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富山での暮らし 〜あたりまえだと思っていた食のおいしさ〜

ライターって、なに?

みなさま、はじめまして。
このとやま移住ブログの中で「富山での暮らし」を担当することになりました、フリーライターのmakiと申します。
この職に就いて、20年以上になります。ノートは私の大事な相棒で、上の画像はこれまでのほんの一部。値段を貼ったままですね。あはは。

長い職歴ではありますが、今も初対面の人には大抵「ライターって、どんな仕事なの?」と聞かれます。
メディアや広告関連の仕事に従事している人以外は、そう思うものなのかもしれません。

私の場合は、企業や組織、人物などを取材して、原稿を作成することが主な仕事です。
原稿を掲載する広告媒体は、新聞、雑誌、web、SNSなど多岐に渡ります。
あと、企画から携わって、事業などのキャッチコピーや、サイトのタグラインを考えることもあります。

20〜30代の頃は、飲食店の取材が大半を占めていました。
今日はカレー屋、明日はラーメン屋、明後日はパン屋という具合です。
取材では、料理の写真が必要なので、お店の方に作ってもらいます。
カメラマンが撮影した後、「食べてかれ」とお皿を差し出されるのが常でした。
いやはや、ありがたいお仕事です。
どんな味や食感なのかを体験したうえで原稿を作成するのが私の務めではありますが、
好物の時は笑みを隠しきれません。
崩れそうな顔を立て直して、ごちそうになります。
時にはご厚意で撮影にはまったく関係のない、お店のおすすめメニューを作ってくださることも。申し訳ないやら、ありがたいやら。完食が使命です。

贅沢気分をたくさん味わいましたが、ちょっと付け加えるならば、自分の好きなものを好きなタイミングで食べるわけではないのです。当たり前ですが。
例えば、1軒目で寿司、2軒目でパフェ、3軒目でカツカレーというふうに、食べ合わせがすこぶる悪い場合があります。
あるいは、1日に何軒もラーメンを食べ続けるといった大食い選手権的なときもありました。
いつもポーチに胃腸薬。
もっと働け!と、胃腸に鞭を打ち、励むことになるわけです。競馬の馬の気持ちがちょっと分かりました。何事もハッピー一色ということはないのです。

いろいろな食べ物に出会うと同時に、いろいろな人に出会いました。
私にとっては、この仕事をしていなかったら会うことがなかったであろう人に会い、いろいろな話を聞けることが、一番の喜びです。
「このおいしさを、みんなに知ってもらわねば」「この人の良さを多くの人に伝えなければ」と勝手に使命感が湧いてくることが、なんだかんだと続けられているモチベーションの源なのだと思っています。

思い出の味を、いつまでも

過去を振り返ると、取材でよくお伺いしたお店は、一人、夫婦、あるいは家族で切り盛りされていることが多かったような記憶があります。地元の常連さんが気軽にふらっと立ち寄れるオアシスのような存在。料理だけでなく、安心や癒し、健康、笑顔などいろいろなものを提供されているのだと思います。

あれから年月が経ち、私もずいぶん大人になりましたが、あの時の皆さんも年齢を重ねていらっしゃることでしょう。食に限った話ではありませんが、今はどんな業界でも後継者不足と聞くので、そんな問題に悩まれていないといいなと思っています。

周囲で後継者が見つからない事業者のために、都会ではマッチングサービスが流行っているそうです。
少し調べてみると、公的機関でも民間でも取り組んでいて、その内容は後継者がほしい事業者と、創業したい人がそれぞれに登録し、条件に照らし合わせて双方をマッチングするという仕組みのようです。
公的機関の場合は、登録にも相談にもお金がかからないようなので、利用してみる価値はあるかもしれません。
求める人に出会える機会はかなり少ないようですが、そのサービスをうまく活用できたら、みんなの思い出の味がこれからもずっと受け継がれていくのかも。

富山→東京→(金沢)→富山

このブログの「富山での暮らし」を担当することになって思い出したのですが、私はUターン経験者でした。富山で生まれ育った私が10代の頃に憧れていたのは、東京でして。短大進学を機に、その夢をかなえたのです。

やはり東京は、想像以上に刺激的でした。
かつてはテレビで観ていた流行がすぐそばにあるわけですから。
見るものすべてが新鮮で、とにかく楽しい日々でしたが、生まれて初めて身体に異変が起きたのです。

普段は活発に動いている私の胃腸が、ピタッと動きを止めてしまったのです。(本当は動いていたと思いますが、大げさに書いてみました)

なぜかと原因を探ってみると、答えは水でした。
実家では、水道の蛇口をひねって水を飲むのが当たり前で、1日に結構な量を補給していたのだと思います。おいしいという認識もなく。
子どもの頃に外でたくさん遊んで帰ってきたときには、がぶ飲みをしていました。
しかし、東京の水道水は、とても飲めるものではなかったので、知らず知らずのうちに水分不足に陥っていたようです。
ようやく腑に落ちました。コンビニエンスストアにミネラルウォーターのペットボトルが売られていることを。

当時、実家の近所にはコンビニエンスストアがなく、ミネラルウォーター入りのペットボトルもありませんでした。
ですから、富山の水道水を東京へ送るという発想を当時の両親に求めるのは酷です。その代わりに両親は、事あるごとに富山産のお米を送ってくれました。
当時は、アルバイトを掛け持ちして生活費を稼いでいたので、副菜はキャベツのマヨネーズ添えのみという日もありましたが、それでも心身ともに健やかでいられたのはおいしい富山米のおかげだったのかもしれません。

華やかな都会で、若いうちに富山の水とお米のおいしさに気づけたことは、けっこう幸せだったのかなと思います。


[ライタープロフィール]
maki

上坂さん2

富山県出身のフリーライター。ライター業を務めるほか、「北陸コピーライターズクラブ」に所属し、コピーライターとしても活動。夜食は主にアイスクリーム。よく頑張った日には、ハーゲンダッツのアイスを買う。座右の銘「明日は明日の風が吹く」。写真は、先日取材前に食べたもの。

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