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『SICK OF MYSELF』論考〜他者と差異の観点から〜

映画館から出た私は、笑っていた。

ブラックユーモアと、悲劇的な結末を主軸とする映画にもかかわらず私の顔には笑みがあったのだ。劇中、衆愚な画像と人間の在り方に嫌というほど眉間にしわを寄せた。だが、映画の余韻が充満した"スクリーン2"から出た私は笑みに溢れていた。

この笑いはいったい何から来るのか、面白さなのか、意味のわからなさなのか、あるいは圧倒されきってしまったからなのか。すぐには理解することはできなかった。ただ確実なのは、私が熱狂し、興奮したことだけである。ストラヴィンスキーがかの有名なバレエ『春の祭典』をパリで初演した際、あまりに前衛的なその音楽と振り付けに熱狂してしまったパリジェンヌたちは、まさに"祭典"のごとき興奮と怒号を飛びかわせたと云う。『シックオブマイセルフ』におけるセンセーショナルさもそのような魔力を持っているのかもしれない。(熱狂したのは地方都市の小劇場のたった5人ではあったが…)

『シックオブマイセルフ』はノルウェーの映画である。私は映画狂ではないので、その分野に精通はしていないが通が言うところの"北欧映画"に属する映画らしい。たしかに、主人公の彼氏は北欧らしいデザイナーズチェアの作家だし、劇中オスロの独特なトラムが映るなど北欧の香りは随所に香った。しかし、その洒落乙な街並みや映像とは裏腹にこの映画の抱える闇は深い。

主人公シグネは若い女性。まだ20代半ばくらいであろうか、しがないカフェのアルバイターである。彼女の彼氏トーマスは先述の通りデザイナーであり、近頃個展を開くなど精力的な活動をしている。当然、彼が有名になればなるほど、パーティーに行っても彼は引っ張りだこ。一方でしがないカフェ店員のシグネは注目を集めることはおろか、話の輪にさえも入れてもらえない。段々とカップルの間に亀裂が入っていく。ところで、シグネは承認欲求が人一倍高い。そんなシグネにとって話の相手にも、一縷の注目も浴びれないことは死活問題となっていく。そんなとき、ひょんなことから深刻な皮膚病を生み出す違法薬物「リデクソル」を見つけたシグネ。承認欲求の塊である彼女はこう思う、「これを使って皮膚病になればみんなが注目してくれるかもしれない。」案の定この予感は的中、彼女はささやかながら注目や愛情を取り戻す。しかし、注目はずっとは続かない。承認欲求がふたたび高まった彼女はさらにエスカレートしていくのである。

話の本筋はこの通りである。(もちろん、文面では語り尽くせないし、まずは見てほしいという願いが第一にある。)このあらすじだけを読めば、多くの人は「かわいそうな承認欲求の塊シグネが破滅へと暴走していく物語」と思うかもしれない。しかし、この物語が最も深刻に我々に訴えかけているものは承認欲求という現代に顕著な欲求に対する単なる問題提起ではないのだ。思うに、『シックオブマイセルフ』が本質的に描き出しているのはシグネという女性が逆説的に強調する人間のエゴの多重対立なのではないか。

こんなシーンがある。とあるパーティーでスピーチに際してまたも注目を浴びるトーマス。一方でこれまた冷飯を食っている寂しそうなシグネ。ここでもどうしても注目を浴びたい彼女はなんとウェイターが「アレルギーのある人はいないか?」と問われたのに対し、「私は重いナッツのアレルギーだ」と嘘をつき始める。そうして、シグネにはアレルギーに配慮された料理が配膳された。にもかかわらず、彼女は隣のトーマスの皿からナッツ入りの料理をわざと口にする。アナフィラキシーを起こして倒れるシグネ。騒然とする一同。まさしく、彼女の思惑通り彼氏の注目を遮り自分に視線を逸らさせた。

こう語れば、このシーンは単なるシグネの承認欲求を満たすエピソードにすぎない。けれどもこのシーンには巧妙なるスパイスが隠されている。それは彼女が倒れたときのウェイトレスとトーマスの状況である。トーマスは自分のスピーチを強引にも続けようとしたし、あるいはウェイトレスは「ナッツ入りの食品を並べたわけではなく、シグネが自分から食べたのだ!」と自分に非がないことを一生懸命に釈明しようとした。シグネという人が承認欲求を満たそうとするその傍らで、それとは別に承認欲求を満たそうとするトーマスと、あるいは責任を回避しようとするウェイトレスが同質に存在するのがこのシーンなのである。強烈なエゴの下に、一見隠されてしまってはいるが、別に自分勝手なのはシグネだけではないのである。この映画の基本的な主題としてこの構図は何度も反復される。すなわち、シグネが承認欲求を満たそうとすることで、周りの人々がパニックに陥る中でそれぞれのエゴが強調され、対立し並存するのである。

あなたもそういう経験はないだろうか。たとえば、クラスや職場に1人どうしようもないわがままでインスタ好きなトラブルメーカーがいたとしよう。その人が、社内や学校内のイベントの準備にあたってわがままを振り撒いてみんながうんざりしたり、怒ったりすることがあるかもしれない。あなたももちろんその例に漏れず、「どうしようもないやつだ、あいつは。」と言ってみたりするかもしれない。しかし、そこには"あなた"自身の物事への"こうあるべきだ"とか"こうあってほしい"という願望あるいはその根源としてのエゴが並存しているのではないか。誰かへの嫌悪というものは本質的に自身との差異の表明でしかない。私と他者を差異化するものは決して道徳だけではない。「あの人に道徳がないから。」という理由はもっともそうな嫌悪の要因ではあるが、しかしそれは私に言わせれば理性によって自分に嘘をついているにすぎない。誰かへの嫌悪は、定言命法的な強い義務的差異だけが生み出すものではなく、エゴという強い主観性が関わるもののはずである。(もちろん嫌悪の要因がそれら二つだけではないより多面的なものである可能性もあるが。)正義も悪もない、ということがニヒルな視点において言われることがある。まさしくそれはこのことであって、正義とは悪に対する自分の差異化にすぎない。正規と悪とは、私が正義であり、それに背く差異を持つものが悪という相対的なものにすぎないのだ。だから、純人間的な意味の領野(この場合ではパニックが起きるという状況)において人間というものはエゴ的存在であって、そこに存在する他者という差異そのものとの戦いが必然的に現出する。その"戦い"が『シックオブマイセルフ』には克明に描き出されている。

もちろん、この映画はそのような他者に着目した見どころだけではなく、独特のブラックユーモアや回想シーンの複雑性などさまざまな見どころがある。しかし、それでも私は他者に着目したい。この映画の主人公はきっとシグネではなく、シグネを取り巻く環境だと思うのだ。自己投影をすることのできないシグネという悪魔がいることで私たちが容易に"他者"に没入することができるという特異な経験をこの映画は提供してくれる。それはどんな映画でも経験したことのないような不思議な感覚である。

きっとあなたも映画館から出たころには、満面の笑みと熱狂を携えてくることだろう。



(マイナー映画の部類ではあると思うので、観たい方は早めに観ることを切実に薦めておく。)

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