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8月、北の大地にて。

肌を突き刺すような日差しが照り、視線の先には陽炎が揺らいでいる。腕を振れば水蒸気の分子が移動する感触が伝わる。扉を出る前に小綺麗にしたはずの身なりだって、100メートルも歩けば汗によって無に帰してしまう。東京の夏は、地獄だ。そうとしか形容できない。べつに地獄に行ったことがあるわけではないが、しかし私にそう思わせるだけのものを、東京の夏は示してくれる。まったくもって迷惑な話だ。

『往生要集』によれば、地獄というものは輪廻転生によって生まれ変わる先である六道の一つの種類にすぎないらしい。さらに地獄は、八大地獄と言われる種類に細分化され、それぞれ異なる苦しみを味わうことになる。なんとも恐ろしい話だ。我々は、日本人でありながらどこか西洋的な地獄-現世-天国という構図を感じがちだが、それも少し狭小なものの見方なのかもしれない。もちろん、西洋の地獄も仏教の地獄も「苦痛を与えられる」という意味においてはどちらも同じである。しかし一方で、西洋の地獄が地底に明確に存在しているとされてきたのに対し、仏教の地獄はその存在がどこか不明瞭なニュアンスがある。地獄の在り方だけが成立していて、地獄のあり方を可能にしている地平が存在していない。そんな印象を受ける。つまり、裏を返せば仏教において地獄のあり方を可能にしている地平とは、むしろ現世にいる私自身なのかもしれない。地獄とはどういう在り方なのかを知った私たちが、その在り方と同じような現象を感じることで間接的に地獄が現前するのである。だから、今日私の前に現前しているのはまさしく灼熱地獄なのである。そうとしか言えないのである。

では、この"地獄"に対して浄土とはどこになるのか。西方極楽浄土とは言うものだが、日本では西に行けば行くほど気温は暑くなる。私にとっての灼熱地獄は一層の熾烈さを増すばかりになってしまう。これでは極楽浄土とは言えない。私に残った選択肢はただ一つ、東の方に目を向けることであった。それも極東日本の更に東、北海道である。(とは言っても、札幌と東京の経度差はわずかに2°しかない。北海道を浄土にしているものは疑いようもなく緯度の差である。)

8月2日、午後19時02分、新千歳空港の気温は23℃。風はなく湿度も低い。旅のたびに感じるのだが、飛行機から空港に入るときのあの連絡橋ほど人をワクワクさせるものはないと思う。いままでいた場所の空気とは全く違う場所に踏み入れるあの不思議な感触。旅人はこの感触を得て初めて、その地にきたことを実感するのである。北海道は特にそれが強い。身を包み込むような東京の水蒸気の感触から解放されるその瞬間に、"北海道"が私の前に存在し始める。もっとも、少し歩いた先で見た、待合の道外人が飲んでいたリボンナポリンのオレンジ色のペットボトルにはそれ以上に"北海道"を感じざるを得なかった。

帰郷。そんなことはもう何度もしているはずだった。去年1年間私は札幌で生活していたわけなのだから、そこから実家に帰ることはもちろん帰郷になるはずである。特急「北斗」に揺られ、荒涼とした広大な景色を見ながら故郷へ向かう。帰郷としてなんら変わったことはない。けれども、それは実はかりそめの帰郷だったのかもしれない、と今更ながらに思うのだ。札幌から地元への移動は、結局のところ同じ北海道内なのだから延長的なのである。札幌でも地元でもリボンナポリンは飲めるし、セイコーマートでホットシェフのザンギを買うことができる。北大生の友人たちが、あまり地元に長く帰らないことを鑑みるとよくわかる。彼らが言う「いつでも帰れるから」という言葉のなかにある本当の意味は、札幌も地元も結局はさして変わらない、ということのような気がする。しかし、東京からの帰郷はそうでない。海を隔てた移動は、移動そのものも大変だが心情的にも実は大きなものがある。

二つの場所ー東京と北海道ーは隔絶されている。

高田馬場を城下町として抱えた巨大なマンモス大学ー早稲田大学ーは、一昔まえまでは全国から学生を集めていたようだが今となっては一都三県で全学の70%を占めるローカル大学になっている。(もちろん東大をはじめとする多くの首都圏の大学に顕著な傾向であるが)首都圏で生まれ、首都圏で進学し、首都圏の大企業に就職する。人生のすべてが東京という街を中心として展開していく彼らが経済的に成功する蓋然性は、地方のそれよりも格段に高い。そうして成功した彼らの子供もまた東京で生まれ東京で育ち、東京で成功する。学生における多様性などと耳ざわりのいいスローガンを高らかと称揚しておきながら、実態としての都内の有名大学は既存の格差を再生産するための権威的機関となってしまっているのである。「親ガチャ」という言葉があるそうだが、たしかにミクロの観点でいえばそれは存在するかもしれない。個人個人の幸福を絶対的に見たときにその存在を仮定することは可能であろう。しかし、個人の幸福や成功を傾向で考えたときに、日本における答えはもっと簡単である。幸福かどうか、成功するかどうかは、すなわち「東京に生まれたか否か」でほとんど決まってしまう。出生地ガチャのあたりは東京(ここでの東京は一都三県と言っていいだろう)以外にないのである。

春学期の終わりに演習の講義でグループワークがあった。5人でパネルディスカッションをするという取るに足らないものだったせいか、いつしか授業時間は昼下がりの談笑タイムへと変貌した。どんな経緯だったかは覚えていないが、そのなかで出身地の話になったのだ。

「どこからみんな来てるの?」

「東京」

「横浜」

「…北海道」

「ええ、北海道?じゃあひとり暮らし?」
というように会話が繰り広げられる。北海道出身というアイデンティティは東京において人と話すときに話題に事欠かないので便利だ。しかし、ただ便利というわけではなく、そこには代償もある。

「どこから来てるの?」
という素朴な質問は実は暴力的だということを彼らは知らない。この質問は二つの意味に受け取ることができる。「どこから上京したのか?(どこ出身なのか)」という質問か、あるいは「どこから通学しているのか?」という質問である。けれども、一都三県の人間にとってこの問いの二義性は全く問題ではないのである。彼らは実家から通っているのだから、出身地も住まいも基本的には一致するのである。だから意気揚々と「東京」なり、「埼玉」なりと言う事ができる。けれども自分は「北海道」というべきか「練馬区」というべきか悩まなければいけない。

この悩み自体が代償かといえば、それは少し違うような気もする。むしろその悩みが形成する状況性のほうが代償なのである。つまり、答えに悩むということそれ自体が自分の疎外感を強める。「あぁ、私は異邦人なんだ」、と。他の人が悩むことのない問いに苦しまなければいけない別の人間なんだ、と思わざるを得ない。つまり、そこにあるのは北海道人という強いアイデンティティである。東京にいる私にいま強くあるものは北海道人というアイデンティティなのだ。


では北海道に帰ってきて、いま私に北海道人としてのアイデンティティがあるかといえば、そんなことはもちろんない。まわりがみんなガラナを飲んでジンギスカンを食べているなかに北海道人としての疎外感などなにもないのである。いまあるのは別の疎外感なのである。

俵万智のエッセイに『よつ葉のエッセイ』というエッセイがある。彼女の出身は福井県。そして、私と同じように地方から東京の大学に進学した経験を持つ。(大学も学部も同じという奇妙な一致も相まって親近感が強い)そんな彼女が書いたこのエッセイの中には当然のように東京と故郷について書かれた章段が存在する。(ぜひ地方から上京したひとにはこのエッセイを読んでほしい。その解像度に共感がたえないことだろう!)この文章においてもっとも示唆的なことは「私」の分裂である。「私」という一人の人間が故郷と東京という二つの地域で分裂していく。そんな様が克明に記述されているのだ。東京でいろんなことをしたい「私」がいる一方で故郷のことが気になる「私」がいる。そんな「私」の分裂がいま自分にも起きているのではないいか、と思う。

北海道人であるというアイデンティティが東京で強く表面化するように、東京住みであるというアイデンティティが北海道にいる私を占有しようとする。北海道にいるときに、「渋谷」とか「新宿」とか「高田馬場」という言葉を家族の前で自分がなにも考えずに発していることに気づいてどこか悲しくなった。自分が積極的に生活空間をともにしていないことを表明しているような感覚に襲われたのである。東京でのお土産話など話したくもない。いま、漬かりたいのは故郷にあったはずの日常と思い出である。なのに、いつもあったはずのパジャマがない。洗面台からは私の歯ブラシの姿が消えた。いつも汚かった私のデスクは仏壇のように整然としていた。私がいなくなった後の家族の日常がそこには現実として存在している。まるで私が透明人間にでもなったかのように。

お前はどこにもいないのだ。と囁くように、ジーンと骨に響くような鈍い痛みが感覚し続ける。東京でも北海道でも私はどちらかに依存して存在している。東京にいる北海道人の私と北海道にいる東京住みの私。でもこのふたつが両立することは決してない。これに依存している限り、私は存在しないことになってしまう。

帰郷とは、私の存在の本来的な回帰のことなのではないかと思う。なにかに依存してしか存在することのできなくなった私を連れ戻すような、そういう旅が帰郷なのではないか。私がそこに日常として存在していたとき、私は単独者として存在していたはずである。だからこそ、日常に戻ることが私の本来的存在を回帰することそのものなのである。つまり、私という存在を可能にしている地平としての歴史を回復する試みこそが、帰郷なのである。私の存在性は歴史(本来的歴史としての時間)として語られることしかできないのである。

高校の卒業アルバムを開くこともいいかもしれないが、通学路を旧友と歩くのもいいかもしれない。ひび割れたアスファルトの感触が、畑の堆肥のツンとしたにおいが、あの日聞いていた17時を知らせる時報の音が、あなたを本来的な歴史へと接続する。あの時、毎日見ていたはずの最寄りの駅からの夕日が、まるで観光地のサンセットのようにきれいに見えることはないだろうか。けれども、帰郷とは故郷を観光地化することではない。あなたが故郷からまた出ていくまでにあの日の「日常性」を夕日の中に取り戻せるかどうかが肝心な気がする。



(8月のなかごろに久しぶりに短編小説を発表しようと思っております。そちらも読んでくだされば幸いです。(内容は少々スキャンダリングかもしれませんが))


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