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「今が人生最高!」だと思えた理由を知りたくて人生を振り返ってみた

「ママひま」が口癖の幼少期

1987年1月21日に東京都聖蹟桜ヶ丘の病院で約4,260gの巨大児爆誕。新生児室では圧倒的な存在感だったらしく、「この子にはタオル掛けない」という張り紙が貼られていたらしいです。デカいと暑がるのでしょうか?その因果関係は今でもよく分かりませんが、子供の頃から大きかったです。その影響で母親は出産時輸血したとか何とか。今では、そんな大きい状態では生ませないとか何とか。我が子は3,000gちょいちょいなのですが、それでも出産時に苦労していた妻を見たので、約4,260gの巨大児を自然分娩した母親には改めてリスペクトです。

ところで皆さん、物心ついたのは何才の頃ですか?
調べてみると2-3才頃が一般的なようです。三つ子の魂百までとはよく言ったもので、今も昔も「暇」がとにかく苦手です。昔の記憶を辿った時に、最も色濃く思い出せるのが「ママ、ひま」と駄々を捏ねる日々です。

当時、東京の聖蹟桜ヶ丘駅から車で10分くらい移動した家に住んでおり、ほどほどに田舎でした。車移動が基本であることと近場で遊べる場所もあまりないこともあり、閉塞感が凄くありました。

当時は幼稚園の同級生であるコガタイジュくんの家に毎日電話をして、遊んでいたのを覚えています。本当にほぼ毎日電話をしていたからだと思うのですが、まだ電話番号を覚えています。小学校から引越しをして、電話かける機会はなくなったのに、覚えているものなのですね。タイジュくんと遊べず、どこも連れて行ってもらえない時はヒマ過ぎて絶望していたのを感覚的に覚えています。

とにかく「暇が苦手」が功を奏した話もあります。暇つぶしの一環で近所のお兄さんに漫画ドラゴンボールを読んでもらっていたようなのですが、「もっと読んで」と何度もねだり、更には1人でも食い入るように読んでいたところ、自然に文字が読めるようになったそうです。誰もちゃんと教えていないのに文字が読めてたから驚かれたそうです。今でも「暇」とか「退屈」が大嫌いで、新しい刺激が大好き。くだらない井戸端会議とか、退屈なミーティングは参加出来ないし、事業でも「これやったら上手くいく」と分かったら飽きてしまい、新しい事業やプロジェクトに移っていきます。自分自身の解像度上げるためにも、過去の自分から一貫して続けている行動を知るのは大事なことですね。

あとは「寝ながらご飯を食べていたよ」と言われるくらいの食いしん坊、親戚からは「夜8時の男」と呼ばれるくらいの眠りん坊だったようです。今でも食べるのも寝るのも大好きです。

輝きまくっていた小学校低学年時代

パソコンやネットの世界に触れていたら物凄いハマっていたと思うのですが、僕は公文式の算数にハマってました。公文式の好きだったところは「終わりがない」ことと「ルールが明確だった」こと。自分のペースでドンドン進められて最高でした。朝起きるのが楽しみで楽しみで、毎朝6時に起きて公文の問題をやっていました。小学校1年生の時に小学校4年生の問題まで解くようになっていたのですが、『学校の授業と差が開きすぎるから』という理由で公文の算数はやめることに(今思うと、変な理由!)。

そこから公文の算数ではなく英語をやるようになったのですが、英語にはすぐ飽きて辞めました。飛び級という文化がある国だったらどうなってたのか、今でもたまに考えます。

「読み書き出来る」「算数得意」「身体大きい」「(暇が嫌だから)友達誘う」という特徴があったので、小学校の頃は分かりやすく『学級委員』でした(何年生からだったか覚えていませんが)。ちなみに、この頃のあだ名は『とよち』でした。この時も毎日友達に電話をして、遊ぶ人を見つけていました。ゲームや冒険、自転車競争など遊ばない日は1日も無かったと思います。

他人の人生を歩み始める小学校高学年

こんな顔して勉強してたと思う

公文の影響もあり「頭良い」と沢山言われた小学生時代でした。親の薦めから、進学校への中学受験をする事になり、小学4年生の途中から地元の塾に通い始めます。(両親から「自分で決めて良いよ」と言われたので、「友達と一緒に地元の中学校に行きたい!」と何度も伝えたのですが、何度も説き伏せられて結局受験する事になったのを覚えています。)

今でも覚えている苦い記憶があります。
塾に行き始めた3日目くらいの日、学校の帰り道に友達と公園でお喋りするのに夢中になって、知らない内に塾開始の時間に遅刻していたのです。すると、その公園に鬼の形相をした母親がやってきて、酷く怒られました。そこで「本当に、これからは塾に行かないといけないんだ…」と観念したのを覚えています。

その後、地元の塾ではすぐに1番上のクラスになったこともあり、もっとレベルが高い塾に移ります(車で20分の距離。毎日車で送り迎え。親も凄い努力。)。そこでは、今でも驚くくらい勉強してました。平日は学校終わってから21時までで、休みの日は9時から19時までだったと思います。週末クラスでは1日2食を教室で、それも窓のない教室で食べてました。「受験戦争って異常じゃない?笑」って今でも思ってます。

その頃辛かったのは「得意科目ではなく苦手科目ばかり勉強したこと」でした。算数は勉強しなくても出来るので、受験勉強では苦手な国語と社会ばかりやっていました。「好きだから学ぶ」とか「好奇心を育む」とか、そういう世界とは無縁でした。

印象的なエピソードは『志望校決め』。
文化祭を見に行った時に、校庭を裸足で走り回る先輩中学生を見て「良いな」と思ったのが『桐朋中学校』。校舎に自然が多かったのも決め手でした。その頃非常に成績が良くて、進学塾でも1番上のクラスだったのですが、自己申告で1つ下のクラスにしてもらいました(母親に頼み込んで、塾の先生にお願いしてもらいました)。

1番上のクラスは開成(という東京1偏差値が高い中学校)を目指す人が多かったのですが、桐朋はそこまでは偏差値が高くなかったのです。進学塾の先生も、父親も、志望校を偏差値がもっと高い中学校に変えて欲しかったようなのですが、当時から「自分はこれ!」と決めたら頑なでした。

桐朋中学校の受験日は2月1日で、2月2日には合格判明(今思うと早っ!鬼オペレーション!)。父親の出身校である慶応中等部の受験日が2月3日で、父親は強くは言ってこないものの慶応に行って欲しかったのです。当時の僕は、「慶応中等部にワザと落ちて、めでたく第一志望の桐朋中学校に行く」という事をします。今思うと戦略的ですね。

量産型中学生時代

多分、こんな顔してた

この頃のあだ名は「たぬぽん」。小学校の卒業文集を書く日のこと、受験太りをした僕を「たぬき」と称した友人と「とよぽん」と呼び始めた女子が奇跡の融合を果たし、卒業文集に「たぬぽんへ」と書いたお調子者が1人発生。それを見つけた中学校の友達が「えー!?お前たぬぽんだったの!?」と騒ぎ、学校に広まり、定着。小学校では1度も呼ばれたことがないあだ名で、中高過ごすこととなる。男子校の悪ノリは凄まじいし、ときに素晴らしい。

あだ名こそユニークだが、この頃の自分を漢字3文字で例えるなら「没個性」。小学校高学年の2年半を受験勉強のみに充てた結果「頭良い」という個性しか残らなくなった一方、進学校では「頭良い人しかいない」ので、見事に没個性(こういう人多いと思う!)。

中学生当初はサッカー部に入部するもリフティングが5回くらいしか出来ないのが恥ずかしくて、すぐに退部。その後、ソフトテニス部に入部しました。真面目に頑張っていた部活生という事はなく、「如何に頑張らずに勝つか」をテーマに過ごしていました。これは今に通ずるのですが、僕は全くストイックではなく、「楽するために頑張る」というタイプでした。とはいえ、最終的に上から2番目に強いランクにまでいけたのは、『何をしたら最低限の成果を出せるかが分かるという才能』を発揮していたのだと思います。

何にも没頭出来なかった高校生

当時の反動なのかゲームセンターが苦手です

進学校でエスカレーター式だったので、受験勉強もなく高校生になりました。高校1年生で部活を辞めてから、非常に暇になります。部活を辞めたのは、高校に入ってから部活動のチームとしての熱が上がり「本気でやる奴だけやろうぜ!」という雰囲気が合わなかったからです(前述の通り「如何に頑張らずに勝つか」というモチベーションだったので)。

子供の頃あれほど嫌がっていた『暇』と対峙する日々がやってきました。ゲームセンターに行ったり、ウイニングイレブンに明け暮れたり、ろくな時間を過ごしていませんでした。それらに楽しみを感じる一方、『暇』という想いから逃れられず、今思い出しても閉塞感を感じる日々を過ごしていました。

成績は中の中の上くらいなもので、何をしてもパッとしない高校生だったという印象です。没頭出来る事がない辛さを学んだのがこの時期です。進学校だった事もあり、周りが大学受験するからという理由で大学受験に向かう事になります。理系だった事と、親が喜ぶという理由から医学部を受験する事にしていました。まーったく勉強に身が入らず、好きだった数学ばかり勉強する日々でした。

実は楽しかった浪人時代

喋ることしかエンタメがなかったので、喋りが上手くなりました

普通に受験は失敗し、浪人する事が決まります。1年間勉強しかしない日々を迎えるにあたり、「やるなら自分が本当にしたいことのために勉強したい」と人生で初めて思いました。何にも没頭出来なかった私が、唯一ずっと大好きだったのが『犬』でした。

おそろしく可愛い愛犬マロン。

小学校1年生の時に、学校の友達が飼っていたゴールデンレトリバーに一目惚れしてからずっと犬が好きで、毎日「犬飼いたい」と伝え、高校2年生の時に愛犬を迎え入れる事が出来たのです(「犬飼えないのなら受験辞めて犬のブリーダーになる!」と伝えたのが決め手となりました)。「それだけ好きな犬に関する仕事なら楽しいのではないか」と思い、獣医師を目指したいと考えた訳です。

ちなみに、それを両親に伝えたところ大反対されました。両親の言い分としては「医学部だろ!」という訳です。「将来陽一くんの好きな仕事をすれば良い」と子供の頃から言われて育ってきたので「嘘つきじゃないか!」と苛立ったし呆れたし、何より応援してもらえなかったのが哀しかったのを覚えています。そうは言っても親にお金を出してもらうので、話を続け、最終的には父親に言われた「東京の国立の獣医学科なら認める」という売り言葉に反応して、「分かった!それで!」と伝え、猛勉強して東京農工大学農学部獣医学科に合格しました。浪人当時は偏差値50位だったのですが、最終的には偏差値70位の大学に合格したので、父親のおかげで成長したっちゃ成長したし、でもムカつくし、複雑な気分でした。

浪人時代はというと、GOALとやる事が明確で、規則正しい生活を送り、知り合った気の合う友達と喋りの面白さを高め合い、そんな日々は不思議と楽しかったのを覚えています。「何したら良いか分からない」とモヤモヤしていた高校生時代より楽しんでいました。今思えばGOALが明確である事は人生において最も重要である事を学びました。

また、浪人時代に財布を拾って交番に届けた際、「職業欄は無職と書いて」と言われた事で「自分は社会にとって無価値なのか」とショックを受けた事を覚えています。「価値を出したい!」と思い、受験が終わるや否や献血に行きました。社会への価値提供の仕方が献血しか思いつかなかったのです。今では習慣になり、87回を超えるまでになりました。

一瞬で過ぎ去った大学前半

かろうじて見つかった動物と写っている写真

大学入学2日目に事件が起こります。
『輪になって将来の夢を一言ずつ言い合う』というオリエンテーションで同級生からヒンシュクをかうのです。僕は本当に下調べをしない男なので「獣医大学に入った人は全員犬猫の先生になる」と勘違いしていたので「将来の夢といっても皆同じだしバリエーションないじゃん」と思いました。実際は、畜産動物(牛、豚、鶏)や馬の獣医師、公務員(検疫や公衆衛生を担当)、研究職、製薬会社などなど、動物病院以外の進路が沢山あるのですが、それを知るのは入学してからかなり先のお話となります。

そんなこんな、同級生が一人一人将来の夢を語っていくのを「え、こんなに進路あるんだ!?」と驚いたのを覚えています。そして、僕の前のハナザトくんの番が来ました。彼は「将来はカイジュウのお医者さんになりたいです」と言ったのです。僕は「おおっ!ボケた!なるほど、怪獣のお医者さんとは良い発想だ!」と思ったのですが、なんと!その場は誰も笑っていなかったのです!

「入学2日目に滑っては可哀想だ!!」と思って、大袈裟に笑いました。

僕「怪獣って!!ハハ…ハハハハ!!!」
同級生「…(シーン)」
先生「…(シーン)。はい、次の人、豊田くん」
僕「え、あ、はい…。えー、犬が好きなので、動物病院の…」

何が起こったのかサッパリ分からないことが起こりました。
「さっきは何が起こったの?」と説明を求めたところ、「海獣というシャチやイルカの獣医師がいる」という事を教えてもらいました。

花里くん「海獣のお医者さんになりたいです!」
僕「怪獣って!!ハハ…ハハハハ!!!」
同級生「…(シーン)」
先生「…(シーン)」

これです。人生で一番地獄的な空気だったのを覚えています。入学すぐに『人の夢を笑う奴』になってしまいました。ドリームキラーの爆誕です。

怪獣は私でした

そんな奇天烈なデビューをかました一方、ひっじょうにノーマルな大学生活を送ることになります。

当時お付き合いしていた人が浪人生だった事から、大学生っぽい生活は送らず、バイトと彼女との勉強に時間を費やしていました。その後彼女とは遠距離恋愛になった事もあり、相変わらずバイトと彼女との勉強に時間を費やすような、大学1年生のコピー&ペーストをしたような大学2年生時代を過ごしました。書いてて虚しくなった!この頃は自分に自信が無かったので、彼女という存在に依存していた訳です。

結果として写真が全然ない!
そんな中見つけた大学2年生の時の写真!
ナニコレ

人生が変わるキッカケ 大学お笑い選手権

企画者から
「とよさんって、なんかちょっと面白いと思うんですよね…」
という逆に自信なくなる口説かれ方をしました

大学祭で『大学一面白いコンビを決める』というお笑い企画があり、そこに参加して欲しいと懇願されたのが大学3年生の時。僕が面白かった訳ではなく、全然出演者が集まらなかったのが理由(「大学一面白い」ってハードル高すぎるでしょ!)。

結局断りきれず、「企画者が相当困っているし、出てあげようか…」と出演が決まりました。当時の僕は、イベントにも飲み会にも全然参加していなかったので、多くの学生にとって「あれ、誰?」という状態。「ネタは俺が書くから」となんとか漫才の相方を見つけ、ボケを依頼しました。だって、ボケって目立っちゃうから緊張しちゃう。なるべく目立たず、やり過ごしたいという一心でした。

ところがどっこい!
ネタを書いている内に、ムクムクと「こうした方が面白いんじゃないか!?」という思いが溢れてきて、最終的には「俺にボケをやらせて欲しい!」と伝え、ボケになりました。ネタはと言うと、大学1,2年生の時の彼女との別れ話をうまく漫才に盛り込み、結果は、、、優勝。

観客は何度も大笑いしてくれ、200人の観客が一斉に笑う事で「ドッ!!」という歓声に聞こえる事を体感。「あれ、誰?」だった学生が、「大学一おもしろいコンビのボケの人」と呼ばれるように。キャンパスで声を掛けられるようになったり、「大学一おもしろい乾杯の挨拶をお願いします!」という無茶振りが増えたり、1日にして環境がガラっと変わりました。挑戦(大笑い)と失敗(大スベリ)が一気に増え、ドンドン面白く、そして明るくなっていきました。自信って凄い!

それからも大学お笑い選手権に出てみたり、テレビ朝日にネタ見せに行ったり、漫才に挑戦してました。就職の頃になると「お笑いは面白い人がいるしな。動物と飼い主を笑顔にしたい」と考え、動物病院に進路を決めました。

獣医師国家試験の2週間前の卒業生追い出しコンで新ネタを披露
同級生からは「なんでそんなことしてるの?」

『違和感』と共に過ごした獣医師時代

充実した臨床獣医師生活でした
こう見えて手術とか診察してました💉

結果として2年3ヶ月で獣医師を辞める事になります。この時期は朝は7時30分から夜は22時まで働くのが普通で、昼食は15分休憩。夜21時台に終わったら「今日早いね!温泉でも行こうか!」と同僚と話すような日々を過ごしていました。毎日力不足を痛感していたため、帰宅後1-2時間は勉強をして、夜の1時2時に寝ていました。多くの人に感謝をしてもらい、多くの動物を救ったし、多くの動物を見送りもしました。「こんなに感謝してお金を頂ける仕事って本当に素晴らしいな」と本気で思っていました。一方、自分をすり減らす日々でもあり、口内炎は常に3個あり、体重は64kgと今より10kg痩せていました。今思えば、人生において最も心身ともに不健康でした。

獣医師を辞めたのは「獣医師の働き方と動物病院の労働環境に違和感を感じた」というのが一番の理由になります。

動物病院はヒトの病院と大きく異なる点が2つあります。
① 色んな動物種が診察に来る
② 基本的に全ての科を診察する

僕が勤めた動物病院には、犬猫だけでなく、ウサギやフェレット、モルモットや鳥、ハリネズミやカメなど多くの動物種が来院しました。犬には一般的に使う薬をウサギに使うと死んでしまったり、とにかく動物種毎によって非常に診断や治療、なりやすい病気が異なります。さらには、ヒトの病院と異なり「皮膚科」「眼科」「整形外科」など専門科に分かれていないので、全ての科に精通する必要があります(ヒトは歯医者や薬剤師、臨床検査技師がいるけど、獣医師は歯科も調剤、検査も自分でやる。幅広い!)。

さらに、多くの動物病院のスタッフ/院長は動物愛に溢れているので「動物のために!飼い主のために頑張ろう!」というのが常識になりがちです。別に間違ってはいないのですが、ヒト・モノ・カネ・情報という経営資源の流れを獣医大学では一切学ばないので経営が得意な動物病院は少なく、疲弊しているスタッフ/院長が多い印象がありました(実際に業界の離職率やメンタル失調は多い)。

これらにずっと違和感を感じていました。「業界としてもっと効率的に出来るんじゃないか。もっと働く人が働きやすくした方が、結果として動物を救えるのではないか。」という思いだけをもって、今の会社(株式会社VDT)を創業する事になります。

素敵な想いとは裏腹に、こんな写真しかありませんでした。
左:獣医師1年目 右:獣医師2年目
すっとボケた顔していますが、自分で用意した服で旅行している時の写真。

ビジネススキルゼロで起業。武器は「やれる気」

「出来る気しかしない」
これが勤務先の動物病院に開いてもらった送別会で言った言葉でした。ビジネスの事なんて全く分からないし、27才まで読書だってしたことなかったけど、何故か何とか出来ると思っていました。というより、「失敗したら、それはそれで面白いじゃん。その経験だって、誰かが買ってくれるでしょ。」と思っていました。『挑戦したら成功しても失敗しても美味しい』という、どちらに転んでもメリットしかないという考え方を王手飛車取り状態と呼び(将棋分からない人はchatGPTで調べてみて!)、いつも活用しています。

送別会の私

ビジネスが最初から上手くいった訳ではないですが、ずっと夢中でした。売上が少ないのも、何かプロダクトやサービスを作らないといけないのも、自分の給与が少ないのも、200円の弁当があまりにまずくて吐き出してしまったのも、ずっと楽しくて週8日で仕事に打ち込んでいました。当時は見えているプロセスは全然なくて、「動物病院業界を変革する」というGOALだけしか見えていませんでした。「俺にならやれる」何がそう思わせたのか、ずっとそう思っていました。

ビジネス素人にだって、出来る!

起業1年目の私。
獣医師からの転身!

前提として、獣医師は基本的にビジネス素人です。
獣医系大学って元々は『軍馬』、その後は『畜産動物』のために設立されたんです。早くから『国家』資格だったのは、そういう理由がある訳です。獣医系大学って犬猫の勉強やるイメージがあると思いますが、実際には全授業の15%くらい位です。あとは、馬や畜産動物の解剖や生理学、薬理学、マウスやラットの実習、公衆衛生や微生物実習、毒性学などなど、学ぶ範囲はとにかく多様!この通り「ホルモンや血液の流れはめっちゃ学んだけど、ヒト・モノ・カネ情報の流れは学ばない」のが獣医系大学です。そりゃあ、ビジネス素人、というか社会から隔世の感があるとすら思っています。

そんなバックグラウンドをもった私が最初に始めた事業は『出張診察』。
専門性をもった獣医師が地域に出向き、専門性のある獣医療を提供するというのが事業内容です。獣医師勤務時代に感じた「診察科の範囲広すぎて、どうしても獣医療レベルが低くなってしまうなぁ」という想いを払拭する事業でした。皮膚科に専門性をもっていた先輩獣医師2名と始めるのですが、ビジネス素人だったので事業計画書なんて酷いもんでした。

僕「1回訪問して5万円で、週5日働いて…年間50週として、2人いるから…おお!年商2,500万円です!!」
先輩「おお!何とかなりそうだ。」
僕「ですね!」

(1ヶ月後)

先輩「移動辛い。週2,3日が限度だ。」
僕「ええっ!?なんてこった!」

Excelの年商合計欄を➗2した時のことは一生忘れません(笑)。
一瞬にして年商が半分の1,250万円になった時は「これで3人で厳しい!」と震えました。この時「人が動かないと売上が上がらないのは大変だな。労働集約型ビジネスというのか。何とかして、違うビジネスを立ち上げよう。」となりました。最初なんてこんなレベルです。本当に手探りで、ビジネスを学び、実践していきました。この時の役員報酬は月20万円。一時期事務所に寝泊まりし、「銭湯代よりも安いから」という理由で、駅前のジムに入会してシャワーとお風呂代わりに使っていました。内見する時間が勿体ないという理由で、内見せずに一人暮らしの場所決めて、入居初日「薄暗っ!俺こんなとこ住みたくない!」と悲しくなってのを覚えています。

そんなこんな次に始めたのが『細菌検査事業』でした。
動物の感染症を引き起こす原因となる細菌を特定し、どんな抗菌薬が効果的かを調べる検査です。今なお、世界的に耐性菌が増えていて、2050年には死因率1位が細菌感染になる(今の1位は腫瘍)と推測されているって知ってましたか?動物業界でも耐性菌が問題となっているんです。先輩獣医師が「今の業界には良い細菌検査がない」と言っていたので、「よしっ、自分で作ろう!労働集約でもなさそうだし。」となり、開始しました。

大学の卒業研究が「ブドウ球菌」という細菌を扱っていたので、検査サービス立ち上げは割とスムーズでした。ただ、「細菌検査代を抑えて、飼い主さんが使いやすいものを提供する!」と決めていたので、精度を保ちながらコストを抑えるという面での努力は結構しました(論文読んで、材料取り寄せて、実験して、の繰り返し)。

そうして立ち上げたサービスが、最初に使われた時の感動と言ったら。ゼロから作ったものが使われるって凄い事ですよ。説明資料も手作りで、今思うとよく使って下さったなあと感謝する次第です。1日5件依頼された時は、天にも昇る心地でした。

共同役員のお父様が所有していたマンションの一室からスタート!

多分お笑いやってたからだと思うのですが、僕はマーケティングが得意でした。お笑いの中でも『大喜利』が分かりやすいのですが、大喜利が下手な人って「珠玉の1作を温めておき、エイヤっ!で出して撃沈」するんです。得意な人は沢山手数を出して、「あ、なるほどこの辺がツボなのね。はいはい、分かってきたよ。」という感覚で、出し惜しみせず、仮説と検証を繰り返す。この辺りはマーケティングと同じだし、何ならビジネスにも精通してますよね。「誰にも言わないで下さいよ。いつかビジネスにするアイデアなので…」と聞かされたアイデアなんて、たかが知れてるじゃないですか。

大学生活では、きっと誰よりも滑ったし誰よりもウケた事もあり、ビジネスに必要なマインドセットが醸成されていたのだと思います。今でも「面白い奴は仕事出来る」と思っています(面白くない奴は仕事出来ないとは思っていませんよ!一応補足)。

そうして、自分で立ち上げた細菌検査事業は、売上を伸ばしていき、それもあってスタッフを雇えるようにもなりました。そして、創業3年で年商5,000万円程になりました。1年目に作った事業計画書のことを思うと、感慨深いですね。年商の半分くらいは自分が中心に立ち上げた事業だったこともあり、自信にも繋がりました。若い内は「好きとか嫌いとか言ってないで、まず成果を出す事にコミットするのが良い!」と思うキッカケになりました。

余談ですが、結婚式や2次会の司会/余興は10回以上やりました

そうそう、この時期に他企業で新規事業をやる事になります。
「診察科の範囲広すぎて、どうしても獣医療レベルが低くなってしまうなぁ」という想いがあったじゃないですか。この想いを昇華すべく立ち上がりました。原体験として、獣医師として学会に参加して、専門医ですら年に2,3回しか遭遇しない皮膚病の話を1時間聴講した事がありました。しかも、私以外に100名以上参加してたんですね。その時「あれ、これ、効率悪くない!?だって、よく診る皮膚病ですら治せない獣医師も多いじゃん!」と思いました。

その時の想いを思い出して、「よく診る皮膚病だけを1日集中で学べるセミナーがあったら良いな。ってか、基本的にそれだけ学べたら皮膚科は80点取れるんじゃないか!それで治らなかったら専門医に紹介すれば良いのでは!?」と思い立ち、セミナー企画を立ち上げます。

今でも多くの人に愛されている良い企画

これが非常にバズります。告知からあっという間に満員御礼。
「これは凄いな。皮膚科以外でもあった方が業界のためだな。自社でやるよりも、もっとブランディングしやすい会社と組んだ方が良いな。」と思い、業界最大手の出版会社に企画を持ち込み見事採択。2017年から約3年間月1回の開催を続ける事になります。合計で獣医師2,500人がオフラインで参加、DVDも数千枚売れた企画となりました。

この企画が大成功したおかげもあり「若い獣医師経営者で豊田っていう面白いやつがいるらしい。M-1に出て漫才もしてるらしいぞ。」みたいな感じで、業界内で名前が売れていきました。

経営者として成長するためにMBAスクールへ

修了式の私と受講した講義一覧。
夢中ではなく、努力で勉強した2年間。

この辺りで「今の事業で幾ら売り上げても動物病院業界の変革には繋がらないだろうな。一番の雇用先である動物病院に関する事業をしなくては..。」と気付き始めます。そうこうして2017年1月の会社総会で「こういう戦略で、動物病院事業をやりたいと思っている」という発表をし、仕込みを始めます。実際の動物病院開業は2019年10月なので、2年半前に『成功する戦略』の着手を始めた訳なので、結構準備してます。

僕は「お笑い」とか「明るいキャラクター」というのもあり、イケイケ(攻めが得意なタイプ)の経営者と思われることも多いのですが、実は「負けない戦略」の方が得意です。「こことここを押さえておいたら、負けはないよね。そしたら、好き放題やれるよね。」という感覚でやっています。

ただ、当時は根本的なビジネス力も足りていないと感じていたので、「業界を変革するなら、ビジネスを理解している必要があるよなあ。思いつきで旗立てられても、付いてくる人も困っちゃうだろうし。」と考え、MBAスクールに通うことを決めます。どうせ行くなら日本最高峰のところが良いなと思い、名古屋商科大学大学院東京校に入学しました(当時、国際認証機関認定を2箇所から受けてて日本最高だった。下調べあまりしてないので、ノリで決めたところも大きかったです)。

「どうせやるなら、レベル高いところが良いな」と思い、基本的に35才以下は入れない課程に申し込み(当時30才)、面接で夢を語り、特待生として入学する事になりました(入学半年間授業料免除。あと最年少でした。)。ビジネスについて詳しくなくてペーパーテストは点数低かったと思うので、「情熱ってどこ行っても大切なんだな」と学びました。

MBAスクール入学前のスケジュールは『仕事週7日』で、MBAスクール入学後は『仕事週5日/MBA週2日』だったので、「余裕だろう」と思い込んでいたのですが、本当大変でした。国際認証機関認定を受けるようなシッカリとしたスクールでして、『講義参加者の30%には単位が付与されない』という鬼システムだったのです。評価方法は講義によって異なるのですが、主に『レポート』と『発言内容』の2種類で、『発言内容』の比重が高いのです。

講義参加者は多いと80人。その中で一生懸命手を挙げて、指されて、良い発言をしなければならない。まず、中々指されない訳ですよ。大人数が手を挙げている中、自分も一生懸命手を挙げているのは、池の中で口をパクパクしている鯉にでもなった気分になりました。やっとの思いで指されても、検討外れの意見を言ってしまうと、次から中々指してもらえなくなります。講義の質が下がるからですね。そうすると、「手を挙げないと始まらないけど、良い発言出来るか不安」となっていきます。簡単の問いに対しては『量産型のオレンジ色の鯉が群がり』、難しい問いに関しては『錦鯉が優雅に寄ってくる』そんな感じでした。笑

そんな中、最年少かつビジネスについて学んだ経験がゼロの私は、日本最高峰のMBAスクールでどのようにして、生き残っていったのか!!?

授業前にしっかり挨拶して、休憩時間には率先してホワイトボートを消して、(電気スイッチの近くの席に座り)先生がスライドを見やすくしたいタイミングで電気を消すなど、とにかく先生への印象を良くして顔を覚えてもらい、誰でも答えられるような問題の時に「先生、当ててくれー!!!」と念を非言語で飛ばし、当ててもらって答えて発言点を貰うという作戦を取っていました!これで何とか単位を取っていったのです!!

….あの…私は今、何を力説しているのでしょうか。そして、当時の私は何をしていたのでしょうか…。

最初こそ、そんな感じでしたが(だって、最初は3Cも4Pも知らず、全ての単語が初耳という状態でしたから!)、半年もしたら講義についていけるようにもなりました。

この時期は、仕事終わって21時から夜中1,2時までレポート作成、土日は9-17時で講義。講義終わった日も夜遅くまで次の日の予習する、というスケジュールで、人生で一番大変でした。大変と書いて、大きく変わる。まさに大きく変わった時期でした、良い意味でも、そして悪い意味でも。

AM2時に課題レポートを頑張る2018年の私。
髪ボサボサ、メガネ、姿勢悪い、怒り肩、腹巻き、ノドヌールスプレー。
不健康の極み。

MBAを経て、強力な呪いにかかる

こんな状態

2年間経営学を学んだ私は、もちろんビジネス力があがりました。社会の見え方も変わったし、解像度も上がったし、自信に満ち溢れていました。会社の業績も上がり、満を辞して動物病院開業に漕ぎ着けたのです(サーカス動物病院と言います)。

ビジネス力とともに身に付けた自信、さらには「スタッフも顧客も笑顔にするんだ!そういう業界を俺が作るんだ!」という膨れ上がった自我。身を滅ぼすには十分過ぎる程でした。

ここまでお読み下さった方はお分かりだと思うのですが、私という人間は「退屈が嫌いで、楽しいことが好き。真面目にとにかく頑張るのは苦手。ふざけてたいし、それで他の人が笑顔になったらラッキーだよね!」というのが本質の人ですよね!

それが、
「自分がやらなきゃ誰がやるんだ!」「自分で何とかするんだ!」「やりたい事ではなく、やるべき事をやるんだ!」「スタッフの笑顔が大切だ!」「夢を叶えるために業績も大切だ!」「良い経営者になるんだ!」
このようなことを考え始めるのです。自分らしくない方向に進み始め、脳内は自分でも訳分からない状況に陥っていきました。

意識と無意識のギャップも大きく、知らず知らずの内に『自己犠牲』を前提にした仕事をしていました。そんなマインドで仕事をしていると、自分はこんなにしている『のに』と、知らず知らずのうちに『のに』が育っていきます。それが気づかぬ内に漏れ出て、スタッフの居心地を悪くしていったことだと思います。

世界一苦いで有名な『ノニ』
人も同じで「のに」が育つと苦味が増すようです。

スタッフが大切だと思っておきながら、機能するような1on1も出来ていなかったし、何よりスタッフと話すのも怖がっていました。「何か言われたらどうしよう」という思いでした。どれもこれも『自己犠牲』を栄養に育った『のに』が自分を蝕み、他の人の意見を取り入れる余裕が無くなっていたのが原因でした。

ただ、この頃から「動物業界の変革のために動物とスタッフの笑顔の両立が重要である」という確信もあり、スタッフのエンゲージメントスコア測定も開始するのです。良いスコアだろうが、悪いスコアだろうが、結果を見るのはとても怖い行為であり、メンタルへの強い負荷になっていました。

その時蒔いた種が身を結び、
2023年には動物病院業界初の入選を果たしました!

この頃すでに結婚していたのですが、妻に言われて覚えているのは「これ以上やっていたら死んでしまうと思う。そうしたら、私はあなたの会社を恨んでしまう。」 という言葉。そこまで自分の事を考えてくれて嬉しいなと思う反面、「けど、俺にはどうする事も出来ないんだよね…」と心で思ったことを覚えています。「会社に行きたくないな」「死にたいと思わないけど消えてしまいたい」「なんで俺はこんな事になっているんだろう」と思っていた時期もあります。

家から泣きながら飛び出したこともあります

こんな状態なのに、タチが悪い事に業績は上がっていたので、「これで良いんだ。経営者ってこういうものなんだ。経営者は孤独なんだ。」と、何重にも蓋をして、本音には気付かないようにしていました。人間の思い込みって凄くて、自己正当化するような本やエピソードばかり目に飛び込んできて、それを読んでいました。

業績が上がっていた理由の1つに、間違いなくMBAスクールで身に付けたビジネス力があります。何をしたら上手くいくのかが何となく分かるし、何となく出来てしまうのです。ビジネススキルもビジネスもあくまで手段の1つなのですが、使い方を間違えると自分や周りを傷つけてしまいます。ビジネススキルは、良い意味にも、悪い意味にも、なり得ることを身に染みて感じた時期です。

藁にもすがる気持ちで行動し、コーチングに出会う

ここまで読まれてみて、どうにも身動きが取れなくなっていた私の事を心配されている方もいるかもしれませんが、今は「人生最高!未来が楽しみ!」となっています。

ここからは「何があったのか、どのように自分の人生を取り戻したのか」を紹介していきます。

YouTuberであり経営者であるインフルエンサーの方がTwitterで「経営者の方、モーニングしましょう!」と呼びかけていたのを目にします。コロナ禍でよく見ていた方という事もあり、急いでDMをし、お会い出来る事になりました。青山でお洒落にモーニングをしながらお互いの会社の話など経営の話をしていたら、「組織向けにコーチングする事業を開始するんです。どこかオススメしたい会社さんあればご紹介頂きたいです。」と。

その時はコーチングが何なのかも知らなかったのですが「うちの組織以外だと、オススメは思いつかないです」と答え、「えっ、導入して下さるんですか?」と話がトントン拍子で進んでいき、組織向けコーチングを受けることになりました。

それから、私と動物病院部門の中心メンバーがコーチングを受け始めると、みるみると組織の平熱が上がっていきました。ポカポカしてきて動きたくなる雰囲気で、自分自身も「あれ…最近楽しいかも!」と思えるようになってきました。「こんな気持ち、いつ振りだろう。起業当初のようだ。」と思ったことを覚えています。

熱々のチームメンバーと
サウナ後の焼肉

そこで学んだのは「その行動自体が報酬になるような行動(want toと言います)こそが自分らしさであり、それで社会に価値提供すれば良い」「自分のwant toは誰かのhave to(やらなければならない行為)であり、自分のhave toは誰かのwant toであること」「抱えこむのではなく、誰かにリクエストしてみる事が大事」「才能を活かす事が重要」といった事でした。私だけでなく、他のメンバーも「最近、仕事が楽しい」と言うようになり、更には業績も上がり、チームビルディングも進んでいき、「コーチングってスゲー!」と震えたことを覚えています。

MBAスクールで経営学や資本主義を学んでみて「資本主義は凄い発明だけど、社会の幸福が増えているかと言われると甚だ疑問が残る。インフラを発展させていくためには必要不可欠だけど、先進国を筆頭に不幸も生み出しているよな…。」と考え、GNH(国民総幸福量)、公益資本主義、ポスト資本主義、ポジティブ心理学、ウェルビーイング、サービスプロフィットチェーンなど、資本主義では補えないピースについて学びを深めていました。自分自身が資本主義的な成功とは裏腹に幸福度が下がっていった経験をしたこともあり、「コーチングだ。これからの時代にはコーチングが重要になる。」と確信し、コーチングスクールに通うことを決めました。それが2022年1月の事です。

出典:俺
堅苦しいこと書いてあるので読まなくて大丈夫です

コーチングを学んでみての変化

同期80名の中からMVPを頂きました🙌
このコーチングスクールが大好きです、これからの社会に必要だから。

コーチングスクールでの学びは、MBAスクールの学びとは大きく異なるものでした。言うならば、『自主性』と『主体性』の違い。

自主性は、ある程度決められていることを自ら率先して行う態度や性質のことを指します。一方で、主体性とは、自らの意志や判断に基づいて、自らの責任のもとで行動することを言います。

MBAスクールでは、「どうやったら業績が上がるのか」「どうやったらマネジメント不全に陥り、逆に機能させるにはどうすれば良いのか」「どうやったら単位取得出来るのか」といった自主性を育む学びに陥ってしまっていまいた。これはMBAスクールが悪いのではなく、僕が「答えを求めに入学してしまっていた」という前提の問題です。

コーチングスクールでは「自分はどう生きるのか」「自分らしさとは何で、それを使ってどのように社会に貢献するのか」という答えなき問いを立て、自分で自分の行動を決めるという『主体性』を育む学びでした。何をやっても良いと頭で分かっても、過去の自分の経験が、両親に言われた言葉やスタッフに言われた言葉が、自分の信念や呪いが「あれをやれ」「これをやれ」「それはやるべきではない」と呟いてきます。それをプロコーチのメンターや学長、同期の力を借りながら、1つ1つ向き合い、断ち切っていきました。そうして「自分らしさとは何なのか」「自分は未来何を成し遂げる人なのか」といった自分の問いをクリアにしていきました。

僕はなまじっか勉強が出来たり、なまじっか仕事が出来るがために「出来ることをやる!(Canの最大化)」という罠に陥りがちで、自分の「want to」や「才能」にコミットするというのが難しくもありました。コーチングを受けて、一夜にして劇的に変わったという事はなく、地道に地道に丁寧に、抑圧を開放し、自分の気持ちにYESを出し、変わっていきました。どんな事をやっていったのか、写真や記事で紹介していこうと思います。

北海道は知床の自然遺産へ。
「良い父親、良い旦那」に縛られ過ぎていたので家族をおいて1人旅。
背中を押してくれた妻に感謝。
宮古島に2週間ワーケーション!
「経営者はこうあるべき!」という呪いを開放するため
起業して初めて会社を2週間空ける。
尊敬する先輩経営者に部屋と車を貸してもらう。

パートナーシップも紆余曲折ありながらも、より良い状態にしていった。妻と息子との関係性を誇りに思う。

35年ローンで買ったマンションを2年で売り、
海の近くに引っ越す!
仕事のために最適な家ではなく、
人生のために最適な家へ!
人生初めて英語で授業!
GOALが先!プロセスが後!
授業決まってから、英語の練習1

柔術を初めて、運動会に出て、身体動かすって楽しい!
「価値を出さなきゃいけない!」という呪いからの解放。

実は両親とは7年間絶縁状態でした。それとも向き合い、解放。ここからパートナーとの関係がもっと良くなりました!

オリジナルキャラクターの個展を妻と開催。人生は素晴らしい「らいふ いず びゅーちふる」を体現する『にゃもちゃん』を広める!

これから本当にやりたい事

一言で言うと、FUNNY & INTERESTINGですずっとFUNNYってたいし、とは言え INTERESTINGってもいたいです。一見ふざけてるように見えながらも、それでいて世の中に価値を提供しているのが自分らしさだからです。

獣医師向けの自社主催セミナーチラシ
『FUNNY & INTERESTING』ってこういう感じ!

自分の人生を生きるというのは、とても素晴らしい事であり、そして、簡単な事ではないですよね。2021年に自分が書いたnote記事を見ると、それを痛感します。それを示す文章の一部を抜粋してみますね。

使命とは、命を使うという事。2021年は悲しいニュースが増えた事もあってか、自分の使命について考える機会が増えた。命を使っている人は輝いて見える、そして、大きく分けて2種類いる事に気づいた。
❶ 自己超越に命を使う人
❷ 課題解決に命を使う人
どちらも素晴らしいと感じる。前者を突き詰めると利己利他に、後者を突き詰めると利他利己になるのではないか。
幸か不幸か、僕は自己超越に対してモチベーションが湧いてこない。誰かの哀しみが力になる。

今の自分と丸っきり言っている事が違っていて驚きます!
今の自分は「❶自己超越の結果、❷課題解決だって出来ちゃうよね!両取りしちゃおうよっ!」って心から言えます。大事なのは「人生総取りすると決める」こと!

そんな私の今のGOALの1つはにゃもちゃんを世の中に広めること

この子は、にゃもちゃん(本名:にゃも太)と言います。このふてぶてしさが可愛いですね!

とても芯をもっており、良い意味で謙虚さがなく、「ま、ね!」「もちにゃもよ!」と力強い言葉を口癖として発します。にゃもちゃんは空気を読みません。自分の空気を作ります。

「んん?違うことしてても応援し合えるのがともだちにゃもでしょお? じゃっ、にゃもヨガ行ってくるにゃもから」
友達とサッカーしないの?
と言われての一言。
「やりたいことやれば良いにゃもでしょお?自分の人生にゃもから」
「あめの日だってたのしみたいにゃもでしょお?」
お気に入りのカッパと長続を履けるからにゃもちゃんは雨の日も大好き

こんなキャラクターです。この愛すべきキャラクターを世の中に広める事を決めました。

にゃもちゃんのように「自分にYESを出す」そんな価値観を広めたい!(あとにゃもちゃんの可愛さも)

にゃもちゃんの絵本を、日本一読み聞かせされる絵本にして、多くの子供にも希望を届けます。「こうやったら出来る」ではなくて、「やり方分からんけど絶対やりたい!」を大切にしていくと決めたので。「ワクワクドキドキ」な新しい人生の幕開けです。

過去を愛し、今を生き、未来に希望を持つ

ここまで読んで下さった方、ありがとうございました!私のストーリーがお分かり頂けたのではないでしょうか。紆余曲折ありましたが、「36才にして初めて自分の人生を生きられるようになった!」そんな気分です。

これまでの自分や人生の登場人物を否定する魂胆は毛頭なく、これまでの過去があったからこそ、今の自分があると心から思えています。そして、そんな自分の未来が楽しみで仕方ありません。

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