流転する時間と再来する危機-終戦記念日に寄せて-
今年も、終戦記念日がやってくる。
お盆の、この一年でもっとも伸びやかな時間の流れを掻い潜ってこの日がやってくる。お盆の実家で過ごす時間のようなものはたしかにゆっくりとしている。私の地元は田舎だから、夜半窓を開ければ涼しい風とともに鈴虫の羽音が和らげに聞こえてくる。茶の間に行けば、延々と民放のテレビが流れていて、それを見ながらとるに足りない会話を交わす。自分では買わないような、あの日よく食べていたものが冷蔵庫には常に入っていて、さながらノスタルジックな宝箱だなと思う。いずれにせよ、私を囲む環境のそれぞれの要素が、なにかここにある時間を緩やかなものにしているのには違いない。
けれども、ここにある時間は緩やかなだけであって決して止まることはない。全てが延長線上に流れ続けていて、留まることはない。今日があれば明日がある。明日があれば、明後日があるはず。ただ、終戦記念日だけはなにか違うような気がするのである。日本が止まる日。流れ続ける歴史から全く客観的になって、一度立ち止まる。そんなことが終戦記念日において現象しているような気がしてしまう。この日には全ての時間がぴったりとストップしてしまう。
別に、終戦記念日に日常がないわけではない。むしろ、積極的に日常的であるはずだ。もちろんお墓参りに行ったり、親戚の集まりに行ったりする人も盆の最中だから多かろう。一方では、やはり夏の掻き入れどきを迎える多くのサービス業にとっては、単なる一労働日でしかないかもしれない。あるいは、夏休みを利用して大切な人とどこか出かける人もいるかもしれない。8月のどの日とも変わらないように、それぞれの日常が常に流れ続けている。しかし、それでもテレビをつければ太平洋戦争特集が、新聞を見れば一面に終戦記念日の文字がある。もちろん、Twitterを見てもYahoo!ニュースを見てもどこかにはきっと目につく。日本で8月15日を生きて、終戦記念日という文字を見ないことはほとんどない。果たして8月15日のあなたの心の中にほんの1%でも、あの戦争への思いを馳せることがないと断言できるだろうか。どこかで見る、「終戦記念日」の5文字があなたを瞬間的に停止(epokhē)させる。それはちっぽけな停止かもしれない。その一人一人の主観的な時間の停止が、なにか日本さえ停止させてしまうような大きなうねりとなって絶対性を獲得するような気がする。
思えば、日本の歴史というのは実はこの停止と再発進の歴史だったような気がする。最近でいえば、コロナ禍がわかりやすい。コロナウイルスが蔓延した当初、日本はほかの多くの国々と同様に経済的にも物理的にも停止した。しかし、アフターコロナという言葉の通り我々はコロナ以前とはどこか隔絶された新たな時代を生きている。今上陛下の即位礼正殿の儀なんかもまさしく日本が停止した瞬間だろう。平成から令和へと元号が変わったことで、何を言うにしても「令和」という枕詞がついて回るようになった。別に概念上は2018年も2019年も連続しているはずなのに、どこか平成30年と令和元年には大きな壁を感じる。令和の価値観というものを私たちは常日頃感じているはずである。コロナの例の通り、今の日本はグローバリゼーションの中でその停止の性質もグローバル化しつつある。つまりそれは、元号のような純内国的なエポケー(本来時間的停止のうち日本と日本の空間現象全体または一部分にのみ起因するもの)は相対的に地位を低下しつつあるということでもある。しかし、終戦記念日は純内国的なエポケー以外の何物でもないことは自明であろう。太平洋戦争は五箇条の御誓文以来の大日本帝国を結果としてなかったものにした。その意味で終戦はそれ以前の歴史を白紙撤回し全く新しい時代を日本にもたらした、といえるかもしれない。終戦の日の時間的な停止が流転し再生される試みとしての終戦記念日がここにある。時間それ自体は流転していないが、しかしその停止と再会のプロセス自体が流転している、メタ的輪廻がここに起きている。
けれども、本当に我々の時間というのはすべて停止によって断絶されてしまうのだろうか。我々は日本国と大日本帝国の間の断絶というものを天皇という超越論的な存在を介して理解する。つまり、それは神から人間へと天皇が変貌することが時代を規定していることと同義であるといえるだろう。多くの人が天皇が「人間になった」ことで絶対性がなくなった、と言う。けれども、天皇の人間宣言は実は天皇の超越論的存在性を低めるわけではない。むしろ積極的に絶対性が保持されている。天皇によって時代が規定されることは裏を返せば、天皇的な現象がない限り日本は停止も再発進もできないことを暗に示唆している。誰がなにをしようとも、歴史を駆動させることはなく、天皇という日本の歴史全体を包み込む超越論的な存在によって無意味化させられるのである。
グローバルな時間の停止は天皇が包み込む日本の歴史全体に接続することはできない。ただ純内国的なエポケーのみが、それも天皇に起因する純内国的なエポケーのみが日本の本来的な時間に接続することができる。我々が誰なのか。我々はなにをしてきたのか。そして、我々はなにをしていくのか。過去-現在-未来に渡る時間的接続性が天皇的な現象によってのみ回復する。その時初めて我々は日本人という存在の一様態に気づくことができる。
純内国的なエポケーがそのプレセンスを低下させているいま、我々が唯一定時的にそれを経験するという意味において終戦記念日は特別だ。昨年、ネット上で「新しい戦前」という言葉が流行ったことがあった。この言葉が代表するように日本はまた新しい時間へと向かって破局的な時間的停止を志向している。時間的停止はメタ的に流転する。安倍政権が安保を改正したときには想像もできないほど国際情勢は緊迫している。ロシア-ウクライナ戦争、イスラエルと中東の慢性的な紛争の激化といった国際紛争はもちろん対岸の火事といいうわけにはいかない。台湾有事は日本有事とはよくいうものだが、中東有事は台湾有事、ウクライナ有事は台湾有事という図式が成り立つかもしれない以上、日本はどうあがいても国際情勢によって安全保障上の危機を抱えうる。
たしかに、国際情勢によって時間が破局的に停止することは合理的な推論であるかもしれない。しかし、市民感情がそれを許すかどうかはまた別の話である。もし、国際情勢によって国民の感情を無視して交戦するようなことがあれば、それこそ日本の民主主義の危機である。1940年に日米が開戦したときのような大衆のすさまじい思い違いと、機能不全に陥った民主主義が再び出現するだろう。それでも、大衆は今と戦前の一致に気づくことはない。あなたが今と戦前を断絶されたものとしてとらえ続ける限り、あなたとあなたによって構成される日本の民主主義は破滅の道を進まざるを得ない。
終戦記念日はあなたを歴史の文脈に改めて置きなおしてくれる特別な日である。時間の断絶を再生し、過去の日本人としてのナショナルな過ちを再認識する日である。桜とともに散った先祖に、無念の死を遂げたアジアの人々に、等しく思いをはせながら何が彼らをそうさせたのかを思い出さなくてはならない。あなたが日常を立ち止まるこの一瞬が、いつか来るかもしれない破局的な岐路において過ちを犯さないための防波堤になるのである。一つ立ち止まって、今日という日を過ごしてみてほしいと私は祈念するのである。
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