【小説】優しい人は皆狂ってしまう

太古の昔に人間が堕天した時、神は己の似姿である人間に情けをかけた。神の権能を一つ分け与えたのである。それは暖かく、恵みに富んだ超常の力であった。その力さえあれば、人間は地上でも楽園とそう変わりない生活を送れると神は思った。むろん、地上は楽園と違って働かねば生きられず、悠久の命を得ることも適わないが、人間は殖えることができるし、地上に神の権能を持つ祝福された者は他にいない。人間は長い時間をかけて世代を重ね、地上にその数を殖やし、その破格の権能をもって必ずや安寧を築き上げるだろう。神はそう思っていた。しかし、一つだけ誤算があった。アダムとイブは、知恵の実を半分づつしか食していなかったのである。

「……で、この権能ってのは何のこと?」
「何だい、趣が無いな。少しは考えてみたのかい? 『優しさ』だよ。神が人間に与えた超常の力ってのは」
「ふうん」

無謬にして全能の神は、その能力を常日頃から休みなく用いていた。そのおかげで、楽園に生きる全ての者たちを神は常に知り尽くしていたし、必要な時に必要な奇蹟を彼らに与えることができたのである。しかし、その聖なる権能を日ごと湯水ように使い続けていた神は、自らの無限性を忘れていた。いや、そもそも天の楽園に有限のものなど存在しなかったのである。楽園を追放され、有限にして不完全な存在となった矮小な人間は、神から戴いたその素晴らしい力を一たび使うごとに、自らの命の薪をみるみる燃やし尽くしてしまわねばならなかった。

「しかし、なんで『優しさ』なんかが神の力なんだよ。そんなに特別なものか?」
「お前、『優しさ』の意味を考えてみたことはないのか? 自分じゃない意識体に自在に憑依する力なんて、神のものに決まってるだろう」

しかし、それでも人間は地上に楽園を作れるはずだった。神の創造物たる人間は、有限の円環を子々孫々に渡って繰り返すという形で、間接的に神の無限性を引き継いでいたからである。ところが愚かな人間は、禁断の知恵の実を齧りながらしかし半分しか食してはいなかった。そのせいで、充分に賢しくなることも適わず、したがって無限遠の未来を志すことも、地平線の向こうを慮ることも適わない。こうした悲しい事情によって、人間はついに神より賜りし秘力を封印してしまった。それでも稀に権能に取り憑かれた人間はいるが、みな例外なく狂気を被り、やがては混沌の悪魔に苛まれてしまう。

「いや、寧ろ『優しさ』を捨てた人間の方が悪魔に取り憑かれているのさ。夥しい数の魔物に囲まれているから、神の意思を遂行しようとする聖なる堕天使たちが混沌と悲しみに塗れて泣かなければならない」
「どうかな。全部ただ運が悪かっただけなんじゃないか?」
「巫山戯た話だ……」

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