『ゲンロン2』 「平成批評の諸問題 1989-2001」を読む

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 3回シリーズの第2回である。第1回はコチラ

 『ゲンロン』第2号(2016年4月刊)に掲載された東浩紀・市川真人・大澤聡・福嶋亮大による座談会を、熟読する座談会のテープ起こしである。こちらの(第2回)座談会は2017年6月11日におこなわれた。
 2016年7月から2017年12月までやっていた「web版『人民の敵』」のコンテンツとして、2017年8月に公開したが、すでに閲覧できない状況となっているようなので、ここで改めて公開し直す。東らの座談会は3回にわたっておこなわれ、こちらも律儀に3回の座談会をおこなった。
 東らの座談会は、その後、『現代日本の批評 1975-2001』および『現代日本の批評 2001-2016』として単行本化されている。こちらの座談会は、その単行本版ではなく初出の『ゲンロン』掲載版を使っているので、東らの発言を引用する際に付した「○○ページ」というのもすべて『ゲンロン』掲載版の数字である。現在では単行本版で読む者が多かろうから、面倒ではあるが、いずれ単行本版を入手して修正をほどこすつもりだ。
 通常やっている太字化などの装飾作業は、あまりにも長いコンテンツなので、冒頭の座談会主旨説明などの部分を除いて、基本的に放棄する。
 もともと「web版『人民の敵』」で無料公開したものである上に、これを読んで“外山界隈”の批評集団としての力量に今さら気づいたという怠惰な言論人も結構いたフシがあるので、今回も気前よく全文無料としておく。
 なお、こちらの座談会では主に私と藤村修氏と東野大地の3人が喋っているが、藤村氏は云うまでもなく“時事放談”シリーズでおなじみの極右天皇主義者の藤村氏、東野は外山が主宰する「九州ファシスト党〈我々団〉」党員の東野である。

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東野 前回って、最後まで終わりましたっけ?

外山 全部やったよ。東野君は前回、とくに後半はもうウンザリしてたようだから記憶から抹消してるんだね(笑)。でも続きをやります(笑)。
 東浩紀が中心となって刊行している『ゲンロン』という雑誌に3回にわたって掲載された「現代日本の批評」という座談会をテキストとした読書会を、こちらも3週にわたって続けようという、今日はその第2週目です。
 座談会は、柄谷行人や浅田彰らが89年から90年にかけて『季刊思潮』という雑誌でおこなった「昭和批評の諸問題」という連続座談会を踏まえて、“批判的に”ということもあるとは思いますが、それを継承というか“続き”をやろうという試みなんでしょう。東らの座談会は、“89年まで”を扱った柄谷らのそれとも重なりつつ、1975年から、第3回座談会がおこなわれた2016年までの、40年間あまりを対象としています。
 で、先週読んだ第1回座談会が、柄谷らのそれと同じく「昭和批評の諸問題」と題して、75年から89年までを対象としたものでした。今日読んでいく第2回座談会「平成批評の諸問題」は、2016年4月に刊行された『ゲンロン』第2号に掲載されたもので、座談会のメンバーは前回と同じく、東浩紀・市川真人・大澤聡・福嶋亮大の4人。89年から01年までを対象としていますが、01年というのは云うまでもなく“9・11”の年、アルカイダによる“アメリカ同時多発テロ”が起きた年ですね。それはやはり東らがそこに、それ以前と以後を分ける歴史の大きな切断線を見ているためなんでしょうが、その歴史観がはたして本当に妥当なのかどうか、ということも含めて今日は検討していくことになると思います。
 最近流行の若い、というかぼくと同世代以下の30代40代の“軟弱ヘナチョコ文化人”どもの言説をチェックするという、引き続き“検閲”モードの読書会ですが(笑)、まあ何というか、彼らの云いぶんも聞いてやろうじゃないか、ぐらいのつもりで開催してます。
 前回すごく時間がかかってしまったので、今回はトバしていきましょうか。前回は座談会メンバーの1人が担当して事前に書いているらしい、議論の叩き台としての「基調報告」の部分も前半と後半の2回に分けて読んだので、そこでだいぶ時間を取られたこともあり、今回はそこは一気に済ませてしまおうか、と。じゃあ124ページから135ページまで、市川真人による「基調報告」を各自、黙読してください。


 (市川真人「[基調報告]一九八九年の地殻変動」黙読タイム)


外山 さて何かありますか?

藤村 132ページに「テマティック」、「テマティスト」という言葉が出てきますよね。電子辞書で調べてもよく分からなかったんですが……。

外山 実はぼくもそうで、ネットで検索してみました(笑)。

藤村 オレも一応、ネットでも調べてみたんだ。そしたらブログとかで「テマティスム」という言葉を使ってる人はそこそこいるんだけど、何の説明もなく、そんな言葉は知ってて当然であるかのような書き方ばっかりでさ(笑)。

外山 どうも語根は“テーマ”と同じみたいですね。想像で云うしかないけど、つまり作品の“主題”を主に論じるような批評が「テマティスム」なんじゃないでしょうか。「フォルマリズム」つまり“形式主義”と対義語的に使ってる人もいたし、“内容”に注目するか“形式”に注目するか、ってことなのかなあ、と。

東野 ……こんなの出てきましたよ。「“テマティスム”を検索しても、何もネット上で該当するものが見つけられないから、“わからない”。これが、ネット世代・検索世代の“わからない”の意味」(笑)。

外山 実に見事な“批評”だけど(笑)、それは一体何ですか?

東野 「テマティスム 意味」で検索したら出てきたんですけど、誰かのツイッターでの呟きのようですね。

外山 我々は“ネット世代”なんぞではないので、検索して何も出てこなくても文脈から推理あるいは想像して、せめて“分かったつもり”になりましょう(笑)。……他に何かありますか?
 まあ、歴史認識がトンチンカンであるという問題については、この人たちの議論は全部そうなんで後回しにして、“89年から01年まで”をテーマとした座談会のための「基調報告」なのに、あんまりそんな感じのしない文章だね。でもタイトルからして「一九八九年の地殻変動」だし、それは意識的に、まず“89年”に焦点を当てて議論の出発点を提示しようとしてるのかもしれないけどさ。

藤村 主に参照されてる大塚英志の言説は、80年代のものでしょ。それが89年以後、90年代にいよいよ現実化してきたという話じゃないかな。

外山 大塚英志の『少女民俗学』はいつ出たんだっけ? 引用されてる『Mの世代』(太田出版・89年)での大塚英志と中森明夫との対談の中で言及されてるんだから、89年以前に出てるんでしょうけど……。

藤村 あ、89年ですね。添付の年表に載ってる。じゃあ『少女民俗学』も“89年以後”の批評の中にギリギリ含まれてるのか。

外山 ともかく全体的にほぼ共感できない文章でしたが(笑)、それでも多少はぼくの認識とも重なってるのかなと云えなくもないのは、129ページの、第3節に入った1行目にある「八九年からの時代は、それまでの『ポストモダン』状況も含めた“近代”と、現実に訪れた“ポスト近代”との端境期だった」という箇所ですね。おそらくこれは“89年から01年まで”の時代ということで、01年以降はもう完全な「ポスト近代」だという認識でもあるでしょう。
 細かいことを云えば、ぼくはそれを“85年から95年まで”と考えてますけど、そういう「端境期」がこのあたりに存在するという点については、そのとおりだとぼくも思う。

藤村 全体としては要するに、柄谷が『日本近代文学の起源』(80年・講談社文芸文庫)で、“内面”とか、あるいは“児童”なんてものは近代になってから“発見”されたものにすぎない、ということを「近代国家という“制度=物語”」のもとでの抑圧の問題と絡めて、つまり否定的に論じていたのに対して、大塚英志はそこに「少女」を発見し、「“少女=消費”を肯定する」という形で、柄谷とは違う視点を提示した、と。
 90年代をとおして、そうした大塚的な発想が主流になって、いわば“消費者優位”の言説を拡散していった。やがて柄谷はそういう状況を背景に、今度はNAM(ニュー・アソシエーショニスト・ムーブメント。柄谷の提唱によって00年に結成され03年に解散した“資本と国家への対抗運動”)のような形で、“消費者運動”を模索する方向に向かったけど、消費社会を支える主体のリアリティを捉え損なっていたために失敗した、と市川さんは見ている。

外山 市川真人は、大塚英志のほうをより高く評価してるわけだよね。

藤村 もちろんそうです。

外山 柄谷的なものから大塚的なものへと“批評”のあり方が変わっていくという点でも「端境期」で、端境期なんだから大塚が優位に見える局面もあれば柄谷が優位に見える局面もあるけど、大きな流れとしては次第に大塚的なもののほうが勝利を収めていく。そしてその大塚を引き継いで登場したのが東浩紀である、という歴史観が表明されてるんでしょう。

藤村 うん、そうだと思う。

外山 市川真人自身も大塚・東のラインを支持してる。この座談会自体がそもそも、柄谷らを中心とした“思想地図”から東らを中心とした“思想地図”への転換を図る、いわば批評シーンでのヘゲモニー奪取を目論んだものだと思うし、だからこそ柄谷はすでに大塚や東によって乗り越えられたという歴史観が提示されているようにも思うが、“消費者”というものをそもそも敵視しているファシストとしては、こういう歴史観にはつい反射的に反感を抱いてしまう(笑)。
 まあ、彼らの歴史観はこうだ、ととりあえず受け止めておきます。

藤村 オレも個々の具体的な出来事に対する評価に関してはすごく違和感がある。例えば小林よしのりに対する評価だよね。129ページ下段で、『ゴーマニズム宣言』の“決めフレーズ”である「ゴーマンかましてよかですか?」について、「“傲慢でありながらも、その傲慢を『読者の許可』を得て行う”著者の消費者優位の装い(傍点8字)に他ならない」とされている。この解釈はどうなんだ、っていう。
 オレは小林よしのりに対する評価が一番高いのは“今”で、この90年代の小林よしのりは全然好きではなかったが、この解釈は違うだろうと思う。

外山 ぼくもその箇所には“?”マークをつけた(笑)。

藤村 “正義”を天真爛漫に語ることができなくなった時代状況の中で、それでも“正義”を語らなくちゃいけないという、だからあえて「ゴーマンかましてよかですか?」と“ワン・クッション”を置いてるんだと思うよ。「著者の消費者優位の装い」とかではない。

外山 ある種の“照れ隠し”でしょう。大仰な物云い、“天下国家”を論じるようなことが忌避されているという、まあぼくに云わせればそれ自体が“迷信”なんだが(笑)、その迷信を当時の小林よしのりも共有していて、だから“政治”や“社会”について“一言もの申す!”的な場面では“照れ”が入る。

藤村 それに『ゴーマニズム』の読者はともかく、小林自身は、部落解放同盟の人たちと対話したり、HIV訴訟に関わったり、やがては“新しい歴史教科書をつくる会”に関わったり、個々の評価はさておき、一貫してアクティヴィストだった。
 つまり小林よしのりは“消費者”としては振る舞ってこなかったし、読者たちもそういう小林に喝采を送ったわけです。大塚英志的な“消費社会の肯定”みたいな文脈で捉えるのはヘンだよ。

外山 ネトウヨの大量発生に関しては、小林はかなり責任があるとは思うが、ネトウヨ的なものって結局は“消費者”ってことでもあるし、だからこんなふうに強引に結びつけられてしまってるようにも思う。

藤村 しかし小林は、自分の読者のネトウヨ化、つまり自分の言説が“消費”されるような状況になると、敢然と、そういう読者たちとは違う立場に移行して、今では“反米保守”の人になってたりする。
 ……小林よしのりの扱い方もヘンだと思ったけど、同時にやっぱりオウム真理教についての解釈も同じようにヘンだと思った。130ページ中段で、オウムというのは「浅田彰が『落ちこぼれの馬鹿』による『誇大妄想の暴走』と言い放ったとおりであったことは、オウム真理党の選挙を生で観れば一目瞭然だったはずだ」とか、この人は云ってるけどさ。浅田彰にとっては、自分以外の人間は全員、“落ちこぼれの馬鹿”なんであって(笑)、実際128ページ下段から129ページ上段にかけても、浅田彰がかつて別の場所で、「宮﨑勤事件はもちろん、連合赤軍事件だってたんにくだらないと思う。落ちこぼれの馬鹿が誇大妄想にかられて暴走したら、ろくなことにならないというだけのことでしょう」と語ったことに触れてある。

外山 毎回そんなことばっかり云ってる、と(笑)。

藤村 市原真人の書きぶりでは……。

外山 オウムがまるで、「消費者としてどこまでも『ゴーマン』に増長した、しかし判断の視点がどこまでも矮小な」(129ページ下段)愚かしい連中の集団に過ぎなかったかのようだよね。

藤村 うん。しかし実際にはそんなことないでしょう。

外山 何にも見えてないよなあ、この人。

藤村 これではちょっと困る。

外山 まず小林よしのりの件について云うと、128ページ中段で小林に言及し始める最初の部分で、消費社会への「『肯定』の様態は、政治的ウィングを超え、当事者同士がどう思うかにかかわらず、九二年に『週刊SPA!』で連載が開始された小林よしのり『ゴーマニズム宣言』に繋がってゆく」と書いてあって、これはつまり大塚英志をはじめ左派だけでなく右派の小林も、ということのはずだけど、少なくとも「連載が開始された」時点での小林はむしろ左派で、つまり少なくともそこではまだ「政治的ウィングを超え」て云々なんてことは起きてない。小林が急速に“右傾化”するのは、それこそ“オウム以後”のことですよ。
 ここはまあ、事実誤認という程度のことにすぎなくて、ぼくもそうこだわるつもりもないが……。

藤村 大塚英志的な感性や状況認識と、小林よしのりやオウム真理教といった出来事はまったく違う文脈にあるということが見えてなくて、こういう書き方になるんじゃないかな?

外山 あと、座談会のほうではさすがに東浩紀あたりが言及するんじゃないかと思うけど、“90年代前半”とか“半ば”ぐらいの時期の批評的言説について振り返るなら、絶対に視野に入れとかなきゃいけないのは、宮台真司と並んで浅羽(通明)じゃん。

藤村 そうそう!

外山 宮台についてはさんざん言及されてるけど、浅羽に関しては一言の言及もないというのは、明らかにメチャクチャだよ。

藤村 小林よしのりさえ大塚英志に強引に結びつけて論じたりするのは、要はこの市川真人の視野に入ってる“論壇”の“中の人”に結びつける形でしか小林やオウムを理解できないということなんだろうし、まあ誰だってそうなってしまうのかもしれないが、そもそも視野に入ってる“論壇”の範囲がたぶん狭すぎるんだ(笑)。
 で、“消費者優位”みたいな状況の中で、「『わからない』批評はより敬遠され、『自分たちにもわかる』か『わからないけれどなんとなく共感できる』ものが好まれた」(130ページ上段)、そういう批評が溢れてしまった流れの中に小林よしのりのブームもある、というふうにこの人は見てるわけだよね。ここは前回の読書会でも触れた、“難しい批評”を書く浅田彰とかと、“なんとなく、分かるでしょ?”的な批評を書くべきだという加藤典洋や竹田青嗣たちとの80年代末の論争を念頭に置いて書かれてて……。

外山 明らかにそうですね。しかも明確に浅田側に寄って書かれてる。

藤村 とはいえ、そういう形でもギリギリ加藤典洋ぐらいまではこの人の視野にも入ってるんでしょう。しかしそのさらに“外”の、浅羽とかの“別冊宝島”系の……。

外山 “別冊宝島”というより『宝島30』(93年6月〜96年6月)だね。

藤村 うん。あるいは『発言者』(西部邁を主幹とした保守系言論誌。94年4月〜05年3月。現在も後継誌『表現者』が刊行されている)とか、そういうものはまったく視野に入っていないんじゃないかという疑いを禁じ得ない。まず何より小林よしのりにこれだけ言及するんなら、そのブレーンを務めた、大月隆寛とか浅羽通明とか……。

外山 つまり呉智英の“3大弟子”の面々。もう1人、まあ小林よしのりとはたぶんほとんど関わってないと思うけど、オバタカズユキという人がいる。

藤村 彼らがメインを飾ったのが『宝島30』でしょ。さらには大月・浅羽あるいは呉智英が小林から距離を置き始めた後には、今度は西部邁がブレーンのようになるわけだし、その西部の“拠点”が『発言者』なわけだ。なのにそれらを視野に入れていない。

外山 先週の座談会を読んだ印象では、さすがに東浩紀の視野には入ってるんじゃないかと、この後に読む座談会部分に期待するけど、少なくともこの市川って人の視野には入ってなさそうだ。

藤村 まあ、絓(秀実)さんの比喩第1回の読書会で言及。竹田青嗣の『現代思想の冒険』を読んでいる学生が多いらしいと知った、早大の非常勤講師時代の絓氏が、「早大生ともあろう者がああいうものを読んではならん。あれは日東駒専が読むものだ。早大生ならせめて『構造と力』とかを読みなさい」などと放言したというエピソード)で云えば、市川さんが“日東駒専”レベルの人ではない、ってことなんでしょう(笑)。

外山 そんな“右派言説”みたいな低偏差値向けの言論なんか、ハナから相手にしてない、と。

藤村 そういうものを愛読してきた我々のような“日東駒専”レベルの人間には(笑)、どうもそう感じられてしまう。
 だって一応そういうものだって“批評”のはずでしょ。市川さんの目にどれほど水準の低い、バカな言説に映ったとしても、“批評史”なんてものを構成しようというんなら、前回も云ったように、批評というのは学問的な厳密さが要求されない代わりに、書き手の価値観や自意識を文章の形で晒す営みなんだから、ここで市川さんが列挙してる人たちより、小林よしのりや『宝島30』系の書き手たちのほうが、よっほど“批評”的であるはずなのにさ。
 あるいはもしそういうのが“批評”じゃないと云うのであれば、だったら小林よしのりなんか論じるなって話だよね。

外山 浅羽・大月の“界隈”かどうが微妙だが、似たような印象で、佐藤健志って人もいたはずだ。ぼくの旧い友人の浅羽信者の佐藤賢二じゃなくて、たしか『ゴジラとヤマトとぼくらの民主主義』(文藝春秋・92年)とかって本を書いた人。

藤村 ああ、いた。『発言者』や『表現者』にも書いてる。

外山 それから……そもそも“宅八郎”への言及がないこと自体、いかがなものかと思うよ。“90年代最高の批評家”は宅八郎であるはずだもん。その宅八郎の論敵の1人だった切通理作って人も“浅羽界隈”にはいて、それなりの存在感を持ってたと思う。そこらへんの流れがたぶんまったく視野に入ってない。

藤村 “オウム”だって、論じるならむしろそっちと絡めて論じるべきでしょう。

外山 ……改めて冒頭から云っていくと、そもそも時代認識が最初から最後までトンチンカンなんだが(笑)、最初の124ページ下段の後ろから4行目に、「ソ連のアフガニスタン撤退完了に始まる政治変動」とあって、なぜそこに起点を置くのか、と。あるいは短期的に見ればそうも云えないこともないのかな?

藤村 冷戦終結がいよいよ目に見えるものとなった、そのきっかけということでしょう。

外山 しかしその話はやっぱり“ゴルバチョフ登場”から始めないと意味ないじゃん(笑)。

藤村 まあ、そう思うけどさ。

外山 ゴルバチョフの登場に始まる「政治変動」の帰結が89年に一挙に現実化する。さらに云えば冷戦そのものの起点もおかしなところに置かれてるんだ。125ページに入って上段3行目に、「戦後を象徴してきた“ベルリンの壁”」というフレーズがある。これもヘンだよね?(笑) ベルリンの壁って、実はかなり建設は遅いんだよ。

藤村 えーと……“公民”担当の予備校講師として、オレはそこらへんはパッと云えなきゃダメなんだが(笑)、出てこないな。60年代だったと思う。

東野 “64年”に百円賭けます。

外山 ほー、64年ですか。賭けないけどさ(笑)。

藤村 「“ベルリン封鎖”(48年)と“ベルリンの壁”をゴッチャにするな!」って授業ではいつも言ってるんだが……(笑)。

東野 ベルリンの壁は、62年か64年です。

外山 (検索して)残念、61年でした(笑)。いずれにせよ「戦後を象徴」なんかしてないんだよ、ベルリンの壁は。
 もちろんぼく自身も若い頃は、そもそも物心がついた時点でベルリンの壁は厳然と存在してて、それはほとんど絶対的な存在であるように感じられたし、はるか昔からあって未来永劫あり続けるものだという感覚を持ってたけど、実は30年も保ってない。だから市川真人がこういう勘違いをしてしまうこと自体はよく理解できるんだけど、そろそろそういう事実誤認からは抜け出してないとマズいよね、もう大人なんだから(笑)。

藤村 オレらとほぼ同世代でしょ。71年生まれで、1コ下。

外山 で、いつも云ってることの繰り返しになっちゃうが、同じく125ページ上段の後半に、「はるか極東の島国である日本においても世界的な地殻変動は」云々と、“89年”が1つの時代の“終わり”であったことが印象づけられたと云ってて、“昭和天皇の死去”はまあともかくとしても、それ以外に挙げられる指標が「手塚治虫や美空ひばりの他界」って、“このサブカル野郎め!”と云いたくもなる(笑)。
 たしかに手塚治虫や美空ひばりが死んだのも、“昭和の終わり”を印象づける出来事ではあったけど、天安門事件や東欧革命といった「世界的な地殻変動」の日本への波及を云うんなら、そんなサブカル的なあれこれ以前に、89年参院選での“山が動いた”土井社会党の勝利、って話はどこ行ったんだよ(笑)。

藤村 そうだよなあ。

外山 たまたま参院選だったから“土井政権誕生”にならなかっただけで、あれが“たまたま”衆院選だったら89年の時点で日本の“55年体制”も終わってたんだし、実際その衝撃で自民党に内紛が起きて、“日本新党”だの“新党さきがけ”だのって話で今も終わらない“政界再編”が始まって、その過程で93年の細川政権ってことで“55年体制の終焉”も起きる。もちろん土井社会党の勝利というのは表層の出来事なんだけど、そうやって議会政治のレベルにまで顕在化した、東側世界やあるいはフィリピン、韓国、ビルマといった南側世界での“民主化運動”と同質の“政治の季節”が、反原発運動の第1次ムーブメントをはじめとして、80年代後半の日本にも存在したということがまったく分かってないわけだ。
 現実政治のレベルで激動が起きてたのに、市川真人はここで、日本でも「思考の枠組み」が変化しただの、「“資本主義と社会主義(自由主義と共産主義)”の二項対立」が揺らいで「見えた」だの、何にも見えてない(笑)。

藤村 先週も云った、オレが高校3年から大学1年まで愛読してた『GORO』の浅田彰の連載でも、そういうことは書いてあったよ。東側や南側での“民主化”の連鎖を“歴史の趨勢”として、その一環としてたしか土井社会党についても言及してたと思う。浅田彰のムズカシイ文章ばっかり読まずに、エロ本での連載もちゃんと読むべきだ(笑)。

外山 ゴルバチョフがソ連のトップに就くのは85年で、土井たか子が社会党委員長になるのは86年なんだけど、そのあたりから始まった激動が89年の“ピーク”に至るわけです。
 実はオウム真理教だってこの流れの中にある。さっきの、オウムの選挙運動に言及した箇所(130ページ中段)で、「たとえるなら、又吉イエスやマック赤坂といった候補者が、本気で自分が都知事になると信じている姿を思えばよい」と譬えていて、ここで外山恒一の名前を出して同列に並べたりしない良識には好感が持てるが(笑)、オウムに言及する時にまず90年の選挙出馬の話をするのはやっぱりトンチンカンにすぎる。
 80年代前半、83年だか84年だかに(84年)麻原彰晃の例の“空中浮揚写真”が『ムー』(79年〜。学研が発行する月刊のオカルト雑誌)に掲載されて、そこから80年代いっぱいを通してのオウム真理教の急速な伸張が始まるわけだよね。で、80年代のうちのオウム真理教は、そりゃまあそういうオカルト志向そのものが「『落ちこぼれの馬鹿』による『誇大妄想』」の産物であるとしても、その枠内では、比較的マトモというか、“原始仏教に還れ”的な、それこそ“原理主義的”な追求を“マジメに”やってた宗教でしょ。だからこそオカルト志向を持った一部の若者たちを熱狂させた。あるいは80年代半ばの“管理社会”とか“消費社会”への反感を組織した宗教であって、だから“出家”して“俗世”を離れて、宗教的共同体の中に身を置いて“自身を高める”みたいな方向にも行ったわけで、ここで云われてるような、“サブカル的想像力の延長”みたいな低レベルな宗教ではありませんでしたよ(笑)。
 つまりオウムは“90年代”の出来事ではなくて、あくまでも80年代半ばから80年代末にかけて爆発的に伸張した宗教なんであって、その伸張が行き詰まって迷走を始めた最初の象徴的な出来事である90年の選挙運動なんかから話を始めて、しかもそれ以降しか見ないようなオウム論は、根本のところで間違えてるんです。
 さらに云えば、これも繰り返し云ってることだが、この連続座談会では、せっかく“01年”にも時代の切断線を見出して“1989-2001”って区切り方をしてるわけでしょ。“01年”で切るのは、もちろんアメリカでの“同時多発テロ”が起きた年だからだよね。まさにその、アメリカで01年に起きたのと同じ質のことが日本では95年に、“地下鉄サリン事件”としてアメリカに6年ほど先駆けて起きてたんだという、もちろんそれは01年の衝撃に接しての事後的な把握でいいんだけど、それにも市川真人は今なお気づいてないらしい。徹頭徹尾ダメな歴史認識だよ。
 何にも見えてないくせに、「自分たちの組織に『〜省』などと名づけて子どもじみた『近代的官僚政治ごっこ』をしていた点にも、その倒錯性が表れている」とか、偉そうにオウムを見下したことを書く。
 もちろんオウムは宗教学とか心理学とか、内面的なことに関わる範囲での人文科学には精通してたけど、政治学とかそういう“天下国家”的な社会科学に関してはまるでド素人だったから、“社会”と関わろうとし始めると途端にこういうキテレツなことにはなっちゃうんだ。そこがオウムの限界だったと思う。しかしオウムの人たちは社会科学のド素人なりに一所懸命考えた上で、要は“シャドー・キャビネット”を作ったわけだよね(笑)。それは本気で“革命”をやるつもりだった、ってことじゃん。
 それがいかに素人考えの粗雑な“革命”イメージだったとしても、こんなふうに、“革命”なんてことを1度でも本気で志したこともないような奴が鼻で笑うのを見ると、ぼくなんかはやっぱり腹が立つよ。しかもオウムに対する認識が、そこらへんの一般大衆と変わらないレベルでしかないっていう、まさに“ゴーマンかましてる”としか云いようがない(笑)。

藤村 オウムだけでなく、連合赤軍に対してもこういう、バカにした見方をしてるんだろうし、少なくともそう読まれても仕方がない。

外山 もちろん連赤だってオウムだって、バカはバカなんだよ(笑)。それはそうなんだが、そういうバカな連中の愚行にもナニガシカの意味はあるし、いろんなことを汲み取ることもできるんだ。あるいはもしも自分も本気で社会を変えようと試行錯誤すれば、どんなにアタマがいいつもりでも、意外と何かの拍子についハマり込んでしまう方向かもしれないわけで、つまり我がこととして思考することもできるはずなのに、市川真人は完全に他人事としてオウムを云々してる。

藤村 他人事だね。彼らは“批評”の世界に閉じこもってて、その外の世界については盲目だったりするんでしょう。

外山 しかし“批評”を志す奴がそんなことではいかんだろう(笑)。

藤村 うん、いかんと思います。社会やなんかについても、あれこれとそれなりに論じたりするんだろうけど、さまざまな出来事についての感度が悪すぎる。

外山 ……これまた前回の繰り返しになるが、125ページ中段の、「ニューアカデミズム」を「全共闘的な枠組みへのカウンターあるいは冷笑」として対立的なものであったかに捉えているのも、たしかに最終的には対立的なものとして一般には受け取られていくんだけど、それはあくまで日本特殊な倒錯なんだってことが分かってるんだろうか? 少なくともここに書いてある限りでは、そういう認識はなさそうに思える。
 あるいは、そもそも“89年に刊行された書籍”として何よりもまず『Mの世代』(中森明夫&大塚英志・太田出版)が挙げられてるところにも、“このキモヲタが!”と思っちゃうけど……(笑)。そりゃたしかに『Mの世代』はいい本だし、重要な本でもあるとぼくも思いますよ。しかし“89年”を論じるにあたってまず着目するのが、結局“オタク問題”ですか、っていうね。
 じゃあ他に何を筆頭に挙げればいいかと訊かれても、パッとは思いつかないが、浅羽通明の『ニセ学生マニュアル』(徳間書店・88年)もたしか88、89年だし、山崎浩一の『退屈なパラダイス』はもうちょっと後かな? あるいは本当に“89年”的な本って、89年には書かれてない気もするけどさ(笑)。本当は『退屈なパラダイス』が一番それにふさわしいんだけど、そんな歴史観を彼らに求めるのはそもそも無理があることはぼくにも理解できる。しかし『Mの世代』から始まるのは、やっぱりゲンナリする。
 オタク第1世代でもある60年前後生まれの新人類世代の論客たち、大塚英志だの大澤真幸だの宮台真司だのってのがデッチ上げた、自分たちに都合のいいウソの歴史観に乗せられすぎだよ。
 まあ全共闘世代は何やかんやで“若者”好きで、自分たちがメディアの中堅どころを担うようになった時に、自分たちとは感覚や考え方の違う新人類世代の書き手たちにもどんどん書く場を与えたけど、新人類世代の連中は自分たちの劣化コピーみたいな連中にしかそういう門戸は開かなくて、その結果としてこういうトンチンカンなことを云う論客しか、ぼくらの世代からは世に出られなかったし、だから真に“89年”的な著作も89年には存在しないんだけどさ。
 80年代半ばから89年、90年へと至る“政治の季節”を象徴する、しかも『危険な話』(広瀬隆・87年・新潮文庫)とかの“モロ政治系の本”ではなく、いくらかでも“批評”的な本なんか、やっぱり『退屈なパラダイス』ぐらいしか思いつかないもんなあ。あるいは浅羽の90年前後の本が、反原発とかに熱くなってる若者たちを批判する文脈でだけど、かろうじてその熱を捉えてはいる。
 要はメディアが死んでたんだよ。だから“89年”を象徴する本として『Mの世代』を挙げてしまうトンチンカンも、仕方ないと云えば仕方ない(後註.この一連のくだりには外山の事実誤認が含まれており、山崎浩一の『退屈なパラダイス』は88年12月刊行で、まさに「“89年”的な本」の筆頭に挙げるべき本であった)。

藤村 添付の年表に、『ニセ学生マニュアル』も、一番小さい活字で記載されてはいるけどね。

外山 扱いが小さすぎる。“89年”問題は措いとくとしても、さっきも云ったように、90年代半ばは宮台と浅羽が、多少なりとも“知的”な若者たちに影響力を持つ、左右の2大論客だったはずじゃん。……と、ひととおりディスったところで(笑)、他に何かありますか?

東野 125ページ上段の最後のほうに出てくる「カルト的ファシズム」というのは、フランシス・フクヤマの『歴史の終わり』(原著92年・邦訳92年・知的生き方文庫)に言及する流れで出てきてますけど、フクヤマの概念ですか?

外山 いや、知らない。

東野 “カルト的”って、どういう意味で云ってるんでしょうか?

外山 もしフクヤマの独自概念とかでなく、一般的に云ってるんだとして、それはそれで分かるじゃん。少なくとも冷戦時代には“ファシズム”なんて絶対禁止、“発禁”扱いの思想であって、だからこそ実際にもネオナチみたいな、思想的にグレた連中がたまに掲げたりするだけの、現実政治的にも何の意味もない、まさに“カルト的”な存在でしかなかった。もちろん“68年”の運動は千坂(恭二)さんの云うとおり実は“プレ・ファシズム運動”の側面を持ってたし、“68年”の新左翼に感化された右翼の中から、カルトではない本当のファシズムを志向し始める部分も萌芽的に出てくるけど、全体としてはやっぱりそんなものマイナーにすぎる。
 フクヤマは共産主義に対する自由主義の勝利を“89年”の出来事を通して確信したわけだけど、当然そこには、89年時点ではカルト的な存在に落ちぶれていたとはいえ、まず45年に自由主義陣営はファシズム勢力を打倒した、という認識も込みで入ってるよね。そのことを云ってるにすぎないと思う。
 ……他に何かありますか? なければ今週もいよいよ、本編の“雑談会”を読みましょうか(笑)。

東野 もう1つ。133ページ中段に柄谷・浅田が主幹する『批評空間』から生まれた90年代の「優れた批評群」が列挙されてて、その中に笠井潔の『球体と亀裂』(情況出版・95年)も入ってますけど……。

外山 大江健三郎の『万延元年のフットボール』を笠井的革命理論で分析した本ですね。

東野 それも『批評空間』とか『季刊思潮』(『批評空間』の前身)に連載されてたものだったりするんですか?

外山 どうだったかな……(と書庫から現物を持ってきて、巻末の初出一覧を見て)作家論を8篇ほど集めた本だけど、メインの大江論「球体と亀裂」は、たしかに『季刊思潮』に連載されてるようですね。

東野 へー。

外山 しかし『季刊思潮』の90年4月号まで6回にわたっての連載。やっぱり91年初頭の湾岸戦争勃発に際しての、柄谷・浅田らの例の“文学者の反戦声明”に対して笠井潔も含む『オルガン』派(他に竹田青嗣、加藤典洋など)が総じて批判に回って、両者が完全に決裂したことが関係してるんじゃないかな。というのも、最終章だけ『情況』に載ったみたいで、つまり『季刊思潮』にはもう載せてもらえなくなったんでしょう(笑)。
 ……では本編の“雑談”を読んでいきます。全部で4節に分かれてますね。第1節を各自、黙読してください。


 (「1.『九〇年代』という問題」黙読タイム)


外山 では何かあればどうぞ。

藤村 140ページから142ページにかけて、「天皇制への回帰」と見出しがついた部分がありますけど、その中でもとくに141ページあたりで論じられていることが、まったく理解できない。
 市川真人さんが「天皇制の問題について」いろいろ語ってますよね。「『われわれの資本主義と彼らの共産主義』であれその逆であれ、あたかも感情的なイデオロギー対立として語られたわけです。それどころか、ほとんど『清浄とケガレ』のようにすら語られた時代だった。資本主義とは聖なるものであり、共産主義やその過程である社会主義とは禍々しきものであるといったように」とか云ってる。これに対して東浩紀が「社会主義が禍々しいの?」と突っ込んだら、市川さんは「少なくとも八九年時点の日本では、多くはそう語られていたはずです」と応じている。
 なんとなく民俗学っぽい用語を織り交ぜながら、そういうことを云ってるわけですけど、何を云ってるのか、まったく分かりません。

外山 時代認識そのものが間違ってるんで、あまり頑張って律儀に読解してやる必要もないとは思うが、一応まあ読書会だし(笑)、頑張って解読してみましょうか。

藤村 資本主義陣営の人間にとっては、社会主義などというのは「禍々しい」、「ケガレ」である、逆に社会主義者にとっても資本主義というのは「禍々しい」、「ケガレ」である、冷戦構造下の対立というのはそういう感情的・感覚的な対立だった、と市川さんは見てるってこと?

外山 こういう、1度でも何かの“主義者”とかになったこともないような奴には、そんなふうに見えるんでしょうね(笑)。

藤村 こういう人にとっては、資本主義も社会主義も「ケガレ」なのかもしれない(笑)。

外山 仮にこういうトンデモな理解を受け入れるとして、ここで云われてるのは、まず、「日本という国が資本主義以前から、つねになにがしかをケガレとして忌避する構造を必要としてい」て、「『清浄なもの=われわれ』と『ケガレ=排除すべきもの』という対立構造」を支えるものというか、そういう対立構造を作り出してそれに依拠するもの、というふうにこの人は天皇制を捉えている。
 ところが敗戦によって天皇制が日本社会の表面からは消去されてしまった。そこでそういう対立構造を「イデオロギーで代替せざるをえなくなっ」て、この人のイメージする冷戦構造こそまさにそういうものだった、というわけですね。
 冷戦が崩壊すると、だから再びそれに代わるもの、あるいはもともとそういう装置だった天皇制の必要が意識されるようになって、例えば宮台真司なんかが00年代に入ると盛んに“天皇”を論じ始めた、ということじゃないでしょうか。

藤村 うーん……。

外山 そもそもトンデモ説なので理解できなくてもいいですが(笑)。だって藤村君も引用した部分にある、「社会主義が禍々しいの?」という東浩紀の突っ込みに対する、市川真人の「八九年の日本では、多くはそう語られていたはずです」という返答もムチャクチャだよね(笑)。
 当時、そこそこ知的な階層を含む多くの人たちが、民主化を求めて天安門広場を埋め尽くした若者たちに共感を寄せたけど、それは“社会主義vs民主主義”みたいなイメージとはあまり関係なくて、逆に“土井社会党”を支持して自民党支配を終わらせようと志す自分たちと、中国の民主派学生たちとを重ね合わせて見てたりしたわけですよ。

藤村 当時のオレはだいぶキチガイだったし、日本社会のそういう左派的な雰囲気に危機感を抱いて、大濠公園の周りを毎日ジョギングしてたもん(笑)。

外山 革命鎮圧のために一身を投げうたなければならない瞬間が刻々と迫っている、と(笑)。
 142ページ上段でも市川真人はおかしなことを云ってて、「共産主義と社会主義をめぐる対立項がありましたが、それらは完全な二項対立ではないことが」云々とありますが、たしかにそれは完全な二項対立ではなかった。しかしここで市川真人が云ってるのは、“第3項”としての新左翼の存在を視野に入れてのことではないよね。そして彼らが影響を受けたポストモダン思想やニューアカといったものが、まさにその第3項たる新左翼の一形態であったということ、さらに云えば彼ら自身がその末裔であるということも、意識されてるフシがまったくない。その程度の認識もない奴が社会や歴史を論じようとしても、こういうトンチンカンなことにしかなりようがない。
 まあそんなことは最初から予想はついてるんだが、それでも彼らが、トンチンカンなりにどういう歴史観を持っているのか、確認するために読書会をやってるわけですが……。

藤村 市川さんの同じセリフはその後、「資本主義=消費社会はケガレを呼び込むものでもある一方、自由主義は戦後民主主義にとって麗しき理想像でした。ケガれた資本主義と麗しき自由主義が社会民主主義的なオブラートに包まれて表裏一体となり、共産主義的なイメージを排斥してきたのが、あさま山荘事件と重なる高度成長末期から八九年までの日本だったように思います」と続いてて、要するにこういう認識なんでしょう。

外山 資本主義の側は次第にケインズ主義的な福祉国家路線を目指すようになって、社会主義の側もグラムシ主義というかユーロ・コミュニズムというか社民主義というか、そういう方向がメインになって、それらが渾然一体となって、かつてのような弱肉強食の剥き出しの資本主義や、スターリンに象徴されるゴリゴリのマルクス・レーニン主義みたいなものは非主流化して排除されていった、というふうに読み替えればまあ、ものすごく間違ってるわけでもないのかもしれない。もちろん冷戦が終わって社会主義に対抗する必要がなくなると、資本主義はまた元の弱肉強食のそれに戻っちゃうわけですけどね。

藤村 ちょうど冷戦が終わるタイミングで日本では宮崎事件が起きて、同じく142ページ上段にある「だからこそ『イメージとしての宮崎勤の部屋』を、新しい消費社会は『消費以外のケガレを背負ったもの』として排除しようとしたのではないか」という認識になってます。社会主義が崩壊して、今後は資本主義あるいは消費社会がずっと続くんだろうという気分の中、消費社会の負の部分としての宮﨑勤的なものを排除しようとした、と。
 それは主張としては分かるけど、天皇制の話がどう絡んでるのか、やっぱりちっとも分からない。

外山 ……ちょっと戻って137ページ中段に、これも市川真人の発言ですが、「八九年は大きなイデオロギーが崩れたあとで、どう新しいイデオロギーを手に入れていけばよいかを考える、言わば近代の意識や文脈を引きついだ言説と、イデオロギーなどとうに消費されハッキングされ尽くしているのだから、むしろそこでは『消費』そのものが主体化しているのだと捉える言説との対立が可視化された年」とあって、さっき読んだ“基調報告”のまとめになってます。それを承けて東浩紀が、「八九年以降の批評の歴史を『Mの世代』から始めるという選択は、ぼくとしてはたいへん頷けるところがありました」と云っているのは、“それはオマエがキモヲタだからだ!”と云いたくなりますが(笑)、キモヲタなんだし仕方がない。
 138ページに入って中段の、「イデオロギーなき世界──鶴見済と宮台真司」という小見出しのすぐ後の東のセリフ、「大文字のイデオロギーから小文字の消費へという力点の移動は、九〇年代前半の批評のひとつの軸を作っていると思います」というのも、東の基本的認識の表明でしょう。で、『Mの世代』に始まり、『完全自殺マニュアル』(鶴見済・太田出版・93年)だの宮台真司の『制服少女たちの選択』(94年・朝日文庫)だのって本が90年代前半の“批評史”を彩って、「そうしたなか、九五年に地下鉄サリン事件が起こるという流れです」と東は云ってる。
 つまり市川真人にとっても東浩紀にとっても、市川にとっては90年の真理党の選挙出馬で、東にとっては95年の地下鉄サリン事件で、オウム真理教は“唐突に”視野に飛び込んでくるものなんですね。80年代半ばからのオウムの成長過程が彼らの視野にはまったく入っておらず、彼らにとってオウムというのは、自分たちが埋没している、“批評シーン”というタコツボも含めた彼らの日常の外から、いきなり飛び込んできたものにすぎないんでしょう。
 それともおそらく関係して、彼らのオウム理解というのは、“消費社会”の延長線上の存在であるかのようなものになる。さっきも云ったように、本当はオウムというのは、むしろ消費社会に反発を持った連中が消費社会の外で秘密結社のような閉じた共同体を作って、それが80年代半ば以降のバブル的な消費社会の爛熟の裏面で急激に伸張していた、というものです。90年代に入る頃になると、この現実を変革したいとか、そういう情熱とは一切無縁な、東や市川といった一般ピープルの視野にも入ってくるぐらい、すでに伸張しきってたというだけの話。
 とくに宗教に惹き寄せられるようなタイプでなくとも、例えばぼくらのような政治運動シーンの人間の視野にも、オウムの存在は80年代後半のうちにとうに入ってましたよ。もちろんそれは相対的に好意的な見方をしてて、たいていは、同時期に伸張してた幸福の科学との比較で、管理社会への反発をぼくらと共有してるように見えるオウムへの好印象と、単にインチキくさい幸福の科学への反感とが、対照されてセットになってるような感覚です。ぼくらは麻原に“超能力”があるとか思わないし(笑)、その種の“迷信”とは無縁な正しい近代人だからこそ宗教ではなく政治運動をやってるわけで、一緒にはやれないけれども、まあこの管理社会を“別個に進んで共に撃て!”ぐらいのシンパシーは、オウムに対して抱いてましたよ。
 しかしこういう、管理社会への反発もなく、少なくともそれを打倒するための試行錯誤に身を投じるほどの反発はない一般ピープルにとっては、オウムなんてものはまったく意味不明のワケ分からん集団でしかなかった、ってことだよな。

藤村 あるいはせいぜい“中沢新一の影響”ぐらいにしか思ってないんでしょう。

外山 “落ちこぼれの馬鹿”どもに中沢新一の言説が“誤配”されて“暴走”させた、と(笑)。
 ……138ページ下段の、東浩紀による『完全自殺マニュアル』解釈もどうなんだ。「『完全自殺マニュアル』は、イデオロギーがなくなり退屈な日常が訪れたので、そこから逃げだす手段を提供しようという本です」と云ってる。そういうふうにも云えなくはないが、それはあくまでも“体裁”だよね。
 たしかに「退屈な日常」から「逃げだす手段」として“自殺”という選択肢が提示されて、その具体的な方法を細かく解説してる本ではあるが、根底にあるのはむしろ、この「退屈な日常」からはもう“逃げだせない”という諦めです。「逃げだす手段」はもう“自殺”しか残ってない。で、自殺して逃げだせ、という本ではなくて、これ以上は無理だという時には自殺という究極の手段があるんだから、そのことを常に意識しておけば、この「退屈な日常」もどうにかやり過ごせる、逃げだそうと思えばいつでも逃げだせるということが分かっていれば、少しは気持ちもラクになる、という本なんです。つまり「退屈な日常」から「逃げだす」ための本ではなく、「退屈な日常」に耐えるための本。

藤村 “でかい一発”なんかもう来ない、というのが鶴見済の決めフレーズだったもんね。でも、究極的には“自殺する”というのが、社会に対してはともかく諸個人にとっては“でかい一発”になるということでもあるでしょ?

外山 いや、鶴見済はそれをもはや“でかい一発”とは云わないと思う。

藤村 鶴見済って、実は“でかい一発”派じゃないのかな?

外山 本音というか、体質的にはそうかもしれない。

藤村 本来ならオウム派や小林よしのり派に近いようなメンタリティの人。メンタリティというか、問題意識というか……。

外山 この社会をどう“生きづらい”と感じているかが近い、と。

藤村 そうそう。

外山 だけど具体的にじゃあどうするか、って段では鶴見済はオウム的な“でかい一発”のほうには行かず、『完全自殺マニュアル』に書かれてるような、要するに“死を思え”の一種だよね。

藤村 自殺という究極の選択肢を常に意識しながら……。

外山 革命みたいな“でかい一発”なんか妄想せずに、この「退屈な日常」をやり過ごせ、ってことです。

藤村 それは“適応せよ”ということではなくて、つまり宮台真司的な『終わりなき日常を生きろ』(95年・ちくま文庫)ともまた違う。

外山 そこはぼくは怪しいと思う(笑)。効能は一緒だもん。革命とかそういう“でかい一発”を期待するな、この「退屈な日常」あるいは“終わりなき日常”に耐えろ、ということにしかならない。反革命思想ですよ(笑)。

藤村 つまり劣悪な労働環境でバイトとかしてて、こんな生活を続けることに何の意味があるんだ、オレの人生はつまらん、という気分が耐えがたいまでに高じた時はもう、死ねばいいじゃん、という選択肢を示してるんであって、そういう生活をムリヤリ“やりがい”とかで正当化するような言説ではないでしょ。

外山 でもそれは宮台も同じじゃない?

藤村 大塚英志とかであれば、オタク的な趣味に耽溺することで、日常の中に“かわいい”ものとか見出して云々って話になりそうだけど、少なくともそういうのとは違うと思う。
 そこらへん東浩紀はさすがに、キモヲタだけに鋭いところもあって(笑)、143ページで、福嶋亮大と市川真人が「『完全自殺マニュアル』を『動物化するポストモダン』の前史と位置づける」みたいな話を始めたのに対して、「すこし違和感があります。単純に読後の印象としても、『完全自殺マニュアル』は『動物化するポストモダン』とちがって(略)もうすこしじめっとしているというか、陰影がある本だと思うんです。文学的と言ってもいい」と反論して、これはそのとおりだよね。
 やっぱり『動物化するポストモダン』(東浩紀・講談社現代新書・01年)は、東の云う“データベース的消費”が一般化して現在ののっぺりした消費社会というものを、“あっけらかんと”ではないにせよ、肯定してみせる側面がある本だもん。しかし『完全自殺マニュアル』は……。

外山 そのすぐ後に続けて東が云ってるように、「随所で生きづらいひとのための本であることが強調されている」ような本だからね。
 だから142ページ下段で東が嘆き気味に、「鶴見済さんは、いまはツイッターをやっているんですが、そこに書かれているのは有機農法やデモの話なんです。『完全自殺マニュアル』の序文の、あのキレキレの文章の著者が、二〇年後にデモに行き着くしかなかった」と云ってるように、雨宮処凛的な“生きさせろ!”の人になってしまうのも仕方がないと云えば仕方がない。

藤村 うん、そうだな(笑)。

外山 とはいえ、ぼくはリアルタイムで『完全自殺マニュアル』を“反革命”として批判してたんだけど、わずかに肯定しうるのは、それが決して“生きさせろ!”ではなかったところなのにね。
 絓(秀実)さんも雨宮処凛批判の文脈でよく云ってたように、“生きさせろ!”では今の状況に対する有効な反撃にはなり得ないんだよ。それこそポストモダン系の思想家たちがさんざん云ってきたように、今の国家権力はかつてのような“死なせる権力”ではなく“生きさせる権力”であって云々っていう、フーコーとかドゥルーズの云う、いわゆる“生権力”の話だよね。“生きさせろ!”では“生権力”を補完することにしかならない。
 それに対して『完全自殺マニュアル』では、“生権力”が社会の隅々までを覆うヌルい抑圧に、いわば“死ぬ権利”が対置されたわけだ。『完全自殺マニュアル』が評価できるとすればその一点だけです(笑)。
 しかし鶴見済はそのわずかに持ってた革命性さえ捨てて、東が嘆くように、今ではすっかり“生きさせろ!”路線で“アベを倒せ!”の雨宮的な人になってしまっている。
 4、5年前にナントカっていう“資本主義批判”の本(『脱資本主義宣言』新潮社・2012年)を出した鶴見済が九州でトークライブをやったんで、押しかけてそこらへんを“質疑応答”の時に追及したんだけど、テキトーにはぐらかされた(笑)。まあ、“生権力”の話は思想的な素養がある程度なければ、すぐにはピンとこないもんだろうしさ。さすがのぼくも上手いこと分かりやすく云えなくて、「“生きさせる権力”が問題視され始めてた状況の中で、いわば“死ぬ権利”を掲げるという革命的な役割を果たした鶴見さんが、なんで“生きさせろ!”とか云ってんですか」ってふうに質問したんだけど、そりゃ鶴見さんも他の聴衆もポカンとするよな。
 ……それにしても147ページ上段の福嶋亮大の発言もまたヒドいね。これは福嶋亮大が悪いんじゃなくて、こういうデタラメなオウム論を広めて、当時まだ中学生ぐらいで状況が把握できなかったのも仕方がない、81年生まれの福嶋亮大とかの世代にもそれを継承させてしまっている東浩紀や大澤真幸が悪いんだけどさ。この福嶋の発言も完全に大澤史観を踏まえたものであることは、福嶋自身が云ってるとおりです。
 「九〇年代的な主体の様式ということで言うと、大澤真幸さんのオウム論『虚構の時代の果て』(九六年)が明快だと思う」とまず云って、続いてデタラメなオウム論が披瀝される。同じページの中段・下段で東浩紀も、「『虚構の時代の果て』は、オウム真理教についてかなり早い段階で分析の枠組みを作った本ですね」とか、「『虚構の時代の果て』は、『理想の時代』『虚構の時代』という見田宗介の時代区分を再発見し、ふたたび光を当てた点でも重要な本です。『動物化するポストモダン』もその前提のうえで書かれている」とか云ってるように、見田宗介の素人考えを源流とする、大澤真幸-東浩紀というデタラメなオウム論や歴史観の形成における戦犯的な継承関係があるわけです。
 オウム論に関して云えば、消費社会・管理社会への抵抗運動としての80年代のオウムという視点のないオウム論が、批評シーンのタコツボの中で盛大に流通して、批評的な物云いに関心を持つタイプの後続世代も、それを前提として受け入れてしまって、福嶋亮大もこういうデタラメな認識を身につけたりしている。
 「麻原彰晃はある意味ゲロゲロなものなんだけど、そこになぜか超越性が宿ってしまう」というふうに、そもそも麻原がなぜある種の若者たちに対して絶大なカリスマ性を発揮しえたのかという、一番の根本のところで、「なぜか」としか云えないぐらい理解できてないんですね。80年代の、まだだいぶマトモだった頃の麻原がそれなりに魅力的な人物であったろうことは、ぼくのような“反管理社会”の政治活動家にはごく当たり前のことでしかありません。
 続けて福嶋が云うように、大澤真幸のオウム論は「基本的にオタクとオウムを区別していない」もので、つまりトンデモ理論であって、そんなものに福嶋亮大なんかの後続世代が可哀想に影響を受けちゃってる。とにかくケシカラン話だよ(笑)。
 さっきも云ったが、それにさすがにこの後に座談会でも言及はあるんじゃないかとも思うが、90年代の言論を振り返った時に最も重要だったのは、やっぱり“小林vs宅”論争だったはずなんだ。
 ぼくがなんで宅八郎を“90年代最高の批評家”とまで云うかといえば、アメリカに6年も先駆けて、オウム事件を機に日本で“反テロ戦争”が勃発したその最初の始まりの時点で、“反戦派”として果敢に戦ったのが宅八郎だからです。もちろん“反戦派”なんてものはイコール“テロリスト側”と見なされるのが“反テロ戦争”なんで、宅八郎は殺されます。つまり“小林vs宅”論争の後、宅八郎は書ける場所を失って、書き手としては抹殺される。今回の戦争での最初の“戦死者”と云ってもいいと思います。オウム・バッシングの中で本当に殺されちゃったオウムの“科学技術省大臣”の村井秀夫に次いで2人目かな?
 もちろんこの時に絓さんをはじめ、ごく少数の、片手で足りるぐらいの人たちだけが宅八郎の側について援護射撃をした。それ以外のところでは、せいぜい吉本隆明が頑張ってたぐらいですよ。
 吉本隆明は“原発推進”とかろくでもないこともたくさん云ったけど、一番大事な、日本版“反テロ戦争”勃発の時点でちゃんと云うべきことを云った。逆に、柄谷行人や浅田彰が普段どれだけスゴいことを云ってたとしても、あのオウム事件の時に云うべきことを云わないんじゃ何の存在意味もない、はっきり云って“要らない”人たちだとぼくは思ってます。
 かく云うぼく自身、サイトにある獄中記その他(コレとかコレとか)を読めば分かるとおり、オウム事件に始まる“反テロ戦争”下での“反戦派”として人知れず葬り去られた、つまりほぼ何の支援もないまま2年間もみすみす投獄されたという“戦死”体験者の1人なんで、こういうことを云う資格があると思う。
 ……ともかく、せっかく彼らも“01年”で時代を区切って、つまり“反テロ戦争”の世界レベルでの開始時点に1つの切断線を見てるわけで、“反テロ戦争”というのは、それまで想定されていた水準を遥かに凌駕する規模や質のテロ事件をきっかけとして、警察権力の極端な肥大化の開始という形で勃発するという、誰でもちょっと考えれば分かる程度のことを国内の出来事の分析に今なお適用できずにいるのは、“批評家”としてもうどうしようもない。80年代後半の反管理社会・反消費社会の運動としてのオウムだけでなく、95年のオウム事件の“反テロ戦争”の文脈での意味すら見落としてるんだもん。
 で、彼らの身の丈に合った、“オタク”がどうこうって類のくだらないオウム論しか出てこない。つくづくケシカラン!

藤村 とはいえ、一応は“ゲンロン友の会”の会員として多少は擁護しておくと(笑)、このテの議論ではスルーされそうな出来事も意外と拾ってるとは思うよ。とくに東はよく拾ってる。

外山 うん、それはぼくも同感。褒めなきゃいけないほどのことではなく、当たり前のことなんだが(笑)、“基調報告”ではほぼスルーされてた『ゴーマニズム宣言』の変質の経緯についても、東浩紀が140ページ上段から中段にかけて、「『ゴーマニズム宣言』のスタートは九二年です。そして当初は個人主義的でリベラルな立場にいたのだけれど、途中オウム真理教との対決(VXガスによる暗殺未遂事件)や薬害エイズ事件での学生運動への失望を経て、最終的には『戦争論』(九八年)で軍国主義肯定というか、大きな物語を復興せよというメッセージを発するようになる」と補足してるしね。それは“基調報告”の市川真人の視野に入ってなかったことなのか、入ってたけど瑣末なこととしてスルーしたのかは分からないけどさ。
 ……東たちの議論とはあまり関係ないけど、140ページ上段の1行目にある、これは大澤聡の発言の中に、「ロビイングを通して政策立案にも関与する」ような宮台真司の振る舞いって、最近だと小熊英二がこういうタイプでしょ。

藤村 “ロビイング”とはまた違うけど、野間(易通)さんの『金曜官邸前抗議』(河出書房新社・2012年)によると、小熊は反原連と野田首相を合わせる仲介をしたらしいし、たしかに同じ匂いがする(笑)。

外山 あと平田オリザとかさ(笑)。そういう良くない“知識人”のあり方のモデルを、宮台は作ってしまった。
 あるいは宮台をはじめとする“社会学者”とか、さらには心理学の言説とかがハバを利かせ始めるのも90年代で、それまでの“文学”とか“思想”とかは没落していく。“天下国家”とか“世界と私”とかって壮大な話は影を潜めて、個人の内面の話ばかりになっていく、その延長線上に栗原康みたいな“自分語りアナキズム”なんかもあるよね(笑)。東も143ページ中段で「『ボーダーライン』に始まり『メンヘラ』『コミュ障』といった言葉がつぎつぎ登場する、九〇年代後半からゼロ年代にかけての心理主義的な空気」を指摘してるけど、栗原康の“アナキズム”は“メンヘラ・アナキズム”だもんなあ(笑)。
 ……でもまあ、この人たちは90年代半ば頃、宮台真司を支持してた側の人でしょ?

藤村 さあ、一概にそう云っていいものかどうか……。宮台は『批評空間』のラインからは排除されてたようなところがある。東が宮台と仲良くなるのも、東自身が『批評空間』系と訣別した後のことだったと思う。

外山 東浩紀はさすがにこの4人の中でも相対的には視野が広くて、どっぷり『批評空間』系の一員だった頃から、その外にも少しは目が向いてたっぽい。だから他の3人がスルーしてしまいそうなものも時々拾うことができるんでしょう。
 ……ぼくはこの90年代半ば当時の宮台全盛期から、とにかく宮台を敵視してたからなあ(笑)。ちょうどぼくは“カルチャースタア”として『週刊SPA!』誌上で中森明夫にプッシュされてた時期で、その末期だろうね、たぶん96年アタマの新年号で「中森文化新聞」の“スタア”たちによる“書き初め大会”みたいな企画があって、鶴見&宮台的な“でかい一発はもう来ない”とか“終わりなき日常を生きろ”とかって反革命言説に怒りを燃やしてたぼくは、「終わりなき日常に未練なし ハルマゲドン希望」って書いて提出した(笑)。“終わりなき日常を生きろ”なんて、現状追認のイデオロギーにしかならないわけで、革命派からすればそんなもん、敵に決まってますからね。でもまあ、この座談会の面々にそういう視点を期待しても仕方がない。
 『Mの世代』に関して補足しとくと、大塚英志はオタクだけど、中森明夫は、まあ見た目はともかく(笑)、スタンス的にはむしろ反オタク側なんです。だからこそ『Mの世代』も面白かったんだけどさ。中森明夫は“オタク”の名づけ親だけど、批判的というか、侮蔑的なニュアンスでそう名づけたんだし……まあいいや。そろそろ先に進みましょう。
 第2節は166ページまでですね。各自、黙読してください。


 (「2.陰影と屈折の時代」黙読タイム)


外山 よろしいですか? ……東浩紀もまあ、たまにはいいこと云ってるんだけどな。148ページ中段に、「『批評空間』はまさに九〇年代の雑誌で、だから今回こそ扱うべきなのだけれど、(略)あらためていろいろ読みなおして思ったのだけれど、『批評空間』は本質的に九〇年代のパラダイムに属さないんですよね」という発言がある。
 東が云うとおり、社会全体にとってはもちろん、狭い批評シーンの中においてさえ、『批評空間』は中心ではないし、何ほどのものでもなかったわけです。

藤村 しかしそれに続く、「じつに反時代的というか、イデオロギーが消えてしまった世界のなかで、それでもイデオロギー的はあるんだと言い続けた存在。一種の亡霊みたいなもので、時代論の枠組みで扱うのは難しい」という部分には違和感がある。

外山 うん、ぼくもある。

藤村 東浩紀にはそう見えたというだけの話で、たしかに“イデオロギーの時代は終わった”みたいなことが云われてはいたけど、それ自体がまたポストモダン的な別種のイデオロギーなんだし……。

外山 ぼくの違和感は、むしろ東の発言を承けての次の市川真人の発言のほうにある。「イデオロギーが消えようとしているからこそ、あえてわれわれが言い募るというスタンスですね」と応じてるけど、柄谷や浅田が“あえて”選んだのは“憲法9条”とかであって(笑)、“イデオロギー”とかは“あえて”選んだわけではないはずでしょう。
 ポストモダン思想なり、あるいはポストモダン的なマルクス主義なりの“イデオロギー”に依拠してることは、柄谷や浅田にとって、そもそも自明の前提のようなもので、彼らが当時ことさらに“あえて、あえて”と連発してたのは、彼らのそもそものスタンスからは出てくるはずもない“平和憲法を守れ!”みたいな唐突な主張に関してだよ。
 さらにその市川発言を承けての東の次の発言も、「でもその『あえて』が途中からベタになっていった」っていう、これが“平和憲法がどうこう”という主張に関して云ってるんならそうも云えるが、柄谷・浅田のイデオロギッシュなあり方そのものについて云ってるんなら、やっぱりおかしい。

藤村 東が云ってるのは、90年代というのは本来は、“正義”みたいなものをベタには掲げられなくなった時代だったはずだ、というぐらいの意味じゃないかな。例えば自分はコレが正しいと思ってるけど、それに同意しない人も世の中には大勢いることを前提としてしか、“正義”は掲げられなくなったっていう。

外山 それはつまり相対主義でしょ。相対主義がポストモダン思想おける正義だよね。

藤村 正義というか、認識の前提というか。

外山 ベタな“正義”を掲げる連中に対して、そんなものはもう成立しないんだ、“正義”なんて相対的なものでしかありえないんだ、と云って闘いを挑んだのがポストモダン思想なんだし。

藤村 あ、そうだね。

外山 で、そういうポストモダン的な“正義”は、柄谷や浅田を含むポストモダン派たちには“ベタに”掲げられてたはずですよ。で、そういう相対主義的な“正義”の立場からすれば、“憲法9条”なんて“ベタな正義”を掲げるのは本来おかしいわけで、だからそれについては“あえて”ってことになる。91年の“文学者の反戦声明”の前後で柄谷や浅田も、あるいはいとうせいこうとかも“あえて、あえて”を連発してたから、そういう印象になってるのは分かるけど、ここで東たちが云ってるようなことではなかった。
 150ページの、好感が持てる一連の発言もやっぱり東浩紀か(笑)。そりゃまあ『批評空間』を中心に“90年代批評史”は語れないという認識になれば当然のことではあるが、それにしても、筒井康隆の小説『文学部唯野教授』(90年・岩波現代文庫)まではまだしも、“サルまん”(『サルでも描けるまんが教室』相原コージ&竹熊健太郎・90-92年)にまで言及するとは思わなかった(笑)。オタクだからマンガも視野に入れるのは不思議でも何でもないのかもしれないが、たしかに“サルまん”は東の云うとおり、「ポストモダン批評のひとつの頂点」だとぼくも思いますよ(笑)。東以外の3人からは、少なくとも自ら進んではこういう発言は出ないでしょう。
 “サルまん”というのは、それを描いてる相原コージと竹熊健太郎がマンガの中に2人組の“マンガ家コンビ”として主人公格で登場して、どういうマンガを描くべきか、過去のマンガ作品をいろいろ分析しながら、やがてマンガの中でマンガの連載を始めるんです。しかも、その“マンガ内マンガ”はいわゆる“番長もの”なんだけど、ライバルというか倒さなきゃいけない敵キャラが話が進むごとにどんどん強くなっていって収拾がつかなくなるというのをギャグにしながら、最終的には“ポストモダン番長”みたいなのが出てくるんだ(笑)。具体的には読んでほしいけど、要はポストモダン思想で理論武装した“番長”で、主人公の側がいろいろ攻撃を仕掛けても、“そんな技が有効だというのは、これこれこういう理路で効く、というしょせん西欧的な理性中心主義に支えられたものにすぎない”とか云って(笑)、ただ無根拠に無意味に強い“番長”が登場する。“ポストモダン番長”じゃなくて、“意味なし番長”だったかな(笑)。
 “サルまん”は何度も読み返してるぐらい好きなんで、ついつい語りたくなってしまうが、それは措いといて、全体の流れとして、やっぱり東浩紀がそんなふうに言及の対象をどんどん広げていった結果として、だんだん“朝ナマ”とか『噂の真相』とか「中森文化新聞」とかって話題を他の人たちも出すように、とくに後半はなってると思う。そこは先週危惧してたような、まさか90年代も“『批評空間』中心史観”で押し切る気じゃあるまいか、という予想が裏切られて、まあ、いいんじゃないでしょうか(笑)。

藤村 ただし、『噂の真相』の別冊として出た『日本の文化人』(98年)にも言及されてるけど、この座談会より『日本の文化人』のほうが、対象として目配りしてる範囲はずっと広い(笑)。
 あと、さっきココの本棚から抜き出してきた、『発言者』系の非保守派の論客である絓さんが(笑)、宮崎哲弥・高澤秀次とやった鼎談をまとめた『ニッポンの知識人』(KKベストセラーズ・99年)って本もあるけど、そっちでは浅羽も呉智英も大きく扱われてるし、やっぱりバランスがずっといい。

外山 この東浩紀たちの座談会では、どうも呉智英ラインの人たちの扱いが、さすがに少しは言及してるとはいえ、小さすぎる気がするよね。そこらへんを全部まとめて“小林よしのり”に代表させてるのかもしれないけど……。でもやっぱり浅羽は90年代半ばぐらいの時期、宮台と張るぐらいの存在感だったはずだよ。

藤村 担当が分かれててね。偏差値が高い若者は宮台を読み、偏差値が低い若者は浅羽を読んでた(笑)。しかしマジメに云っても、呉智英・浅羽をちゃんと独立して扱っていないがために、『ゴーマニズム宣言』に対する東の評価もブレまくってる気がする。

外山 それはどのあたりに感じる? 例の「ゴーマンかましてよかですか?」って決めゼリフへの市川真人のヘンテコな解釈も、また152ページ中段あたりで繰り返し表明されてるけど、そこはもうスルーしちゃうとして……(笑)。

藤村 154ページ上段で、東浩紀が「小林さんは否定するだろうけど」って、べつに否定しないと思うが(笑)、「『戦争論』はどうのこうの言ってネトウヨを生みだした本だし、実際にいま読み返すと、『これこそが真実だ、目覚めよ』といったメッセージに満ちた洗脳まがいのテクストとなっている。それは否定できない。/ただ、いま振り返ってみると、そういうことをやっていた時期のほうが例外的だったようにも思えます」と云ってる。
 「例外的」じゃないよね。むしろ逆でしょう。現在も含めて、そんなことばっかりやってる人じゃん。

外山 ぼくは『ゴーマニズム宣言』以外、小林よしのりはほとんど読んだことないからよく分からないけど、『ゴーマニズム宣言』以後はそういう「洗脳まがいのテクスト」ばっかり書いてるとは思う。そしておそらく、デビューから『ゴーマニズム宣言』までの期間より、『ゴーマニズム宣言』以降のほうがもう長いんじゃない? そういう意味ではちっとも「例外的」だとは云えないだろうけど、『ゴーマニズム宣言』以前のものからすれば『ゴーマニズム宣言』は例外的なものだったという意味なら、読んでないから知らんが、そうなのかもしれない。

藤村 でもそれは、小林よしのりに限らず、『ゴーマニズム宣言』みたいな政治的プロパガンダのエッセイ・マンガなんて、少なくともメジャーなものとしては『ゴーマニズム宣言』以前には存在しなかったというだけの話だよ。

外山 まあね。

藤村 で、その前の153ページの市川さんの発言にあるように、「ぼくにとっては小林よしのりの選択と、たとえば百田尚樹のふるまいとのちがいは紙一重に思えます。大衆に、彼らが喜ぶ物語を投げ込み、その欲望を鼓舞して自分自身が巨大な偶像となっていく」という、こういう振る舞いを小林よしのりは今でも続けてるでしょ。単に、今の小林よしのりは90年代後半ぐらいに比べて思想的にだいぶマシになってるというだけの話であって(笑)、相変わらず「自分自身が巨大な偶像となって」、比較的マシな思想を読者たちに啓蒙しようとしている。
 ……というか、もし小林よしのりを肯定したいのであれば、むしろ「『これこそが真実だ、目覚めよ』といったメッセージに満ちた洗脳まがいのテクスト」の書き手としての小林よしのりを、部分的に、慎重にではあれ、肯定する視点が必要なんじゃないだろうか。だってそうでないと、小林よしのりなんて、単に“時事問題の絵ときマンガ家”にすぎなくなってしまうよ(笑)。
 あと、155ページ上段から中段にかけて、「オウム真理教事件のときには、小林さんはVXガスで暗殺されそうになります。アシスタントも仕事場の周りを警備したり、すごいストレスだったと思うけど、それでもだれも彼のもとを離れない。そして事件が片づくと、みなで香港旅行に行って、小林さんがアシスタントたちに高級ブランド品を買い与えたりする」という家族的な共同性、小林の「完全に『父』のふるまい」について東浩紀が「妙に感心した」という話をしてますよね。それに対して市川さんが、「小林的な家父長性を素直に肯定できますか?」とツッコむと、東は「肯定するというか、人々がそれを求めるという認識は持つべきだと思う。倫理的に正しいかどうかはわからないけれど、そのようなふるまいを多くのひとが求めるという現実はあるだろうと」って、ゴマカシというか、はぐらかしたような答え方をしてる。
 オレは、小林よしのりの家父長的なあり方について、はっきり云って気持ち悪いと思います。だからきっぱり否定してもいいんだけど、しかし同時に、小林が家父長的であることは、小林が常々云ってる、消費者ではなく“プロフェッショナル”つまり生産者としてのあり方、みたいな話と密接に結びついてもいるんだ。そこは肯定すべき部分もあると考えているオレとしては、小林の云うことを丸ごと肯定したり否定したりするのではなく、いろいろ混じってる要素を慎重に腑分けして、1つ1つ評価していくような作業が必要だと思うわけです。
 これは157ページ下段に出てくる、小林、中森明夫、濱野智史、宇野常寛の“AKB論”の座談会の本(『AKB白熱論争』幻冬舎新書・2012年)について東が、小林・中森は生産者側の視点に立ち、濱野・宇野は消費者側の視点に立ってて、「落差がある」と云ってることにもつながるんだけど、しかし全体として、もちろん東も含めて、“消費者”を肯定する歴史観を語ってるわけだし、だから“生産者”であることと結びついた小林の家父長的なあり方についても曖昧なことしか云えないんでしょう。オレは、東浩紀が小林よしのりに対して肯定的なこと自体についてはいいと思ってるんだが、こういう“消費者肯定”の歴史観では、小林をちゃんと肯定するロジックは出てこないんじゃないか、と。
 さっき云った『噂の眞相』別冊の『日本の文化人』の中に「ドロ沼の若手文化人ソーカン図」ってのがあって、小林よしのりと盟友関係にある呉智英は「オトナになれ(新保守派)」の「黒幕」に位置づけられているし、小林よりのりはもちろん浅羽も大月も西部邁も「オトナになれ」派だよね。一方「コドモで何が悪い(おたく派)」の「黒幕」が中森明夫で、浅田や柄谷など『批評空間』系の人たちもこの近くに位置づけられている。大塚英志は真ん中あたりだが、中森明夫と「友好関係」、大月・浅羽とは「敵対関係」となってるから「コドモで何が悪い」派に近いのは明白だ。
 オレは、この図は当時の言論状況をかなり正確に映していると思うから、東たちが大塚英志パラダイムで小林よしのりを論じるのはかなりの無理スジだと感じざるを得ない。そして東たちがそういう歴史観しか持てずにいるのは、後半チラチラ触れられてはいる『宝島30』とかの言説をおそらくリアルタイムでは軽視してきたんであろうツケであり、『批評空間』について、イデオロギーの時代はもう終わったのに“あえて”イデオロギッシュにやってる、としか捉えられない程度の浅いイデオロギー観から抜け出そうとしなかったツケだろうと思う。

外山 ……160ページ下段から161ページ上段にかけての東の発言についても、“さすが! 鋭い!!”とは思ったんだ。まずさっきの、オウムに毒ガス兵器で狙われても、「アシスタントがだれも辞めず、小林さんの運動を支えているというのは本当にすごいことで」云々、「そこに家父長制的なコントロールがあるとしても、そういう支えがなければ運動なんてできるわけがないので、この点で小林さんの運動家としてのすごみは確実にある」、「社会改革を本気でやるって、よかれあしかれそういうことだと思う」と小林を妙に持ち上げた上で、柄谷行人が00年代初頭にやってたNAM(New Associationist Movement。柄谷の提唱で00年から03年までおこなわれた、“資本と国家への対抗運動”)について、「まったく論外ですよ。自由な個人のアソシエーションとかで、VXガスに抵抗できるはずがない」と切って捨ててる(笑)。
 まったくそのとおりで、柄谷は生産者ではなく消費者を組織するという革命の戦略を思いついて、NAMを提起したわけだ。しかし、そもそも何の決意も覚悟もないことを本質とする“消費者”なんか、いくら組織したって“運動”の主体になんかなりません。東のNAM批判はそこをまっすぐ突いてて非常に鋭いんだけど、問題は、東もまた別種の“消費者運動”を提起してるにすぎないことなんだよな(笑)。逆に柄谷は、そもそも無理スジとはいえ、消費者運動を革命運動に転化させようというココロザシは少なくとも持ってたわけだ。そのぶん柄谷のほうが東よりマシだとさえぼくは思う。
 東のNAM批判は正しいんだが、じゃあどうすれば「VXガスに抵抗できる」ようになるかといえば、まず何より“消費者運動”であることをやめなきゃいけない(笑)。

藤村 大塚英志の云う“かわいい”的な消費のあり方を、彼らは肯定的に評価して、その延長線上で考えてるんだもんね。それこそ大塚英志はまだ“あえて”それを云ってたような気がするけど、この人たちは“ベタに”それを引き継いじゃって、その結果としていろいろ扱いに困る問題が出てくるという点についてだけは、東浩紀は敏感だったりする(笑)。

外山 時々鋭いことも云うんだよなあ。最近の運動についても鋭いことを云ってたでしょ。156ページ中段で東は、「現在の状況について言えば、右翼的なパトスに対して左翼的な理性があるかと言えばぜんぜんそんなことはない。SEALDsのブームやカウンターの例が象徴するように、二〇一五年は左翼の側も右翼と同じようにパトスで戦い始めた年で、パトス対パトスの構図が明確になっている。そういう意味では、左翼の右翼に対する優位性はもはやない」と云ってます。
 最後に出てくる「優位性」って、要するに知的優位性だよね。右も左も、どっちもアホになってるということです。シールズやしばき隊は、もはやネトウヨと“どっちもどっち”だと云ってる。(紙版)『人民の敵』で藤村君としょっちゅう云い合ってる話そのまんまで、もちろん最低限の知性と良識があれば誰だってこういう判断になるはずなんだけど(笑)、もはや“知識人”までバカになってるんだかから、そんな中で東浩紀はやっぱり相対的にはかなり優秀なのかもしれない。

藤村 “しばき隊評論のトップランナー”(『人民の敵』第21号や第27号での議論を読んだ元しばき隊の清義明氏がツイッターで藤村氏をそう評した。/後註.すでにいずれも「しばき隊“闇のキャンディーズ”事件を語る」「“しばき隊リンチ事件”を語る」としてnoteで公開済み)として云わせていただきますと(笑)、同じ156ページの上段で福嶋さんが、「超越の感覚を生み出すのは右翼的なパトスしかない。あるいは、パトス的に超越性にコミットしなければならない」と云ってます。左派もたしかに現在ではほぼそうなってて、“アベ政治を許さない!”的な運動を、“安倍は悪い奴だ! ファシストだ!”みたいな言葉で人々の感情を煽って、つまりパトスを組織するようなことばっかりやって成立させてる。しかし野間(易通)さんたちのカウンターの運動はそれとはちょっと違う。野間さんたちは、パンクを中心としたサブカル感覚を組織してるんです(笑)。
 ……少しマジメに云うと、やっぱりシールズとカウンターを同列に並べちゃいけませんよ。だんだん混ざってきて質も似てきたかもしれないけど、カウンターは直接行動であって、シールズは“陳情”にすぎないんだもん。

外山 それはそうなんだけど、東がここで云ってるのは、単に左翼もバカになってしまった、ということでしょう。左翼は本来、理性の運動だったはずなんだけど、今や右も左も理屈のない、パトスつまり情念の運動になってしまってる、と。

藤村 うん、分かってます。ただ、東浩紀はどこかで、“安倍以外ならもう誰でもいい”みたいな最近の“安倍ヤメロ!”運動を“否定神学的マルチチュード”と評してて、シールズはそうかもしれんけど、野間さんたちはそういう“否定神学”的なパトスの調達の仕方をやってるんじゃなくて、サブカル的に調達してるんだと強調しておきたかっただけです(笑)。

外山 ……あと常識的なことだけど、156ページ下段から157ページ上段にかけての議論にも異議はない。
 ネットの登場は、消費社会をますます全面化させたわけですよね。東が云うように、「インターネットが普及し、みなが全世界に対して安価で情報発信できるようになれば、さすがにみな多少はモノを考えて議論するようになり、世界もよくなるだろうという幻想がある時期までは全世界を支配していた」という、もちろんぼくは、何の覚悟もないそこらへんの連中に“自分の意見”とか発信する権利なんか認めたらロクなことにならんと最初から思ってましたが(笑)、一般的にはそういう「幻想」があったでしょう。ところが実際には、東の発言を承けて市川が云うとおり、「主張や発信するばかりで他人の言うことには興味がなかったり、せいぜい共感するものをリツイートしてなにかを言った気分になれてしまうから、議論が逆に成立しないんですよね。自分とちがう意見にはたんに感情的に反発しても、それを肯定してくれる別の脊髄反射が必ずあるから、結果的にタコ壷的な狭い同質性が空虚の外殻だけを固めてしまう」ということになった。
 さらに続けて市川は、「だれもが快適な自己主張をした結果、公共性や遠い他人に興味など持たずに、地縁や血縁で集まったほうが快適だということがわかった、という話でしかない。その状況と、大きな地縁かつ血縁としての民族主義、さらには国民国家にもとづく国家主義ががっちり結託しているのが、今日的な状況なのでしょう」と云ってて、おおよそ同意するけれども、しかし「だれもが快適な自己主張をした結果」のところが実は「戦後民主主義の理念にもとづいてだれもが……」と始まってるのが、やっぱりトンチンカンだと思う。戦後民主主義は関係ない。資本主義もしくは消費社会ですよ。
 ……しつこいようだが、91年の湾岸戦争勃発に際しての、柄谷たちの“文学者の反戦声明”について、まさに165ページ上段で、市川真人も「ぼくもリアルタイムでは知りません」と云ってるわけです。71年生まれだから当時もう20歳ぐらいだった、しかもこんなにインテリな市川サンの視野にもリアルタイムでは入ってこなかったぐらい、何の社会的インパクトもない『批評空間』界隈の“イベント”にすぎなかった。

藤村 うーん……しかし彼はオレらと1コしか違わなくて、しかも早稲田の文系インテリだったわけでしょ。福岡の田舎学生のオレでも知ってた“文学者の反戦声明”をリアルタイムでは知らなかったとか、ありえないと思うんだけどなあ。

外山 本来ならというか、あれが多少なりとも社会的インパクトを持ちえた“運動”であれば、ね。しかしそうではなかったということが、この市川真人の一言で証明されてるようなもんです。
 ただ、東浩紀が最後のほう、166ページ上段で云ってるように、「湾岸戦争時の反戦声明の意義は、むしろ、それに違和感を抱いた加藤典洋らがのち『敗戦後論』(九七年)を書き、それがまた高橋哲哉との論争を引き起こした、その副産物によって歴史に残っていると言えるのではないか」というのが、せいぜいのところでしょう。もちろん“加藤典洋vs高橋哲哉”の論争自体が、もはや90年代後半だし、ますます批評シーンというタコツボの中の事件でしかないが、そういうものとしても“反戦声明”よりは大きな事件だと思います。
 それから先週も云ったけど、165ページ下段から166ページ上段にかけて、“反戦声明”に絡んでチラッと“いとうせいこう”の名前も出てくる。いとうも柄谷らと並んで“反戦声明”の中心的な1人でした。
 しかしおそらく、ここでいとうの名を挙げた大澤聡はもちろん、他の3人も、いとうせいこうが盛んに政治的・社会的発言をやるようになったのは、この“反戦声明”の時ではなくて、とりあえず土井社会党ブームに象徴される80年代末の“政治の季節”の渦中での、反原発運動や天安門広場の学生たちを支援する運動とかが起点になってるということは、ちっとも念頭にはないでしょうね。91年のしょーもない“文学者の反戦声明”も、80年代後半の“政治の季節”の勢いの余波、残照の1つだということが分からないと、ますますそんなものに言及する意味はないんです。
 で、だからこそこの人たちは、朝ナマに対する評価もヘンなんだ。

藤村 うん、それはオレも思った。

外山 161ページ上段で、若くて時勢に遅れてる大澤聡が「九〇年代はなんといっても『朝まで生テレビ!』(八七年〜)の時代だった」と云ってるのは仕方ないけど、その間違いを年長の東や市川が訂正してあげないどころか、同調しちゃってるのが腹立たしい。なんてモノを知らない奴らだ、と。朝ナマはどう考えても“80年代後半”という時代の産物でしょう。

藤村 だよなあ。

外山 87年に朝ナマが始まって、深夜の長時間番組であるにも関わらず急速に超人気番組へと成長していくわけですけど、始まって3、4年間ぐらいの朝ナマの出演者というのは、それぞれの背後に現実の運動の支えを持ってた。しかし90年代に入ってからの朝ナマでペチャクチャ喋り合ってる連中の背後には、そんなもの存在しないわけですよ。TVタレント化した“知識人”たちが、ペチャクチャと“討論ショー”をやってるにすぎない。
 90年代の、朝ナマで宮台がどーしたこーしたというのは、80年代の朝ナマの廃墟の光景でしかないんだ。

藤村 うん、そうですね。

外山 そういうことが、東浩紀たちには全然見えてないわけです。

藤村 “朝ナマはなぜつまらなくなったのか問題”ってのがあるでしょ。この座談会でもそこらへんは考察されてるけど、やっぱり的を外してる。

外山 162ページ中段だね。大澤聡が「パネリストの優等生化」と表現してる。それはそうなんだけど、その原因を大澤は、「録画が簡単にできるようになり、さらにネットで違法アップロードが横行するようになった結果、深夜の生放送ならではの放言が不可能になってしまった」からだと考えているらしい。

藤村 そういう側面もゼロではないかもしれないけど、まあ、間違いだ(笑)。やっぱり“価値”が問われなくなったからだと思う。今の朝ナマの出演者って、政治家と、政策提言をするようなタイプの学者ばっかりで、つまり“批評家”なんかはほとんど出なくなった。

外山 というか、今の朝ナマは“学者”ばっかりで、90年代の朝ナマには“批評家”がたくさん出てて、しかし80年代の朝ナマのメインは“運動家”たちだったってことですよ。“文化人”たちもたくさん出てたけど、やっぱり“運動”的な匂いがする、少なくとも“学者”的ではない人たちがほとんどだった。

藤村 大島渚とか野坂昭如とか……。

外山 大島渚は新左翼運動とも露骨に親和性のある映画監督だし、野坂昭如だって“行動する作家”だよね。もちろんもっと完全に“活動家”な人々としては、左からは小田実や議会政治家に転向する以前の辻元清美、右からは野村秋介や鈴木邦男なんかが、ほぼ常連的に出てた。そういう出演者たちによる“討論”だからこそ、むやみに白熱したわけです(笑)。
 もちろんテレビの前でもそれなりの数の、80年代後半の“政治の季節”の中で反原発とかいろんな運動に参加してる若者たちが、敵側の発言に怒りを燃やしたり、自分サイドの発言に溜飲を下げたりしながら、手に汗握ってそれを“観戦”してる(笑)。
 朝ナマとセットで、同時期の86年にスタートして最初の3、4年間ぐらいの、土井たか子をほとんど数日おきに生出演させて“ナカソネ政治”を糾弾させまくってた「ニュース・ステーション」もありました。朝ナマというのはそういう番組として人気を博したわけで、90年代のそれは、“文学者の反戦声明”同様、“80年代後半”の熱気の余熱で保ってたにすぎないんだ。
 そもそも最初のほう、148ページ上段に出てきた大澤聡の発言、「九三年、九四年あたりはほんとうに豊作」とこれはもちろん批評シーンの動向について云ってるわけですけど、これがもうぼくなんかとは完全に真逆の時代認識なんだよね。ぼくに云わせれば92、93、94年というあたりが最も時代の谷底で、“反革命”の全盛期ですよ(笑)。
 大澤が列挙してるとおり、『完全自殺マニュアル』だの『ゴーマニズム宣言』だの『サブカルチャー神話解体』(宮台真司ほか・93年・ちくま文庫)だの、反革命言説も猖獗を極める(笑)。左では宮台が、右では浅羽が、それぞれハバを利かせて、“終わりなき日常を生きろ”だの“青臭い反抗なんかやめてプロフェッショナルになれ”だの、くだらんことばかり云って、悩める青年たちを惑わせ、革命から遠ざけてるわけだ。
 これまた朝ナマの評価ともつながってて、90年代前半というのは、80年代後半の高揚期が終わって、現場の運動が消えて何もない中で、宮台や浅羽が運動をディスるような言説ばかり垂れ流してた時代です。最悪の時代だった。だからこういう、「九三年、九四年あたりはほんとうに豊作」なんて反革命の手先みたいな発言を読むと、そりゃぼくなんかに発言の場所がないのも当たり前だと痛感するよ。最初からスレ違ってて、話の噛み合わせようもない(笑)。

藤村 細かいことを云えば、154ページ下段の福嶋さんの発言にも違和感がある。「小林さんは当初は、イデオロギーの時代が終わったからこそ、むしろ自立した個人のネットワークが必要だという考えだったわけですね。ところが薬害エイズ問題での失敗などを通じて、市民社会のスカスカな空洞性に直面し、日本では自立した個人を内在的に作ることはできない、したがって超越的な価値をどこかからインストールしてこなければならない、となった」というふうに、小林よしのりの“右転向”の脈絡が説明されてます。
 細かいところというのは、薬害エイズの運動そのものはむしろ成功したわけだよね、ってことです。当時の菅直人厚生大臣に謝罪させるところまでいった。つまり勝ったんだから、運動に参加してた若者たちもまた日常に帰ればいいのに……。

外山 社会的な問題に取り組んで大勢で盛り上がるという体験が、麻薬のように作用して、“他に何か取り組むべきテーマはないのか?”的な方向に走る若者たちが意外とたくさんいて、そこに病理的なものを感じた、というのが小林よしのりの“転向”の始まりになるんだよね。

藤村 で、“個の連帯は幻想だった”というふうに、薬害エイズ問題との関わりを総括した『脱正義論』(幻冬舎・96年)は締めくくられる。

外山 小林よしのりのそういう総括には1ミリも賛同できないけど……つまり何かの運動に初めて参加して、高揚体験を持つ、と。最終的に勝つにせよ負けるにせよ、運動が一段落すると、大半の人たちはまた日常に帰っていく。ところがどんな運動でも、盛り上がれば必ず一定数、高揚体験に囚われて日常に帰りそびれる奴が出てくる。そういう人が“活動家”になるわけです。ぼくだってそうだもん。ちゃんと日常に帰ることができた人は“大衆”。
 これは良い悪いの問題ではなくて、単なる確率の問題として、盛り上がった運動というのは必ずその後に、一握りの“活動家”たちを生み落とす。自然現象みたいなもので、そのこと自体を批判する小林よしのりをぼくは支持しない。
 ただ、薬害エイズの運動では、これは今のシールズとかでも同じだけど、そうやって運動シーンにとどまった仮免段階ぐらいの若い活動家たちを、共産党がかっさらってしまうわけですね。小林の“右転向”には、これに反発したという要因もある。

藤村 経緯としてはそういうことですね。この福嶋さんの発言は、間違いというほどではないけど、ハショりすぎというか、それで誤解を招くような気がしただけです。失敗したのではなく、むしろ成功したからこそ小林の右転向ということも起きた。“パヨク”はむしろ原発を止めるのに失敗したからこそ発生したようなものなので、この“成功か失敗か”は、“パヨク”問題を考える上では必要な前提だと思います。

外山 しかしここでの『ゴーマニズム』論に関しては、やっぱり右転向のもう1つの大きな契機であるオウム事件との絡みにこだわってなさすぎだよ。VXガスの恐怖にも負けずによく頑張った、ぐらいの話しかない(笑)。
 ……いや、もっと最初からいくと、152ページ下段に東浩紀の初期『ゴーマニズム宣言』に関する言及がある。「『ゴーマニズム宣言』は最初は小ネタばかりですね。日本人のペニスがいちばん気持ちいいんだとか、バカげたネタも多い。それが急速に変わっていく。つまり論壇的になっていく」とあって、これはまったくそのとおりです。しかし何がその変化のきっかけだったのか、ということについてどうも引っかかってる様子がない。
 きっかけは部落問題だよね。もちろんこの座談会でも、『ゴーマニズム宣言』が部落問題についても切り込んだことへの言及は160ページにあったけど、“偉いと思いました”ぐらいの話で(笑)、それがまさに初期『ゴーマニズム宣言』から中期というか、その次の段階への変質の契機だったという指摘はありません。
 これでは一介の“政治エッセイ・マンガ家”にすぎなかったはずの小林が、どうして「論壇的」な存在と化して、「あれよあれよというまに小沢一郎クラスの政治家と会うようになり、オウムからは暗殺で狙われ、『噂の真相』にスキャンダルで狙われ、薬害エイズ事件では『HIV訴訟を支える会』の会長にまで就任する」(153ページ上段・東)ことになるのか分からない。
 そもそも『ゴーマニズム宣言』の最初の本格的な悪役となる絓さんとのバトルのきっかけが、部落問題なんだよね。左派系・リベラル系の連中が小林に批判的になるのは、小林がすっかり右傾化した90年代後半のことだけど、それまでは奴らはほぼ全員が“小林万歳!”だったわけですよ。小林を“怪物”にしたのはむしろ左派であって、ぼくなんかはザマーミロと思ってますけど(笑)、左派が小林をもてはやし始めたのも部落問題への言及からです。つまり凡庸な左派どもが小林をチヤホヤし始めるまさにその起点のところで、絓さんは先頭を切って小林批判をマジメに展開したことになります。

藤村 160ページ上段で、福嶋さんが「とりあえず『俗情との結託』問題は『差別論』(九五年)が発端になっているわけですが、ぼくは今回はじめて読んでかなり驚きましたね」と云ってて……。

外山 あ、そこにそもそも事実誤認がありますね。『差別論』は『ゴーマニズム』の“スペシャル版”として、だいぶ後になって書き下ろしで刊行されたものでしょ。
 これは自慢で云うんですが、実は『ゴーマニズム宣言』を最初に批判したのは、絓さんとぼくなんです(笑)。もちろんまだ絓さんとは会ったこともないし、笠井潔の影響で絓さんにはとても悪い印象を持ってた頃の話です(笑)。
 ぼくは自分が当時出してたミニコミとか、唯一連載を持ってた宝島社の『バンドやろうぜ』という音楽誌とかで小林批判をやって、媒体が媒体なんで小林にとってもまったく脅威ではなかったんでしょう、それでも少なくともミニコミは送りつけたんで、欄外(第2巻・138ページ)でちょっと言及はされてるんですが、それはいいとして、ぼくも絓さんも初期『ゴーマニズム』のまったく同じ回を読んで“『ゴーマニズム』を批判しなければ!”という思いに駆られたようなんですよ。それが小林が初めて部落問題に言及した回で、かなり初期、たぶん連載が開始された92年のうちのものであるはずです(調べてみると、連載第16回「差別だらけの社会を糾弾せよ!」。92年1月からの週刊誌連載での第16回であるから、やはり92年中のはずである)。
 絓さんの最初の『ゴーマニズム』批判の文章は『「超」言葉狩り宣言』(太田出版・94年)という本に載ってるはずで……(と本棚から取り出して)あれ? “書き下ろし”となってるな。でも94年刊行の本に書き下ろしで載ってるんだから、95年の『差別論』はまだ出てないわけで、もちろんこの『「超」言葉狩り宣言』掲載の「マンガのゴーマニズム」で絓さんはもう“俗情との結託”という言葉も『ゴー宣』批判の決めフレーズとして使用してるし、『差別論』が“小林vs絓”論争の「発端」ではないことは明らかでしょう。

藤村 なるほど。まあともかく、さらに続けて福嶋さんは、「あんなセンシティブなテーマを、読者層の広いマンガでやるのはものすごく勇気がいる」と云ってるんですが、オレはこの云い方には疑問がある。
 だって、部落問題がタブーのようにされてたのは、解放同盟の糾弾をみんな恐れてたからでしょ。小林はまず解放同盟に接近してるんだもん。実際に接近したんじゃなくて、解放同盟に対して好意的なスタンスを表明した上で部落問題を扱い始めたってことだけどさ。

外山 同じ160ページの中段で、市川真人も「部落解放同盟ともやりあっているのはすごいけど……」とまるで小林と解放同盟が対立的であったかのような云い方をしてるけど、全然そんなことないよね(笑)。細かい部分で意見の食い違いもあった、というぐらいのことで、解放同盟とは小林は基本的にはそれこそ“結託”してた。

藤村 そうそう。

外山 だからこそ左派系・リベラル系の連中も安心して小林を持ち上げ始める。もし共産党系の部落解放運動とくっついてたら、そうはなってない。

藤村 小林の部落問題へのスタンスって、“差別に苦しんでる人たちがいる。ワシが何とかしてやらねばならん”という、まさに家父長的な感覚にも支えられてた気がするよ。

外山 うん、絓さんの『ゴー宣』批判はそういう側面にも向けられてたと思う。メインの“俗情との結託”というのは、差別されてる側の女の人を“和装の美女”として、差別する側の連中を関西系のガサツなオバハンみたいに描くという、まあマンガだから仕方ないとも云えるが(笑)、そういうプロパガンダの手法に関してだけどさ。

藤村 同じく160ページ中段で、東が「あれは小林の圧勝でしょう」とも云ってるけど……。

外山 ここでも「絓秀実と小林よしのりの論争はまさに『差別論』が発端だけど」と“まさに”間違った情報をダメ押ししてるね(笑)。

藤村 小林が勝ったというのは、まず影響力の点で……。

外山 うん、何よりもまず“量”の問題でしょう。マンガに活字では対抗できませんよ。ぼくもこの頃、どうすれば小林の影響力に対抗しうるだろうかと悩んで、マンガでないとしたら音楽しかあり得ないなと思った。

藤村 あるいは絓さんのような立場は、一般の多くの人たちからすれば蓮實重彦とかみたいな、スカした特権的なものにしか感じられないだろうし、そういう言説はもう無効なんだということでしょう。絓さんはそれこそ、小林の“俗情との”つまり大衆との“結託”を批判したんだし、大衆の側からすればそんな奴、明らかに“敵”だよね(笑)。
 しかしちょっとヒネクレたことを云うと、絓さんの側が勝利したと考えることもできる。それまで一部のインテリにしか知られてなかった絓さんが、『ゴー宣』に何度も悪役として登場することで、かなり知名度を上げたと思う(笑)。

外山 まあ、たしかに(笑)。ヒドい似顔絵を描かれてね。これがまたかなり似てるから困る(笑)。

藤村 東はここで「小林よしのりの運動家としての『正しさ』については評価すべきだったのではないか」とも云ってるけど、絓さんのために云っておくと、絓さんも部分的には小林を評価してたし、“真摯”で、“それなりによくやっているとは思う”ぐらいのことは書いてた(「小林がそれなりに良くやっているところはあると思うし、『ゴーマニズム』と言うわりには正しい意味で真摯である場合も少なくない。このことは、フェアーを期する意味でも、まず指摘しておきたい」)。

外山 ぼくはむしろ小林よしのりの“運動家としてのダメさ”を当時から感じてて、東は「九五年までの小林さんについては、オウムとの戦いでも、差別の問題でも、薬害エイズでも、つねに正義の側に立っているように思う。それに対しては敬意を払うべきです」とか云ってるけど、今で云えば要するにシールズ的な正義の側に立ってたというだけのことで、解放同盟だって当時は、まあ恐れられちゃいたとはいえ、今みたいにまるで悪の秘密結社か何かであるかのようなネトウヨ的な偏見が蔓延してたわけでもなし、ごく素朴なリベラル派ならそれほど躊躇せずに接近できる程度の存在ですよ。シールズに対しては批判的なはずの東浩紀が、小林のその程度のスタンスを、カギカッコ付きとはいえ“正しい”とするのはいかがなものかと思う。
 ……ぼくの92年時点での『ゴーマニズム』批判というのは、絓さんとはまたまったく違う立場からのものだったんだ。小林よしのりは、その時点ではどうだったか分からないけど、『ゴーマニズム』の中で繰り返し“プロフェッショナル”がどうこう、何かの専門家であることを称揚するよね。しかし小林は、マンガについてはそりゃプロかもしれんが、言論人としては完全にアマチュアなわけでしょ。政治とか思想なんてことについてはド素人のくせに、それらの専門家に対して、まるで対等であるかのような議論の挑み方をするようになる。
 もちろんごく初期、最初のほんの10回ぐらい、西部邁とかを茶化してたぐらいの時点では、それはべつに鼻につかないんだ。西部は堂々たる大衆蔑視論者、“大衆蔑視”を公言してるような人なんだし、それに対して小林が“大衆として”ムカッとくるのも当然です(笑)。西部にバカにされてる大衆の1人として、“東大のエラい先生だか何だか知りませんけどねぇ”と憎まれ口を叩いた上で茶化すという、非常に微笑ましいもので、素人が専門家に物申す、そのまさに“ゴーマン”さがちゃんとギャグになってた。
 ところがこの差別問題を最初に扱った回で、コイツ素人のくせに本気になったぞ、というのをぼくは鋭く察知したんだね。ぼくはこの92、93年の時点ですでに、“マンガ家ふぜい”なんかより“活動家様”のほうが比較にならんぐらい偉いんだという認識に到達してたんで(笑)、“マンガ家ふぜい”の小林のそういう“越権行為”を許してはならんと思ったわけだ(笑)。もちろんそういう云い方はしないけど、こういう奴がマジメに天下国家の問題を云々し始めたらロクなことにならんというのは分かりきってたんで、“その道のプロ”としてのぼく自身の解放同盟批判なんかとも絡めつつ、要は“素人はスッこんでろ”的な批判を、もうちょっとオブラートに包んで……(笑)。
 しかし絓さんの批判が94年だとしたら、ぼくはたぶん92年に出した『カルピス』ってミニコミで最初の批判を書いてるんで、実はぼくのほうが圧倒的に早いな(笑)。ともかくド素人が社会問題にあれこれ意見を云うような風潮を、『ゴーマニズム宣言』は明らかに加速させたし、その後のネトウヨ問題だってそういう側面は大なんだから、ぼくの批判もそれなりに的確なものだったんじゃないかな。
 ……朝ナマ問題をまた蒸し返すことにもなるけど、161ページ下段で、大澤聡が「考えてみれば『朝生』だけですよね。代替する番組は存在しない」と云ってる。そうだろうか?
 そりゃたしかに次の182ページ上段で、市川が「『朝生』の最大の特性のひとつは、無編集であることですね」とか「『朝生』の強さは、とにかく生であることの説得力ですよね」とか云ってるとおり、そういうしかも長時間のレギュラーの討論番組は他にないでしょう。しかし、80年代からすでにそうだったとはいえ、90年代の朝ナマはますますそうであったような、浮わついた“知識人”どもによる“討論ショー”のような番組は、いくらでも作られるわけです。
 もちろんそれらは「無編集」でも「生」でもないけど、何が云いたいかというと、つまりド素人どもにとっては、朝ナマのような形式で議論を見せられるのは、まだ苦痛なんですよ。それで朝ナマのエッセンスを凝縮したような、“面白場面集”だけで構成されたような、いわばド素人向けの、朝ナマをさらに劣化させたような“討論ショー”番組が次々と作られるようになる。それが「TVタックル」であり、「そこまで言って委員会」であり、「ニュース女子」じゃないですか。
 朝ナマのように専門家がそこそこムズカシイ話をして、しかも議論が堂々巡りになっててもカットされないようなものは、朝ナマ視聴者よりもっと素人度が高い消費者どもには楽しんでいただけないんで、各局はいわば“コンパクトな朝ナマ”をどんどん作り始めて、そういうものならゴールデン・タイムにも進出できるわけです。だからそりゃ“朝ナマそのもの”であるような番組は朝ナマだけだが、「代替する番組」は実はいくらでも存在してるし、それらが世の中をどんどんマズことにしていってると思う。

藤村 最近は意外とまた朝ナマは面白くなってきてるんじゃないかな。ツイッターでも言及してるのが流れてくる頻度が増えたような気がする。

外山 あ、たしかに“学者ばっかりじゃん”というのはちょっと前の話で、“3・11”以降は、あるいはそのちょっと前のフリーター労働問題ぐらいから、テレビに出せる“現場活動家”の新人もだいぶ発掘できただろうしね。議論のレベルはともかくとしても……(笑)。

藤村 体制側にも百田尚樹とか、キャラの立った論客が増えてきた(笑)。

外山 しかし、162ページ下段の東発言はつくづく情けないよ。福嶋亮大が「そう言えば、麻原彰晃の『生死を超える』(九二年)を一応読んできたんですが(笑)、それこそ『完全自殺マニュアル』を思わせなくもないヨガのマニュアル本なのね。まあいかがわしいけど、これを読むだけではそこまで危険な集団に見えない」と、先入観を抜きに読めばたぶんごく普通の感想であろうようなことを云ったのに対して、「タブーのない共同討議とはいえ、麻原彰晃の再評価は……」とまさに“軟弱ヘナチョコ”ぶりを露わにしてる(笑)。
 これは冗談ではすまない問題で、だってオウムを直視しないから、こういうデタラメな議論ばっかりしてしまうことになるわけでしょう。

藤村 うん、そうだ。

外山 直視すればもしかしたら“麻原再評価”を云い出す人も現れるかもしれないが、そんなことを恐れずに直視して、もし再評価すべきところがあると思うなら再評価したっていいんだ。それをしないから、80年代のオウムの姿もちっとも視野に入ってこないし、80年代論も90年代論もムチャクチャになって、市川真人が「ぼくたちの世代は、彼らの選挙パフォーマンスを渋谷の駅前で見ているからね」とか、遅れまくったことを平気で自慢げに云ったりできる(笑)。
 市川が云うように、たしかにオウムの人たちは、「あの着ぐるみとダンスで本気で選挙に通ると信じてい」たわけで、そこがまさにぼくがさっき云った、社会科学の素養がまったくないオウムの限界なんですけど、オウムが本格的にマズいことになる起点は実はこの90年の選挙にあるんだよ。当選するはずなのに落ちた、おかしいぞってことで、“票が操作された!”とか云い出して、どんどん陰謀論に傾いていくわけだ。
 そういう経緯もおそらくこの人たちには分かってない。逆に云えば、それ以前のオウムは比較的マトモな宗教であることも、ちゃんと見ればすぐ分かるはずだよ。
 163ページ下段で市川が一応、宅八郎についても言及してるけど、「『SPA!』も大事ですよね」と云って『SPA!』に触れたついでに、「宅八郎もいてサブカル批評の中心だった」という、ただそれだけです。オウム事件の時にいかに重要な仕事をしたか、一言も触れられてない。これほどの矮小化もなかなかないよ。『ゴーマニズム宣言』の絡みで云っても、“最初の敵役”は絓秀実だけど、“最大の敵役”は宅八郎だったことも、誰が読んだって明らかな事実のはずだ。

藤村 たしかにそうだった気がする。

外山 オウム事件に際して宅八郎は、『SPA!』の「週刊宅八郎」って連載で毎週、オウムを擁護するというより、要は警察の強引な捜査手法を批判した。ところが小林よしのりも『SPA!』で「ゴーマニズム宣言」を連載してるわけで、サリン事件のずっと以前に坂本弁護士一家の事件を取り上げて、その時点ではもちろん確たる証拠もなしにオウムによる犯行と断定したことで、オウムに命まで狙われるハメになったんだし、サリン事件の後はもうカサにかかってオウム・バッシングをやりまくるんだけど、同じ雑誌で毎号、宅八郎がオウムではなく警察側を批判してることが腹立たしくて仕方がない。で、小林が「ゴー宣」の中で宅攻撃を始めて、宅側も連載の中で応戦して、そこから『SPA!』誌上で4、5ヶ月間、壮絶なバトルが毎号繰り広げられたわけですね。
 あの時期の『SPA!』は読み応えがあった。小林の云ってることはメチャクチャだったし、やがて『SPA!』の他の何人かの連載陣も、松沢呉一をはじめ宅側で参戦し始めたりして、小林は完全にキレていわば“場外乱闘”に持ち込むんです。つまり、『SPA!』の発行元である扶桑社の上層部に交渉して、宅八郎の連載を打ち切らせ、小林の目には宅側についてるように見えたらしい編集長も解任させた。扶桑社にとって『ゴーマニズム宣言』の単行本はすでにドル箱になってましたからね。
 そうして宅八郎は結局、文筆家生命を断たれて、しばらくは『噂の真相』とかに連載を持ってたけど、今はもうどうしてるのかぼくも知りません。“小林vs宅”論争というのはそういうもので、のちに舞台裏まで含めて経緯のすべてをまとめた『教科書が教えない小林よしのり』(ロフトブックス・97年)という本も出ています。
 この論争のことを、少なくとも東浩紀は知ってるだろうと思うんだが、完全にスルーしてるよね。他の何をスルーしても、これだけは絶対にスルーしてはいけない、90年代の最重要論争だし、批評をめぐる最大の事件なのにさ。

藤村 “麻原の再評価”にもつながりかねないからでしょう(笑)。

外山 ったくヘナチョコ文化人が!
 ……まあ“再評価”と云えばぼくはむしろ小林よしのりを再評価してますけどね(笑)。だってぼくはオウム事件当時、オウムのさまざまな暗黒面が次々と暴露されていく中、オウムの標的選びはなかなか正しいなあと思ってたぐらいだからさ(笑)。ただ、獄中短歌でも戯れ歌を1つ詠んだように、標的選びは正しいんだけど照準がアバウトすぎる。松本サリン事件は裁判官の官舎を狙ったんだし、地下鉄サリン事件の本来のターゲットも警視庁に出勤する警察官たちだったわけで、革命組織としてはまったく間違ってないんだけど、結局は裁判官も警察官も1人も死んでなくて、無関係な人たちばっかり巻き添えで殺してしまってる。共産党の弁護士を殺すことなんか正義に決まってるけど(笑)、そんな極悪人と意気投合した奥さんまではともかく、子どもは巻き込んじゃいかんだろうとぼくでも思う。
 ……でまあ、小林よしのりだって死刑に値する文化犯罪者だと当時のぼくは思ってたわけだ。しかし小林はその後、ものすごく更生したでしょ。オウム事件の時のろくでもない振る舞いについては今でも改悛の情は見られないけど、90年代後半の小林のネトウヨと大差ない水準からすれば、今の小林は思想的には見違えるほど向上した。それでぼくは、やっぱり簡単に“コイツは死刑にしてもいい”とか結論を下しちゃいけないな、と深く反省してるんです(笑)。“人は変われる!”って(笑)。
 冗談めかして云ってるけど、わりと本気で思ってるんだ。“死刑問題”を考える時、“小林よしのりの更生”が最近は必ず念頭にあるもん。

藤村 さすがにどうコメントしていいか分からんよ!(笑)

外山 じゃあ次に行っちゃいましょう。


 (「3.屈折の時代」黙読タイム)


外山 ……いかがですか? 先に読んできた藤村君が予告してたとおり、前半に東浩紀による加藤典洋への大絶賛がありました(笑)。

藤村 ちょっと不自然なぐらいの、ね。90年代の批評史を全般的に論じ合うに際して、加藤典洋への言及に割くこの分量の多さは異常だよ(笑)。

外山 たしかに他に言及されてる人たちに比べても圧倒的な分量だ。

藤村 ゴメンナサイってことでもあるんでしょう。

外山 どういうこと?

藤村 東浩紀は以前、「棲み分ける批評」(99年・河出文庫『郵便的不安たち』所収)って文章を書いてて、その結論部分は加藤典洋への批判なんだ。“加藤さん、あなたの云うことも分かるんだけど、その語り口ではダメだ”的な……持参してるんで読み上げると、こう書いてる。
 「ポストモダニスト、あるいはアカデミズムの言葉がいま力を失っており、その原因が遠く敗戦が引き起こした精神分析的な歪みに遡るという『敗戦後論』の指摘については、確かに私もまた同意してよい。しかしその機能不全を乗り越えるため加藤が取るべきだったのは、古い文芸批評の語り口ではなく、むしろまったく新しい語り口、アカデミズムとジャーナリズムを同時かつ横断的に説得できる別の文体ではなかったか」って、これを書いた99年時点ではそんなふうに批判してたわけです。
 しかし今回の座談会では、東はむしろ「敗戦後論」での加藤のいわば“文学的な語り口”を高く評価してる。そういう東自身の認識の変化もあって、“以前はよく分かってませんでした、ゴメンナサイ!”って疾しさで、それを埋め合わせるためにも長々と加藤典洋について語ってるんじゃないか、と(笑)。

外山 ……168ページ上段から中段にかけて大澤聡が云ってるように、90年代半ばというのはたしかに、どういう事情からかインテリ界隈では「ベネディクト・アンダーソン『想像の共同体』(八三年、邦訳八七年)などの国民国家論が席巻してい」て、「左派が国民国家の幻想性や仮構性にこだわった時代」だったと思う。大澤も、小熊英二のデビュー作『単一民族神話の起源』(新曜社・95年)とかと並べて絓さんの『日本近代文学の〈誕生〉』(太田出版・95年)を挙げてるとおり、絓さんもそういう流れの中にいた。
 で、加藤典洋の『敗戦後論』はそれらとは完全に相容れないもので、ほとんど袋叩きに遭ってたよね。左派インテリが“ナショナリズム批判”に熱を上げてる真っ最中に、結果としてはナショナリズムの復活につながりかねないような提起を加藤典洋はやったんだから、仕方がないと云えば仕方がない。
 日本が近隣アジア諸国に謝罪するためには、まずその謝罪の主体となる“日本人”が形成されなければいけない、そして“日本人”が形成されるためにはまず日本人戦没者の追悼が順序として先にならなければならない、というのが加藤典洋の提起なんで、そりゃ“ナショナリズム批判”の人たちは猛反発するだろうけど、ぼくは、あくまで“現実的な解決策としては”だけど、加藤典洋の云う方向以外にはありえないと思うし、だから『敗戦後論』にもぼくは肯定的なんだけどさ。

藤村 東浩紀はずっと『批評空間』の圏域にいたから長いこと自覚できなかったんだろうけど、やっぱり本来は“『オルガン』右派”の一員たるべき人なんです(笑)。加藤典洋はこの当時のアカデミズム的な知的圏域とはまったく隔絶した問題意識を持ってて……。

外山 どっちかというと『批評空間』派のほうが、当時すでに“閉じたタコツボ”と化してて、もちろん『オルガン』派も含めた“批評シーン”全体がもうタコツボ化してもいたけど、それでも相対的には『オルガン』派のほうがまだ大衆性というか、“批評シーン”の外へも届く言葉を持ってたんじゃないかな。だからこそ、『敗戦後論』を機に起きた加藤典洋vs高橋哲哉の「歴史主体論争」では、166ページ下段で東が皮肉を云ってるように、「当時はまだ無名」だった高橋哲哉は「むしろこの論争で有名になり『靖国問題』(〇五年)などを出版することになる」という展開にもなる。
 つまり社会全体からすれば、『批評空間』系よりも『オルガン』系のほうが、『オルガン』という雑誌自体は超マイナーだとしても、加藤典洋にせよ橋爪大三郎にせよ個々の論客たちは、まだしも“メジャー”な存在だったはずです。そういう端的な歴史的事実を、たいていの場合このテのインテリどもは見ないし見えてもいないんで、加藤典洋なんかこういう“批評史”では仮に扱われるとしても軽視されがちで、それらと比べればこの座談会は、まあ東浩紀が他の3人に比べればだいぶマトモなおかげですけど、珍しく事実に近い歴史が語られてる。

藤村 『敗戦後論』は右からも左からも批判された。169ページ上段の大澤聡の発言に「一五年経て、白井聡が『敗戦後論』に近いロジックを『永続敗戦論』(一三年)で再生することになります」とありますが、『永続敗戦論』は実際、『敗戦後論』を踏まえて書かれているんです。
 白井聡は加藤典洋の『敗戦後論』での主張を2つに分けていて、1つは、日本人が“敗戦”によって生じた“ねじれ”を直視してこなかったということ、もう1つは、“ねじれ”を克服した、近隣諸国への謝罪の主体としての国民国家の形成という話で、“歴史主体論争”では後者の論点ばかりが焦点化されて、前者の論点はなおざりにされた、と書いてる。で、この前者の論点について考察をすすめていこうというのが『永続敗戦論』のモチーフなわけです。日本の敗戦を為政者が 直視せずにすむようなレジームをGHQが敷き、それが今日に至るまで続いている、と。
 この主張は、“戦後体制打破”、“ヤルタ・ポツダム体制打倒”を唱える反米保守や反米右翼、例えば『月刊日本』とか西部邁の『表現者』といったメディアでは非常にウケがいい。じっさい『月刊日本』には何度か登場してるし、『表現者』のシンポジウムにも呼ばれてるからね。
 しかし大澤さんは続けて、「ただし、そこには加藤に存在した『屈託』はすっかり消失し、平板化されている」と白井聡を批判してて、これは大澤さんの云うことはオレもよく分かります。さらに続けて「これは時代的な必然ですし、本人の戦略でもあったはずです」というのもそのとおりでしょう。しかし、「にもかかわらず、人々はこれを新しい議論として迎えた」理由は、白井聡自身がちゃんと解説しているでしょ。“国民国家の形成”という論点だけが批判的に論じられるだけで、“ねじれ”の直視という論点はなおざりにされたからだよ。だから“批評”というタコツボ業界では『敗戦後論』は“過去の本”にされてしまった、そういうことでしょう。

外山 とくに『批評空間』を中心とした“タコツボの中のタコツボ”的な“批評シーン”では、加藤典洋の書くことなんかハナからバカにされてちゃんと読まれもしなかったわけで、15年ぐらいして白井聡が似たようなことを云うと、“なんと斬新な!”ってことにもなる、と(笑)。

藤村 そうそう(笑)。ただ、この座談会のメンバーは白井聡にはあまり良い印象を持ってないようですね。その理由は、白井聡の一連の言説が“アベ政治を許さない!”的な運動の、しかも左右を巻き込む形で1つの思想的バックボーンになってるという状況にもあると思う。

外山 先週も槍玉に挙げた、“運動”的なものの復活の気配に対する彼らのトンチンカンな危機感とも関連してるわけだ。大澤発言の直前、同じ169ページ上段の「八九年から二〇〇一年というのは、とにかくある種の屈折への感性が問われていた時代で、『敗戦後論』もその一例に数えられる。ゼロ年代に入ると、その屈折がなぜかなくなる。そして単純な左翼が復活してくる」という東の発言からもそのことは窺えます。どうも東にとっては、2000年代以降というのは“苦々しい”時代のようですね。

藤村 “3・11”以降はますますそうでしょう。

外山 しかし先週も云ったように、東はここで「その屈折がなぜかなくなる」と語る、つまり「なぜか」というふうにその変質の脈絡を捉え損なっている。
 「単純な左翼が復活してくる」のは柄谷なんかの動向とは実は全然関係なくて、90年代後半に“だめ連”が首都圏の若い政治系と思想系との“交流”を促進して、それまで非政治的だった思想系の連中の政治的発言への心理的障壁を下げ、さらに00年代に入ると“だめ連”の近傍からフリーター労働運動が登場して、いわゆる“ロスジェネ論壇”が形成されるという、そういう流れが見えてないんだね。ぼくに云わせれば、「なぜか」でも何でもないよ(笑)。
 白井聡はそれら“だめ連系”の圏域から出てきた人ではないけど、しかし00年代を通じて30歳前後の若い論客たちが何のテライもなく左翼っぽいことをストレートに主張してもオッケーな基盤がまずは“だめ連”の延長線上に形成されて、それなしには白井聡も登場できなかったはずです。凡庸に左翼的な“ロスジェネ論壇”がすでに形成されていたからこそ、白井聡や、あるいは栗原康とかの言説もそれほど奇異で唐突なものとは受け取られなかった。
 で、“アベ政治を許さない!”的な風潮には、おそらく白井聡は“ロスジェネ論壇”の面々以上に親和性があるのもたしかで、東浩紀たちにはますます“苦々しい”んでしょう。

藤村 オレは白井聡がラジオに出て喋ってるのを聴いて、オレはもともとさっきから云ってる“反米保守”系に近いんだし、白井聡には結構いい印象を持ってたのに、ありきたりのド左翼みたいなことしか云わないからガッカリしたんだ(笑)。

外山 ぼくは白井聡の単著はまだ1冊も読んでないんで(後註.のち2018年11月にゲンロンカフェで白井氏と対談することになり、本番に臨む前にすべて読んだ)何とも云えないところがあるけど、笠井潔との共著(『日本劣化論』ちくま新書・2014年)が出た時のイベントで話を聞いたかぎりでは、やっぱり超凡庸な市民派左翼っぽい言説をまくし立ててましたね(笑)。
 ……171ページ上段に、「ゼロ年代は一般に『純粋まっすぐ君』の時代ですから」という東の発言がありますが、これもやっぱり“運動の言葉”の時代だという意味で、東にとって“政治の言葉”、“運動の言葉”というのはつまり“「純粋まっすぐ君」の言葉”だということです。そういう言説が00年代に入って台頭してきたことが東には“苦々しい”わけです。

藤村 ここで云ってる「純粋まっすぐ君」というのは、ヘサヨ的な連中のことでしょ?

外山 いや、シールズ的なものも含めてであるはずだよ。もっとも東浩紀はその「純粋まっすぐ君」たちがどこから発生してきたかをよく分かってなくて、同じ171ページ上段で「柄谷門下からは『純粋まっすぐ君』ばかりが生み出され」云々と、まるで91年の“文学者の反戦声明”以来の柄谷の“左旋回”がその大元であるかのような、トンチンカンなことを云ってるけどさ。
 ……だけどこの第3節は、これまで『批評空間』系のヘゲモニーによる「批評界の派閥争いのなかで解釈されてしまっ」(170ページ上段・東)ていた『敗戦後論』を公正に位置づけ直す、という部分を除いては、あとは“文学の話”になっちゃってるよね。ぼくはあんまり云うことがない(笑)。

藤村 面白いと思ったのは、東浩紀の福田和也に対する評価がメチャクチャ低いということで……。

外山 あ、そのようですね。

藤村 そこはよく理解できるんだ。加藤典洋なんかは、まあ柄谷もそうだけど、その人自身の“思考”それ自体が読んでて面白いわけでしょ。それに対して福田和也は、その博識ぶりがすごい、という人であるように思う。
 例えば加藤典洋と高橋哲哉の“歴史主体論争”の時にも、どっちもハンナ・アーレントを引き合いに出して持論を述べるわけだけど、“アイヒマン問題”でアーレントの論敵だった……ショーレムって人だったかな、福田和也はショーレムのほうがアーレントよりずっと深い洞察をしてると云って、論争しながらお互いにアーレントを褒め合ってる加藤と高橋の教養のなさを嘲笑ってたんだ。ショーレムの、“故郷なきシオニズム”というか、ある種のファシズム的な側面を福田和也は評価してて、それはそれで面白かったんだけど、それはやっぱりそういうものをパッと引っ張ってくる福田和也の“知識”の凄さでしかない。『批評空間』で福田和也が重用されたのも、『批評空間』のそういう教養主義的な体質からだと思う。
 直感主義的でまさに“文学”的な加藤典洋とは肌が合わないはずで、じっさい福田和也は加藤典洋をバカにしまくってた。

外山 へー、そうなのか。

藤村 もっとも先に悪口を書いたのは加藤典洋のほうなんだけどさ。しかもはっきり名前も挙げずに、“パンク右翼とか自称してる奴がどうこう”って何かの註で書いてて、それで福田和也もアタマにきたのかもしれない。
 それに加藤典洋って、読んでて普通はムカつくでしょ(笑)。独特の持って回った比喩が多いし、著作のタイトルがそもそも『なんだなんだそうだったのか、早く言えよ。』(五柳書院・94年)だの『ポッカリあいた心の穴を少しずつ埋めてゆくんだ』(クレイン・02年)だの、「“みつを”かよ!」っていう……(笑)。

東野 “ポッカリあいた…”というのはフィッシュマンズの歌詞ですね(「POKKA POKKA」97年)。

外山 おーっ!

藤村 そうだったのか……さすが若者(笑)。

外山 さてはサブカル野郎だな(笑)。

藤村 ともかくその『ポッカリあいた心の穴を少しずつ埋めてゆくんだ』を初めて図書館で見かけた時は、オレもすでに加藤典洋から離れつつあった時期だったし、借りようかとも一瞬思ったけど、やっぱり“キモっ!”と思ってやめた(笑)。まあそういう言語センスの人だし、福田和也が反感を持つのも仕方がない。

外山 ぼくは福田和也とは思想的には近いんで、かなり支持してるし愛読もしてるけど、たしかに云われてみれば、ぼくもその博識ぶりに圧倒されてるだけかもしれない。

東野 我々の掲げるファシズムとは、近いようで遠いような気もしますよ。福田和也はアンガージュマン(サルトル哲学用語で“参加”。英語で云えば“エンゲージメント”だが、思想用語としてのニュアンスでは、“政治的な運動への具体的関与”)ってことからは絶対に距離をおくじゃないですか。

外山 うん、そうだね。

東野 そこは我々の立場とは全然違うでしょう。

外山 掲げてるイデオロギーは近いけど、そこはたしかに違う。
 ……174ページ下段に「当時、福田さんは『批評空間』の外部だという話になっていたけど」云々と福嶋亮大の発言があるけど、これは『批評空間』側がそう見なしてたってこと? 実際は全然“外部”ではないよね。せいぜい“周縁”にすぎない。浅田や柄谷とは思想的に左右の違いがあるというだけで、完全に議論が成立する相手なんだしさ。『批評空間』から見れば、福田和也より『オルガン』派の面々のほうがよっぽど“外部”だったはずでしょう。宅八郎なんかもっと“外部”(笑)。
 ……しかし東浩紀はそこらの同世代論客よりずっと広くいろんなところに目配りしてるらしいことが先週・今週の読書会で分かってきて、印象はだいぶ良くなったんだけど、それでも“宅八郎”の名前はちっとも登場しないんだもんなあ。困ったもんだ。

藤村 さっきチラッと1ヶ所、名前は出てきたけど……。

外山 だって彼らの大好きな“オタク問題”に限っても、宅八郎こそまさに最も戦闘的な“オタク活動家”でもあったはずじゃん。中森明夫の周辺から、それこそ“M君問題”を契機に、わざと“いかにもキモヲタ”なファッションに身を包んで、宮崎事件でオタク・バッシングが最高潮に高まっている渦中に自ら進んで“社会の敵”として登場してきた。

藤村 小峯隆生(当時『週刊プレイボーイ』編集者で、「オールナイト・ニッポン」のパーソナリティとしても人気を博した)との論争とか……。

外山 “論争”ではないけどさ(笑)。マッチョなキャラの小峯隆生とはもともと合わなかっただろうし、何かの契機で険悪な関係になって、たしか脅迫めいたことを云われたんだったと思うけど、それに対する宅八郎の反撃がまたものすごいんだ。当時のネガティブな“オタク”イメージそのまんまというか、のちに云う“ストーカー”そのもので、小峯隆生の自宅マンションの隣室に引っ越して、私生活を監視して、“今月の小峯”とかってふうに『噂の真相』の連載コラムでレポートするの(笑)。
 そういう“闘い方”の部分も含めてぼくは“宅八郎、断固支持!”だったよ。小林よしのりとの論争の時も、宅八郎が絶対に持ってるはずのない小林側の内部資料をなぜか持ってたりして、スパイでも放ってたのか、それとも小林事務所前でゴミ漁りでもしたのか、とにかくすさまじい執念だよ。いじめられっ子の復讐劇みたいな感じで、ぼくはとてもワクワクしたし、共感した(笑)。
 ……座談会の後半は、ぼくにはあまり関心のないテーマに終始してて、とくに云うべきこともありません。

藤村 オレもこの第3節は全体として、『オルガン』系出身者としては最も違和感の少ない箇所でした(笑)。

外山 うん、ぼくも何だかんだで結局もともと『オルガン』派だしな(笑)。じゃあもう、次の第4節に進んじゃいましょうか。

藤村 そうしよう。

外山 これで最後かな? “第5節”はないよね?

藤村 うん。そのかわり第4節はけっこう長いよ。


 (「4.出版の衰退、大学と政治の回帰」黙読タイム)


外山 よろしいでしょうか? 何かあればどうぞ。

藤村 まとめて云うと、出版界の変化があり、かつて“批評”は在野のものだったのが、アカデミズムつまり大学人たちのものになってしまった、と。その結果としてオタク的な言説は排除されて、ヘサヨ的な言説が蔓延するようになって……。

外山 で、嘆かわしい、不愉快だ、とキモヲタどもが口々に……(笑)。

藤村 ある意味、すがすがしいですね。東浩紀もまったくストレートに、要はキモヲタ的な志向を“批評”に導入せよと云ってるわけで(笑)。

外山 ……さっきからさんざん、視野が狭いとディスってきたけど、彼らの視野には入っていないと思ってた領域にも多少は目配りがされてるようで、もちろん中途半端にしか視野に入れてないからかなりトンチンカンではありつつ、181ページ中段から下段にかけて、“だめ連”と“批評シーン”の関わりについても少し言及がある。
 181ページ下段の福嶋亮大の発言に「九〇年代前半の論壇や文壇は総じて躁的ですね」とあって、さっきも云ったようにそれは反革命言説の空騒ぎ的な隆盛にすぎないんで、“90年代前半は活気があって素晴らしかった”という、福嶋にかぎらず彼ら4人が共有してる基本認識がそもそもトンチンカンなんだけど、そこは目をつぶるとして、続けて「しかし、だいたい九五年のオウム事件をきっかけとして、急に鬱モードに入っていく。それまでの躁的な心理状態がくるっと反転し、未来が閉ざされた感じになってしまった」っていう、閉塞状況が90年代半ばに誰にも明らかな形で露呈してきたという認識はそう間違ったものではないとも思う。まさにそういうところに“だめ連”が登場するんです。
 アカデミズムにしても、低調なアカデミズム・シーンに“だめ連”を導入することによって盛り上げようと考える連中が登場したりする。具体的には、ここにも名前が出てくる“小倉虫太郎=グラムシさん”こと丸川哲史が筆頭格ですね。もともと177ページ中段から下段にかけて大澤聡が云ってるように、雑誌『現代思想』の編集長が「九三年に池上善彦に変わ」ったこともあって、「あきらかに『政治と思想』のカップリングへの揺り戻しが見られる」という“素地”はできていたのかもしれません。
 その前後で東浩紀も『現代思想』誌が「九五年以降は急速に『政治化』していく」、「個人的には、九六年四月臨時増刊号の特集『ろう文化』が印象に残っている。あ、こういう方向に行くんだと虚を突かれた記憶がある。ほかにも当時の特集一覧を見ると、『レズビアン・ゲイスタディーズ』(九七年五月臨時増刊号)、『ストリート・カルチャー』(九七年五月号)、『身体障害者』(九八年二月号)、『スチュアート・ホール』(九八年三月臨時増刊号)、『ジェンダー・スタディーズ』(九九年一月号)と、はっきりした路線変更がうかがえます」と云ってるとおりです。
 で、ここに挙げられてる中にある97年5月の“ストリート・カルチャー特集”というのが、丸川哲史が事実上編集した、まさに“だめ連界隈”の特集号なんですね。
 ぼくも登場してるぐらいで、ただしぼくのは、ぼくと鹿島拾市(加藤直樹)の対談を丸川哲史がテープ起こししたもので、ぼくや鹿島君のチェックも経てない、ぼくらが云ってないことまで丸川哲史がたぶん善意で勝手に補って書き足してて、ぼくなんか“ノイズ”なんてこっ恥ずかしい単語を口にしたことにされてるし(笑)、全然面白くないし不本意きわまりない記事に仕立て上げられてしまってるんで、ぜひ読まないでほしいんですが(笑)、“だめ連”のメインである神長恒一とペペ長谷川はもちろん、矢部史郎も登場してるし、酒井隆史も、“メンズリブ東京”の豊田正義も、岡画郎(誤記に非ず)や小川てつオといった現代美術方面の人たちも、とにかく当時の“だめ連”界隈の主要な面々は総登場してると云っていい。松本哉はまだギリギリ、この年に“法政大学の貧乏くささを守る会”で首都圏の政治運動シーンに颯爽とデビューするんで、登場してませんけどね。
 “レズビアン・ゲイスタディーズ特集”も同じ97年5月の“臨時増刊号”とのことですが、とにかく『現代思想』誌の露骨な“若者たちの新しい左翼運動”路線への出発点となった号だと見なしていいでしょう。とくに矢部史郎がこれ以降、『現代思想』に頻繁に寄稿して“新進の左翼論客”化していきます。
 特集を主導した丸川哲史はこの当時、まだ“アカデミズム側”の人ではなく、大学に職を得るのはもっと後(01年)のことで、むしろ“運動”側の人、明治大学ノンセクトを経て95、96年頃から“だめ連”に急接近し、この97年時点ですでに神長・ペペに次ぐ“だめ連のナンバー3”と呼ばれてたような人です。もちろん超インテリで、同じ97年のうちに『群像』誌の評論部門の新人賞を獲って批評家デビューもします。神長・ペペの2人は、いずれも早大出身ですがインテリ・キャラではなく、“だめ連”とアカデミズムとを接続するのは丸川哲史です。アカデミズム側の“受け皿”として、デリダの弟子であるらしい鵜飼哲とか、やがて“カルチュラル・スタディーズ”の紹介者の主要な1人になっていく上野俊哉とかがいたように記憶してます。
 毛利嘉孝が“だめ連”とかに注目し始めるのはもっとずっと後だと思うけど、とにかく丸川哲史の“だめ連入り”以降、“だめ連”は急速にアカデミズム・シーンに受け入れられていくし、あるいは、当初は“中野駅前駐輪場”とかで酒を持ち寄ってゲリラ的におこなわれてた“だめ連”の“交流会”が、ロフトプラスワンなんぞで料金をとっておこなわれるようになって、そこにゲストとして上野千鶴子だの宮台真司だの登場するのもやっぱり“ストリート・カルチャー特集”以降のことだったはずです。
 181ページ下段で市川真人が、「九〇年代を通じて、東大駒場寮の廃止問題も続いていましたよね。ちょうどその末期に、谷崎論で群像新人文学賞からデビューした丸川哲史が、『だめ連』の一員として関わっていて、なぜか駒場のグラウンドで野球をした記憶があります。柄谷行人率いるチーム『カレキナダ』と丸川さんたちのチームの試合で、批評空間的な文脈とストリートの思想がすれちがったのが、まさにそのあたりの時期だったんですね」と回想してますけど、市川真人はあの“伝説の試合”に参加してたってことか(笑)。“だめ連”の本(00年前後に3冊出たうちの1つ、『だめ!』河出書房新社・99年)によると、やっぱり97年の“ストリート・カルチャー特集”の直後のことで、絓さんが“だめ連”界隈に入り浸るようになるのも、この試合がきっかけだったようです。

藤村 柄谷の野球チームは“枯木灘”って名前なんだ……。

外山 ちなみに“だめ連”側は“青春ダイナマイツ”で(笑)、これは神長君のセンス。

藤村 それはすごい。“枯木灘”はいかにも文芸批評家チームっぽい、中上健次の小説タイトル由来だけど、“青春ダイナマイツ”って名前は絶妙でいいなあ。

外山 “だめ連”は後の“素人の乱”とはまた別種のお笑いセンス、わざとダサいワードを連発するって芸風で売ってたんだよ。“交流”ってのも、それまではいかにも共産党的、民青的なダサいワードとして忌避されてたのを、“だめ連”がわざと連発してるうちに界隈に定着した。この草野球イベントでは、“だめ連”側のピッチャーだった丸川哲史が、柄谷に甘い投球をしてホームランを打たれるという“接待投球”疑惑、通称“だめ連・黒い霧事件”というのもあって……(笑)。
 まあそういう些末なエピソードはいいとして、179ページ中段から下段にかけて大澤聡が云うように、「たとえば、九〇年代前半には上野俊哉がアニメ批評や都市論を展開し始めていた」り、「上野さんの登場と前後して宮台さんたちの『サブカルチャー神話解体』が出ている。『宝島』的な八〇年代カタログ文化の集大成であると同時に、社会学的な知を融合した奇跡的な一冊だと思います」というようなことが、つまり“批評シーン”とアニメなどの“サブカル・シーン”との“越境”が起き始めていた矢先に、『現代思想』の“ストリート・カルチャー特集”なんかを契機として、カルスタ的な方向が決定づけられてしまう、と。そもそもカルスタはサブカル的なものも対象とすべきものであるはずなのに、「その後の日本のカルチュラル・スタディーズはこの手の成果を」、つまり90年代前半の上野俊哉や宮台真司が提示したような方向性を「うまく取り込めなかった。というか、サブカルを排除した」ってことに、彼らからすれば感じられるようです。要は“我々は排除された!”と憤ってるわけですね、キモヲタどもが(笑)。
 で、181ページ中段で東浩紀がいかにも苦々しげに云ってるように、「九〇年代の末、今日対象にしている時期の最後のほうでは、ポストモダン哲学は言説としてはほぼ死に体になっていく。他方で元気になっていったのが、ある意味開き直りというか、『おれら、頭悪いかもしれないけど正しいことは言ってるよ』的な『運動系』の人々ですね。そして、そんな『頭の悪い』運動家を、『頭のいい』カルスタ系の大学人が支援するという、いまに続く構図が出来上がる」ことになった。
 ただし、実際にはその“運動系”の“だめ連”の側にも、まだ大学に職を得てないだけの、丸川哲史や酒井隆史といった“頭のいい”連中が存在してたわけで、しかも“だめ連”の中核メンバーは、基本的には早大ノンセクトだし、偏差値の高い、“比較的アタマのいい大衆”の運動です。だからこそ丸川哲史がちょっと工作すればアカデミズムと結びつけることも容易だった。これが松本哉の運動だと、そう簡単にはいかない(笑)。
 4人の中では比較的マシな東浩紀でさえ、そこらへんの諸々については多少なりとも視野に入ってるようではあるが、ところどころの“点”での認識でしかないんだよな。“線”として見えてなくて、隔靴掻痒の感を否めない。
 ただ、同じく181ページの中段、東が「『もうひとつの』というか、いま振り返れば、むしろそちらこそがゼロ年代の本流だよね。ぼくから宇野常寛にいたるおたく系批評の流れは、いまや潰えてしまった」と渋々認めてますけど、「もうひとつの」というのは、その前の大澤の「カルチュラル・スタディーズの導入からキャリアを出発した毛利嘉孝がのちに『ストリートの思想』(〇五年)で描くことになる、もうひとつのゼロ年代批評のライン」という発言を承けてのもので、この東の認識は、相対的には正しいと思う。
 毛利の『ストリートの思想』(NHKブックス)も、“外山恒一”を完全に排除してることはもちろん、“秋の嵐”も88年の“反原発ニューウェーブ”さえも視野に入ってない、まるで“だめ連”か“イラク反戦”あたりからそこらへんの系譜が始まってるかのように云うヘサヨ版のインチキ通史本にすぎませんけど、政治運動シーンの動向を軸にしてるぶん、そりゃ相対的には東とかの書く通史よりも真実に近いですよ。
 もっとも、ぼくに云わせれば、“だめ連”は、低調になってたアカデミズム・シーンを最活性化するために都合よく利用されたんですけどね。そもそも95年頃までは、“頭のいい人たちがやってる、頭の悪そうな運動”だったのを、丸川哲史が、見たいものを見たいようにしか見ることのできないアカデミズムの連中にも受け入れやすいように、毒気を抜いて“安全”なものとしてプレゼンした。その結果、アカデミズム・シーンは“だめ連”を受容して、丸川の目論みどおりまんまとヌルーく“政治化”して、カルスタ的な傾向を強めていくわけです。
 あと、やっぱりちっとも見えてないなあと思うのは、さっきの「『頭の悪い』運動家を、『頭のいい』カルスタ系の大学人が支援するという、いまに続く構図が出来上がる」という部分に続けて東が、「それはのちゼロ年代に入ると、『サウンドデモ』『素人の乱』を通って現在のSEALDsにまでつながっていくことになるわけです」と云うあたりだよね。“だめ連”や“素人の乱”と、“サウンドデモ”のイラク反戦や“3・11以降”の反原連やシールズとはまったく別の系譜だということがまるで分かってないらしい。

藤村 そこらへんは毛利嘉孝でさえ、“だめ連”や“素人の乱”は評価するけど、“3・11以降”の諸運動は評価してないでしょ? 逆に反原連やシールズを高く評価する小熊英二は、まあちゃんと読んでないから印象で云うんだけど、たぶん“だめ連”や“素人の乱”はあんまり評価してないんじゃない?

外山 2つの異質な流れを東は峻別できてないんでしょう。

藤村 もちろん東浩紀はキモヲタなので(笑)、その立場からすれば両方とも似たり寄ったりの“敵”ってことになるんでしょうけど……相対的にはやっぱり毛利の歴史記述のほうが優れていると云わざるをえない。
 それに、その両方を批判の対象にするとしても、批判するんならちゃんと分析して、そのぐらいの腑分けはできてなきゃおかしいよ。小熊英二や五野井郁夫と、毛利嘉孝や酒井隆史や丸川哲史とが違うラインであることは、ちょっと見れば分かるでしょう。

外山 さらに云えば、反原連やシールズに関しては、まさに東の云うように「『頭の悪い』運動家を、『頭のいい』カルスタ系の大学人が支援する」構図にピッタリ当てはまるけど……。

藤村 五野井の場合は“頭の悪い運動家を、頭の悪い大学人が支援してる”んじゃないかな?(笑)

外山 まあそうだけど(笑)、“だめ連”に関して云えば、むしろ逆で、“頭のいい運動家がカルスタ系の大学人を支援して、活性化させてやった”ようなものだよ。“素人の乱”の場合は、基本的にはアカデミズム・シーンとは無関係に勝手に存在してるにすぎない(笑)。

藤村 “素人の乱”は、まあ“頭の悪い運動家”たちの運動と云ってもいいのかもしれないけど、べつに“頭のいい大学人”たちに“支援”してほしいとも思ってなくて……。

外山 ぼくの都知事選のすぐ後の、07年春の杉並区議選に松本君が出たあたりから、“素人の乱”にすり寄る知識人もチラホラ現れて、さらにはフリーター労働運動と親和性が高かったんでそっちからの流入も多少あって、“3・11”直後に短期間ながら反原発運動の中心に一挙に祭り上げられたことによって、柄谷すら“素人の乱”を絶賛し始めたけど、それらは一貫して知識人の側が右往左往してるだけで、松本君たちはそんなこととは無関係にマイペースでやるべきことをやってるにすぎません。松本君は、成り行きで反原発運動の中心に祭り上げられてしまったことを、“人生最大の失敗”とさえ云ってるぐらいでさ。
 ……ともかく東浩紀は“敵”を一緒くたにしすぎで、認識が粗雑にすぎる。

藤村 “素人の乱”と“ロスジェネ論壇”とも、またちょっと違うでしょ?

外山 フリーター労働運動は“だめ連”の近傍から登場したけど、いわゆる“ロスジェネ論壇”の面々は、そのさらに近傍に登場してきた、リアルタイムでは“だめ連”を知らないような世代だしね。

藤村 “ロスジェネ論壇”というと大澤信亮とか杉田俊介とかを想起するけど、彼らは“素人の乱”とも関わりはあるんだろうか?

外山 少なくとも深く関係してる印象はない。まったく無関係ではないにしても……。

藤村 “だめ連”とも関係なくない?

外山 遠い親戚ぐらいの関係だね。“だめ連”はフリーター労組と関係があり、フリーター労組の福岡支部(正確には“支部”ではない)の創始者でかなり正統派の左翼インテリで堂々たる論客でもあった小野俊彦君は、大澤信亮や杉田俊介とも親密だった。あ、でも“ロスジェネ論壇”を象徴する1人である雨宮処凛はフリーター労組の広告塔的な存在でもあって、同時に“素人の乱”ともつながってるか。
 つまりそれぞれ独立したいくつかの核があって、それらのうちのいくつかを横断してる個人が散在してて、全体が何となくユルくつながっているという……まさに“リゾーム”的?(笑) まあ、それが“マルチチュード”ってことでしょう。
 逆に反原連やシールズといった“3・11以降”の諸運動には、野間(易通)サンが“クラウド”だの何だのと自画自賛したがるのとは異なって、初期しばき隊を例外として、“マルチチュード”性の必須要件たる胡散臭さがない。
 ……話を座談会に戻すと、176ページで東が「批評はこの国では、大学の知とは無関係に、というよりもむしろその上位概念として育ってきた。それが、この一五年ほど逆に理解されている」と云ってて、これはこの第4節のタイトルにも「大学と政治の回帰」とあるように、“批評”が“政治”に侵食される一方で、“大学的な知”の劣位にも置かれつつあることへの苛立ちの表明ですが、「オマエモナ!」と東に対して思ってしまう(笑)。
 というのも、“批評”がなぜかつては“アカデミズムの知”よりも上位にあったかといえば、“批評”の背後に政治運動が存在していたからですよ。“批評”が政治運動と切れてしまったから、大学人の余芸みたいなものに成り下がって、そしたら当然アカデミズムの劣位に置かれます。“批評”が政治運動と再び結びつくことを嫌悪する東に、そのことを嘆く資格はありません。

藤村 東浩紀は現在ではゲンロンカフェの活動を生業としてて、“大学”とは無関係だけど、そもそもはやっぱりアカデミズム的な知の圏域に近い人だよね。

外山 他の3人はもっとそうでしょう。
 ……いま槍玉に挙げた東発言の直前で大澤聡が、思想系の“入門書”の類の変質について、それらの「主要読者もサブカル的大衆から学生や大学人へとシフト」したと云ってます。「サブカル的大衆」というのはきっと我々のような(笑)、“活動家”なんかも含む、アカデミズムの世界とは無縁に生活しつつ、自分の興味関心に基づいて『オルガン』系の批評家たちや浅羽通明とかの本をつまみ食い的に読んでたようなタイプのことを指して云ってるんでしょう。

藤村 そうだろうね(笑)。

外山 たしかにそういう人は減ってる気はする。とくに若い世代では、今や“大学”の中にしか“思想”だの“批評”だのに興味を持ってる人を見出すのは困難な状況かもしれない。

藤村 しかし今回コレを読むと、東浩紀にはやっぱり“大学”とは違う、もっと別の場所に確固とした“批評空間”を切り拓きたいという気概が窺えて……。

外山 そのココロザシはなかなか立派なものだと思うけどさ。じゃあ実際に大学以外のどこにそれを築き上げようとしているかと云えば……。

藤村 オタク界かよ、と(笑)。しかし考えようによっては、外山君の云うように、かつて“批評”にそれなりの地位があったのはその背後に“運動”が存在したからだとして、東浩紀にとってはオタク・シーンでのさまざまな創作活動や消費行動が、ある種の“運動”というか、その代替物のようなものであるのかもしれないね。

外山 体質的にはまったく“運動の人”だと思うんだ、東浩紀も。藤村君が前回云ってた、中学時代だかに「うる星やつら」の再放送を要求して署名運動をやったり、ラジカセで「うる星やつら」の主題歌を流しながら電車に乗ったりという、まさに我々の世代の活動家に特有の、自己流の思いつきによる八方破れ的な“暴走”っぽい立派な“武勇伝”からして、内容はともかく“活動歴”の長さは外山恒一や矢部史郎と張れるレベルのようだし(笑)、その後もずっと現在に至るまで、自分の掲げる方針に基づいて運営される同世代以下の批評家たちの“シーン”を形成する試行錯誤を飽くことなく続けてるようでもあって、完全に“運動体質”の持ち主だと考えていいと思う。
 しかしそれは素質というか体質のレベルでの話で、現実に正統派の政治運動の担い手であったことは1度もないがために、せっかくの素質が台無しになってて、政治運動シーンの動向には無知に近いし、そのくせいろいろ語りたがるもんだから偽史を量産して、我々にバカにされてしまうハメになる。実に惜しい人だ(笑)。
 この座談会の一番最後の締めのセリフ、187ページ下段の東発言の中にも、「冷戦と昭和が終わった八九年から、二一世紀が始まり9・11が起き、『テロの時代』が始まった二〇〇一年までの一二年間の批評の歩みを見てきました」とあるけど、その期間に起きたさまざまな出来事の中で最も重要であるはずのオウム事件については、少しもまともに検討されてないんだもん。「テロの時代」は日本では01年ではなく95年に始まってるんです。そこにさえ気づかないようではどうしようもない。
 結局、“外国の話”なら何とでも云えるんですよ。“9・11”に関してなら、そりゃテロはいけないけれども、米軍によるアフガン攻撃とか、テロ対策に名を借りた警察力の拡大というのもいかがなものか、みたいな議論もできるけど、いざ日本国内の問題となると、そりゃ地下鉄でサリンとか撒いちゃいけないけど、だからといって警察の強引な捜査手法が正当化されるわけではない、ぐらいのことさえ云えないんだ、こういう“軟弱ヘナチョコ文化人”どもは。“9・11”と地下鉄サリン事件の同質性に気がついたら、そういうことを云わざるをえなくなるし、逆にだからこそ彼らは決してそのことに気づくことがない。
 わざと気づかないフリをしてるんじゃなくて、本当に気づいてないんだと思う。“軟弱ヘナチョコ文化人”としての本能が、彼らをしてそのことに決して気づかせない(笑)。
 ……彼らも“だめ連”が“批評シーン”の近傍にチラチラしてたことには一定の目配りをしてるんだけど、遠くから眺めての印象をあれこれ云ってるにすぎないんだよな。
 178ページあたりで、「『批評空間』派が『ポスコロ』『カルスタ』とバカにしているあいだに、現代思想の本拠地自体が急速に『ポスコロ・カルスタ化』していった」(東発言)ことについて、もともとアカデミズムの内部にそういう方向への衝動みたいなものが萌芽していて、それが00年代に入って全面化してくる、アカデミズムのそういう変質の中に“だめ連”も取り込んでいく、というような見方をしてるでしょ。つまりアカデミズムの変質の契機をやっぱりアカデミズムの内部にのみ見出そうとしてるんだ。
 でも彼らが認識している以上に“だめ連”のインパクトは大きかったと思うし、そもそもアカデミズムだって、政治運動をはじめ、アカデミズムの“外”のさまざまな動向と連動していろんな変遷を辿るんであって、アカデミズムの動向がアカデミズム内部の要因だけで決定づけられるわけがない。

藤村 彼らが“だめ連”とかを過小評価するのは、やっぱりシールズとか、「『頭の悪い』運動家を、『頭のいい』カルスタ系の大学人が支援する」という典型的な例を目の当たりにして、そういう構図を“だめ連”その他、過去のさまざまな運動にまで遡って投影しちゃってるところがあるんだと思う。

外山 遠近法的倒錯、というやつですな。

藤村 そうそう!

外山 なんか俄然インテリっぽいね、“遠近法的倒錯”とか云うと(笑)。
 ……180ページ上段で東浩紀が、「宮台さんの仕事はカルチュラル・スタディーズそのものですよ。そもそもカルチュラル・スタディーズというのは、日常生活やサブカルチャーの消費のなかに政治や階級問題やアイデンティティを見る地味なフィールドワークのことなのだから、直接の影響関係がなくても方法論は並行している。けれど輸入業者でしかない日本の大学人にはそのことがわからなかった」と“日本的カルチュラル・スタディーズ”の狭さを批判してて、まったくそのとおりですけど、ぼくが96、97年に主宰してた“ヒット曲研究会”(『ヒット曲を聴いてみた』駒草出版・98年として単行本化)だって我ながら見事なカルチュラル・スタディーズの実践ですからね(笑)。そのことは当時、学者生命が危うくなるから公には絶対にそんなこと云わないけど、参加者の1人だった酒井隆史ですら認めて驚愕してた。

藤村 その箇所はオレも目からウロコで、たしかに毛利とか吉見俊哉とかの“カルチュラル・スタディーズの専門家”連中は、宮台真司とかとはツルまないよなあ。そこらへんはたしかに不思議だ。

外山 しかも毛利とかと宮台とで、どっちが“文化的”なセンスがあるかと云えば、明らかに宮台のほう(笑)。以前にも紙版の『人民の敵』(第31号掲載の「絓秀実『1968年』読書会」/後註.すでにnoteでも公開済み)だかで、やっぱり“日本的カルチュラル・スタディーズ”の代表的論客の1人でもある小森陽一が、Xジャパンのヨシキが天皇の前で演奏するって話になった時(98年)に「それでもロックか!」みたいな“公開質問状”を出したことについて、Xジャパンがロックだと思ってる時点で“カルチャー”について一切云々する資格のない奴だ、って話もした(笑)。

藤村 宮台は少なくともそこまでトンチンカンなことは絶対しないよね。

外山 ……まあ総じて、間違いだらけの歴史観が開陳されまくってはいるが、そこはもう現状では仕方のないこととして、さっきの東の、“実際には毛利的な歴史認識のほうが本流だと思う”的な発言にも表れてたように、自分たちがむしろ傍流になりつつある自覚もあるらしいところなんかは、多少は好感が持てるかな。

藤村 アカデミズム的な知のあり方からオタク的なものが排除されつつあるという東の危機感は、たぶん実際そうなんでしょうね。

外山 もちろん相変わらずアニメとか論じてる軟弱アカデミシャンは掃いて捨てるほどいますけど、182ページから183ページにかけて論じ合われているように、フェミニズム的なPCとの関係で、安全無害な文化論として囲い込まれてしまってる、ということもあるんでしょう。大学人たちの「政治的に正しすぎる」サブカル批評に対して、東浩紀はやっぱり在野の大塚英志のそれのほうを相対的に高く評価してて、大塚英志はその草創期からずっとオタク文化の現場で書き続けてきた人で、“美少女もの”とかに投影されてる消費者たちの下世話な欲望についても直視してるし、しかしそういう議論がアカデミズムの内部に導入されると途端にPC的なふるいにかけられて削ぎ落とされてしまうということへの苛立ちがあるようです。
 まあ、ぼくからすればどーでもいい話ですけど(笑)。

藤村 でも、こういう問題提起もそれはそれで重要なんじゃないでしょうか。

外山 もちろんどんどんやればいいんだけどさ、キモヲタのくせに“こっちが批評の主流であるべきだ”的な妙な承認欲求を前面に出すな、というだけで(笑)。

藤村 すごく一所懸命がんばって、『ゲンロン』とか発行して、イベント・スペースも運営して、立派だなあと思ってたけど、だんだんその原動力の正体が見えてきて……。

外山 ものすごいバイタリティだし、持続力もあるし、見上げたものではあるんだが、動機がちょっとなあ。だってキモヲタをもっと蔓延らせようとしてるわけでしょ(笑)。“批評シーンの主導権を我々キモヲタ勢力の手に!”ってことだよね。

藤村 “東界隈”の問題点として、思想的な言説と政治的な言説との相互交流における作法が全然なってないということがあると思ってたけど、それは意図的なものなのかもしれない気もしてきた。だけど、その割にはやっぱり東浩紀は政治的なテーマについても語るし、スタンスがよく分からん。

外山 だからキモヲタの分をわきまえて、マンガやアニメについてだけ語ってりゃいいんだよ。政治に口出ししたいんなら、1回ぐらいまず政治運動の当事者になりなさい、と。
 もちろん批評シーン全体の中の下位ジャンルとして“オタク文化批評”みたいなものも存在して当然だし、その範囲内で、オタク文化やオタク文化批評の歴史を語るにはまさに適任の人たちだと思うけど、こんなふうに政治や社会にまで大風呂敷を広げて、しかもオタク文化批評みたいなものが“批評史”の主軸となるようにヘゲモニーの簒奪をしようという、その意図がケシカランですな。

藤村 でもどっちかというと『ゲンロン』より『思想地図』時代のほうが、そういう志向性は強かったように思う。

参加者A キモヲタ的なものを完全に排除してしまうのも良くないとは思うんですが……。

外山 うん、分をわきまえて謙虚にしててくれれば、ぼくもどうこう云わないよ(笑)。
 ……しかし先週の時点では、90年代以降についても“『批評空間』中心史観”が展開されるんじゃないかという危惧を持ったけど、そうでもなかったね。どっちかというと、“大塚英志中心史観”?(笑)

藤村 たしかにそんな印象はある。

外山 結局は“批評シーン”の主導権を我がものとしようという意図ではあるが、『批評空間』を継承することによってではなく、『批評空間』よりも実は大塚英志的なものが主流であるべきなんだ、そして大塚英志的な批評の後継者は我々なんだ、という流れになってる。もちろん大塚英志と我々とではこういう部分で違いもある、ということも表明しつつ、“批評史”の継承と主導権の確立を意図してるね。

藤村 どうですか、“九州ファシスト党・芸術部門”の東野先生としては?

東野 ……。

藤村 なんかすごくイヤそうな顔をしてる(笑)。
 さっきからの議論はちょっとデフォルメしすぎてて、もちろん東浩紀はそこまでオタク的なものを特権化しようとしてるわけでもないと思うけどさ。ただ、そういう傾きはどうもハシバシに感じられるというだけで。

 「『ゲンロン4』「平成批評の諸問題2001-2016」を読む」に続く〉

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