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市民と歴史を媒介するもの〜『オッペンハイマー』から見えた歴史の実践的存在

先日、『オッペンハイマー』をついに観てきた。昨年の海外での公開に伴う熱狂は遠く東洋まで伝わっていたから、本邦におけるこの映画への注目度は近年の洋画離れの様相とは裏腹にとても高いものとなっていた。私もその例に漏れず、この映画への渇望は日に日に高まるばかりであった。そんな中で、昨夏日本で今作が配給されないことが発表されたのだから出鼻を挫かれた思いでもあった。一方で、このくらいのことは予想範囲内、という超然とした表情をもまた私は持っていたのである。『オッペンハイマー』という題の通り、この映画が描いているものは主として"原爆の父"オッペンハイマーである。原爆について市民感情の中で強く禍根を持った日本という国の性質上、この映画の扱い方がデリケートなのは当然のことである。そういうわけで、このニュースは「やっぱりか」という落胆と不思議な安堵によって私の心の内へ回収されてしまった。それから少し時間が空いて2024年に入ってすぐ、アカデミー賞作品賞受賞、本邦公開決定と怒涛の展開を見せたこの作品であったので、出鼻を挫かれるどころか期待はすでにコップを溢れ出しそうな勢いにまで高まった。その勢いのままに、先日私はtohoシネマのスクリーンへ駆け込んだわけである。

はじめに、この文章において私はこの作品を"批評する"などという高尚で形式主義的な語りを採用するつもりはない。あくまで、私の脳内地図において幾つか反応を示したところがあった、それはこういうことで、点をつないだ線から言えばこう言えるかもしれない、程度のことを書き綴りたい。すなわち、この作品における映画というメディウムの美術的形質にはあまり言及しないつもりである。むしろ逆に、メディウムとしてではなく一つの表象現象としてこの映画がいかなる作用をし得るのか、という表象文化論的な見地を含みながら考察していきたい。(前回の『sick of myself』の時よりもこの見地は強く固定されるだろう)

まずは"原爆"の扱いについて考えたい。公開直後から指摘されていたことだが、この作品において"原爆"は想像よりも背景化されていたような印象を受けた。しかし、これは実は日本人独自の視点なのかもしれない、と思う。監督であるクリストファー・ノーランがYouTube上のインタビューで「自分の息子が原爆のことを全然知らない。原爆よりもむしろ環境問題の方が重要な問題だと語るのだ。」という趣旨の発言をしていた。作品制作の動機として、このアメリカの若年層、ミレニアム世代の原爆への無関心というものがあるのであれば、この映画が真っ向から原爆と向き合っていないという評価の仕方は的を外れているのではないか。むしろ、この映画は積極的に原爆についての視点を提供している。『ゴジラ-0.1』なぞよりよっぽど謙虚に真っ向から"ゴジラ=原爆"と向き合っているとも言えよう。そもそも、この映画の構造がそう思わせているような気がする。原爆というものをミレニアム世代に伝えるとして、まず伝えなければいけないのはその恐怖だろう。この映画を観ていて個人時に強く感じたのは、どのシーンを取ってもオッペンハイマーに自己同化するような意識が生まれないことだ。つまり、常に観客は客観性を担保された"神の視点"からこの映画を観ることになる。ここにおいて、観客としてのミレニアム世代と映画中のオッペンハイマーら科学者が対置されることで、オッペンハイマーさえ恐怖に慄いていた、いわんやミレニアム世代をや、という反語的構造が成立せざるを得ない。この映画が、オッペンハイマーを操作することで向き合う原爆というものに、観ている人は否が応でも向き合わざるを得なくなるのである。前述の『ゴジラ -1.0』との違いで言えば、こちらは恐怖を媒介することそのものを目的としているのに対して、『オッペンハイマー』は恐怖を媒介するもの自体に着目させようとしている。だから、『ゴジラ-1.0』は別にゴジラが出てこなくともその恐怖が演出可能な軽薄な構造であるのに対して、『オッペンハイマー』が生み出す恐怖は原爆とオッペンハイマーがいなければ成立しない、代替不可能な恐怖性を持つのである。だからこそ、今まで全く関心がなかった人を原爆という問題に振り向かせるには『オッペンハイマー』は非常に強い力を持つのである。

しかし、一方でなぜ日本人にとってこの映画が原爆と真摯に向き合っていないように見えるかと言えば、それは別に"被害者"としての視点が欠けているからとかそういう問題ではない。もっと単純に、日本人とアメリカ人の原爆に対する知識の差が、受け取り方の相違に表れているのではないか。日本人は、概して原爆というものを義務教育から高等教育に至るまで"詳しく"学ぶ。(なぜ、原爆が爆発するのかとかそういう理学的なそもそもの仕組みを理解できる人は非常に残念ながら少ないが)原爆が落ちて、熱線と爆風が吹き荒れてたくさんの人が死ぬ。あるいは、それに巻き込まれずとも数日後にたくさんの人が放射線による原爆症で死ぬ。くらいのことは一応ぼんやりとながら日本国民の多くが理解しているはずである。そして、絶え間ない非核運動の声を日常的にあるいは人生のどこかで耳に入れている。つまり、日本人の多くが心情的に「原爆は悪だ」という絶対的な悪の観念的塑像を保有しているのである。もちろん、リアリズム的に核の保有を唱えているような人でさえも、である。だからこそ、この映画が目的にするような「原爆に振り向かせる」くらいのことでは日本人は関心しないのである。日本人はもうすでに原爆に振り向いているのであるから。


次に、日本人が着目しないだろうと考えられうる、もう一つのこの映画の重要な構造を考えたい。それはつまり、まず共産主義の話からしなければならない。1930年代のアメリカというのは大恐慌の影響もあって、社会主義運動が盛んに行われていた。労働者は組合組織を充実させる方向に運動すると共に、アメリカ共産党のような組織を中心として私有財産制の廃止を含めた総体的なマルクス主義の研究、啓蒙がなされていたのである。もちろん、アメリカ政府はこれを容認できない。"華の20年代"を経て、資本主義に完全に呑み込まれたアメリカという国にとって、共産主義は脅威だったのだ。一方で、高まる労働者の労働運動を無視するわけにもいかない。そんな中で1936年にタフト・ハートレー法がニューディールの一環として施行される。労働者の団結権や交渉権を認めるこの法律は、一方で労働組合の形を制限することによって労働組合の共産的セクト化を防ぐ意味合いもあったのである。欧州大戦、太平洋戦争が始まると、ファシズムという脅威を前にもちろん共産主義であろうと有無を言わせず動員が始まるわけだが、大戦後共通敵を失ったアメリカは新たな敵として共産主義と、その親玉たるソ連を選択することとなる。その後はご存知の通り、米国内では徹底した反共主義政策が席巻したわけである。『オッペンハイマー』においても、原爆制作までの過程、あるいは大戦後のシーンにおいてこの「アメリカにおける共産主義」というテーマは色濃く描写される。オッペンハイマー自身、弟のフランクのこともあってその前半生において共産主義との接近が見られた。大学での組合運動や、アメリカ共産党との関わりの描写が映画中に多くある通りである。一方で、どこまでも彼が強調するのは「私は党員ではない。」という言葉である。党員と大恋愛までするような彼が、終始「党員でない」ことにこだわったのはどこか異質である。これは今回、とても大事なポイントだと思う。彼は博識ある理性人であり、また熱心な党員ではないが政治的な確固たるポリシーがあるということ、これはこの作品にとって重要な気がしている。(少なくとも私はこの設定に着目するべきだと思う)

さて、共産主義との関わりは前半生だけではない。それは戦後、原爆を完成させてからも続く。戦時中に、軍から共産主義との関わりに疑念を持たれることはしばしばあったが少なくともそれは表面化した問題にはなっていなかった。しかし、通奏低音としてこの映画の中で不吉な音色を奏で、オッペンハイマーにまとわりつくものとして戦間期もそれ以後も"共産主義"はあり続ける。そうしてついに、水爆開発をめぐって、その通奏低音はついにメロディーラインになり変わってしまうのである。オッペンハイマーは水爆開発の是非を巡り、原子力委の座長と対立する。それを理由に、彼は座長の画策によって共産主義との関わりを表面化され、"共産スパイ"としてのオッペンハイマーを描出されてしまう。赤狩りの旋風吹き荒れる当時のアメリカにおいて、オッペンハイマーが失脚するのは当然のことだった。もちろん、この後60年代になって名誉を回復するわけだが、それに至るまでの元原子力委座長に対する諮問の場が映画ではオッペンハイマーの半生という回想と入れ替わりに今を流れる現実のような形で差し込まれる。

さて、どうしてこの映画はここまで共産主義とオッペンハイマーの関わりを全面に出さなければならなかったのだろう。それを読み解くための重要なシーンがある。それはオッペンハイマーを糾弾するために座長が用意した、調査委員会のシーンである。オッペンハイマーと関係者が、「これは裁判でない」という標語の下にまったく不公平な状況で裁きを下される。最初から結論の決まりきった茶番が繰り広げられる。俎上の鯉としてのオッペンハイマーは大変醜いものである。あるいは、この空間自体に醜さをも感じてしまう。さて、共産主義とは、一般的にスターリン時代の大粛清に代表されるような言論封殺や政治的粛清をもろともしない全体主義的傾向のもとに描かれることが多い。そして、アメリカを代表とする自由主義国はそこに対置される形で言論の自由と思想信条の自由を高らかと標榜するわけである。しかし、このシーンにおいてそのような自由なアメリカの姿はあるだろうか。私には全く見えてこないのである自由なアメリカが。むしろ、反共主義という大きなスローガンの下に、共産主義とさして変わらない全体主義的な動向が繰り広げられているではないか。他人の言動を封殺するために証拠をでっち上げ、結論の決まりきった裁きを行う。歴史の事実として、マッカーシーの赤狩りが逆説的にアメリカに全体主義的な部分を強めさせたことをこのシーンは強調しようとしているのではないか。そう、私は読み取る。

そして、ここからさらにもう一歩踏み込みたい。つまり、それはこの映画の歴史性についてである。オッペンハイマーという人の歴史を扱う映画である以上、この映画もまた歴史に強くさらされることになる。2023年に公開されることの意義を強く求められる。歴史に配置されるとき、この映画がいかなる意味を持つのか。ロシア・ウクライナ戦争は2024年においても続き、戦場の惨禍を広げ続けている。あるいは、ガザ・パレスチナの混乱も世界の予想を裏切り、長期化の様相を見せている。小さなところではアゼルバイジャンでの紛争などといった混乱が世界をいつものごとく覆っている。あるいは米中対立をはじめとした、自由主義VS全体主義のような大きな新冷戦のようなものもロシア・ウクライナ戦争を契機に強まっている。

このような中で、この映画が共産主義と赤狩りを扱うことには次のような意味があると考えられる。それは、「対置してきた仮想敵にいつでも我々は同化しうるということ、そしてそれは理性的市民の民主的な手続きによって防げるということ。」である。私たちはロシアにはなり得ないと思っているが、いつでも意味内容としてのロシアに同化しうるのである。しかし、それを警句として発するだけではない。それは、次のように説明できるだろう。

この映画は最終的にオッペンハイマーの名誉を1人の物理学者の証言によって晴らすという構造を取る。これはものすごい意味を持つのである。少し迂遠な推論を展開したいと思う。オッペンハイマーが終生「私は党員ではない」と強調していたことがここで重要な意味をもつ。強いポリシーを持ちつつ、しかし党派性を持たない彼は理性的市民の姿と考えられるだろう。ロスアラモスの共生する物理学者たちもまたそれぞれの考えを持ちつつ、ダイアローグを通して一つの物語(原爆開発)を完成に導いた。熟議と理性、民主主義的なロスアラモスにおいて物理学者は理想化されている印象を受ける。そして、その個別性と共同体の多様性の代表としてオッペンハイマーがいる。ここから、この映画における重要な構図として物理学者=理性的市民というものが読み取れると思う。すなわち、1人の物理学者によってオッペンハイマーの嫌疑が晴れるということは、理性的市民が正義を完遂することで全体主義への同化が解除されることを意味する。これはまさしくアメリカ的な正義感だと思う。市民の義務と権利の遂行によって民主主義と自由の健全な進行を目指すという元来のアメリカ的正義がここにあるような気がするのである。だからこそ、この映画は「理性的市民の正義の遂行」を観衆に否が応でも求めてしまうのである。ポピュリズムによって劣化したアメリカの市民主義を蘇生することを志向させるようにも読み取れる。もちろん、それは誰に向けてかと言えばアメリカのミレニアム世代あるいは世界中の若い世代であろう。

歴史というものを扱いながら、それ自体のメタ的歴史性をも強く持ちうるこの映画には、現代人が歴史をどう扱うべきかの一つの在り方を示しているような気がする。事実はなく、見方だけが歴史においては存在する。そして、その見方はさらに歴史となる。過去へのnarrativeが現代を写像的に表すのだ。そして、それを実践的に歴史を扱うときに効果的な方法として私は評価したい。その類稀なる例として『オッペンハイマー』は完成されているのだ。

まあだからこそ、天皇という虚無を抱え、歴史を持たない我が国の"土人"(by浅田彰)にはこの映画は全くそういう側面では響かないのである。(次の書き物のテーマはこの話を強くする予定だ。日本と多様性の文脈でね。)義務と権利の理性的遂行などこの国の人間が健常にできた試しがそもそもないのであるから。(できていたのなら、町内会加入率は下がらないはずだし、PTAは今でも盛んに行われているはずだ。)現代を直視せず、1945年8/6と8/9という視点でのみこの映画を見ようとしている時点でこの国に歴史がないことはお察しである。これがわからないのならば、君も漏れなく"土人"なわけだが、まあ"土人"として『オッペンハイマー』を消費するのもよかろう。土人には土人の見方があるはずだ。それなりに勉強にはなるだろうし、あるいは独善的な素晴らしい御思考を深められることだろう。

さて、あなたは、あるいは『オッペンハイマー』を前にした"わたし"は何者として表出するのだろうか。

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