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ブログ、あるいは暇つぶし。そして始まる哲学エッセイ。

ーご自由にお書きくださいー

こう、何も書かれていない入力フォームは薄字で私に話しかける。

何を書くべきか。今ここに私は何を書かんとして向かっているのか。

ブログ、ことnoteという場所は文章に対してひどく生産性が求められている気がする。生産性、というのは即時の有用性と言おうか。読んで、すぐに、何かが、できる、起こる、実践できる。

いや、もちろんそのような有用性の欠如したものも雑多にあるのだが、人目につくようには浮かばれない。

人目につきたい。

文士ならこれはあくまで根源的な野望であろう。
多くの人の目に触れたい、読まれたい、自作について語られたい。ブログレベルの些細なものであってさえ、多かれ少なかれの文才と努力を要するのであるから、野望を抱くのも致し方のないことなのである。人目につこう。

人目につきたい。
ただし、迎合主義的で実用的な投稿はしたくない。
このアンチノミーはいかにして満たされるのか。

池田晶子という作家が思い出された。靡かず、気取らず、赴くままに。そんな生き方を身をもって示したような人で、文筆をしながら自由気ままに、社会のしがらみからことごとく解放された人だった。

彼女が書いていたジャンル、”哲学エッセイ”もやはり彼女の人となりをよく表したものだったと思う。日常の中のその「静」、「平」をよく切り取った上でそこを”哲学する”。複雑怪奇な現代社会を”哲学する”。難しい哲学用語ばかりで現代社会を分かりやすく啓蒙するはずなのに、余計にことを複雑怪奇にしている大方の新書たちーまるで呼吸か食品のような、有象無象のーとは一線を画したものがあった。

あのエッセイたちに出会った時、池田ワールドにするすらと引き込まれたのをよく覚えている。独特な句点の使い方も相まってなのかもしれないが、「異物」のようなそれを私の体は快く受け入れた。

今では、あのエッセイたちは「遺物」になってしまった。池田女史は47年というごく短い生涯においてのみ著作をしたのであるが、なくなって10年以上が経つ今、池田女史の切り開いた道を歩み進むものはいない。

しかし、あの妖艶な”哲学エッセイ”の魅力は全く色褪せない。あんな文、実用性もなにも皆無なはずなのに。現に、読んで人生が変わったという感覚はどこにもない。でも、論語を読んだって大抵の人は人生の大きな変化を感ずることに読後すぐ及ばないだろう。だが、論語はなぜかどこかでふいに頭に浮かんで私たちを助けてくれる。でも、それがいつかはわからない。潜伏期間の長い実用性。論語も、あるいは哲学エッセイも潜伏期間が長いだけなのだ。


私は池田女史のあの文に触れた時の、あのえもいわれぬ感触に賭けてみることにしようと思う。

“哲学エッセイ”

明日から始まる、哲学的で日常的な日々。
どうかこのnoteを読んで、あなたも”日常的な哲学者”になってみはしないか。

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