考えてしまった。珍しく自分が本当の意味で悲観的だ。ただ、毎日を全力で過ごして、目の前にあることに挑んでいって、生活がつづいていれば、また数ヶ月後も同じように帰ってこれるのだと思う。


こんな交差点の記憶とかの幸せに気付けたのも、今こうして普段は書かないような文章を本気で書いているのも、たぶん星野源のおかげだと思う。あとそれを買う判断をした自分。(ブックオフなら安いよな)とか(いや今読む時間ないしもったいないかも)とかいつもと同じように考えたけど、結局買った。店員の顔は見れなかったが!!!!!!!!

明日、大学がある街へ帰る。今日が晴れで良かった、今日散歩をしてよかった、今日本を買ってよかった、今日生きていてよかった。


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