市民と歴史を媒介するもの〜『オッペンハイマー』から見えた歴史の実践的存在
先日、『オッペンハイマー』をついに観てきた。昨年の海外での公開に伴う熱狂は遠く東洋まで伝わっていたから、本邦におけるこの映画への注目度は近年の洋画離れの様相とは裏腹にとても高いものとなっていた。私もその例に漏れず、この映画への渇望は日に日に高まるばかりであった。そんな中で、昨夏日本で今作が配給されないことが発表されたのだから出鼻を挫かれた思いでもあった。一方で、このくらいのことは予想範囲内、という超然とした表情をもまた私は持っていたのである。『オッペンハイマー』という題の通り