『ゲンロン1』 「昭和批評の諸問題 1975-1989」を読む

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 3回シリーズの第回である〉

 『ゲンロン』創刊号(2015年12月刊)に掲載された東浩紀・市川真人・大澤聡・福嶋亮大による座談会を、熟読する座談会のテープ起こしである。こちらの(第1回)座談会は2017年6月4日におこなわれた。
 2016年7月から2017年12月までやっていた「web版『人民の敵』」のコンテンツとして、2017年6月に公開したが、すでに閲覧できない状況となっているようなので、ここで改めて公開し直す。東らの座談会は3回にわたっておこなわれ、こちらも律儀に3回の座談会をおこなった。
 東らの座談会は、その後、『現代日本の批評 1975-2001』および『現代日本の批評 2001-2016』として単行本化されている。こちらの座談会は、その単行本版ではなく初出の『ゲンロン』掲載版を使っているので、東らの発言を引用する際に付した「○○ページ」というのもすべて『ゲンロン』掲載版の数字である。現在では単行本版で読む者が多かろうから、面倒ではあるが、いずれ単行本版を入手して修正をほどこすつもりだ。
 通常やっている太字化などの装飾作業は、あまりにも長いコンテンツなので、冒頭の座談会主旨説明などの部分を除いて、基本的に放棄する。
 もともと「web版『人民の敵』」で無料公開したものである上に、これを読んで“外山界隈”の批評集団としての力量に今さら気づいたという怠惰な言論人も結構いたフシがあるので、今回も気前よく全文無料としておく。
 なお、こちらの座談会では主に私と藤村修氏と東野大地の3人が喋っているが、藤村氏は云うまでもなく“時事放談”シリーズでおなじみの極右天皇主義者の藤村氏、東野は外山が主宰する「九州ファシスト党〈我々団〉」党員の東野である。

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外山 常連参加者の方はご承知のとおり、この読書会では、普段は絓秀実・笠井潔・千坂恭二という、ぼくが個人的に“日本3大過激老人”と呼んでいる方々の著作や雑誌掲載論文などをテキストに使用しているんですが、たまに趣向を変えて、昨今のいわば“メインストリーム”の若手批評家どもが“外山恒一抜き”で一体何を論じ合っておるのか、ってことにもまあ目配りというかチェックというか、しなきゃいかんだろうということで、時々そういうことも“検閲読書会”と称してやってます(笑)。で、今日はその“検閲”モードの読書会なんですけど、もちろん最初から過剰に批判的になる必要はなく、基本的にはニュートラルに、“客観・中立・公正”を心がけて読んでいくつもりです。
 今日のテキストに使う座談会が載っている『ゲンロン』という雑誌は、どう説明すればいいんでしょうね? 東浩紀という、ぼくや藤村君(常連参加者の藤村修氏。天皇主義右翼。反原発派で、2014年から2016年にかけて「右から九電前抗議」を主宰していた。外山とは93年頃からの付き合い)と同世代の、向こうが1コ下かな、とくに00年代には思想界で“独り勝ち”状態とまで云われてた人がいまして、今でも70年前後生まれ以降の世代の知識人たちの1つの中心であり続けています。その東浩紀が、北田暁大という、やはり00年代のとくに後半には東浩紀に次ぐぐらいの若手知識人の代表格だった人と一緒に編集・発行していた『思想地図』という雑誌がありまして、(本棚から取り出して奥付を確認し)2008年から2010年までの間に5号、NHKブックスから出てます。その後も『思想地図βというのが出てたよね?

藤村 たしか3号まで出てたと思う。いや、4号までか。4号が第1弾と第2弾の2回に分けて出てる。

外山 ぼくは2号までしか持ってませんが、創刊号が2010年12月、第2号が2011年9月で、つまり2号目は“3・11以後”に出てて、特集タイトルもそのものズバリ「震災以後」となってます(第3号は2012年7月 第4号の1が2013年7月、が同11月に出ている模様)。つまり2008年以降、東浩紀はずっと『思想地図』という雑誌をやってたわけだけど、『ゲンロン』はその“後継誌”って理解でいいのかな? 創刊号が2015年12月発行となってて、『思想地図β』からちょっと間があいてるけど、この中間の時期に〝ゲンロンカフェ〟ってのを始めたの?

藤村 そのはずです(2010年4月に『思想地図β』の版元として立ち上げられた「合同会社コンテクチュアズ」が、2012年4月に「株式会社ゲンロン」に社名変更、『思想地図β』と『ゲンロン』との“中間の時期”ではないが、2013年1月に五反田にイベントスペース「ゲンロンカフェ」が開設されたようである)。「ゲンロンカフェ」がオープンする以前から“友の会”というのが作られてて、会員登録するとメルマガが送られてきてたんですけど、それは今でも続いてますね。

外山 「ゲンロンカフェ」というのは、行ったことないしよく知らないけど、「ロフトプラスワン」のもうちょっと高級な感じのもの?(笑) そこを拠点として新雑誌『ゲンロン』が刊行されるようになった、と。

藤村 おおよそそういう理解でいいと思います。ゲンロンの社員の中には、ロシア文学者の上田洋子とかをはじめ何人かの知識人・文化人もいますけど、実質的には東浩紀が運営してるものと考えていいでしょう。

外山 『ゲンロン』もすでに4号まで出てて、今回調べてみると、それ以降はキンドル版しか出ない形になってるみたいだね。

藤村 いや、あれは“友の会”に毎月送られてくるメルマガを、べつに会員でない人でも読めるようにしたものなんです。『ゲンロン』の第5号は近々ちゃんと紙で出るみたいですよ。

外山 藤村先生は“ゲンロン友の会”の会員でいらっしゃるようで……(笑)。

藤村 大変低いステージの会員ではございますが。

外山 “在家信者”レベル、と(笑)。……で、今日は『ゲンロン』創刊号の特集「現代日本の批評」の中にある座談会をこれから読むんですけど、75年以降の日本の言論状況、批評シーンの推移・歴史を振り返りながら再検証する主旨のようで、75年から89年までを対象にいろいろ論じ合ってるようですね。89年以降については『ゲンロン』第2号、第4号に続編があって、それもこの読書会で次回以降、読んでいくつもりです。
 今日読む座談会のタイトルは「昭和批評の諸問題 1975-1989」となってて、これは明らかに、まあ座談会の中でも話題に出るんでしょうけど、かつて『批評空間』という雑誌で柄谷行人、蓮實重彦、浅田彰といったメンツでおこなわれて、単行本(『近代日本の批評』全3巻・講談社文芸文庫)にもなってる、「明治批評の諸問題」、「大正批評の諸問題」、「昭和批評の諸問題」という、たぶんそれなりに有名な座談会がありまして、それを意識しているというか、引き継ごうということなんでしょうね。柄谷たちがその座談会で扱った以降の時代について、同じようなことをやろうということでしょう。
 座談会の前に、“基調報告”というのを座談会メンバーの1人である大澤聡って人が書いてるようですので、ぼくらもまずこれを読みます。この人の名前はつい最近、まさに発行したばかりの(紙版)『人民の敵』第32号に載せた、ぼくと絓秀実との対談の中で絓さんが言及してて、それでぼくも初めて存在を知りました。雑誌メディアなんかの変遷について、明治・大正あたりまで遡って専門的に研究してる人らしいです。で、かなり若いと聞きました。

藤村 そんなに若い人だという印象でもないけど……(『ゲンロン』の執筆者紹介ページを見て)あ、でも78年生まれと書いてある。昭和53年ですから、ぼくらよりずっと若いな(笑)。

外山 8歳違いですね。(手近にあった“誰と誰が同い年か?”の独自研究ノートをチェックして)椎名林檎とかと同い年です(笑)。

藤村 「近畿大学文芸学部講師」とあるから、(2015年まで近大で教えていた)絓さんとも面識があるのかな?

外山 どうでしょうね。そうかもしれません。

藤村 他の座談会メンバーは、立教大で教えてる福嶋亮大って人が81年生まれで……。

外山 さらに若いのか。鳥居みゆきとかと同い年(笑)。星野源もそうみたいですね。我々の界隈では、「素人の乱」の二木信が81年生まれです。

藤村 市川真人って人は早大の准教授で、71年生まれ。

外山 東浩紀と同じ、と。……今チラッと見たらやっぱり言及してあるようだけど、絓さんによれば、大澤聡って人は最近は70年代の“総会屋雑誌”について研究しているらしく、絓さんも当時そういう雑誌に書いてた新左翼の“若手論客”の1人だったわけだし、「あんなものが今や“研究”の対象になるのか!」と感慨深げでした(笑)。
 じゃあ、どうしようかな。全部で第5節までありますね。“はじめに”的な部分もあるようだし、真ん中で切って、まずは冒頭から第2節の最後まで読みましょうか。それでは各自、黙読してください。


 (大澤聡「[基調報告]批評とメディア
     ──「史」に接続するためのレジュメ」前半・黙読タイム)


外山 よろしいでしょうか? それでは何かあればどうぞ。単に“この用語の意味が分からない”とか“この漢字が読めません”というレベルのことでもかまいません(笑)。

参加者A(40代女性) 39ページの上段から中段にかけて、「批評家たちのシミュラークル化がメディア上で進行する」とありますが、“シミュラークル”って何ですか?

外山 えー、どう説明すればいいんでしょうね。“ポストモダン思想”の基本的なキーワードの1つではありますが……。

藤村 ボードリヤールの用語で、ここでは“まがいもの化”ぐらいに理解しておけばいいんじゃないかな。よく云われる説明としては、例えば自動車を買うとして、自動車というのは本来は“人やモノを速く遠くまで運ぶための道具”なんだけど、現代社会においては、多くの人はそういう自動車の本来的な機能の部分であれこれ吟味してどの自動車を買うのかを決めるわけではなく、その車種が我々に与えるイメージというか、その車種に乗ってるとカッコいいとか社会的地位が高いと思われそうだとか、あるいはテレビCMの印象が良かったとか、つまり自動車の“実質”の部分ではなく表層的な“イメージ”を消費するようになっている、という話で……。
 Aさんが引用した一文の直前にも「『誰が誰やらわからない』、その言論状況は一九八〇年代前半の記号論的な差異化ゲームを原動とする高度消費社会に呼応してもいた」とありますが、批評家という存在もまた、その人が何を述べているかではなく、いろんなメディアに登場することで形成されるパブリック・イメージみたいなもののほうが重要になってくるという、そういう事態について云ってるわけです。

外山 この“80年代前半”なら、例えば浅田彰のあの……。

藤村 いかにも“スキゾ・キッズ”っぽい……(笑)。

外山 というか、“著者近影”とかの写真のあの、まさに“哲学青年”っぽい……。

藤村 線の細い、可愛い顔をして、でっかい黒ぶちメガネで……。

外山 浅田彰が主張してる“内容”よりも、そういう“キャラ”が消費されたり、あるいは支持されたりするって事態だね。藤村君が云った“自動車”にしても、そもそも似たような性能のものが膨大な車種で目の前に並べられてるんだし、大雑把な利用目的はもちろん前提になるにしても、最終的には“機能”よりも“デザイン”とか広告で作られた“イメージ”とかで決めることになる。
 ……“シミュラークル”は当然、“シミュレーション”と同じ語根の言葉です。つまり何か“中心”みたいなものがない、個別のモノはただ他のモノとこういう点で違うといった“差異の体系”の中の1点を形成するにすぎないような存在の仕方をするという、“高度消費社会”のしくみを、ボードリヤールという“フランス現代思想”の代表格の1人が、“シミュラークル”とかいろんな言葉を駆使して解明しようとした。“思想家の言説”というのもそういう現代社会においては他の諸々と同様の“商品”でしかなくなるんだし、当時たくさんの人が“浅田彰の本”を買ったのも、例えば戦後すぐの時期に出たようないかにも重苦しい“哲学書”とかではなく、メディア上で“軽やかな今ふうの若手思想家”として騒がれてる人の本なんか買っちゃうオレってカッコいい(笑)、みたいなノリでそうなったにすぎないって状況ですね。
 まあ“シミュラークル”も含めて、ボードリヤールがどういうことを云ってたかについては、笠井潔の『ユートピアの冒険』(毎日新聞社・90年)の第5章で分かりやすく説明されてます。
 大澤聡が説明しているとおり、80年代前半に“ニューアカ・ブーム”というのがあって、とくに浅田彰の『構造と力』(勁草書房・83年)という本が、“哲学書にあるまじき”レベルでベストセラー化して、その“ブーム”が始まるわけです。それで単に狭い“思想界”の範囲だけにとどまらず……まあそうだな、将棋のルールとかよく知らない人でも“羽生名人”のことは大体みんな知ってるし、キャラのイメージも持ってるでしょ(笑)。それと同じように、とくに“思想”とか知らないし興味もない人たちの間にまで、浅田彰という“若手思想家”の存在が広く知れ渡るような、それぐらいの大ブームで、浅田彰はまさに“時の人”になりました。
 その“浅田彰現象”を牽引力として、その近傍にいた、『構造と力』で紹介されてる“フランス現代思想”に近いことを云ってると見なされた他の知識人たちも脚光を浴びて、その中には柄谷行人や蓮實重彦といったかなり年長の人たちも含まれますけど、とにかく“思想家”たちが一般向けのさまざまなメディアに出まくるという不思議な光景が、今から30年ほど前のこの日本で展開されたんですね。
 40ページの中段から下段にかけて『朝日ジャーナル』についての説明もあります。『朝日ジャーナル』は、天下の朝日新聞社が発行してた堂々たるメジャー週刊誌ですが、60年代以来(創刊は59年)、過激派学生たちの動向に完全に同伴して、新左翼学生運動の一種の機関誌みたいな役割を果たしてたのが、70年代をとおして学生運動が退潮して売上がパッとしなくなり、それで84年1月に新編集長に抜擢された筑紫哲也が誌面の全面刷新を図って、“軽チャー路線”と呼ばれる、「ポストモダン+サブカル路線へと急旋回」(40ページ)することがおこなわれた。80年代前半当時の“知的な若者たち”の興味関心に完全に迎合したわけです。「インタビュー連載『若者たちの神々』(一九八四年~八五年)が典型だ」とあるとおり、“ニューアカ&サブカルチャー”全盛だった当時の雰囲気は、全4巻で単行本化されてる『若者たちの神々』(新潮文庫)を読めば分かります。

藤村 そもそも“批評”とは何か、ってところから議論がおこなわれてるけど、それは基本的には“アカデミズム”が担う領域ではなく、かといって“ジャーナリズム”が全面的に担うものでもなく、何かを対象として──それは多くの場合、最初は“文学”を対象とする“文芸批評”が中心だったんだけど、やがて対象は拡大して、“社会”や“世相”、“世界”、それら諸々に対する自分なりの“態度”を文章化して表明する営み一般が“批評”と捉えられるようになってきた。で、その時に、“批評家”である小林秀雄が本居宣長について論じるのと、アカデミズムの世界に身を置く“研究者”が本居宣長を論じるのとでは全然違って、研究者は、本居宣長の遺したテキストに厳密に添って、その一言一句について精密な分析をしなきゃいけないんだが、小林秀雄だったら、「 批評とは畢竟、己の夢を懐疑的に語ることではないのか!」(1929年のデビュー作「様々なる意匠」)という有名な言葉もあるように、ある種の自己批評を加えつつ、本居宣長のテキストを“自分は”このように読み込んだ、ということを書くのが“批評”である、と。
 したがって、そこでは“学問的な厳密さ”というのは必ずしも要求されない。だから当然、“批評”というのは基本的には“大学の先生”たちが担うものではなくて、在野の人間が担うものであるし、もう1つには、“批評”というのはそれを書く人間が“自分の価値観”を晒す行為でもある。“自意識”を晒す、と云ってもいい。アカデミシャンの“研究”では、“自分”なんか晒したりしないよね(笑)。

外山 最近は栗原康みたいな人もいるけど……まあいいや(笑)。

藤村 アカデミシャンの書いた“研究”の文章だと、文末に“註”がブワーッと並んでるでしょ。“批評”というのは、本来そういうものとは違う。
 で、38ページに「昭和期の大部分、批評空間の中心には文学が鎮座していた。圧倒的に自明のものとして」とあるとおり、日本の“批評”というのは“文芸批評”として始まり、以後ずっと、長らく“文芸批評”こそが“批評”というものの中心だったわけです。
 よく云われるのは、日本の場合は明治以来、“新しい思想”が次々と海外から輸入・紹介されるようになるけど、それらの思想が欧米でそもそも登場してきた文脈と、日本がその時期その時期で置かれてる状況とは必ずしもそぐわないわけで、そういうしょせん“外来物”である“思想”というものを血肉化する努力が必要とされる。外来の思想を日本人にもなじむ形に加工しなきゃいけなかったわけだけど、やっぱりアカデミシャンにはそういう役割は果たせないんだよね。そういう営為を担ってきたのが“文芸批評”なんだ。

外山 “文芸批評”が“批評”の中心であり続けたというのは、日本に特殊な現象なの?

藤村 いやあ、それはオレにもよく分からないんだけど、なんとなく直感的に、後進国ではそうなりそうだな、という気はする。柄谷行人も云うように、日本の近代化を大きく担ったものの1つに、やっぱり“文学”があるわけでしょ。

外山 本当に論じたい対象が何であれ、“政治”や“社会”を論じたいんだったとしても、後進国にはそもそもそういう時にふさわしい“文体”の形式が存在してなくて、まずはそれを確立する作業が必要だもんね。たしかにそれは“文学者”たちの仕事になるかもしれない。

藤村 大澤さんの書き方によれば、1933年から36年までが、プロレタリア文学運動が盛んな……。

外山 いや、プロレタリア文学運動が壊滅した“後”の状況ってことだね。20年代後半から盛り上がってたプロレタリア文学運動が、33年あたりで壊滅するわけだ。小林多喜二が特高の拷問で“虐殺”されたのも(33年2月)、獄中共産党幹部の例の“転向声明”(佐野学・鍋山貞親「共同被告同志に告ぐる書」33年6月)が出て“転向の雪崩現象”が起きるのも、たぶんこの頃でしょう。

藤村 そうか。読み違えてた。

外山 で、今度は“36年”以後になると、日本そのものが戦時下・非常時って状況になる。だから“33年から36年まで”というのは、その2つの“政治優位”の時代に挟まれた特殊な時期で、それがちょうど日本文学史の常識的な概念として“文芸復興期”と呼ばれてる時期とピッタリ重なってる、という話ですね。

藤村 なるほど。で、その時期に“文芸批評家”も続々と登場して、大澤さんは、「ランダムに、春山行夫、深田久弥、古谷綱武、矢崎弾、唐木順三、藤原定、板垣直子、保田與重郎といった」人たちが「一九三三年から三四年にかけてこぞって批評活動を本格化した」(37ページ)と書いてる。ここに出てくる名前をオレは、唐木順三と保田與重郎ぐらいしか知らんけどさ(笑)。

外山 ぼくも“文学史”に詳しいわけではないし、ウロ覚えで云うんだけど、なんでこの時期に“文芸復興”ってことになるかといえば、プロレタリア文学が文学シーンを席巻してる時期ってのは、マルクス主義においては諸個人はマルクス主義に基づく革命運動あるいはマルクス主義の“党”に全面的に従属しなきゃいけないわけだし、“文学者”にも当然それは要求されて、そういうものから“自立”した“個人”の立場がどうこう云うような奴は“反革命”ですよね(笑)。文学者たちはそういう傾向にイヤイヤ従っていたのではなくて、多くの文学者たち自身が“マルクス主義”という強烈な“新理論”に完全に魅了されてたんだし、納得ずくで、自ら進んで“政治に従属”してたわけですよ。
 それが33年前後の“プロレタリア文学運動の壊滅”で、みんな一時の夢から覚めたようになって(笑)、マルクス主義に基づくプロレタリア文学理論つまり“社会主義リアリズム”の重圧から解放されて、“個人”の文学を一斉に謳歌し始める、と。それで“文芸復興”ってことになる。
 しかし3年ぐらい経つと今度は戦時体制の強化という逆側からの締めつけによって、文学者たちは萎縮させられていく、っていうね。

藤村 プロレタリア文学の理論って典型的な、“文学は政治に奉仕しなければならない”っていう話だもんな。たぶんこの『ゲンロン』の座談会シリーズでは、それと同じような現象は日本の文学史・批評史の中で何度も繰り返されている、という議論になるんだと思う。

外山 ……急に批判的なことを云いますが(笑)、やっぱり前回(4月30日)の読書会で絓さんの『タイム・スリップの断崖で』(書肆子午線・2016年)、とくに宮本顕治について書いてた文章(「デリダが亡くなった時、宮本顕治について考える」04年)を読んだ後にこういうものを読まされると、甘いなあって感じがするんだ。37ページ下段に「文芸復興期の覇者は小林秀雄だった」って書いてあるでしょ。「異論はないはずだ」ともあるとおり、教科書的にはまったくそのとおりなんだろうけど、絓さんのあの文章は、“ほんとにそういう解釈でいいのか?”という問題提起だったじゃん。
 そもそもナントカ新人賞(雑誌『改造』懸賞論文)で宮本顕治の「『敗北』の文学」が1位を獲って、その時の2位が小林秀雄の「様々なる意匠」で、どっちもそれで文壇デビューするわけだけど、とにかくそういう、“小林秀雄よりスゴい”存在として、宮本顕治は颯爽と世の中に登場してきたという事実がまずある。33年頃を境にプロレタリア文学運動は急速に崩壊して、すでに共産党のトップになってた宮本顕治も逮捕されて(33年12月)、“獄中の人”になって世間の表面からは姿を消すわけですけど、実はずーっと獄中で“非転向”を貫いてて、やがて戦争が終わって釈放されると、宮本顕治をはじめ“死の恐怖にも打ち克った”共産党の“獄中非転向”の幹部たちは圧倒的な権威を得て、それこそ文学の世界だって、新左翼が登場するまでは再びまた共産党の完全な支配下に置かれることになるんだもん。
 たしかに表面上は、小林秀雄を“覇者”とする“文芸復興”の空騒ぎが演じられるんだろうけど、真の覇者、“隠れた覇者”は、実はまさにこの時期に、10余年後の“非転向神話”を確立するその緒についていた宮本顕治だったかもしれないわけだ(笑)。

藤村 ここで書かれてる文脈でも、まずプロレタリア文学が圧倒的に優勢な時期があって、それが弾圧で崩壊して“文芸復興期”が来て、そこで小林秀雄が覇権を確立していく、ということなので、そもそもの“覇者”はやっぱりプロレタリア文学だった、ということでもあるよね。“文芸復興”というのは、要はプロレタリア文学運動へのアンチテーゼとして起きたようなもんでしょ。

外山 明治以来、遅れた日本のウブな文学者たちが、自分たちも“近代的自我”とやらを確立しなきゃならんってことであれこれと試行錯誤を続けてたところに、“マルクス主義”という壮大な、しかも“近代思想”の極北みたいな思想体系の存在が知られるようになって、文学者をはじめ多くのインテリたちはそれに一発でヤラれちゃう、と。それは日本のインテリたちにとって、目もくらむような鮮烈な体験だったんだけど、ファシストの私に云わせれば“文学者”なんてしょせんサブカル連中だし(笑)、やっぱり“自由”がないのは内心どこかイヤだったんだな。
 そしたらそのうち、自分たちで打倒したんじゃなくて国家権力の側がマルクス主義勢力を弾圧して潰してくれたもんで、“わーい!”ってことで、これ幸いと“文芸復興”だとか何だとか、浮かれ騒ぐわけだ。だけどしょせん、共産党にも抵抗できなかったようなヒヨワな文学者どもが、まして“時局”に抵抗できるわけなくて、“短い春”はいとも簡単に“終了!”と(笑)。

藤村 ……座談会の本題である“75年以降”の話に戻ると、さっきから云ってる“批評=文芸批評”って図式が成立しなくなるのが70年代半ばである、という認識が書かれてる。

外山 うん。で、“70年代”というのが“大正時代”にアナロジーされてるよね。40ページ上段の5行目に、「良かれ悪しかれ、七〇年代は『大正的』ではある。大正は激動の明治/昭和の狭間に位置する」って書いてある。
 つまり70年代というのは、“学生運動”的なものが一段落したという時代である、と。プロレタリア文学が壊滅したように学生運動が壊滅して、学生運動的なものと密接に関係していた“批評”というものも、それによって足場を失うようなことになった、ということでしょう。
 で、かつての文芸復興期のように“現代思想ブーム”、“ニューアカ・ブーム”が……って、何かおかしいぞ。文芸復興期は昭和10年前後で、大正時代じゃないよね(笑)。

藤村 うん、昭和10年前後。

外山 ぼくが何か誤読してるかな? えーと……「七〇年代は『大正的』ではある」というのは、大正が「激動の明治/昭和の狭間に位置する」からだよね。しかし2つの“政治優位の時代”の「狭間に位置する」という意味であれば、“大正時代”ではなく“文芸復興期”にアナロジーしなきゃいけないはずだよね。
 大澤聡は、“文芸復興期”については“ニューアカ・ブーム”と重ねようとしてるように思えるけど……あ、やっぱりそうだ。40ページ下段に「ここに、ひとつの仮説的な見立てを導入しよう。すなわち、ニューアカはぴたり五〇年前の文芸復興(一九三三~三六年)の反復であった、と」って露骨に書かれてた(笑)。

東野 70年代が“大正的”であるというのは、“教養主義的”だという意味なのかな?

外山 いや、それはさっきから云ってるように、“2つの激動の時代に挟まれた時代”という意味でしょう。しかし別のところでは、“文芸復興期”のことを“プロレタリア文学運動の隆盛”と“時局の悪化”という“2つの激動に挟まれた時代”というふうに云ってるように読めるし、そうするとこのアナロジーには齟齬が出てくるというか、端的に破綻してしまわない?

東野 うーん……そんな気もしますね。

外山 もちろんこのテのアナロジーは、イメージしやすくするための方便であって、細かい部分は辻褄が合わなくなっても別にかまわないんだけど、しかしこれは“細かい部分”ではなくて、このアナロジーのかなり根幹に関わる部分だよなあ。

藤村 連合赤軍事件とか反日武装戦線の爆弾闘争とか“中核vs革マル”の内ゲバとかで、マルクス主義とか、それに基づく新左翼学生運動が説得力を失っていくのが70年代で、それを、一時は文壇をほとんど制圧してたプロ文が、弾圧されて崩壊する時期と重ね合わせてるわけでしょ。そういう時代の後に文芸復興期が来る、と。

外山 “70年代”を“大正時代”に重ねてる部分がおかしいんだ。“ニューアカ”を“文芸復興”と重ねるんなら、その前提となる“政治優位の時代”の終焉という現象がまず起きるってことで、“70年代”は“プロレタリア文学運動の崩壊期”と重ねなきゃいけない。で、プロレタリア文学運動の高揚は、“大正的なもの”からの、まさに宮本顕治の云う“野蛮な情熱”による“切断”によって実現されたんだから、“新左翼学生運動の高揚”を“プロレタリア文学運動の高揚”と重ねるんなら、“大正時代”にアナロジーする時期は“新左翼学生運動の高揚”の前に設定しなきゃおかしい。それも簡単なことで、“戦後民主主義の時代”を“大正時代”にアナロジーすればいいだけの話だ。
 まあ日本共産党的な社会主義リアリズム理論が再び猛威をふるったのはその戦後民主主義期なんで、そこはちょっとアナロジーに齟齬が出るけど、欺瞞的な“大正デモクラシー”の狂躁から我が身を切断して引きはがそうという“野蛮な情熱”によって“プロレタリア文学運動の高揚”がもたらされたように、戦後民主主義の欺瞞を粉砕しようという“野蛮な情熱”によって“68年”という新左翼学生運動のピークがもたらされるんだもん。
 ぼくのアナロジーのほうが──もっとも、ぼくはこの歴史観にそもそも賛同しないけど、仮にこの歴史観で行くとして──ずっと適切なはずだ。
 まあ、アナロジーは破綻してると思うけど、ここまでの文章で説明されてる個々の出来事については、おおよそそのとおりで、それは“教科書的だ”という意味でもあるが(笑)、批評シーンの推移についてよく知らない人は、アナロジーとか、個々の出来事が批評史全体の中でどういう意義を持ってたのかという話とかは無視して(笑)、1933年から36年にかけて“文芸復興”と称される時代があったとか、現象面だけで云えばその「文芸復興期の覇者は小林秀雄だった」とされていることとか、「昭和期の大部分、批評空間の中心には文学が鎮座していた。圧倒的に自明のものとして。ゆえに、批評史もスケッチしやすい。文芸批評史が批評史としてほとんどそのまま通用してしまう。(略)ところが、一九七〇年代半ば以降に相当する批評史は途端に成立困難となる。(略)史的記述の定番が存在しない」という端的な事実とか、70年代半ば以降には柄谷行人って人が日本の批評シーンでは特別に巨大な存在になることとか、「内向の世代」と呼ばれる一群の作家たちが70年前後に登場したんだけど、「これを最後に、文壇から集団的要素が急速に剥落していく」(38ページ)、つまりそれ以降は“何々の世代”と総称されるような文学の“潮流”の存在が指摘されていないこととか、第2節で説明されてるような“ニューアカ・ブーム”のおおよその経緯とか、それらの“事実の羅列”の部分に関しては“お勉強”として素直に受け入れて、知識として身につけるといいでしょう。

藤村 ……この人は“ニューアカ”と“プレ・ニューアカ”を区別してるよね。

外山 うん、「柄谷行人や蓮實重彦、あるいは山口昌男や栗本慎一郎」といった比較的年長の知識人たちが活躍し始めて、「記号論(山口昌男や丸山圭三郎)、都市論(磯田光一や前田愛)、身体論+演劇論(市川浩や渡邊守章、中村雄二郎)、情報論+メディア論(中野収や粉川哲夫)といったトピックが盛りあがりを見せた」、「一九七〇年代中盤から八〇年前後にかけて」の、「構造主義/ポスト構造主義のインパクト(略)に応接する思考が領域横断的に浸潤しつつあった」時期について、それは一種の「現代思想ブーム」とも云えるものであり、やがて起きる“ニューアカ・ブーム”の土台にもなったという意味で「プレ・ニューアカ期」というのを設定してる(39ページ)。

藤村 つまり“プレ・ニューアカ期”を“大正時代”に、“ニューアカ・ブーム”を“文芸復興期”に重ね合わせようとしてるんじゃないかな?

外山 そうみたいだけど、“文芸復興期”の直前に位置してる“プロレタリア文学運動の高揚”に“新左翼学生運動の高揚”を重ねてるわけでしょ。“大正時代”に“プレ・ニューアカ期”を重ねるのはいいとしても、“大正時代”→“プロレタリア文学運動の高揚と壊滅”→“文芸復興期”って順番なんで、そのアナロジーだと“プレ・ニューアカ期”→“新左翼学生運動の高揚と壊滅”→“ニューアカ・ブーム”となるはずのに、実際は“新左翼学生運動の高揚と壊滅”の後に“プレ・ニューアカ期”があるんだから、やっぱり破綻してるよ。
 ……あ、分かった。“2つの激動の時代に挟まれた時代”っていう時のその“1つ目の激動の時代”が、“明治時代”のことなのか、“プロレタリア文学運動の高揚期”のことなのか、箇所によって違うからおかしくなってるんだ。

東野 ……あんまり云っても仕方のない問題だとは思うけど、そもそも“60年代”、“70年代”、“80年代”という区切り方がおかしいんじゃないでしょうか?

外山 うん、まあね。ぼくが『青いムーブメント』(彩流社・08年)で提示した(後註.のち18年の『全共闘以後』で“決定版”的に整理)“外山史観”では、仮に10年スパンで区切るとすれば“70年前後”(65-75年)、“80年前後”(75-85年)、“90年前後”(85-95年)って区切るべきで、そっちのほうが現実の“時代の雰囲気”の変化に対応させやすい、ってことをちゃんと説明してる。“外山恒一抜き”であーでもないこーでもないと論じ合って、『青いムーブメント』ぐらい基本文献として押さえてないから、こういう破綻したことを書いてしまう(笑)。
 で、そのこととも密接に関連するんだが、最初のページ(36ページ)で実はいきなりぼくなんか引っかかってるんだよね(笑)。中段から下段にかけての一文の中に、見田宗介が云い出したらしい「虚構の時代」というキーワードが出てくる。見田宗介が云い出して、大澤真幸が受け継いで広めまくって、さらに東浩紀が大澤真幸から引き継いでさらに“発展”させていて、今ではもはや、こういった批評シーン主流派の“軟弱ヘナチョコ文化人”どもの(笑)、歴史記述の前提というか共通認識みたいになってしまってるんだ。
 つまりこれは、“70年頃”、正確には72年の連合赤軍事件ってことになるようだけど、とにかくそこらあたりに時代の大きな転換点、切断線を見出して、戦後つまり1945年からその70年前後までを“理想の時代”、それ以降を“虚構の時代”と呼ぶわけです。“理想の時代”というのは、この現実の世界で実現されるべき何らかの“正義”をめぐって人々が互いに熱く争い合った時代で、それが連合赤軍事件のショックでトドメを刺されてしまい、それ以降の“虚構の時代”には、この現実の社会に対して人々が抱く反感や不全感は、制度の改良とか革命といった方向にではなく、フィクションの世界に耽溺することで解消が目指されるようになって、サブカルチャーが隆盛したりするっていう、そういう話ですね。
 東浩紀はさらに“95年”に区切りを入れることを提起して、つまりサブカルチャー的な想像力に本気で依拠してしまったオウム真理教が起こした一連の事件のショックで“虚構の時代”も終焉してしまい、それ以降は、もはや人々は“虚構”的な“物語”を求めることもなく、即物的な反射・反応の連鎖を生きるだけの“動物の時代”が始まってる、と云うんだな。……しかしそもそも最初から間違ってる議論なんで、何の意味もないんだけどさ(笑)。
 どこが間違ってるかというと、“72年”つまり連合赤軍事件を境に時代が大きく変わった、という認識がそもそも間違ってるんです。時代の区切り目はそんなところにはない。
 本当はどこで切れるかと云えば、ニューアカ・ブームが失速する80年代半ばあたりで切れます。それまでの間は、連合赤軍事件が起きようが中核派と革マル派がどれだけ殺し合おうが、それ以前の学生運動全盛期からの1つのサイクルが続いてる。だって“68年”に“ノンセクト・ラジカル”の学生たちが打ち出した方向性を、整理して提示し直したのが“ポストモダン思想”なんですから、問題意識の継承の糸は切れてないわけですよ。
 日本では“68年”の高揚からの退潮期にとくに悲惨な事件が連発したから、表面的にはなんとなく切断されてしまってるように見えるけど、実際には“ニューアカ・ブーム”の時に注目されたポストモダン思想って、フランスの“68年”の経験を言語化したものであって、フランスの“68年”も日本の“68年”もアメリカの“68年”もその他西側先進諸国の“68年”も、ほぼ同質のことが起きたんだから、それを総括するポストモダン思想つまり“フランス現代思想”が、フランス以外の例えば日本やアメリカで流行しても何も不思議ではない。だから日本の“68年”と80年代前半のニューアカ・ブームとの間に決定的な切断線を入れてしまうこと自体が完全に間違ってる。
 で、むしろ“80年代半ば”以降に、全体の中では少数派であるとしても“少数派の中の多数派”である“知的な若者”たちの間でさえ、ポストモダン思想のようなものも含めて何も共有されないという異様な時代が始まる。それこそ“動物の時代”と云ってもいいけど、それが始まったのは“95年”ではなくて“80年代半ば”なんですね。
 ニューアカ・ブームの80年代前半までは、少なくとも“正統派”の“知的な若者たち”の間では、ポストモダン思想であるとか、あるいはYMOとか『ビックリハウス』(雑誌)とかの“サブカルチャー教養”といったものが、ほぼ共有されてたはずです。だから切れ目は、“72年”とか“95年”とかにではなく“80年代半ば”に入れなきゃいけない。
 この認識が、ぼくが口をすっぱくして云い続けてるのにちっとも共有されないから、東浩紀やそのエピゴーネンたちを含む“軟弱ヘナチョコ文化人”たちはくだらん議論しかできないわけです。
 80年代半ば以降は、いま“正統派”の“知的な若者たち”と云いましたけど、その“正統派”ということ自体が成立しなくなるわけですよね。いくら00年代は“東浩紀の独り勝ち”だったと云ったところで、80年代前半に浅田彰が読まれたようには東浩紀は読まれてないはずです。かつて“正統派”の“知的な若者たち”だった層の末裔みたいな部分の内側でだけ読まれたんであって、もはやその層自体が、お互いに没交渉でバラバラに存在してる“タコツボ”の1つでしかなくなってる。
 今の文系の大学生のはたして何パーセントが“東浩紀”の名前を知ってるんだ、って話ですよ(笑)。もしかしたら“外山恒一”のほうが、まあ“マジメな関心の対象”ではないとしても、“東浩紀”や“柄谷行人”より知られてるかもしれない(笑)。今では東浩紀も柄谷行人も、若者たちのうちのごく一部の、“現代思想マニア”というか“現代思想趣味者”というか、そういう“好事家”に読まれてるにすぎません。
 しかし80年代半ば頃までは、何らか政治的・社会的あるいは思想的なことに興味を持てば、せいぜい怠惰な性格であるかどうかで多少の差が生じるぐらいで、浅田彰や柄谷行人の存在そのものはそういう若者たちの視野にはやがて当然のごとく入ってくるものだっただろうし、さらに前の時期であればそれが“吉本隆明”であったり“小田実”であったりあるいは“黒田寛一”とかであったり、または“マルクス”とか“レーニン”とか“毛沢東”とか、とにかくそのテの階層に属してる人たちの間で共有されてる、まさに“思想地図”が厳然として存在してたわけです。
 したがって38ページ中段から下段にかけての一文、「一九六八年の衝撃のあと、九〇年代後半にいたるまでの日本の批評シーンの趨勢を一身に体現したのは柄谷にほかならなかった」という箇所にも当然ぼくは引っかかる。こんな認識を共有してるのは、80年代半ば以降は、少なくともそれ以降に思春期を迎えるような世代については、一部の特殊な“思想オタク”のタコツボの住民たちだけで、実際ぼくや藤村君なんかにもはっきりと記憶がある80年代末の時点で、“柄谷”なんか“フツーの少数派の若者たち”の間でさえちっとも共有なんかされてなかったよ。

藤村 そうね(笑)。

外山 この座談会に参加してるような、きっと高校時代からデリダとか読んじゃうような一部の特殊な“ヘンタイ”たちの視野にしか、“柄谷”なんか入ってきません(笑)。“フツーの少数派の若者たち”の間にも、80年代後半にはまだ共通のサブカルチャー教養ぐらいはギリギリ存在してて、しかし80年代前半に“YMO”に熱狂してた若者たちの視野に浅田や柄谷がそれなりにフツーに入ってくるようには、80年代末に“ブルーハーツ”に熱狂してた若者たちの視野に“柄谷”とかそんなもん、入ってきませんでしたね。

東野 逆に、その時代に柄谷を読んでたような層はブルーハーツではなく何に熱狂してたんですか?

外山 80年代末というより90年代初頭になるけど、“フリッパーズ・ギター”でしょう。

東野 そうなのかなあ……。

外山 そこはそうだって。信用してください(笑)。……とにかく今のタコツボ化した“批評シーン”の内部で流通してる“虚構の時代”云々に基づいた歴史観がハシバシで表明されてるけど、それ自体が間違ってるんで、そのへんについては、“彼らはまあ、こういう間違った歴史認識を普通は持ってるものだ”ぐらいに“知識として”受け止めておけばいいと思います。間違っちゃいるんだが、彼らの間では共有されてるわけだし、それに基づいてモノを考えるとどういうしょーもない議論になるか、引き続き“検閲”していきましょう(笑)。
 歴史区分についてさらに重要な指摘をしておくと、彼らは45年から72年を1つのサイクルと考えてるんだけど、実は“72年”のほうだけでなく“45年”のほうも間違ってるんだよね。“80年代半ば”の“ニューアカ・ブームの終焉”で終わるサイクルの起点は“45年”ではなく、“スターリン批判”に呼応して世界中に“新左翼”が誕生する“56年”です。“80年代半ば”という正確な表現がメンドくさいんでざっくりと仮に“85年”と云っちゃうとして、“56年から85年”というのが本当はワンサイクルなんですね。“グローバル・スタンダード”としてこの認識は通用するでしょう(笑)。“日本が戦争に負けた!”なんていうドメスティックな衝撃でしかないものをそのまま追認しちゃうなんて歴史観は、単なる“自国中心主義”です(笑)。それにいわゆる“1940年代論”という、日本においても、“45年”を境に社会構造の本質的な変化なんて起きてない、って有力な説もあるでしょ。
 “56年”に誕生して徐々に成長した“新左翼”運動が、“68年”のピークを経て、80年代前半に“ポストモダン思想”の登場と定着によって総括される、というサイクルこそ、西側先進諸国でほぼ共通して体験されたものなんだからさ。
 しかしともかく、そもそもポストモダン思想は“68年”の“ノンセクト・ラジカル”の問題意識を言語化したものだし、つまり人々が置かれた状況への違和感や反感を独占的に組織する“党”を否定する思想なんだから、これが登場して定着してしまうと、人々は問題意識を何も共有できなくなるんですね。“ポストモダン思想の定着”は本質的に一瞬の勝利でしかありえず、ポストモダン思想それ自体すら多くの人々の間で共有されることはない、というのがポストモダン思想の理想の実現でもあるという、非常にややこしいことになります。
 ……40ページの中段に、ニューアカ・ブームについて「そこに、再びラディカリズムが凝集した」とありますが、ポストモダン思想は“68年”のラジカリズムの言語化なんだから、それは当然そういうふうに云えます。ただし、「一〇年越しで、ベクトルを逆転させるかたちで。すなわち、学生運動から現代思想へ」と続いてて、こんなふうに“68年”と“ポストモダン思想”とが異質なものであるかのような、むしろ正反対のものであるかのような整理の仕方が間違ってるわけです。
 さらにそれに続く、全共闘運動に並走してたような『朝日ジャーナル』が、80年代半ばにはニューアカ・ブームに迎合するような“方針転換”をしたという話も、実はごく当たり前のことで、それはべつに“変質”でも根本的な“方針転換”でもありません。……とまあ、この話をやり始めたらキリがなくなってしまうし、さらに読み進めましょうか。じゃあこの大澤聡の“基調報告”の最後まで読んじゃいましょう。


 (大澤聡「[基調報告]批評とメディア
     ──「史」に接続するためのレジュメ」後半・黙読タイム)


外山 よろしいでしょうか? ……しかし、“外山史観”が“批評シーン”で黙殺され続けてる以上は仕方のないこととはいえ、“歴史認識”の根本的なズレを改めて痛感されられますな。
 41ページの中段に、90年代には「知的空間の再-政治化が進行した」とあります。そしてその“画期”を、大澤聡は「九一年の湾岸戦争勃発、および文学者らの反戦声明」に置いています。でもこんなの、大嘘だよね(笑)。

藤村 うーん……ぼくはこの頃とっくに自分は“右翼”であるという自覚もあったし、だからぼくの経験を一般化することはできないのかもしれないけど、浅田彰はぼくにとっては最初から“左翼”でしたよ。

外山 91年の“文学者の反戦声明”を境に“左傾”したわけではないだろう、と。

藤村 ぼくが初めて浅田彰の文章を読んだのは、大学時代に本屋で立ち読みした『GORO』っていうエロ本に載ってたやつなんです(笑)。ぼくはそれまで、天皇批判・皇室批判の類はおしなべてバカにしてた。“貴あれば賤あり”だの、“天皇制は不平等の根源”だの、表層的なイメージに寄りかかった“批判”ばかりでバカバカしくて、せいぜい“戦争責任”に関連する形での批判なら聞く意味もあると思ってたけどさ。もちろん当時は竹内好の天皇制批判とか、そんなの知ってる程度の教養すらオレには全然なかったということもあるけど、ぼくが初めて読んだ“マトモな”天皇批判が、その『GORO』ってエロ本で浅田彰が始めた「超ジャーナリズム・ゲーム」という連載の第1回目だったらしい文章なんだよね。それを読んで、「うわー、こんな奴がおるんか!」ってビビった(笑)。89年だったと思う。
 その文章が最初なんで、ぼくは浅田彰を最初から“左翼”だと認識してた。ただし、その後チラチラと読んでても、それまでオレが“左翼”に対して抱いていたようなイメージの、“貧しい人たち”が資本主義とかに“苦しめられている”とか、あるいはありきたりな“政府批判”みたいな話も、浅田彰やそれに近いと思われるポストモダン系の他の書き手たちはほとんどやらなかった。彼らは、“国家”とか“天皇制”とか“資本主義”とか、そういう抽象的なシステムみたいなものを根本からあれこれと批判してて、柄谷の『批評とポスト・モダン』(85年・福武文庫)なんかもそういう本でしょ。“天皇主義者”のオレとしては、理論的にも非常に恐ろしい“敵”だという認識でいたわけです。91年の“反戦声明”以降の「知的空間の再-政治化」について、「仲正昌樹のいう『ポストモダンの左旋回』」(40ページ)ともあるけど、浅田彰も柄谷行人も、オレにとっては最初から“左”だよ(笑)。

外山 それはまったくそのとおりなんだけど、仲正昌樹がこんなふうに云ってることも含めて、柄谷・浅田といったポストモダン系の論客たちや、それと親和的なサブカルチャー王道系の文化人たちが、90年代に入って露骨に“左翼的”な言動に走るようになった、という指摘自体は間違ってないと思うんだ。もちろん藤村君の云うように、彼らは最初から左翼だったんだけど、少なくともそうと分かりやすい形での振る舞いは慎重に避けてたでしょ? 読む人が読めば、左翼的なことを云ってることは分かるんだけど、抽象的で持って回った云い方ばっかりしてて、例えばこの湾岸戦争の時みたいな、“平和憲法がどうこう”とか、そんな“分かりやすい”話はしないものだった。その露骨な“水準の変化”を例えば仲正昌樹は“左旋回”と云ってるんだと思う。ポストモダン派がもともと左翼であるのは、そりゃ“68年の思想”なんだから当然です。

藤村 誰にでも分かるようなレベルで“政治的発言”をやり始めた、ってことだよね。

外山 “文学者の反戦声明”の時期だったと思うけど、柄谷自身が、それまでは古臭いオーソドックスな左翼にまだそれなりの存在感があって、露骨に政治的な発言はやりにくかったけど、冷戦構造が崩壊してそういう連中も急速に没落していったから、堂々と云いたいことを云える環境になった、みたいなことをどこかで書いてたよ。

藤村 でも、この“反戦声明”の時のぼくの驚きは、“「護憲」かよ!?”ってことだった。まさか柄谷や浅田ともあろう人たちが“護憲”などという愚劣きわまりないことを云い出すとは思ってもみなかったよ。少なくともオレは彼らを“賢い左翼”だと思ってたし、“賢い左翼”にとって“護憲”なんて話はバカのすることだってのも“常識”のはずだと思ってたからさ。
 もちろん彼らの書いた文章を読んでみると、云い訳っぽく“あえて「護憲」”みたいな書き方をしてるし、“「押しつけ憲法」であるからこそ素晴らしいんだ”的なワケの分からん屁理屈をこねちゃいるんだけど、“護憲”なんてそんな苦心までして説くことではないだろう(笑)。ガッカリだよ。

外山 ……仲正昌樹って人は、やっぱりそのテの“現代思想”系の入門書なんかもいっぱい書いてて、そういうのを“わかりたい”若者たちにはそれなりに人気のある人ですけど、実はそもそも学生時代は原理研の活動家だったんだよね(笑)。
 “原理研”は知ってると思うけど、要するに統一教会の学生組織で、統一教会それ自体が“反共”をメインの教義の1つにしてるぐらいだし、原理研は、80年前後の右翼学生運動の一大勢力だったような団体です。おそらく仲正昌樹も学生時代には、当時はまだ全国的に左翼系の学生たちが自治会とか文化サークル連合とかに蝟集して“キャンパスを支配”してたし、そういう状況を打破せんと闘っていたはずで、つまり“現代思想”を云々するようなタイプの論客としては、仲正昌樹は相当な“変わりダネ”なんですよ。ぼくも仲正昌樹の本は何冊も読んでるけど、まさか原理研にもこんな“正統派のインテリ”が存在するとはビックリしました(笑)。
 ともかく仲正昌樹はもともと“反左翼”だし、ポストモダン系の論客としては珍しく“右寄り”で、90年代以降の多くのポストモダン論客たちの露骨な“左傾化”を苦々しく思っていて、もちろんそのことを公然と語ってもいる数少ない存在なわけです。で、たぶん仲正昌樹も“ポストモダンの左旋回”を批判的に云々する場合に、やっぱり91年の“文学者の反戦声明”をその“画期”と見なしてるんじゃないかと思うけど、そういう見方は間違ってるんだよね。
 同じ40ページ中段に「ニューアカ・ブームもふたつの『政治の季節』の間隙に出来した現象にほかならない」とあって、ここで「ふたつの『政治の季節』」と云ってるのは“72年以前”と“91年以後”のことでしょ? 違うんだよ。『青いムーブメント』で完全に論証したとおり、実際には“政治の季節”と呼ぶにふさわしい時代は“80年代後半”に存在したわけです。
 85年あたりから始まって、87年あたりから本格化して、88年から90年にかけてピークを迎える一連の流れがある。91年には急速に沈静化したんであって、その91年のしかも“批評シーン”なんてタコツボの内部でのみ話題になったにすぎない“文学者の反戦声明”なんてのは、80年代後半の“政治の季節”と仮に関係があるとしても、その“余韻”の1つという以上ではない。
 “反戦声明”で中心的な役割を果たしたのは、柄谷・浅田といった思想系の人たちだけではなく、そのラインとも従来から親和性のある、やっぱり80年代前半には“非政治的”な振る舞いに終始してる印象を持たれてた、サブカルチャー系の文化人たちもいたよね。いとうせいこうが代表格だけど、いとうせいこうが急に“政治化”するのは、87年から89年にかけての、“広瀬隆ブーム”に象徴される反原発運動の高揚とか、天安門広場を占拠して民主化を要求した学生たちへの共感やそれを弾圧した中国政府への怒りが広範に拡がるという、“政治の季節”の熱狂の渦中でのことであって、91年に突然“左傾”したわけでは全然ない。
 まず80年代後半の“政治の季節”があって、それは“土井社会党ブーム”という形で、89年の参院選で社会党が勝って参院では土井たか子が首班指名されたぐらいの全社会的な高揚であって、柄谷なんてマニアックな存在の一挙一動に注目してるような好事家たちのタコツボの内側でのみ騒がれたにすぎない“文学者の反戦声明”なんかとは規模も質も話にならんぐらい違うよ。
 そういう“タコツボ”のレベルを超えて、ポストモダン系のとくに若手のアカデミシャンたちがやたらと──もちろん左翼的な──“政治的発言”を屈託なくやるようになるのは、それもやっぱり“91年以降”とかではなく、実際はもっと遅くて、96、97年ぐらいからです。それも結局、原因は“柄谷”とかではなく“だめ連”です(笑)。
 92年に早大の異端的ノンセクト・ラジカルの学生たちによって結成された“だめ連”が、94、95年あたりから、首都圏でだけですが急激に成長して、数百人規模の当時20代の若者たちのネットワークを築き上げる。その中に、酒井隆史だの道場親信だの丸川哲史だのといったアカデミズムの世界でやがて頭角を現す、まだ非常勤講師の職にもありつけてない段階のインテリ青年たちも、松沢呉一といったサブカル系の若い文化人たちも、80年代後半の“政治の季節”以来の“ドブネズミ系”の左翼青年たちも、みんな糾合されていて、お互いに影響を与え合ったわけです。数百人という、規模としては大したことないんだけど、思想シーン、文化シーン、政治シーンの若者たちの要所要所、首都圏の主だった部分がほとんど全部そこに巻き込まれてたと云っていい。
 90年代半ばの“だめ連”が、それまで断絶してた、とくに思想シーンと政治シーンの若者たちを20年ぶりぐらいに接続した。その結果、まあ酒井隆史や丸川哲史はそもそもオーソドックスなノンセクト学生運動の経験を持ってるけど、その周囲の“研究者の卵”的なインテリ青年たちもどんどん感化されて、“政治的”な発言をしたり、具体的に何らかの左翼的な運動に関わったりすることについて、ハードルが下がるんです。“フリーター労働運動”なんてのも00年代半ばに“だめ連”の至近から登場して、それもまたいわゆる“ロスジェネ論壇”の形成につながるんだし、“ポストモダンの左旋回”って現象に関して、実は“だめ連”はかなり重要なファクターになってる。
 そういう部分は、この“ゲンロン座談会”に参加してるような、“批評シーン”のタコツボの住人たちの視野にはまったく入ってないんでしょう。

藤村 この後に読む座談会本編でも、90年代以降に関しては柄谷・浅田が中心になって刊行し始めた『批評空間』(91年創刊・02年終刊)って雑誌の存在を軸に語られるんだけど、その範囲で語られるような現象ってのはつまり、“ポストモダンの左旋回”などではなく、“ポストモダンの党派化”もしくは“プレ党派化”とでも呼ぶべきものなのかな?

外山 “タコツボ化”でしょう。それは80年代後半にはもう始まってたことで……世代経験って、およそまあ“どの時期に20歳前後か”で大体決まるじゃん。83、84年に20歳ぐらいで、知的な階層に属してれば、“ニューアカ・ブーム”なんかが自然に視野に入ってきて、“ポストモダン”的教養もそれなりに身につけていくことになるんだけど、80年代末に20歳を迎えるぐらいの世代になると、そこそこの知的階層であっても、そんな世界は普通は視野に入らないよね。そんなのに興味を持つのは、同世代の中でも東浩紀みたいな、ごく一部の早熟なヘンタイだけだったでしょう(笑)。そういう意味では80年代末頃にはすでにタコツボ化は始まってたわけだ。
 42ページから43ページにかけて、“ニューアカ・ブームに深い関わりのある雑誌やムック”が、『GS』とか『エピステーメー』とか別冊宝島の『わかりたいあなたのための現代思想・入門』とか、挙げてあるでしょ。しかし『GS』や『エピステーメー』と、別冊宝島の『わかりたい…』とでは、実は読者層がズレてるんだよね。『GS』や『エピステーメー』はニューアカ・ブームに当初から乗れてた人たちのためのものだけど、『わかりたい…』はブームに乗り遅れた人たちのための入門書です。
 『わかりたい…』のメインの執筆者たちは、まあ小阪修平と竹田青嗣ですけど、さらに笠井潔を加えて86年に『オルガン』(現代書館・91年まで10号刊行)を創刊して、その常連執筆者となる橋爪大三郎や西研とかも含めて、この人たちは80年代末から90年代にかけて大量の“哲学入門書”の類を出しまくる。『わかりたい…』および『オルガン』系の諸々の“入門書”というのもニューアカ・ブームともちろん関係はあるんだが、読者層はズレてて、つまり柄谷・蓮實・浅田に早くから熱狂して、もちろんそれらを難なくスラスラ読めるような人たちは、“竹田青嗣”とか読まない(笑)。
 読者層のズレというのは世代のズレでもあって、“柄谷・蓮實・浅田”のブームにその初期から乗るには若すぎた世代が、『オルガン』系の著者たちによる入門書の主要な読者層だと思います。
 今回の『人民の敵』第32号での絓さんとの対談で、絓さんがまさにそのあたりを回想してる箇所があるんですよ。80年代末とかのことなんでしょう、早稲田で非常勤講師をやってて、竹田青嗣の『現代思想の冒険』(87年・ちくま学芸文庫)とか読んでる学生が多いようだったんで、「早大生ともあろう者がああいうものを読んではならん。あれは日東駒専が読むものだ」と叱ったっていう(笑)。「早大生ならせめて『構造と力』とかを読みなさい」って(笑)。しかし今から思えば、実はその当時すでに“早大生”にとってすら“ポストモダン的教養”は自明のものではなくなっていて、まず“竹田青嗣”とかで“入門”しないことには“柄谷・浅田”なんか難しくていきなりは読めないのが当たり前な状況になってたんだよなあ、って文脈での話なんですけどね。

藤村 座談会の本編に出てくる話だけど、実は東浩紀もこの『わかりたいあなたのための現代思想・入門』で“現代思想”に“入門”してるんです。

外山 えっ、そうなの!? 高校時代からデリダとか読んでるようなイケスカナイ奴だったんじゃないの?(笑)

藤村 座談会のほうを読めば、そこらへん分かります(笑)。……“文学者の反戦声明”って、それに賛同する奴は味方、賛同しない奴は敵っていう、ある種の“踏み絵”のような作用をした出来事だったように思う。

外山 うん。その時に『オルガン』派は批判に回ったから……。

藤村 右派(竹田青嗣・加藤典洋ら)も左派(小阪修平・笠井潔)も、両方ともね。

外山 それで『オルガン』派は以後、“批評シーン”の主流から完全にハブられた。

藤村 もちろんそれ以前から、“外部派vs共同体派”って対立構図は生まれてたんだけど……。

外山 でも批評シーンの内部での“主流派vs反主流派”ぐらいの対立にとどまってたでしょ? “反戦声明”以降は批評シーンそのものから排除される。

藤村 実はオレが竹田青嗣にのめり込むようになるのは、この時に彼が“反戦声明”を批判する側に回ったという一件が、かなり決定的なきっかけなんです。
 ……この“基調報告”の後半部分には面白い話が多いんだけど、でもやっぱり「ニューアカはぴたり五〇年前の文芸復興(一九三三〜三六年)の反復であった」というのは間違ってて、せめて“プレ・ニューアカとニューアカは”とひと括りにしてしまえば、まだそうも云える気もするのにね。
 第4節に、双方を支えたさまざまな“メディア”の話が書いてあって、ここは非常に面白い。70年代の“新左翼系総会屋雑誌”がプレ・ニューアカの隆盛を支えた側面があり、80年代にはそれに代わって“メセナ/企業PR誌”がニューアカ・ブームを支えた、と。さっきも云ったように、そもそも“批評”というのは“在野”のもので、大学に籍を持ってない論客にも文章を発表して活躍できる場が存在しなきゃ“批評”は成立しない。しかし90年代に入ると、バブル崩壊で“メセナ/企業PR誌”とかも潰れていって、“さあ、どうする?”みたいな話でしょ。

外山 だからこそ90年代以降、現在に至るまで、“大学の先生”が“批評家”も兼ねざるを得ないような、ある種の閉塞状況から抜け出せずにいるわけだよね。
 しかし“総会屋雑誌”から“企業メセナ誌”へ、って段階でかなり“堕落”だよなあ。“編集方針には口出ししない企業”にカネを出させて、書きたいことを書いて食い扶持を稼ぐというのは一緒だけど、“総会屋雑誌”は字義どおり、総会屋がスポンサーだったわけです。総会屋という“反社会勢力”が提供する“ブラックマネー”で、新左翼という別の“反社会勢力”の媒体が運営されるという、考えようによっては非常に“健全”なしくみですよ(笑)。
 しかし“企業メセナ誌”となると、カネを出す側は一応はリッパな堂々たる一流企業でしょ。まさに“回収”と紙一重で、そういうところに頼っちゃうことに慣れてしまって、その感覚の延長で、それらがバブルで潰れた後も、“総会屋”とか“ヤクザ”とか“中国”とか“北朝鮮”とかではなくもっと“優良な”ところからカネを出してもらわなきゃってことで、ウチの東野先生が徹底批判してる、最近の“助成金アート”とかの問題が生じてるわけだ。優良企業がカネを出してくれないんなら、行政に出してもらおうってことじゃん。

藤村 ……“プレ・ニューアカ”と比べて“ニューアカ”のほうが、より“教養主義”的である、というふうに大澤聡は分析してるよね。例のアナロジーとも関連して、ニューアカ・ブームは「一九三〇年代の『昭和教養主義』に対応する最後の(?)教養主義」であり、「昭和末期教養主義」とでも呼びうるもので、その端的な現れの1つとして「『わかりたい』大衆が膨化した」と書いてる(43ページ)。

外山 ぼくはそこらへんの分析にも違和感があるんだよなあ。“プレ・ニューアカ期”というのは、39ページ中段にあったように「一九七〇年代中盤から八〇年前後にかけて」の、柄谷、蓮實、山口昌男や栗本慎一郎が活躍し始めた時期のことだよね。のちに“ポストモダン思想”と総称されるような一群の“ワケの分からない思想”が群生し始めるわけだけど、“ワケが分からない”のは世間一般から見た場合の話であって、そういうのに熱中してる人たちにとっては、ちっとも“ワケが分からない”ものではなかったはずですよ。だって“68年”の総括をやってるだけなんだもん(笑)。
 それはニューアカ・ブームの初期というか、“ブーム”に火がつく直前の、浅田彰が登場した直後ぐらいまでそうだと思う。浅田彰だって京大全共闘の直系のノンセクト・ラジカル学生運動である“竹本処分粉砕”闘争の中心的な活動家で、その経験を踏まえての『構造と力』巻頭論文であって、それを“なるほど!”と思って読んだ初期の浅田読者には、一見“ワケの分からない”浅田思想のモチベーションはちゃんと理解されてたはずだ。当時のノンセクト活動家たちにも盛んに読まれたんでしょう。
 ところが“ブーム”を経て、一段落して、80年代後半になると、ポストモダン思想というのは実は“68年の話”をしてるんだ、ということが多くの人には理解されてないというか、“68年を発展的に継承しなければ!”みたいなモチベーションをそもそも持ってない、ポストモダン思想とかにそもそも興味を持つ“資格”のない連中にまで、知的にちょっと背伸びしたければポストモダン思想ぐらい押さえておかなきゃ、って雰囲気が広がってる。ほんとは“68年”に興味がないんだったらポストモダン思想を“わかりたい”とか思う必要もないし、実際いくら“入門書”を読み漁ったって結局“わからない”よ(笑)。そういう問題であって、“教養主義”がどうこうって話ではないと思う。
 ……まあ『オルガン』派の面々が書いた“入門書”もいろいろで、竹田青嗣はそういうモチベーションを共有してない読者向けに、政治的文脈を抜きにどう説明するか苦心してるし、笠井潔の『ユートピアの冒険』は、ポストモダン思想の説明の前にまず“68年”の説明を一所懸命やるっていう(笑)。
 とにかく“80年代半ば”に切れ目があるんだという意識があるかどうかで歴史の見え方がまったく変わってきてしまう。80年代前半までは、“わかりたい”とか何とか思う以前に、ポストモダン思想のモチベーションは自明なんだ。書いてる側も読んでる側も要は新左翼ノンセクトなんだからさ(笑)。“知的向上心”みたいな話ではない。

藤村 浅田彰の学生運動的バックボーンは分かるけど、中沢新一にはどういうバックボーンがあるの?

外山 そっちはぼくにも謎なんだよなあ。はっきり云って“オカルト”でしょ?(笑) いろんな“80年代論”で、ニューアカ・ブームで中沢新一が浅田彰と並んで象徴化した理由について解説されてるのを読むけど、今でもよく分からん。まあたしかに絓さんの『1968年』でも詳しく説明されてたとおり、“オカルト”的な方向への関心の高まりも“68年”の延長線上で起きることではあるから、関係なくはないんだろうけど。
 そろそろ肝心の座談会本編に進みましょう。座談会というか、イマドキの“軟弱ヘナチョコ文化人”どもの“雑談”を……(笑)。一応、丁寧に順を追って読んでいくことにします。「1.プレニューアカの可能性」という部分を各自、黙読してください。48ページから57ページ中段までですね。


 (「1.プレニューアカの可能性」黙読タイム)


外山 はい、では何かあればどうぞ。

藤村 冒頭の東浩紀の発言の中で、この座談会の前提になってる柄谷・蓮實・浅田・三浦雅士の『近代日本の批評』座談会について、その「独特の『非歴史性』」が指摘されてる(48ページ)。「柄谷や浅田もまた、それぞれだれかに見出されたはずですが、この共同討議ではそのような彼ら自身の歴史性には言及されない。かろうじて三浦雅士だけが自分の来歴を語るのですが、蓮實、柄谷、浅田は、批評史全体の傍観者のような立場で話していて、どの時代からやって来たんだという感じになっている」と東浩紀は云ってて、さっきからの話につなげると、これはつまり、柄谷・蓮實・浅田が体現していたポストモダン思想もそれなりの必然性があって登場してきたものであるにも関わらず、そこが捨象されてしまっている、という批判だと解釈していいのかな?
 で、さらに続けて「九〇年代に影響力を持ったこの討議そのものが、批評史の多様な過去を平坦にし、村上隆風に言えば、『批評なるもの』全体を『スーパーフラット』にしてしまうような働きを持っていたのではないか」(49ページ)と。

外山 もともと柄谷も浅田も、自分が今なぜこういうことをテーマにしてるのか、ということを説明せずにいきなりあれこれ論じ始める人じゃん。

藤村 東浩紀の冒頭発言は、「ゼロ年代の批評はそれ以前の批評史から切れて、前提知識がゼロでも読めるサブカルチャー批評の影響力が強くなった。それはふつうは『批評空間』派の対極だと思われているけど、ここにその『切断』『平坦さ』の萌芽があると思いました」と締めくくられる。それを承けて大澤聡が、東浩紀の用語である“データベース的”云々の話につなげていく。
 ……これはやっぱりさっきから外山君が繰り返し問題にしてる“タコツボ化”の話なのかな?

外山 つまり“1つ1つ積み上げていく”ような語り口というのが、“68年以前”の“旧左翼”に対応するものなんですね。“党建設”的な語り口とでも云えばいいのか……。それに対して“68年”の“新左翼ノンセクト”は“党“を否定したんであって、その語り口も、“1つ1つ積み上げていく”ようなものではなくなる。柄谷・蓮實・浅田の語り口が、ここで東浩紀が批判的に云うようなものになるのも、その必然的な結果でしょう。
 しかし柄谷・蓮實・浅田は、“68年”的な問題意識をかなりの程度に自覚してそう振る舞ってるんだと思うけど、東浩紀の云う“ゼロ年代批評”も含めて80年代後半以降のそういう語り口は、結果として似ているだけで、なぜそういう語り口をせざるを得ないのかという“68年”的な問題意識の自覚はないと思う。だから、東浩紀のように柄谷らの語り口と“ゼロ年代批評”とのそれとの間に継承関係を見出すんじゃなくて、やっぱり断絶のほうを見なきゃいけないんじゃないだろうか。
 53ページ上段に、これもやっぱり東発言ですが、「左翼が退潮したプレニューアカの時代には、左右の対立を乗り越える議論の枠組みをどう作るかが大きなテーマになっていた」とあります。違うよね? 「左翼が退潮したプレニューアカの時代」とか云ってるけど、その「プレニューアカ」の時代に活躍し始めた論客たちというのは、さっきの大澤聡の文章の中で挙げられてた面々を見ても明らかなように、全員左翼じゃないですか(笑)。
 “退潮した”のは“左翼”ではなく“旧左翼”で、“大きなテーマになっていた”のは“左右の対立を乗り越える議論の枠組みをどう作るか”とかではなく、“68年”的な新左翼ノンセクトの問題意識をどう言語化するか、ということです。“旧左翼”と“68年的な新左翼ノンセクト”の中間形態である“新左翼党派”も含めた“党”的な左翼のそれとは違う思想や理論が追求されていた。旧左翼的なものを引きずってる新左翼党派も含めて、“党”の“綱領”とかに象徴される“大きな物語”に依拠する左翼思想ではなく、ノンセクトが担った反差別や反公害その他の“個別課題”に象徴される“小さな物語”に依拠する左翼思想が模索されたわけですね。
 “68年以前”の左翼だけを“左翼”だと思えば、東浩紀の云うように「左翼が退潮したプレニューアカの時代」ってことになるんでしょうし、「左右の対立を乗り越える」つまり“右とか左とかってことではない”「議論の枠組みをどう作るかが大きなテーマになっていた」ってことになるんでしょうが、違うからさ(笑)。実際は、単に“新しい左翼理論”が追求されてたにすぎない(笑)。

藤村 だとしたら、竹田青嗣とか加藤典洋みたいな人たちの立場はどうなるの?

外山 竹田青嗣や加藤典洋も左翼じゃん(笑)。彼らのテーマも完全に“68年”の言語化でしょ? もちろん彼らの場合はここでの東浩紀と似たようなところがあって、“68年以前の左翼”を“左翼”ってことにしちゃってて、自分たちはそれとは違うし、したがって“左翼”ではない、というつもりでいるだろうけど。
 ……ここで東浩紀が「左右の対立を乗り越える議論」と云ってる念頭には、そのすぐ後に福嶋亮大が引き合いに出す山崎正和とか、さらにそれを承けて東浩紀が引き合いに出す、「ダニエル・ベルやハーマン・カーンがやっていたポスト消費社会論」に対応する、「日本では未来学と呼ばれ、保守派の学者たちによって展開されてい」た諸々の議論の存在もあるようです。それらの議論はたしかに、ポストモダン論の主流である“68年”的な新左翼系論客の問題意識とも響き合うところがあって、実際、ニューアカ・ブームがそういう回路に接続されて、80年代日本の現状肯定イデオロギーとして回収されていったという側面について、笠井潔も『ユートピアの冒険』でさんざん批判してる。

藤村 絓さんの『1968年』にもあったように、牧田吉明とか、70年代に入ると“新左翼と新右翼の共闘”を模索する動きも盛んになるわけでしょ?

外山 それはここで東浩紀たちが云ってるのとはまた別の文脈だからなあ。たしかに70年代には“68年”をさらに前進させるためのさまざまな模索はありましたよ。それで“オカルト”や“偽史”に走る人たちもいたし、“左右共闘”を目指す動きも出てきたり……。

藤村 東浩紀も、「左右の対立を乗り越える議論」ではなく「“既成の”左右の対立を……」と云えばよかったのかな?

外山 だけどそもそも70年代に「左翼が退潮した」という認識が間違ってるんであって、70年代半ばあたりから“プレ・ニューアカ”として目立ち始めた人たち自身がまごうことなき左翼であって、“68年”の問題意識の延長線上であれこれ論じ合ってたんだもん。そこを押さえておかないとおかしな議論になってしまう。もちろん80年代前半にそれらがニューアカ・ブームで形骸化して、“68年”的な問題意識もなしくずし的に雲散霧消させられてしまうんで、“85年”以降の“動物の時代”に突入するんだけどさ。
 ……それに東浩紀がここで「退潮した」と云ってる「左翼」って、まさに“68年”の全共闘のことでしょ。大澤聡の文章にあった、“70年代”は“激動の時代に挟まれた時代”だっていう、その場合の“1つ目の激動の時代”は“60年代の学生運動”を指してて、“70年代”はそれが“終わった”後の時代だ、って認識と重なってるわけです。完全に認識が間違ってる。“68年”的な“新しい左翼”が、「退潮した」どころかいよいよ主導権を握り始めた結果として、ポストモダン論が70年代半ばから勃興してくるんだよ。
 欧米ではたぶん、ポストモダン思想が“68年”体験の言語化である、というのは改めてクドクド云うまでもない自明のことなんでしょう。しかし日本ではポストモダン思想を云々してる“批評シーン”の連中の間でさえそこらへんがちゃんと認識されてないんだよな。そもそも日本では、自らの“68年”体験を言語化する模索を独自に続けて、フランスのそれとかに近いところまで自力で到達してたのって、笠井潔ぐらいだもんね。まあ“模索”自体はそれこそ“プレ・ニューアカ期”にいろんな人がやったんだろうけど、最終的にはその“正解”が“フランス現代思想”として“輸入もの”として入ってきてしまう。だから“68年”以来の脈絡が、ポストモダン思想を云々してる当人たちにすら見失われてしまったんだとも思う。
 しかしそろそろ、そういう日本の“批評史”の特殊性に気づくべきだよ。この座談会に参加してる連中は、そのことにまだ気づきもせずに“批評史”を云々してる。

藤村 笠井さんが野間(易通)さんとの往復書簡(『3・11後の叛乱』集英社新書・2016年)の中で書いてたけど、欧米の新左翼には、日本の新左翼党派が持ってたような“前衛党”意識みたいなものが希薄だった、と。だから欧米のポストモダン思想というのは、“前衛党”的なものに依拠しない、まさに“新左翼の思想”ってことで分かりやすいんだけど、日本で“新左翼”と云えばまず想起されるのは中核派とか革マル派とか、旧左翼とまったく代わり映えのしない“前衛党”意識に凝り固まった勢力でしょ。

外山 新左翼の“党派”がそれなりの規模で存在したというのが、日本の新左翼運動史の特殊性だもんね。そこらへんは絓さんの『1968年』でも指摘されてた。
 日本でも“68年”の主役が“ノンセクト・ラジカル”であったことは欧米と同じなんだけど、日本的に特殊な存在である“巨大な新左翼党派”も完全な脇役には甘んじてなくて、あまり事情が分かってない後続世代から見た時に、むしろそっちのほうが目立ってしまったりする。で、それら党派が、内ゲバだの連合赤軍事件だの、ムチャクチャなことをやらかしまくって、それで当然のごとく70年代に入って“退潮”していくんだけど、みんなそっちにばかり目が行って、肝心の“ノンセクト・ラジカル”はべつに“退潮”なんかしてないし、むしろとくに内ゲバに巻き込まれたりしない“批評”や文化運動のシーンでは、70年代に入るといよいよヘゲモニーを掌握し始める、ってことが見えない。
 しかしそこらへんの亜インテリがそういう迷妄に陥ってしまうのは仕方ないけど、まがりなりにも00年代以降の“批評シーン”の中心にいる東浩紀までそれでは困るよ。そんなことではマトモな“批評”なんか出てくるはずがない。

参加者B(30代男性) 例の“理想の時代”、“虚構の時代”とかいうのも、世界的にはべつに共通認識でも何でもないでしょ?

外山 そりゃそうですよ(笑)。

参加者B 日本の狭い“批評シーン”の内側でだけの“共通認識”であって……。

外山 うん。“タコツボ”認識(笑)。

参加者B “68年”とか、あるいは冷戦構造が崩壊した“89年”とかを焦点化するほうが、世界的に通用するに決まってますもんね。

藤村 (東浩紀の他の著作をパラパラめくりながら)さっきから探してて見つからないんだけど、実は東浩紀も、“日本的ポストモダン”というものが、もともと欧米のポストモダン思想が持ってた政治性を捨象する形で輸入され流通したことについて、かなり以前から指摘して批判してるんです。
 ……しかしポストモダン思想って、浅ーい戦後民主主義みたいなものと、わりと簡単に結びついちゃう可能性も持ってるでしょ。柄谷も“平和憲法を守れ”みたいなことを云い出しちゃうわけだしさ。あるいは“日本はアジアに対して悪いことをした”っていう、まさに“68年”的な認識の1つが全面化すると“ヘサヨ”にもなってしまう。

外山 “華青闘告発”問題ですな。

藤村 政治性を捨象して流通してしまったがゆえに、時間が経つと却ってショボい政治性と簡単に結びついてしまってるところもあると思う。

外山 “ヘサヨ”とも結びつくわ、“リベサヨ”とも結びつくわ……(笑)。

藤村 今どきの若い人文系の学者で、ポストモダン思想の影響を受けてない奴なんかほとんどいないはずだしね。その人がもともと持ってる政治的スタンスと、ポストモダン思想のいろんな便利なフレーズとが、テキトーに結びつけられる。

外山 なぜか“戦後民主主義批判”だけは語られないんだよなあ。それが日本の“68年”のメイン・スローガンの1つですらあったはずなのにさ(笑)。まあ“被害者視点での平和主義”への批判というところで、“68年”の“戦後民主主義批判”を継承してるつもりの人もいるみたいだけど。
 ……なんかつい同じような愚痴ばっかり繰り返してしまうし、いっそ先に進みましょうか。


 (「2.ニューアカと父の問題」黙読タイム)


外山 じゃあ何かあればどうぞ。

藤村 そうだなあ……。

外山 冒頭から大澤聡が話題にする「ポストモダン派と共同体派の対立」(57ページ)というのは、ぼくも『人民の敵』第27号での対談(後註.すでにnoteでも公開)で藤村君に教えてもらうまで知らなかったことですけど、ぼくは批評シーンの主流派たる柄谷・浅田ラインと『オルガン』派との対立って、さっきも出てきた91年の“文学者の反戦声明”をめぐる問題からだという認識でずっといたんです。実際はここで大澤聡が解説してるような“前哨戦”が存在してたんですね。

藤村 「もちろん、『共同体派』は他称です」という説明もあるけど、浅田彰は当時、竹田青嗣や加藤典洋をもっと口汚く“ムラ派”とか呼んでた(笑)。

外山 どうも“外部派vs共同体派”って言葉で整理したのは上野千鶴子らしいですね。

藤村 そのことはオレも『人民の敵』で初めて知ったんだ。編集段階で外山君がちゃんと調べてくれたようで、頑張って調べてる姿を想像して、読みながらニヤニヤ笑ってしまいました(笑)。
 ……さらに云えば、竹田・加藤の側も柄谷・浅田を“外部派”と呼んでたわけではない。

外山 うん、“眩惑派”と呼んでたんでしょ? 明治以来の日本の知識人の伝統で、“最新の思想”を欧米から輸入して、それをありがたがって“眩惑”されてるだけだ、あるいは外来思想の権威をカサに着て読者を“眩惑”してるだけだ、と。
 つまり“共同体派”はここにも説明のあるとおり、柄谷・浅田の側からする竹田・加藤への悪口であり他称の蔑称だし、“外部派”のほうは逆に竹田・加藤の側が柄谷・浅田に投げつけた悪口とかではなく柄谷・浅田の側の自画自賛的な自称であって、上野千鶴子は結局この論争を、柄谷・浅田の側に有利なように名づけたってことでしょう。

藤村 大澤聡は「浅田は当時かなりムカついたようで、ずいぶん感情的な文章になっている」と云ってるけど、どっちが先かはともかく、竹田青嗣の側もかなり感情的な、柄谷・浅田をバカにしきったような文章を書いてたよ(笑)。

外山 ……この座談会は、こういう部分には好感が持てる。『オルガン』派の存在って、もちろん柄谷・浅田ラインがずっとブイブイ云わせ続けてたからだろうけど、“批評史”とかを振り返る時にも無視されがちだったじゃん。こういう経緯をちゃんと掘り起こして言及するのは、まったく公正な態度だよ。だって90年代以降も、元『オルガン』派の人たちはずっとそれなりに活躍してたし、加藤典洋の『敗戦後論』なんか高橋哲哉との論争にまで発展してて、もちろん加藤・高橋論争についてはさすがに言及されることも多いとはいえ、たいていは単に加藤典洋の“右傾化”を揶揄するような言及の仕方でしかなかったりするもん。
 東浩紀もさすがに時々はスルドいことも云うね。58ページ中段から下段にかけての、大澤聡が「外部派のほうがよっぽど共同体的じゃないかという批判」と形容してるような柄谷・浅田への批判は面白い。加藤&竹田が、批評ってのはムズカシゲなことをあれこれ云うんじゃなく、読者に対して「なんとなく、わかるでしょ?」というスタンスでいいはずだと主張したことを、自分がどっぷり浸かってる共同体の内部の人間しか相手にしてないと批判したはずの柄谷・浅田が、例の『近代日本の批評』の座談会では、「『他者』がいるかいないかという話をしているけれど、他者の定義はとくになくて、『だれそれには他者がいる、しかしこいつには他者がいないのでけしからん』と断罪する道具でしかない。『絶対的他者』や『相対的他者』という言葉も使って、『武田泰淳は意外と絶対的他者だと思う』『いや、相対的他者だと思う』みたいな話をしている」っていう(笑)、自分たちの“信者”向けの発言にしかなってないじゃないか、と。

藤村 しかし柄谷・浅田へのこういう批判も、実は小浜逸郎が『ニッポン思想の首領たち』(宝島社・94年)でとっくに書いてるけどね。

外山 そうなのか。

藤村 ほぼ同じ批判。……やっぱり東浩紀って、実はかなり『オルガン』右派と相性がいいのかもしれない(笑)。もちろん東浩紀は“共同体派”の側にはっきり立つことを表明したりはしないけどさ。加藤・竹田的な“直感主義”に同調するような書き方は絶対にしない。次回に読むんだろう『ゲンロン』第2号での座談会では、東浩紀は加藤典洋を大絶賛してて、オレもちょっと笑ってしまったけど、それも『敗戦後論』や『戦後的思考』といった個別具体的な著作を絶賛してるだけで、その背景にある加藤典洋の基本的スタンスそのものへの絶賛ではないしね。

外山 59ページからの、柄谷行人の例の“教える・学ぶ”関係についての議論に対する東浩紀の批判もなかなか面白い。柄谷が“教師”の立場からいろいろ云うことが、バカな“生徒”にはちっとも伝わらなくて、そこから柄谷は“他者”についてあれこれ考察するわけだ。しかし実はそれは“父と子”の関係みたいなもので、例えば柄谷は東浩紀のことを“父から見た子”のような“他者”だと思ってるんだろうけど、東浩紀の側は、自分は柄谷にとって“もっと他者”な気分でいるらしい。“私生児”ぐらいのレベルの“他者”なんじゃないか、っていうね。しかし柄谷にはどうも“父から見た子”以上にかけ離れた“他者”なんて視野に入ってないんじゃないか、という疑惑(笑)。

藤村 ……いきなりズレたことを云いますが、この59ページ上段の東浩紀の発言に「江藤淳は『父になる』ことを説いていましたが、それに対して柄谷行人は、江藤から遁走するような感じで『父になれないぼく』をテーマにして評論を書いていた」と云ってて、ここで云う“父になれない”というのを絓さん的な文脈に置き換えると“党を建設できない”ってことになるのかな?

外山 うん、そうでしょう。

藤村 “引き受ける”ってことだよね。

外山 63ページ下段の福嶋亮大の発言に、「江藤淳はひとまず『成熟』のひとですよね。成熟とは、自分の限界を受け入れる、喪失を受け入れるということでもある。別の言い方をすれば『不純』になることですね」というのがあって、これも同じようなことを云ってるんだと思う。……その前後にある「ネトウヨは江藤の『私生児』として生まれたと言えるんじゃないか」(東・64ページ)って話も、東浩紀用語でいう“誤配”のイメージでそう云ってるんだろうね(笑)。

藤村 実際はそんなに“誤配”でもない気がするけどさ(笑)。

外山 で、柄谷はやっぱり東浩紀がこだわってた“誤配”ということにピンときてなかったんじゃないか、という話も60ページから61ページにかけてあって、柄谷の視野の範囲内には“誤配”ではなく“誤解”ということしかなかったんじゃないか、と。
 たしかにそもそも柄谷は“教師と生徒”の関係で自分は“教師”の側にいる設定で、“云ってることが伝わらない”ことをあれこれ考察してるんであって、それは“誤解”のレベルの話だし、“誤解”というのは“正解”が存在して初めて“誤解”も生じるんだから、柄谷は“教師”という“正解の保持者”の立場から“誤解”する“他者”について云々してるってことでもある。たしかにそんなの実は“他者論”でも何でもないよなあ(笑)。
 もちろん東浩紀の云ってる“誤配”というのはさらにもっと違うレベルの話で、“柄谷先生”の云うことを“生徒”が理解するとかしないとかの話ではなく、教室で生徒に向けてあれこれ云ってたつもりが、たまたま廊下を通りかかった業者のオッサンか何かが柄谷の言葉の一部分だけ耳にして感銘を受けて、しかも完全にムチャクチャな“誤解”をしてて、その“誤解”に基づいて柄谷のあずかり知らぬところでとんでもない“実践”をやらかして大問題を起こしたりして、問いただしてみると“柄谷先生がこうおっしゃってたので”とか云うもんだから、柄谷のところに“どういうつもりだ?”って抗議が来て、“そんなもん責任とれねーよ!”みたいな話でしょ、たぶん(笑)。
 ……藤村君がさっき云ってた話も出てきたね。58ページ中段で、例の『わかりたいあなたのための現代思想・入門』について東浩紀が、「じつはぼくが最初に現代思想を勉強した本」だと実に好感の持てることを云っている(笑)。きっと中学生とかでニューアカ・ブームの洗礼を受けて、高校時代にはもうデリダとか読みまくってたような早熟なヘンタイ野郎に違いない、というのはどうもぼくの勝手な決めつけ、それこそ“誤解”だったようです。もっとも84年12月に出た本だから、刊行されてすぐ読んだんだとしたらやっぱり中1、中2だし、“疑惑”が完全に晴れたわけではない(笑)。それにもっと遅く、大学生になってから後追いで読んだんだとしても、左翼学生でもなかったくせに“ポストモダン思想”なんかに興味を持つ必然性が理解できん。なんでそんなもの“わかりたい”とか思ったのか?(笑)
 ぼくの場合は当然、まず“左翼道”を地道に歩んで、やがて限界に突き当たって、しかも“連合赤軍事件”とか“内ゲバ”とか“スターリン主義”とかの問題も決して他人事ではないっていうところにまで思索と経験が及んだ段階で初めて“ポストモダン思想”が視野に入ってきたんだもん。

藤村 東浩紀だって“運動”はしてたよ。

外山 マジっすか!? それは初耳だ。

藤村 中学生の時に「うる星やつら」を再放送しろって要求を掲げて……。

外山 いやいや、そういうんじゃなくてさ(笑)。

藤村 それで署名運動もやってるし、さらには高校時代の外山君と同じように、自転車の荷台にラジカセを括りつけて、「うる星やつら」の主題歌を鳴らしながら……。

外山 親近感の持てるエピソードではあるが……(笑)。

藤村 そんなこと、よくやったよなあ。

外山 ぼくの“さだまさしの反戦歌”には遠く及ばないにしても、たしかにかなり恥ずかしい“活動歴”だ(笑)。立派! ……ちょっと時間も押してきたし、先に進みましょうか。


 (「3.メディア論の視点から」黙読タイム)


外山 うーん……いかん、ますます東浩紀に親近感を持ってしまう(笑)。

藤村 それはどこらへんで?

外山 69ページ下段でいきなり“中島梓”の話を始めるじゃん。小説家の栗本薫の、評論家としての別ペンネームだけど、つまりれっきとした“文芸批評家”としての実績もあるし、70ページ上段でやっぱり東浩紀が云ってるように「『コミュニケーション不全症候群』(九一年)という先駆的なオタク論も出版し」てたりするのに、まさに「批評家たちは中島梓=栗本薫をうまく位置づけられずにきた」(大澤・70ページ)と思うし、まあ笠井潔は『コミュニケーション不全症候群』について論じてたけど、とくに“現代思想”を云々してるようなタイプの人たちが栗本薫に言及することなんかまずなさそうな印象だったから、突然ここで言及されててちょっと驚いた。やっぱり同世代なんだなあ、と。

藤村 竹田青嗣も『コミュニケーション不全症候群』の書評を書いてたよ。

外山 柄谷も中島梓のデビュー作である『文学の輪郭』(78年・講談社文庫)については論じてたと書いてあるけど、基本的には“柄谷・浅田ライン”の人たちの視野には栗本薫は入ってないもんだと思ってたからさ。東浩紀ももともとそのラインから出てきた人だし、それが実は『オルガン』派の論客たちにも目配りしてたり、栗本薫に突然言及したりするもんだから、だいぶ印象が変わってきた。
 もっとも東浩紀は“オタク文化”とも親和的な人だから、そういう部分でたしかに栗本薫の存在が視野に入ってても不思議ではないんだけどさ。東浩紀が同じ箇所で、実は栗本薫が「他方でBL文化を立ち上げる仕事もやっている」って云ってるでしょ。これは個人的に琴線に触れる話で、ぼくが中学生時代に熟読してたのが、まさにコレなんだよね。

藤村 へー、そうなんだ。

外山 『JUNE』っていう、今から思えば“ゲイ雑誌”ってわけでもないけど、のちに云う“ボーイズ・ラブ”、つまり“ゲイ”ってテーマに特化した小説とマンガの少女向け雑誌があって、そこに栗本薫というか中島梓が、「小説道場」と題して、まあ糸井重里の“萬流コピー塾”みたいな、読者から募集した小説をあれこれ論評する形で“小説の書き方”を指南する連載を持ってたんです。もちろん募集は“ボーイズ・ラブ小説”限定ね(笑)。
 ぼくは当時、栗本薫に心酔してて、“そっちのケ”はまったくなかったし興味もなかったんだけど、とにかくその連載を毎号読みたいがために、何も知らない同級生にテキトーなこと云って、「ちょっとトイレ行ってくるから、もう時間もないし、その間にあそこにある『JUNE』って雑誌を代わりに買っといてくれない?」とかさ(笑)。
 東浩紀の云うように、もちろん栗本薫自身もそういう小説を何冊も書いてるし、たしかに“ボーイズ・ラブ文化”がジャンルとして立ち上がっていく基盤を作った人ではあるんだろうね。

参加者B 外山さんの文体も、実は栗本薫の影響だって云ってましたよね?

外山 そうなんですよ。今やほとんどその面影もないけど、こと“文体”に関しては、最も影響を受けたのは“赤川次郎と栗本薫”なんだ(笑)。中2ぐらいで文章ってものを書き始めた最初の時期だけど、「小説道場」も繰り返し熟読して、漢字と平仮名の使い分けとか、栗本薫が“指南”してるとおりに書いてた(笑)。

藤村 応募もしてたの?

外山 いやー、いくら栗本薫を尊敬してたとはいえ、さすがに“ゲイ小説”を自分も書こうってモチベーションはなかったな(笑)。……ともかく東浩紀が意外と“同世代”っぽいことを次々と云うから驚いてますよ。ただ東浩紀の場合は“政治運動”の経験がないし、そのシーンが視野にも入ってないから、歴史認識に関してズレまくってて、アニメの話だけしてりゃいいのに、それ以外の“社会”とか“政治”とかまで含めたウソの歴史をさんざん広めるもんだから、迷惑してムカついてるんだけどさ。
 66ページ下段5行目から大澤聡が、「七〇年代半ば以降に相当する批評史は途端に困難になる。史的叙述の定番も存在しない。文芸批評が批評の全体性を体現しえない」と云ってますが、何度も云ってるように、80年代半ば以降は“批評シーン”そのものが“社会全体”にとって何ほどの重要性もない、無数に並立するタコツボの1つになってて、だから“批評”が社会に対してもはや何の影響も与えることはできないんです。かつてはそれなりに影響を与えてたと思うよ。ところが80年代半ば以降はそうではないから、したがって91年の“文学者の反戦声明”だって何の意味もないし、批評シーンで80年代半ば以降に起きる諸々は、社会的には何のインパクトも持ちえない。
 そういう現実について自覚が欠落してるんじゃないか、というのがこの座談会を読んでてずっと感じてる疑問だし、大澤聡のこういう発言にも表れてるように思う。

藤村 もちろんぼくにもリアルタイムでの記憶はないけど、80年代前半の“文学者の反核声明”なんかはどうだったんだろう?

外山 あれはそれなりの“事件”でしょう。“反核声明”自体も、それに対する吉本隆明の批判とかも、社会全体をかなり動かした。それと前後する“ニューアカ・ブーム”も“社会的”な出来事だし、だからやっぱり“批評史”が本当に何か意味あるものとして記述できなくなるのは、「七〇年代半ば以降」ではなくて80年代半ば以降だよ。あるいは70年代半ば以降、80年代半ばまでというのは、“批評”がそういう社会的意味を失っていく過程として記述しうるのかもしれない。
 で、80年代半ば以降というのは、そんなもの記述しようとすること自体が無意味になる。80年代半ば以降は、“批評シーン”なんて一部の好事家のタコツボにすぎないんだし、そんなとこで起きた諸々について“歴史”を書いたって何の意味もない(笑)。だからこそ、これはぼくのスタンスの表明にすぎないけど、“政治の優位”を掲げなきゃいけないんだ。
 ……これもやっぱり大澤って人が云ってるのか。67ページ中段で、この人は、70年代後半以降の“批評史”を構想するためには“文芸批評”以外の“批評”も組み入れる必要があって、そうなると逆に、すでに教科書的に一定整理されている感のある70年代半ば以前の“批評史”のほうも、そういう視点から再検証して記述し直す必要がある、というようなことを云ってますね。
 しかしそれを実際すでにやり始めてるのが絓さんだったりすると思うんだよ。絓さんは、これまでのように狭い意味での“文学”だけを云々するのでなく、新左翼党派のイデオローグの“政治論文”とかから引っ張ってきた言葉と、狭義の“文学”や“文芸批評”のそれとを同等に扱いながら、従来の“教科書的”な歴史観を転倒させるような試みを盛んに繰り返してるよね。
 ぼくが“政治活動家”だからそう云うのかもしれないが、やっぱりむしろ“政治運動シーン”の推移を軸として歴史を記述し、狭義の“批評シーン”なんかもそれを構成する“部分”にすぎないものとして組み込む、という方向でないと“歴史の全体性”のようなものは成立させられないと思う。例えばさっきも云ったように、タコツボと化した批評シーンの中の出来事しか視野に入ってないと、90年代のどこかの時点で急に“ポストモダンの左旋回”と形容されるような変化が生じたことに関しても、それ以前の断絶しっぱなしだった“批評シーン”と“政治運動シーン”とを仲介した“だめ連”の存在の重要性に気づくことができなくて、批評シーンの内側だけにその原因を探し求めて、やっぱり91年の“文学者の反戦声明”が画期なのかなあ、みたいなウソ歴史をデッチ上げてしまう。

藤村 “批評”の枠組を広げるってことに関して、67ページ中段から下段にかけて東浩紀が、また『近代日本の批評』座談会でのエピソードに言及してて、三浦雅士が山口昌男と大江健三郎の“共通性”について話題にしようとするんだけど、柄谷や蓮實はそれに乗ろうとはせず、テキトーな放言をしてケムに巻いて済ませちゃってる、と。つまり三浦雅士は、外山君の云う“政治”ではないけど、狭義の“文学”についてだけ論じるんじゃなく、“思想シーン”の山口昌男の存在を“文学シーン”の大江健三郎と同等の比重で論じることで、せっかく“文芸批評”の常識的な狭い枠組からはみ出そうとしたのに、柄谷・蓮實がそれを拒絶した、と東浩紀は解釈してるのかな?

外山 ここでの発言の主旨としてはそうでしょう。それにこの後、70ページから吉本隆明の『マス・イメージ論』(84年・講談社文芸文庫)を引き合いに出して、80年代に入ると吉本が狭義の“文芸批評”からはみ出して、少女マンガとかのポップ・カルチャーについても盛んに論じ始めたことに注目してるけど、柄谷・浅田はやっぱり吉本のそういう振る舞いについてかなりバカにしてたでしょう。

藤村 しかし柄谷や蓮實ほどの人ともなれば当然、外山君がいつも云ってる“政治・芸術・学問”という3分野の三位一体性ってことぐらい理解してるはずで、しかもそれを理解してる人であれば、仮にその3つのうちのどれかに優位性を認めるとすれば、当然やっぱり“政治の優位”を認めるだろうから……(笑)。つまり、柄谷・蓮實が『近代日本の批評』座談会で三浦雅士の提起を「結局、山口よりも大江のほうが頭がいい」で済ませてはぐらかしたことについて、東浩紀は、「三浦さんが新しいプラットフォームを作らねばという意識のうえで行った問題提起が、柄谷と蓮實においては、思想に対する文学の優位というふうに処理されている」(67ページ)と批判的に解釈してるけど、これは実はそうじゃなくて、柄谷・蓮實は“大江のほうが政治的に正しい”と云っただけなんじゃないか。

外山 ん? ああ、柄谷・蓮實は自分たちも“文学”の枠内の存在として“思想”の山口昌男より“同じ文学”の大江健三郎の肩を持ったんじゃなくて、実は“文学”でも“思想”でもなく“政治”枠の立場から山口昌男と大江健三郎の仕事の政治的価値を比較して判定を下しただけなんじゃないか、ってこと?

藤村 そうそう(笑)。いや、この東浩紀の説明だけでは、なんで柄谷・蓮實が「思想に対する文学の優位」を表明したことになるのかよく分からなくて、別の解釈も成り立たないかと思っただけなんだけどさ。

外山 なるほど。単に東浩紀が“政治オンチ”で、柄谷・蓮實の“政治的発言”を誤読してる可能性もある、と。

藤村 だって、この座談会でなんで東浩紀がずっと『批評空間』をディスってるかと云えば、それが要は“党派的”な存在になってしまったから、ってことでしょ。仮に実際そうだったとして、そしたらますます「思想に対する文学の優位」なんて立場には立ちそうにない気がするもん。そんな立場はむしろ『オルガン』派っぽい。

外山 とくに『オルガン』右派はそうかもしれないね。……しかしまあ、『近代日本の批評』の当該部分を確かめもせずに想像で東浩紀の解釈が正しいのかどうかを云々しててもしようがないんで(笑)、話を変えますけど、いずれにせよここで東浩紀たちは、例えば吉本隆明が“批評”の対象を狭義の“文学”以外にも拡張しようとしたことを、それが上手くいったかどうかは別として、“その志や良し”的に評価してて、彼ら自身もそういう方向に可能性を見出そうとしてるようですけど、それって要はあくまで引き続きタコツボ化した批評シーンの内部にとどまって、ただその領域を拡張しましょうって話でしょ。もっと広いタコツボにしましょうというか、近隣の他のタコツボとの合併を考えましょうというか(笑)。そうではなく、重要なのはタコツボを出ることだし、それはイコール、“野蛮な情熱”でもって“政治の優位”を掲げるということですよ。
 ……18時までの予定がもう19時近くなってますが、ここで切って“続きは次回”にすると今日の内容を忘れちゃいそうなんで、最後までやりましょう。ちょっとスピードアップして、では第4節を。


 (「4.だれが思想を支えるのか」黙読タイム)


外山 よろしいでしょうか?

藤村 冒頭からいきなりよく分からないんだが……75ページ下段で大澤聡が云ってる「文芸復興はふたつの『政治の季節』のあいだに出来した現象だったわけです」という、これをニューアカ・ブームと重ね合わせる場合の「ふたつの『政治の季節』」というのは、“68年”の全共闘運動と、91年の“文学者の反戦声明”以後の“ポストモダンの左旋回”ってことだよね。ここまでは彼らの歴史認識としては分かるとして、次の76ページに入って中段の、これは福嶋さんの発言ですが、「けれど、いまの批評は総じて大正時代に帰っているようにも見える」というのがよく分からない。
 「つまり、柳宗悦や白樺派、あるいはウィリアム・モリス的なものが回帰している」と云ってるけど、具体的にこれはどういう現象のことを指してるんでしょう? 「資本主義から距離を取りつつ、美的なものと道徳的なものを高次で維持するコミュニティを作っていこうという立場です。柄谷さんや浅田さんも、いまは白樺派的=大正的なものに近くなっているのではないか」と続いてて、これに対して大澤さんが「平成が大正の反復になっているという指摘ですね。まったくそのとおりだと思いますよ」って話が噛み合ってるっぽいんだけど、オレには何のことを云ってるのかさっぱり分からない(笑)。
 たしかに東浩紀が続けて、浅田彰がゲンロンカフェに登場した時に「民芸運動を高く評価して」、「ウィリアム・モリスの名も出ていた」とか、福嶋さんが「柄谷さんも最近ウィリアム・モリスの『社会主義』の書評を書いていましたね」とか云い合ってるけど、それ以外に何かそういう例があるの?

外山 “素人の乱”だってそうでしょう。社会全体を革命するとかではなく、高円寺って特定のエリアに根を張って、松本哉の云う“マヌケ・コミュニティ”を充実させていけばいいんだって発想だし、それをまた柄谷が絶賛してたりする。栗原康や森元斎が“アナキズム”と称して提唱してるのも、何かそういう“DIY”的な匂いのする生活実践だし……千坂(恭二)さんはそういう“アナキズム”を“ガーデニング”呼ばわりしてバカにしてる(笑)。

藤村 そういうものがそれほど広く、例えば“批評シーン”の範囲だけでもいいけど、拡大してきてる?

外山 そこはそう思うよ。00年代後半のフリーター労働運動とか“ロスジェネ論壇”の登場以降、若手論客たちによる“資本主義批判”もべつに珍しいものではなくなってるし、じゃあどういう社会を目指すのかってなると、やっぱり決して社会総体的な“革命”とかではなくて、ローカルな相互扶助コミュニティの構築みたいな話ばっかりでしょ? 坂口恭平の“独立国家”がどうこうってのも、読んじゃいないけど、どうせそういう話だろうしさ(笑)。柄谷も松本哉を絶賛し始めるよりだいぶ前から、“高次の互酬制”がどうこう云ってたじゃん。

参加者B たしかに。

藤村 何だっけ、それ。

外山 “交換様式D”だったかな?(笑)

藤村 ああ、あれか。

外山 絓さんなんかが、そんなクロポトキンやプルードンみたいなことを今さら云い出してもダメなんだ、と口をすっぱくして云い募らざるをえないぐらいには、そういう風潮はあると思う。で、実際、クロポトキン的な“アナキズム”が流行ったのも、たしかに大正時代のことだよね。

藤村 なるほど。

東野 柄谷がウィリアム・モリス的なものを評価してるというのは、最近の柄谷の印象からしてそんなに違和感ないけど、浅田彰までそうなってきてるというのは驚きました。そういうのはバカにしそうな人じゃありませんでした?

参加者B そうですよね。

藤村 ウィリアム・モリスってのがどういう人なのか、オレは知らないからなあ。

東野 19世紀半ばの、まあ一応は“社会主義者”に分類される人ではあるんですが、“近代デザインの父”とも云われてて、イギリス人だし、つまり猛烈に工業化が進んで、大量生産の粗悪な商品が蔓延するようになってきた状況を目の当たりにして……。

外山 “DIY”的な価値をそれに対置する、と。

東野 そうそう(笑)。“職人の美しい手仕事”が失われて、そういう大量生産の粗悪品が蔓延することで我々の生活は疎外される、みたいな話。で、手仕事による“ちゃんとした”製品を復活させようとするんだけど、服にしても椅子とかにしても、結局そんなの“高級商品”というか、金持ちにしか手の届かない高額なものになっちゃうじゃないですか。
 ……絓さんなんかは絶対、ウィリアム・モリスとかそういうのはバカにしてると思いますね。食べ物で云えば、マックとかじゃなく、もっとオーガニックなものを食べましょう、みたいなことですよ、ウィリアム・モリスってのは。フーコーが“私はマックとコーラで充分だ”って云ったらしくて、絓さんもそれに賛意を示してた。浅田彰だってフーコーや絓さんの側だろうと思ってたのに、ちょっと意外だ。

藤村 “スローフード運動”とか、そういう感じのことなんだ?

外山 うん。“フード右翼、フード左翼”なんて言葉もあるけど、本来の意味としてはまったく逆だよね(笑)。“マックとコーラで充分だ”って立場のほうが本来は“フード左翼”と呼ばれるべきでしょう。

東野 まったくそのとおり。オーガニック志向みたいなのは、せめて“フード社民”とか呼ぶことにしてほしい(笑)。

参加者A その“フード右翼、フード左翼”ってのは何ですか?

外山 一般に流通してる意味としては、本来の“右翼、左翼”とは逆で、“マックとコーラで充分だ”みたいなもののほうが“フード右翼”って呼ばれてる。

東野 うん、ジャンクフードばっかり食ってる、みたいなのが“フード右翼”ってことになってますね。

外山 で、手間ヒマかけて作られた“体にいい”ものを食うのが“フード左翼”と呼ばれてるんだけど……。

東野 階級的視点が欠けてますよ(笑)。

外山 そうとも云えるし、“伝統的な食文化”を大事にする側が“右翼”のはずでしょう。まあ、エコロジー運動的なものが“68年”的な左翼運動から登場してきた結果として、そういう間違った言葉の用法になっちゃうのも仕方ないんだけどさ(後註.この箇所について『フード左翼とフード右翼』の著者・速水健朗氏がツイッターで、“読まずに批判するな”的なことを呟いていたが、ここではっきりと「エコロジー運動的なものが“68年”的な左翼運動から登場してきた結果として、そういう間違った言葉の用法になっちゃう」と云っているとおり、造語の趣旨・脈絡は読まなくても分かるのである)。

東野 でもエコロジー運動自体が右翼的なルーツを持ってるとも云えるんじゃないですか?

外山 ドイツの緑の党も初期はネオナチ的な一派がかなり含まれてたらしいしね。
 ……話を戻すと、この座談会、やっぱり“大正”とのアナロジーが上手くいってないよ。ぼくもちょっと誤読してたところはあって、75ページ下段に大澤聡の発言として、「文芸復興は実質的には大正復興です」とある。“大正的なもの”ではなくて、“大正的なものの復興”って意味でニューアカ・ブームとかを“文芸復興”にアナロジーしてたようで、まあぼくが誤読してたというより、座談会の前半のほうではそういうふうに云ってくれてないのが悪いんだけどさ(笑)。
 だけど改めてそういう主旨を理解したとしても、やっぱりニューアカ・ブームが“2つの政治の季節に挟まれてる”って認識自体が間違ってるんだから、そのアナロジーは上手くいくはずないんだ。実際にはニューアカ・ブームは“68年”的な“政治の季節”の最終局面の現象であって、“68年”とニューアカ・ブームとの間に“切れ目”なんかないんだもん。
 で、80年代半ばに本当の切れ目があって、しかし80年代後半はそれはそれで別の“政治の季節”の始まりだし、もっと云ってしまえば“政治の季節”でない時代とかそもそもない(笑)。
 あるいは別の見方として、本来は政治的言説であったはずのポストモダン思想が、ニューアカ・ブームによってヘンに流行してしまうことで政治性を捨象されて、それ以降の批評シーンでは単なる知的ファッションとして空疎に流通しているって意味では、80年代半ば以降の批評シーンは“大正的”だとも云える。大正デモクラシーなんて、よく云われるように単なる無意味な空騒ぎでしょ。出発の時点で、大逆事件と朝鮮併合で“許される言論”の大枠をはめられた中で、ワーワーやってたにすぎない。“賑やかなだけ”で何の意味もない言説しか登場できない“80年代半ば以降”って、たしかに“大正的”だよ。
 そういう意味では、“大正的なもの”から身を引きはがして“切断”を図る“野蛮な情熱”が必要とされてて、ぼくが思うに、具体的には“政治の優位”を声高に叫ぶことだけがその方途です。
 でもなあ……ほんとはもう“大正”にアナロジーしてもよかった時代はとっくに終わってて、すでに“昭和”に突入してるんだけどね。“昭和”というか、“戦時下”だな。戦争はもうとっくに始まってるのに、まだせいぜい“戦前”に身を置いてるつもりでいるわけでしょ、この平成の知識人どもは。

藤村 でも東浩紀は76ページ下段で、現在が“大正的なもの”に回帰してる状況なんだとしたら、「ぼくたちはここで、二〇一〇年代的な『小春日和の時代』を、大胆に切断しなければならないのかな」とも云ってるよ。

外山 うん。つまり“切断”も何も、現在はとっくに戦時下なんだってことにまだ気づいてないわけです。まだ“小春日和の時代”に身を置いてるつもりでいる(笑)。

藤村 なるほど(笑)。しかし世間一般では、“すでに戦時下だ”って意識はかなり広がってるんじゃないかな。だから“共謀罪”だとか何だとかで、“アベを倒せ!”って騒いでて……。

外山 いやいや、彼らも今はまだ“戦前”だと思ってるじゃん。安倍ちゃんがいろいろやるもんで、“戦争の足音が近づいてる!”的な危機感を高めてるんであって、つまり戦争はまだ始まってないつもりなんだよ。

藤村 そっか。

外山 とにかく“2010年代”がまだ“大正的”な“小春日和の時代”だという認識でいるようでは困る。ぼくの認識では95年のオウム事件以降はもう戦時下ですからね。“小春日和”でも何でもない。

藤村 矢部史郎も2011年以降は戦時下だという認識でいるでしょう。

外山 あ、そうかもしれない。

藤村 たしかに少なくとも“3・11”以降は“小春日和”ではなく明らかに“非常時”であるはずだよな。

外山 そういう認識もありうるし、ぼくは、今の戦争は“反テロ戦争”なんだから日本の場合はオウム事件以降もうとっくに戦時下なんだという認識でいるけど、いつから“戦時下”かはともかく、少なくとも今現在は“戦前”でも“平時”でもないことははっきりしてる。
 まあ、すでにそういう“引き返し不可能”な過程に入ってるのに、まだ“批評”なんてものがナニガシカでありうるかもしれないなんて甘い認識の連中ばっかりだというマヌケな状況は、“大正的”なのかもね(笑)。

藤村 “切断”すべきなんだろうかと云う東浩紀に対して、福嶋さんは「ぼくはむしろ、大正的なものをもっとちゃんと分析し評価したほうがいいと思います」と応じてて、これは“切断”みたいな方向には否定的ってことかな?

外山 だって“切断”したら“戦時下”というか、“非常時”に突入しちゃうもん(笑)。“切断”は、“戦時下”の自覚に目覚めるってこととイコールだからね。この“小春日和”をもっと謳歌したい、夢から覚めたくない、という人はそりゃいるでしょう(笑)。

藤村 東浩紀にしても“切断”がどうこう云いつつ、どこまで本気で云ってるのか怪しいし、せいぜい“揺れてる”ぐらいの段階なんでしょうね。

外山 あと、このへんの議論はどうですか? 81ページ上段あたりの……。

東野 そうそう、ぼくも引っかかりました。まず80ページの下段から始まって……。

外山 あ、そうだな。

東野 福嶋亮大が「ぼくは七〇年代以降を、思想から階級の問題がなくなっていった時代だと見てい」るんだけど、「けれどこれから、階級の問題はまた前景化してくるのではないか」と問題提起してて、それに対して東浩紀が「賛成です」って応じる。で、「しかしその結果、批評が豊かになるかどうかはわからない。階級構造が復活したら、そのとき求められるのは、批評ではなくむしろ『運動』の言葉でしょう」って。
 しかしたぶん、ここで東浩紀が「『運動』の言葉」って云いながら想起してるのは、シールズとかその程度の連中が口にするような空疎な政治的言語ですよね。

外山 うん、シールズや反原連やしばき隊でしょう。少なくとも70年代の“総会屋雑誌”とかに当時の新左翼イデオローグたちが書き連ねてたような言葉を想起してるわけではなさそうだ(笑)。

藤村 まったくおっしゃるとおりだと思います。東浩紀はやっぱり“運動”と“批評”、あるいは“政治的言説”と“思想的言説”との関係を対立的なものとして捉えていて、緊張を孕みつつ共にあるものだというような感覚は持ってないでしょうね。

外山 現時点で目立ってる“運動”ってほんとに低レベルなものばっかりだから、東浩紀は「『運動』の言葉」というのをああいうものでしかないと見なしてこう云ってるフシがあって、つまり「『運動』の言葉」ってのは東浩紀にとってあくまで他人事なんだよ。「『運動』の言葉」が求められるような状況が生まれそうだという見方に「賛成」なんだったら、東浩紀自身が、現時点で蔓延してる低レベルなものではない、もっとちゃんとした「『運動』の言葉」を紡ぐことを考えるべきなのに、そういう当事者意識がないというか、だからしょせん“観光客”でしかないってことなのか……(笑)。

藤村 そもそもポストモダン思想だって「『運動』の言葉」だったはずでしょ。東浩紀にもそんなことぐらい分かってるはずなんだけど、いざ実際に“運動”的なものと接触した時には、どうもそのことを忘れちゃうみたいなんだよな。
 東浩紀がやるべきは、野間(易通)さんと決裂してかつての蜜月関係をなかったかのようにしちゃうことではなく、野間さんを騙してでもまたゲンロンカフェに呼び出して、野間さんの脆弱な「『運動』の言葉」を、東浩紀の「『思想』の言葉」なり「『運動』の言葉」なりでボコボコに粉砕することですよ。

外山 あと、細かい難癖になるかもしれんが、この節の一番最後の81ページ下段から82ページ上段にかけての東浩紀の、まず市川真人が“運動”云々、“階級”云々の話の流れで赤木智弘の名前を出したら、「とはいえ、赤木さんは『論座』でデビューしたのであって、古い出版に支えられ現れたひとでしょう。同じ『ロスジェネ』の雨宮処凛もそうですね」と云ってる。赤木智弘はたしかに朝日新聞社が意図的に生み出した論客かもしれないけど、雨宮処凛は違うよね(笑)。
 やっぱり東浩紀の視野には“政治運動シーン”がまったく入ってなくて、だから赤木智弘と雨宮処凛の登場の仕方が同じように見えてしまうんだな。雨宮処凛はどっかの大手既成メディアが発掘して売り出した人じゃなくて、まず“民族の意志同盟”なんていうオソロシイ極右団体の活動家として政治運動シーンで注目されて、そこから何年かの“下積み”があってジワジワと大手メディアにも進出してきた人ですよ。

藤村 うん、赤木智弘とは全然違う。そこが同じに見えちゃうのはたしかにマズい。だけど一応、東浩紀をちょっと擁護しておくと、彼のスタンスは、反原連に対しては“疑問”、しばき隊は“肯定”、クラックは“否定”、シールズも“否定”なんで、最低限の政治的見識は持ってると思う(笑)。しばき隊とクラックについての評価の区別は、野間さんとまだ仲良くしてた頃からちゃんとそういうふうに云ってた。

外山 ……というわけで、そろそろ最後まで読み進みましょう。


 (「5.制度化する現代思想」黙読タイム)


外山 いかがでしょうか?

参加者A 83ページ下段に出てくる「リゾーム」ってのが、ウィキペディアで調べてみても今ひとつよく分からないんですけど……。

外山 ああ、これはまあ、「ニューアカを象徴する言葉が『リゾーム』ですよね」といきなり云われてるとおりで(笑)、当時は半ば“流行語”ですらあったらしいんだが……ポストモダン思想の文脈では、“ツリー”って言葉と対義語的に使われるんです。
 “ツリー”はもちろん“木”で、まず幹があってそれが枝分かれして、枝もまず大枝がいくつか分かれて、そのそれぞれがまたいくつもの小枝に分かれて、その先にまたさらに細い小枝が分かれてるような、“体系的な階層構造”みたいになってるでしょ。そういうのが“ツリー”ね。つまり“共産党”みたいなものですよ。中心にまずドーンと“中央委員会”があって、“都道府県委員会”があって、“ナントカ地区委員会”があって、“ナントカ工場細胞”とかがあるような構造。
 それに対して“リゾーム”というのは、日本語では根っこと茎で“根茎”とか訳されてるけど、まあ“芋”みたいな植物を思い浮かべたらいいです。どこが“中心”ってわけでもなく、地下で無秩序にいろんな方向に伸びてて、あちこちに大きな芋があったり小さな芋があったり、その芋どうしもどこがどうつながってるのか分からないし、成り行きでそうなってるだけでとくに法則とかもない。そういうのが“リゾーム”です。
 だから結局、旧左翼的な“前衛党”と“68年”的な“新左翼ノンセクト・ラジカル”を比喩的に云ってるわけですね。ポストモダン思想の文脈では、“リゾーム”が善で“ツリー”が悪の象徴(笑)。

参加者A なるほど。

外山 ……84ページ上段で市川真人が云ってるように、“ニューアカ”的なものも含めて、従来のアカデミズムからはみ出すものとして登場したさまざまな言論を、90年代以降は「大学が吸収し、制度化していったという流れ」があって、それに対する彼らの苛立ちのようなものは、もちろんぼくも共有できるんですけどね。その延長で中沢新一とか持ち上げるのはちょっといかがなものかとは思うが(笑)、云わんとするところはまあ分からんでもない。
 アカデミズムの言説では学術的な根拠のない思いつきみたいな大風呂敷を広げることはできないんで、知的な物云いというのが全部アカデミズムに囲い込まれると、かつて“総会屋雑誌”とかに新左翼の怪しげなイデオローグたちが書きまくってたような、“うさん臭いかもしれないが刺激的で壮大な言説”みたいなのは登場できなくなる。そういう中で中沢新一はなかなか頑張っている、ということでしょう(笑)。

藤村 もともと中沢新一は東京外大の助手だったよね。それを西部邁とかが東大に呼ぼうとして……。

外山 87ページ上段の最後の行にある「八八年の東大中沢事件」ってやつですね。

藤村 でも東大には受け入れられず、そのうち中央大の教授になって、やがて森元斎先生を育てる、と。

外山 あ、そうだっけ?(笑) まあともかく、88年時点の東大では中沢新一みたいなうさん臭い人は受け入れてもらえず、その件で怒った西部邁も東大を辞めちゃうという騒動になるんですが、90年代前半ぐらいから雰囲気が変わってきて、今や東大は、“ニューアカ”的なものも含めて、“表象文化論”がどうこう、サブカルっぽい“新しげな学問”の発信源みたいになってるでしょう。
 同じく87ページ上段にあるように、94年には『知の技法』っていう、そういう方向性が濃厚な教養学部の教科書が市販されてベストセラーになったりして、それを大澤聡は「中沢事件以降の反動でもあったはずです」と評してますが、さらに90年代後半になると蓮實重彦が東大総長になってしまうということまで起きる(97〜01年)。

藤村 ……この節を読むと、はたしてこういう座談会に何の意味があるんだろうっていう根本的な疑問が湧き上がってくるよ(笑)。89ページ中段から下段にかけて大澤聡が、『ソシオロゴス』っていう社会学系の雑誌を経由して80年代後半に出てきたような著作を、「橋爪大三郎『言語ゲームと社会理論』(八五年)、内田隆三『消費社会と権力』(八七年)、大澤真幸『行為の代数学』(八八年)、宮台真司『権力の予期理論』(八九年)といったあたり。上野千鶴子もここに入れていい」と列挙しつつ、しかし同時に、「これらを『批評』と呼ぶべきかどうか。判断が分かれるところですね」とか云ってる。
 つまりこれらの書き手はアカデミシャンだし、厳密な方法論に則って学術的に論じる人たちであって、“社会評論”とか“政治評論”とは云えるかもしれないが、従来の感覚からすれば“批評”と呼ぶには抵抗があるわけだ。しかしそういうものも“批評”の枠に入れて考えることにしないと、だって例えば宮台真司は映画も文学も論じるし、まさに“横断的”な人で、“批評”にだいぶ近づいてくるわけだよね。
 最後のほう、91ページ上段で東浩紀が語ってるとおり、かつてはマルクス主義というものがあって、「マルクス主義は『大きな物語』そのものだから、マルクス主義と結びつけてさえいれば、文学について語っていても、美術や音楽について語っていても、自動的に世界について語っていることになっていた」んです。マルクス主義はグランド・セオリーなんで、“横断”なんてことをわざわざ志向するまでもなく、すべてのジャンルを横断しちゃう。それに対抗する小林秀雄とかの反マルクス主義の側も、対抗するために自然とすべてのジャンルを横断することになる。
 そういうマルクス主義のようなものが失効したために、今では個々のジャンルがバラバラに放置されているような状況になってるんだけど、そういう中で「批評の越境性をどう回復するかが課題です」(東・91ページ)というふうに云われてるわけだ。
 でも、そうすると、この座談会で延々とやってるような、あくまでも“文学”を足場にしてそこから多少なりとも他のポップカルチャーとかにも手を伸ばすような“批評”のあり方とは違ってこなきゃいけないんじゃないかという気がする。この座談会はまだ冷戦崩壊の89年までを対象としてるからギリギリどうにかなってるとはいえ、やっぱり『批評空間』中心史観というか、たとえ批判的にではあれやがて『批評空間』に結集していくラインを軸に“批評史”を論じてたりするよね。そういうのがはたしてどれほど有効なのか、大いに疑問だよ。

外山 ニューアカ以降の批評が、サブカルチャー的なものも対象に組み込むようになったことを彼らは肯定的に捉えていて、その流れで吉本隆明の『マス・イメージ論』とかにも言及があったりするけど、そういう“越境的な批評”みたいなものも含めた批評シーン全体が今や1つのタコツボと化しているということについて、認識が足りないというか、ちょっと甘すぎるんじゃないかという気がぼくはずっとしてる。藤村君の云う“『批評空間』中心史観”の問題で云えば、もはや『批評空間』そのものが社会的には何ほどのものでもなかったわけだ(笑)。

藤村 彼らの云うように、いろんな書き手をリクルートしたり育てたりといった役割ははたしたんだろうけど……。

外山 そういう“『批評空間』出身”の書き手たちが批評シーンというタコツボの新たな住人になっていくようなものでしかないでしょ。“越境”なんてことを志向するんだったら、“批評”と“それ以外”とを越境しなきゃダメなんだ。批評シーンの中に身を置いたまま、批評の対象を拡大するというような方向が“越境”になりうると思ってるようではダメで、批評シーンそのものがタコツボになっている現実を直視すべきだよ。

藤村 東浩紀はおそらく、80年代のポストモダン論客たちの批評と自分たちのそれとの連続性を確保したくて、それで“『批評空間』中心史観”になっちゃうんだろうし、それはそれで試みとしてはよく分かる。そういうことも必要かもしれない。でも、オレはすでにこの後の『ゲンロン』第2号の座談会にもちょっと目を通してるんだけど、そんな枠組のまま90年代以降の“平成批評の諸問題”を論じるのは無理があるだろう(笑)。

外山 この節の冒頭近く、82ページ中段で東浩紀が、「七〇年代の『現代思想』や八〇年代の『へるめす』とちがい、九〇年代の『批評空間』は『シーン』を作らなかった」と云ってますが、90年代というか“85年以降”はそもそもそういう時代、“批評”なんていう営為そのものが1つのタコツボと化してしまってる時代なんであって、それらの媒体を作ってた側の主体的な力量や意志の問題ではない。東浩紀がこういうふうに云うのは、意志や努力でまだ何とかできると思ってるっぽい。
 かつては思想や学問の言葉と、政治的な運動の現場の言葉というのは、どっちが“優位”だったかはともかく、お互いに意識し合ってたわけです。しかし今や、ネトウヨにしてもパヨクにしても、例えば東浩紀が何を云ってるか、なんてことはまったく視野に入れてないよね。柄谷行人とか、名前も知らない人がほとんどでしょう(笑)。そういうこと自体が、この座談会に参加してる人たちには深刻な問題として意識されてない気がする。
 そういう状況なんだから、90年代の『批評空間』が“シーン”を作れないのも当たり前なんだ。批評シーンとその外とが端的に切れてるんだもん。そんな中でいくら主体的に努力したって、せいぜい“『批評空間』シーン”しか作れませんよ(笑)。“だめ連”界隈では、そういうタコツボの住人たちが“『批評空間』熟読系”って茶化されてましたけどね(笑)。
 タコツボを出ることを志向しないかぎりは、ニューアカ的なものが結局は大学という空間に囲い込まれていったように、“『批評空間』シーン”に好事家たちを囲い込むような“シーン”の作り方しかできない。
 ……83ページ上段の市川真人の、60年代のある時期までは“フランス現代思想”はほぼリアルタイムで日本にも入ってきてたのに、「それが、おそらくは六八年のショックで止まってしまい、止まった時計の針を本格的に動かしたのが、柄谷さんや浅田さんだったのだと思います」っていう発言も、困ったもんだね(笑)。連合赤軍事件とか内ゲバとか、“68年”の“その後”があまりにも悲惨だったために、って意味ならまあそうとも云えなくはないぐらいには容認できるけどさ。

藤村 「六八年のショックで」という云い方はあまりにも乱暴だ(笑)。

外山 ポスト構造主義とか呼ばれた一群の思想はむしろ「六八年のショックで」フランスに登場したようなものであって、しかも「六八年のショック」はフランスも日本もアメリカもドイツも同様に経験したわけですよ。で、ボードリヤールやデリダやドゥルーズ=ガタリが模索し始めたのとほぼ同じようなことを、絓さんに云わせれば例えば津村喬なんかが、笠井潔に云わせれば笠井潔だけが(笑)、つまり“68年”の経験を言語化しようって模索を日本でも始めるんだ。
 しかし日本国内でおこなわれてたそういう模索をほとんどまったく無視して、80年前後になってフランスからそういうのを輸入してくるのが、日本の歪んだ“ポストモダン・ブーム”だよね。しかも政治性を捨象して輸入するもんだから、日本の“68年以降”の政治的経験に基づいた例えば笠井潔の“ポストモダン思想”は、ニューアカ・ブームで話題の“ポストモダン思想”とは噛み合わなくなってしまう。
 ……市川真人のこんなトンチンカンな発言に、大澤聡が「的確な整理ですね」って応じてるんだからアタマ抱えちゃうよ(笑)。

藤村 それに続く83ページ中段の東浩紀の発言の中に、「七〇年代から八〇年代にかけて、フランス現代思想をよくわからないままに換骨奪胎しようとしていた時代こそが、本当の意味で世界性があったんじゃないかと思います」とあるけど……。

外山 そんなところに世界性なんかありません。フランスの思想家たちがフランスでやってたのと同じように、同時期の日本で、日本の“68年”を言語化しようとしてた津村喬や笠井潔の模索にこそ「本当の意味で世界性があった」んです。
 まあこの東浩紀の発言は、90年代以降にアカデミズムの世界に囲い込まれてしまったものよりずっとマシだ、という主旨ではあるけどさ。それに東浩紀は、70年代から80年代にかけてやっぱり“フランス現代思想”が輸入されていろいろ物議をかもしていたアメリカと同時代性があると云ってるんであって、フランスと同時代性があると云ってるわけでもないしね。
 ……とにかく、政治運動シーンの動向と思想的なシーンの動向との、“こういう事情があって断絶してる”ってことも含めての並行性が視野に入ってないから、彼らはこんなヘンテコな歴史認識を平然と表明できるんだ。
 藤村君の云うように、たしかにこの“89年まで”を対象とした“批評史”の試みであれば、“批評シーンそのものがタコツボ化していく過程”として描きようもあるけど、それ以降となるともう完全に“タコツボの中の話”にしかなりようがないから、何をどう語ろうというのか楽しみではあります。

東野 やっぱり来週も続けるんですか? ……キッツいですよ、これ(笑)。歴史の認識が徹頭徹尾、間違いまくってるじゃないですか。

外山 でもこういう間違った歴史観のほうがむしろ今は圧倒的に優勢なんだからさ。彼らが具体的にどう間違ってて、その結果どういうふうに現状を誤認してしまっていて、それらに対してどこからどう突っ込めば多少なりとも話が噛み合うのか、我々は彼らと違って政治サイドの人間なんですから、ちゃんと考えていく崇高な使命を負ってるんです(笑)。

 「『ゲンロン2』「平成批評の諸問題1989-2001」を読む」に続く〉

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