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差別への試論〜ある一つの直感・inspiration〜

この直感的な形式で書かれる文章はおそらくアカデミックでもなければ、あるいはエッセイ的でもなく、詩的でもないだろう。

つねに、そこにあるなにかを平面的に記すことだけをこの文章の目的として考えるほかない。あらゆる形式のようなものに対する抵抗を通して、既存のフォームに対する多様的なるものを示さなければならない。前回、「オッペンハイマー」への感想を書いた時にもこのような現代フォーマリズムへの抵抗を明確に示したが、私は一層これを強めなければならない。

そしてまた私が強く思うには、「無印良品」のようになってはなるまい、ということである。西武グループが二代目総帥の下に新たな風を吹かせるべく、"ブランドへの抵抗"という資本主義へのダダを高々と表明したのが本来のこの事業であった。無論、皆々が承知のように「無印良品」はもはや「無印良品」という一つの燦然たるブランドになってしまった。なにが「無印良品」だ。すっかり「有印既製品」ではないか。ニトリやIKEA、DAISOのような大衆ブランドを二番煎じしたものを自社コンセプトに合わせて、ブランドの名の下に再売出するだけで売れるのだからなんともいい商売である。すっかりダダの精神は換骨奪胎されてしまい、資本主義に純化されていったのだ。こうはなるまい、と私は思う。フォーマリズムを否定することそのもののが自己目的化して、そこに名称(ブランド)が与えられることがいかに見苦しいかを私は知っているからである。

果たしてこの文章がいまの時点でなんらかのフォームにカテゴライズされる可能性はあるだろうか。あったとしても私は自己認識の下に、これに反駁し続けなければならない。拒否し続けて、抵抗し続けて、負けずに単一なる自己(ein Wesen)を保とうとしなければならない。けれども、世間の目はおそらく誰かが言った「カテゴリー」でしかこの文章を見ないのだろう。不遇なカテゴライズが、私という全てを不遇にしてしまう。画一的なフォーマリズムの門の下に私は降るのだ。半ば強制的に、あるいは自然的に。けれども、多くの人はいうだろう。「あなたの(カテゴライズされた)文章は独創的で、文壇における多様性を担保しているのですよ。」と。

差別への直感(inspiration)もこれと全く違わない。いま全ての差別は、強制的なカテゴライズとそのギャップという問題に直面しているからだ。しかし、その結論に至るには我々は少々迂遠な道のりを歩まねばならない。

差別を包括的、網羅的に定義することはほとんど不可能に等しいが、かろうじて可能な範囲というものもまた存在するはずだろう。つまり、差別というものの定義は様々あるが、ここにおいて一応の共通項として、「差別は自己認識によって規定される」ことくらいは言えるだろう。そしてこれを極めて消極的な差別の定義として仮に採用してみる。差別を構成するのは客観的な他者の意識ではなく、被差別者側の認識によるものである、ということだ。もちろん、この主体的な認識というのは自己自身の認識に限らない。ある被差別者が違う被差別者を実存的に判断して、「彼は被差別者である。」と規定することも可能なのである。(なぜなら、そういうモノはここでいう客観的な他者にはなりえないからである。主観的な他者、とでも言おうか。)

ある人が、こうポストした。(と、しよう)
「ある彼はチーズ牛丼的な男性である。」と。 
それに対して
「それはルッキズムである。」とか
あるいは
「一方的なジェンダーロールの押し付けによる弱者排斥だ。」という
抵抗の引用ポストがつくわけだ。
この引用ポストは諸君が想像する通り、
「ある彼」だけでなく、多くの「ある彼に属するような人々」も発言することが可能である。しかし、この「ある彼に属する人」とは曖昧な概念である。例えば、ヘイトクライムへの抗議を発言する「ある彼に属さない人」が存在することは可能であるかもしれないからだ。実は、ここで差別の定義が重要になる。たしかに、「ある彼に属さない人」も差別への抵抗を発言することができるがしかし、差別の定義が主体的(ここではあくまで主体"的"であって主体の延長としての他者もこの主体的に含まれうる。)なものである以上、その言葉は「差別への抵抗」ではなく、「なにかへの抵抗」止まりになるだろう。差別を差別と規定し、それに抗う力は主体的な発話によってしか生まれ得ないからだ。差別に対して、それを差別として抵抗している言葉を発話した時点で、その人もまた「ある彼に属する人」となり、被差別者になる。一般的に、ある差別的な投稿や行動に抵抗する人は同じようなことで差別されてきた者だから、差別に抵抗しようとすると考えられている。けれども、これは全く間違いである。むしろ、差別に抵抗することそれ自体が自身を被差別者として規定するのである。

つまり、差別は無限に拡大していく。差別に抵抗する声が高まれば高まるほど被差別者はより活発に現象するだろう。同時に、カテゴライズもまた、加速していくのである。それはどういうことかと言えば、連鎖的に被差別者がその抵抗の言葉によって規定されていけば、その特定的(personal)差異を無視して原的(original)差別における原的被差別者に客観的に同一視されるのである。

BLMを想像してもらえると理解が簡単になるかもしれない。BLMはトレイボン・マーティン、あるいはマイケル・ブラウンという二人の黒人の死をもって、アメリカ中で巻き起こった黒人差別への抵抗運動である。2人の黒人が、白人(もしくは、非黒人とでも言おうか)の警察官に不当に差別を受けて射殺された、これが原的な差別である。そして、この2人の黒人が原的被差別者である。この「白人が黒人を不当に差別する」という構図(カテゴリー)が、白人に射殺されていない黒人に対しても適用される。その適用を保証することこそが、主体的な抵抗の発現なのである。日々の職場では、白人の同僚と仲良くしている黒人も、一度この抵抗の中に加わって仕舞えば「全て黒人が全ての白人に差別されている」というカテゴリーに同意することになってしまう。personalな差異を許容しないとはそういうことなのである。そして、我々は社会としてBLMを見つめる時に、この運動に参加している人を「全て黒人が全ての白人に差別されている」ことを共有していると捉える。つまり、客観的に同一視されてしまうのである。

だから我々は、行きすぎたポリティカルコレクトネス(ポリコレ)に対して嫌悪感を抱くことができるのである。ある差別に抵抗している人々をステレオタイプによって同一視することで、被差別者の抵抗の濃淡や範疇を自然に内存させてしまっている。つまり、差別に対する抵抗はこの程度でなければならない、という判断の形式的枠組み(discipline)が自分の中に意図せずあるということだ。すると、「行きすぎた」という言葉が成立するようになる。本来、それぞれの差別が独立していて個人的な現象であれば「行きすぎた」という言葉は成立しないはずだ。しかし、ここで「行きすぎた」ポリコレが存在するのは、心の中で差別への抵抗の濃淡を平均化して、それによって判断をしているからである。個別的であるはずの差別が、常に拡大された巨大な一般的差別として捉えられている。

この議論は今、奇妙な帰結をもたらした。つまり、差別は主体的に規定されるはずであるのに、主体的に規定されればされるほど客観的には強いステレオタイプによって逆規定されてしまうということである。もっとも多様に存在が規定されるべきはずの差別というパーソナルな現象が、「あるか、ないか」の二分法によって断罪されてしまうのである。

では、本来差別があるべき姿とはなんなのだろうか。私が思うに、問題の根幹はやはり差別の定義そのものにあるのではないか。差別を主体的な発言のみに依存していることが、差別を取り巻く多くの問題を引き起こす原因になっているのではないか。もちろん、差別が主体的に規定されることは倫理的に非常に重要な側面であるが、しかし果たしてそれだけを徐に強調して定義するのもどうなのだろうか。

つまり、我々がこれから成すべきは主体的な規定を基本とした上で、さらに客観的に倫理的な差別の規定する基準を設けなければならない。社会は、決して"わたし"だけで成立しない。無数の他者によって成り立っている。社会的な差別への対応が、共同体の構成員全てに認められるような努力は、独善的な基準によって規定される差別にはなされえない。共同体の構成員の多くが、社会が対応するべきであると思えるような差別が客観的に規定されるべきだ。しかし、いま私にその具体的な枠組みはわからない。だから、今日この議論は試論に留まるのである。新たな基準が必要だ、ということだけを主張してここでは終わりにしなければならない。これ以上の議論は私だけでは決してできない。多くの人間の多くの議論が必要である。


純粋な差別は頽落し、大衆的な差別になる。そうして、社会現象になっていく。たしかに、この形式は正しいような気がする。けれども、拡大していく中で我々は認識の限界を覆い隠すために、画一的な視線でそれぞれの差別をみてはいないだろうか。もちろん、そのようにみなければ社会的な対応は不可能である。けれども、それだけでは差別の根本は何も解決することはない。


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