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未来に生きるために、誰にも話したくない話をしてみようと思う

押忍!SHINYと言います。
未来の自分のために、noteを書きます。
いつの時代かのどこかの誰かの役に立てば良いな、と思わなくなくもないです。

今日の話は、これまで自分の中でアンタッチャブルにしていた内容で、誰にも触れてほしくなくて何重にも蓋をしていました。未来を生きるために、蓋を外す覚悟を持った次第です。

等身大のヒューマンドラマだと思って、お読み頂けたら幸いです。

なぜ書くのか

今日は記念日ということもあります。
今日は経営する株式会社VDTの設立日で、今日から9期目になりました。あまり経営の話しないのですが、順調に業績(社会への提供価値)も上がり、社員数も増え(正社員22名)、エンゲージメントスコアもAAAと良い感じです。

AAAは全体の上位2.5%なんやて。

また、明日は株式会社FINAL ANSWERというD2Cビジネスを展開している会社の創業日です。こちらは正社員ゼロで、自動化や業務委託で成長するという取り組みをしており、良い感じです。

そんなこんな毎年設立日の時期にnoteを書くようにしていて、今の心境を綴ろうと思った次第です。去年書いたnoteがこちらで、心身の不調がありました。この不調も、今日話す内容に関わってくるところです。


■ 何を書くのか

それは、自分が棚上げしていたことについてです。何かというと、親子関係です。私と両親の関係性についてです。

こういう明るい性格(と顔)をしているので
「家族と仲良さそう!」「どうやったら、SHINYみたいに育つの?」
とか言われることも多かったのですが、2015年9月から絶縁状態で、約7年間で1回して会っていません。その1回は両家顔合わせだったのですが、私は終始脂汗をかいており、目を見て話すことも出来ませんでした。

親との関係が良くなくてもこの笑顔

何があってどうなったのか、それから7年経って何を感じているのか、これから何を行動するのか、1人のヒューマンドラマ、ずっと誰にも話したくないと思っていた話をさせて下さい。これは誰かに何か言われたいとかではなく、自分の呪いを解くために書く次第です。

■どんな人生を送ってきたのか:幼少期〜小学校

本題に入る前に、幼少期からどういう人生を送ってきたのか紹介します。
じっとしていられず、元気活発で、ベビーカーからすぐに脱走する子だったと聞いています。3才離れた姉が、走って掴まえる担当だったとか。

幼稚園児の時は、退屈と戦っており
「ママ暇!」が口癖だったのを覚えています。
暇が大嫌いでしたが、時にすることがあった訳ではなく、いつも同じ友達の家に電話をかけて、遊びにいかせてもらっていました(ちなみに、その友達の家の電話番号はまだ覚えています)。

幼稚園も年長さん頃に、姉の公文式のお迎えついていくようになり、公文式のプリントをおまけでもらえるのが楽しみになりました。それから公文式に入り、算数にハマりました。小学校1年生の頃に、小学4年生の演習をやっていたのは覚えています。分数の割り算とか掛け算とかだったような。

勉強は出来る方で、学校でテストプリントが配られて、一番前の席だった私は、一番最後の席の達っちゃんにプリントが配られる前に
「先生、終わりました!」
とか言っていたようです。全く覚えていないのですが、同窓会で教えてもらいました。鼻につくやつだなと思うけど、賢かったんだなあ。

それより何より友達と遊ぶのが好きな子でした。毎日友達誘って、遊ぶ友達見つかるまで電話して、複数人で遊ぶのが好きでした。外でも中でもどこででも。小学1年生から小学4年生の途中まで、遊ばなかった日は1日も無かったんじゃないかなと思います。小学4年生の途中から、受験勉強をする事になり、小学4年生から小学6年生の受験が終わるまで、1日も遊べなくなりました。今でこそなんでそんな極端なんだろうと思うのですが、当時は選択肢はもっていなかったです。

算数をしている時間は好きでしたが、算数は出来るのであまり時間をかけず、苦手科目だった社会と国語、あとは理科の暗記ばかりやっていた記憶があります。

■どんな人生を送ってきたのか:中学校〜大学入学編

晴れて希望する中学校に受かったのですが、特にやりたい事もなかったのか、ごくごく平凡な学生生活を過ごしていました。進学校だったので周りも勉強が出来るので、勉強も平凡、運動も平凡、遊びもゲームセンターとかカラオケ、みたいなつまらない感じです。

進路を決める時も
「将来やりたい事と言われても…」
って感じでした。親は「何でも良いよ。」とは言うものの「医者になって欲しい」と思っている事を知っていたので
「やりたい事もないし医学部受けるか」
って感じでした。結果一次試験受かったところもあるけど、モチベーションも湧かず、二次試験の面接対策を全くする事もなく、浪人決定。

今でこそ医学部受けさせてもらうのも浪人させてもらうのも贅沢なんだろうなと思ったけど、出口のないクソゲームの中にいる感覚でした。

浪人をする事が決まり、
「1年間毎日勉強か…医学部行きたい訳でもないし、どないしよ」
と進路、というか自分の将来について初めて考えました。

実は昔から犬が好きでして、小学1年生の時にゴールデンレトリバーを見てから犬にゾッコンになり、
「犬飼ってもらえないなら、高校卒業とともに犬関係の職業に就く」
と懇願し、高校2年生の時に念願の愛犬マロンを飼う事になった過去がありました。

愛犬マロン

「ほな、犬と関わる仕事って良いな。おっ、獣医師良いじゃん」
となりました。The・単純。

浪人が決まった3月に、
「獣医学部受けたいと思っているだけど」
と両親に伝えたところ、激怒されて喧嘩したのを覚えています。

内容は忘れてしまったのですが、
「話が違う。医者になるのが幸せにつながる。」
といった感じだったかなと思います。
「将来の進路は何でも良いって言ったやん!!!」
ですよね。流石にそれを伝えました。

ただ、
「マロンはどうするんだ。医学部なら私立でも良い。」とか、何とか医学部受験を促そうとする事にムカついて来て
「じゃあ、東京にある国立大学の獣医学部受けるわ!」
と捨て台詞を吐いて立ち去ったシーンを今もよく覚えています。
結果、希望の大学に受かることになるので、ナイスコーチっちゃナイスコーチなのかもですが、人生初の言い合いで、
「今までそんな事言ってなかったじゃん!」
とムカついた事を覚えています。

■ どんな人生を送ってきたのか:大学〜起業編

大学祭のお笑い選手権で優勝した時。顔、今と同じやん。

写真1枚で表すと、こんな大学時代でした。喋ってふざけて高笑いして、学びはそつなくこなして、って感じでした。この辺りは、両親とのギクシャクとか忘れるくらい楽しい日々を過ごしてました。

「お笑い芸人になるって良いよなー」
とも思ったのですが、「自分よりも面白い人は大勢いるだろう。動物を笑顔にする人になろう」と、動物病院勤務の獣医師になりました。

そこから約2年ほど勤務して
「動物を笑顔にする人の笑顔が少ない業界だな!離職率高いし、メンタル失調多いし!働く人笑顔にしたら動物の笑顔も増えるやん!」
と起業(ビジネス)の道に行く事を決めました。The・シンプル。

その事を報告した時は、
「貴方ならきっと上手くいくと思うよ。」
と、すんなり受け入れてくれました。
動物病院での激務で、心身ともに疲弊していた事を心配しての言葉でもありました。

同期を笑わせるためだけに
決死の想いで院長のスクラブを着るところを激写された私

そんなこんな起業したのが8年前の今日です。

■ どんな人生を送ってきたのか:起業2年目〜現在

ラブストーリーではないですが、その日は突然にやってきました。実家にて、両親と何気なく話をしていた時です。

当時28才だった私は、お付き合いしていた方がいたので、両親に紹介でもしようかなと思い、話を切り出しました(結婚したいから紹介、という訳でもなく)。

すると父親から
「断固会わない」
と言われる事になります。
#女性側の父親のやつやん

主張は
「大学出ていない人との結婚は認められないし、結婚の可能性がゼロではないのであれば会わない」
という事でした。この主張は完全にファーストイヤーだったので、驚きました。が、「そういう人って本当にいるんだなー。まぁ、話せば分かるだろう。」と冷静に捉えていました。

そこからどれくらいでしたでしょうか、1時間〜1時間30分くらい話をする事になります。父親だけではなく母親も同意見という事を知りビックリしました。そして、大学出ているかどうかだけで人を判断しようとする事や、議論にならず、ただの価値観の押し付けを受けたように感じて哀しかったことを覚えています。

その話し合いの途中に父親から
「だから医者になれば良かったんだ。」
と言われ、激昂してしまい、そして、そこからの記憶があまりありません。

この台詞どういう事かと言うと、当時お付き合いしていた方が動物看護師をしていた方で大学に出ていなかったんですよね。

なので
「医者になってたら大学出てる人と付き合っていただろうになあ。」
という、すごい理論です。笑

そこから畳み掛けて
「訳の分からない会社作りやがって。」
と言われ、試合終了。

「同じ空間にいたら人殺しになってしまう」と直感で感じ、部屋に篭る事になります(起業2年目でお金ないので、自宅から会社に通っていました)。

その次の日から、自宅にいる時に汗が止まらず、精神状態が不安定になります。廊下を歩く音がすると「ビクッ!!!!!」って感じです。

このままじゃヤバイと思い、そこから1ヶ月弱で自宅を出て(この間一言も口を聞かず)、会社の事務所に転がり込み、そこから「とりあえず一人暮らし出来る部屋を見つけよう」と内見もせずに家を借りました。絶望的に日当たりと間取りが悪く、入居初日に絶望的になりました。笑
#内見くらいすれば良いのに

そこからは連絡を取ったのは冒頭で紹介した1回のみです。両親から連絡がない事に腹が立ち、時間が解決してくれると思っていることに哀しみ、とは言え、自分から解決のために立ち上がるという事はせずにここまで来ました。

■ 母親に会う事にするまでに何があったか

そうなんです、今週約8年ぶりに母親に会う事を決めました。
会う前に今の気持ちを書き綴っておこうと思い、noteを書いています。1人も読まなくても良くて、会う前の自分の情動を、そしてどのような流れがあったのかについて整理しておこうと思い書いています。

キッカケはコーチングスクールの講義でした。
「コーチは棚上げしている事が1つもあってはいけない」
という学びを受けました。学長の言葉と、そしてご自身の経験を紹介され、自分の棚上げに向き合うことにしました。それが、両親との関係です。

「両親とは絶縁状態にある」
とこのnoteに書いているのですが、これが棚上げだなと思った次第です。

「絶縁しました」
「関係を良くしていく事にしました」
これだったら良い。けど、絶縁でも復縁でもない『絶縁状態』って何やねん。めちゃくちゃ棚上げしてるやん、いつまで棚上げすんの?って思いました。絶縁するなら絶縁しよう、とも思いました。

で、授業後、すぐに両親に手紙を書きました。8年間のこじれた感情を下書きもせず、ひたすら書き連ねました。10枚くらいになったと思いました。

内容の詳細は覚えていませんが、気持ちに蓋をせず、感情のままに書きました。

絶縁するかどうかを決めたいという事
メンタルがおかしくなった事(両親の事になると今でもおかしくなります)
もっとありのままを愛して欲しかったという事
もっと家族で会話をしたかったという事
価値観の押し付けが気に入らなかったという事
子供の頃の自分(インナーチャイルド)は、母親を好きだった事、感謝している事

そんな内容を書きました。その手紙を、ずっと両親との関係で迷惑をかけていた妻に朗読して聞いてもらい、投函しました。これが4月の事です。

それから約3週間程して、手紙の返信がきます。父親と母親、それぞれが1通ずつ書いて、同封したものでした。

母親の手紙には、
手紙をもらえて嬉しいという事。申し訳ないと思っている事。後悔しているという事。会えないと考えるのは悲しいけど、良い人生を送って欲しいという事。
そんな事が書いてありました。
少なくとも「よしっ!もう二度と会わずに絶縁しよう!」と思うような内容ではありませんでした。会おうとも思えませんでしたが。

そして、父親の手紙には
手紙をもらえて嬉しいという事。自分の主張の裏付け(いかに医者が年収的に安定しているか、大学出ていない人との結婚がお前には良くないと主張した理由)。母さんを悪く言わないで欲しいという事。
そんな事が書いてありました。

正直、父親の手紙からはサイコパスを感じました。笑
「え、こんな状況で、この内容って頭狂ってるんじゃないか!?」
と、苛立ったのを覚えています。

■ 手紙からの気づきとアクション

・気づき①
まず、『両親』という単位で、物事を考えていた自分に気づきました。『両親』という人は存在しておらず、父親と母親は異なる人間であると認識出来ました。我が家は、家族でいろんな意見を言い合うという文化がなく、その日起こった出来事や、習い事や旅行などのイベントの話しかしてきませんでした。笑い合うとかも特になく、家族ってそういうものなんだと思ってました。なので、それぞれが何考えているか分からなかったように思います。

・気づき②
父親は本当にサイコパスなのかもしれない、と本気で考えるようになりました。というのも、私は発達障害(ADHD)なので、遺伝的に父親からもらっている可能性もあるし、父親がASDが混じっている可能性も考えるようになりました。「ASDの特徴の1つで相手の本意が汲み取れない」というものがあり、これが父親に当てはまる場合、前提条件を変える必要があるんじゃないかと思った次第です(分からない人に、「分かってくれない!」となっている可能性がある)。

その手紙を受け取ってから2,3週間ほどして、返信を書きました。
母親宛に1通、両親宛に1通です。

母親に送った手紙の中で、カサンドラ(発達障害のパートナーが陥りやすい状態)っぽい症状になった事がないか聞きました。返信の手紙で、約3年ほどそういう状態であった事を教えてもらいました。

そして、
「そう言えば、貴方が子供の頃に『もっと家族で話をしたい』と言っていた事を思い出しました。家族でもっと会話をしていれば良かった。」
とも手紙に書いてありました。

■ 愛したいし、愛されたい

最後に手紙をもらってから2ヶ月、どうして良いのか分からず、何も行動に移せずにいました。が、会う事にしました。

両親との確執を経て
「愛したいし、愛されたい」
と自分が思っていることに気づきました。

同時に
「愛されないなら、愛さない」
という信念(ビリーフシステム)がある事にも気づきました。

一番近しい存在である両親と腹を割って話すという経験をしてこなかった、それでいて、両親と絶縁状態になった私は、人間関係において「愛されなくなる」のを怖れているんだろうなと思いました。

両親との関係を棚卸しする事で、自分が抱えている呪いが外れることと思います。ちなみに父親と会ってどう話したら良いか分かっていないので、まずは母親に会うことにしたって感じです。

両親が私を愛していた事、歪んだ愛になった結果、おかしたドラマが出来てしまった事。逃げずに立ち向かう事で、現状からの逃避ではなく、未来に生きる人になりたいな、いやなろう!と決意した次第です。

■ 終わりに

人それぞれ欲求をもっていて、それを『want to』を呼びます(対義語はhave to)。『want to』は『void(欠乏)』の裏返しとして生まれます。

私の『want to』には
場のポイントを察知して盛り上げる
・人や社会を明るくしたい
というものがあります(本当はもう少し具体的な動詞になります)。

このnote書いてて、
「うおっ、俺のwant toってめっちゃvoidの裏返しやん!精度高くwant to抽出出来てるやん!」
って思いました。

あー、7年ぶりに母親と話すってどうなるんだろう。俺がYouTuberだったらコンテンツになって良かったのかな。
そんな事も考えています。




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■ 追記:2023年3月6日
その後、母親と会いました。
ドラマのような感動の再会や涙を流した会話はありませんでしたが、正常な精神状態で会う事が出来ました。これだけでも大きな一歩でした。

さらにその後、祖父の葬式で父親にも会いました。お互いほぼ会話はしませんでしたが、「(喪主)お疲れ様」と声を掛けました。これも自分の中では大きな一歩です。

自分の中の呪いが1つ弱くなった感覚です。
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