25.真の精神病者とは誰の事か。

25.真の精神病者とは誰の事か。
 
精神病、精神疾患と言う言葉の響き、偏見を恐れずに言えばキチガイとかそうした捉え方が往々にしてある。一般的に我が国の精神科領域への理解と言うのは十分なものではない。例えばLGBT。先頃も同性婚を認めない現行制度が違憲かどうかの判断を求めた裁判で裁判所は「国民的議論が高まっているとは言えない」として、違憲かどうかの判断をするのではなく「まだ判断をする段階にはない」として結論を避けた判決が出された。
 
当事者からすれば「国民的議論」ではなく、まずは裁判所の判断を仰ぎ、その上でこのケースでは同性婚が人権上認められると言う事の必要性を知らしめたかったのではないだろうか。そうでなければ「国民的議論」にもなりようがない。
 
これを私のケース、つまり実の母親(母だけでなく父親でも同じである)が我が子に会えない事が、その親、そしてその子どもにとって人権上・社会通念上正しいのかどうかと言う事に置き換えれば、裁判所が判断すべきことは「親と子の関係性の構築」ではないのだろうか。裁判所からすれば「間接交流」という親権保有者から非親権保有者への一方的な写真送付などをもって交流というまやかしが通用するのかの説明は一切ない。
 
それどころか、裁判所に於ける調停・審判に際して東京家庭裁判所立川支部の調査官、宮下節子が私に対して言い放ったのは
 
「あなたは一体お子さんの何が知りたいのですか」というあまりにも当事者への思慮がない質問である。
 
子どもの何が知りたいのか。誘拐されたままの我が子の何を、だと
 
子どもと生活(同居)していれば、誘拐されていなければ、何の問題もない事である。よしんば離婚などの事情で子どもとの別居を余儀なくされる場合でも、日常的な交流があれば、何もわざわざ裁判所へ申立する事など何もないであろう。
 
これが離婚と言う個人的な事情ではなく、仕事の都合、長期の海外赴任と言った事情ならどうであろうか。現代は通信至便な時代である。それこそ地球の裏側であったとしても時差さえ考慮してつながる事は容易だ。とは言え地球上のどこかしこも通信が可能と言う環境にはない。例えば紛争地域へ国際貢献として人員が派遣されるような場合に於いて、何らかの手段を用いなければ本国の家族や子どもの様子を知る事が出来ない、何とかして欲しいと言うような場合「お子さんの何が知りたいのか」という問いかけが出来るのであろうか。
 
私が子どもとの交流を認められない事情、それは私が子どもを何の前触れもなく突然誘拐されたために相手方が翌日退院するような軽傷を負わせた事だろうか。もちろんそれも一因ではあるだろうが会えない期間は9年に及ぶ。それを我が国の裁判官、合田智子は「時期尚早」と言う。(時期尚早と言われた時点で5年、それから4年である)
 
私が精神的に不安定。しかし子どもと会えない期間がこれだけ長期間続いて精神的に安定・充実と言う事があるのだろうか。私は精神科医でもないのだが、専門家からしてみたら我が子と突然引き裂かれて精神的に非常に充実している、なんて事があればむしろ何らかの異常があると判断するのではないのだろうか。
 
そもそも現代的な精神疾患の定義は(大まかにではあるが)、周囲の価値観と相いれないという部分があって社会的適合が困難と言う事になる。一例では先のLGBTというのも当人の意思という問題ではない。今でこそLGBTについては理解も進み(無論万全ではない)、政権政党でもある自由民主党のHPに於いても政権公約としてLGBTへの配慮が明記されるまでになっている。
 
だからこそ広範な精神科領域での医療に際して「薬漬け」が問題として取り上げられるのであるが、他者への配慮が出来ない、あるいは難しいと言うのが精神疾患あるいは精神病と言われるのであれば、相手方のように何が何でも母親と子どもを会わせないと言う考え方こそ精神的な疾患・精神病ではないのか。
 
裁判官にしても「己の良心のみ」もちろんそれは法に従った上でという事なのであろうが、一方的な判断だけで親子断絶をする事のどこが他者(ここでは子どもと会えない親、親と会えない子ども)への配慮なのか。
 
調査官・宮下節子にも聞きたい。「お子さんの何が知りたいのですか」と言う事について、何年も子どもに会えていない、そしてこれまでにも「子どもの身長や体重が知りたい」とする事について「1年に1回なら」と「親権保有者である相手方が言っています」と言う事が平気で罷り通る現状で、別居する親に何も伝えられない中で理路整然と回答できる当事者が果たしてどの程度の割合で存在するのか。それこそ子どもの虐待死事件で、別居する親が子どもが亡くなった事を報道などでしか知りようがない現状でだ。
 
虐待死が良いなんてことは絶対にないのであるが、それこそ事件性がないもの。病気であったり、偶発的な事故であれば子どもが亡くなった事すら知る手立てがないのだ。
 
これまでに私は相手方に対して相手方代理人弁護士を通して様々な問い合わせをしてきた。子どもが興味のある事などへの回答は「なし、なし、なし」とだけ書かれた不良文書だ。誠実さに欠けるとして抗議を行っても「子どもの興味は変わりやすく「なし」とするのが誠実な回答」などととって付けたような言い訳文書が戻って来るだけなのだ。まあこうした姿勢も人権派を標榜しながら他者の人権などお構いなしと言った、配慮に欠ける精神病質な思考がなければ出来ない事であろう。
 
そして都合の悪い事は無視。こんな事を繰り返されて精神的な平穏が保てると言い切れる人がいるのなら是非お会いしてみたいものだ。おそらく何らかの欠如があり感情が消失しているとしか思えないのだから、これも専門家にしてみればなんらかの異常ではないのか。
 
そして実際に調査が行われているが、その事についても、私が周囲の手助けも得て「質問状」という形で核心に迫り得る事実を調査しろと文書提出してようやく行われたものだ。取り敢えず調査自体が行われた事については評価しよう。しかしそこで明らかになった事実。これまで相手方が「PTAの活動でたまたま一緒」「偶然近くにいた近所の人」だったものが報告書で言う「内縁の妻」。これはこれまで私が指摘してきた「影の女」ではないのか。子どもの養育補助は相手方の実母・陸奥の山姥トキヱだったはずが、いつの間にか岩手へ返品と言う事との整合性をどう説明するのか。
 
それ以前の調査の際に相手方は「(私が)母親として子どもに会いたいと言う気持ちは分かる」と述べたという部分が報告書にも書かれている。まあ相手方がわざわざ述べなくとも、世の中の母親で自らが産んだ子(これは産む性である母親に限った事ではなく、男性である父親であっても当然の事だが)に会いたいと願わないものがどれだけいるのかと言うことくらい明らかな事である。
 
相手方には「隠し通したい事」でもあると考えるのが極めて自然であり、実際に調査官の調査で愛人(内縁の妻)も発覚している。調査報告書に詳しい記載はないが(当時)高校生であろう(高校は必ずしも進学が義務ではない)年代の男性が愛人の連れ子であり、私の子どもと同居と言う事も判明した。
 
もちろん全てが全てという事ではないが、思春期は男女問わず多感で難しい年代でもある。それがいきなり幼い(年齢的に年下)我が子と同居する事になって、子どもたちへの心理面への影響と言ったものは短時間の調査とやらで分かるものであるのか。また必ずしもその子がという決めつけはよろしくないのであろうが、その愛人の連れ子にしてみても、いきなり母親の愛人の子と良好な関係性を築く事が出来るのであろうか。
 
こうした事を心配するのはある意味親として当然の事であり、自然な感情ではないのか。つまり社会的にもなんら合理性に欠けるところはない。ところが調査報告書に於いては我が子とその愛人の子との関係性については1行どころか1文字も触れられていない。そして我が子と愛人の関係性についても、子どもたちがその愛人を「なんとかちゃん」(おそらくファーストネームだろうか)と呼んでいると言うことぐらいしか言及がない。
 
調査官の限界と言えばそれまでだろうし、本来必要な継続的観察というのは望むべくもないのだろうが、調査を行うに際してどのような事が必要であるのかを判断できなくて調査官になれると言うのは恐ろしい事ではないのか。
 
そして何よりも恐ろしいのが相手方の姿勢である。何が何でも子どもに会わせない。確かに離婚までするのだからわだかまりがあって当然だろうし、会わせたくないという気持ちは離婚を経験した当事者からいくらでも聞く。しかし多くの場合は「仕方がない」「最低限」といったものでも面会が絶無までは多くない。(もちろんゼロではないが)
 
「間接交流を勝ち取りました!」と言うのは離婚弁護士が自らの事務所のHPに書いていた宣伝文句である。現在では各方面からの抗議で消したと聞く。少なくとも親子断絶が子どもの利益と本当に考えるなら消す必要もないはずだ。むしろさすがにマズイというか親子であれば(別居に至る事情があっても)交流がある事が当たり前と言う程度の事が分かるからこそ消したのではないか。
 
何が何でも親子を会わせないという偏狭な思考、いや思考だけならまだしも、常識では考えられないような手段を用いて(もちろん、私自身が相手方の挑発に乗ってしまい「シナリオ通り」に軽傷を負わせた事もそうだと言われればそれまでであろうが)まで子どもに会わせないと言うのはどこかに社会通念・一般常識に欠けた精神病質である事も明白ではないのだろうか
 
相手方には「オレがいくらお前(私の事)にカネを使ったんだ」と言い放たれた事もあるし、別居の際に私名義のゆうちょ銀行の口座残高をゼロ(本当にゼロ円です。一般的に自動機では紙幣の扱いのみで1000円単位であるが、1000円未満の残高まで引き出す、つまりは窓口営業時刻にわざわざ行ってと言う事だ)にして私の下へ送りつけた際も「元はオレのカネ」と言う。
 
確かに相手方は自営でそれなりの収入を得ており、経営と言う面では苦労もあるだろうし、難しさもあるだろう。お金を大切にすることは重要だろうし決して否定するものではない。しかし、そこまでの相手方が私と子どもを引き離すためにいくらのカネを使っているのであろうか。弁護士費用だけでも少ない金額ではない事も明らかである。
 
私自身も子どもの事はカネに代える事の出来ない重要な事だ。これまでに弁護士費用だけでなく、本来なら(子どもと会う事が出来ていたら)払う事もなかったお金を使わざるを得なかったし、今後も子どもと会うためにお金を惜しむつもりは全くないが、私と相手方を合わせれば相当な金額が見方を変えれば弁護士業界・離婚産業の餌食となったと言う感は否めない。
 
私と相手方が使ったこうした全くムダなお金は子どもたちのために使うべきものではなかったのか。現在の私はと言うか生きて行くために、生活のために仕事は欠かせないものであるが、要はムダ金を用意しなければならないからと思うと本当に悲しくなってくる。相手方にしても子どもと会わせないという報復のために使う金のために仕事なんてバカバカしいとは思わないのだろうか。
 
普通に考えれば、常識的に考えれば「どちらが当たり前」で「どちらが合理的」なのであろうか、言うまでもない事である。相手方は傷害事件の事などを利用してその主張の中に私が精神病質である、と徹底的に貶めて来た。審判に於いての主張書面に於いて私の事を「街に猛獣を放つようなものだ」と言う事を無責任な個人ブログを出典として示して攻撃してくるほどだ。もっとも私の本ブログも無責任な個人ブログと言われればそれまでだが、冷静に考えればいい。
 
もちろん書いてきたのは相手方であり、監修責任者はその代理人であったウソツキの絶対王者・木村ウソツキ真実である。こんな輩が我が国では自称・子どもの人権派を名乗ることのバカバカしさ。相手方もウソツキ真実のどちらも精神科領域の専門家ではないし、いい加減な事を書いても私が相手方に軽傷を負わせた事件があるからとタカをくくっていたのだろうが、むしろそうした精神面の分野への無理解を示す無能さを明らかにしているのだ。こんな無能な人間が本ブログ第21章にもあるように子どもへの対応に関するガイドラインなるものを書いている。
 
普通とか常識と言う尺度を今一度思えば、ここまでして母親と子どもを会わせないと言うのは明らかに異常で精神病質ではないのか、と言えよう。
 
もちろん私は専門家ではない。したがって的確な診断を下せるものではないから相手方には「ここまでして子どもに会わせない」という心情が「社会通念」「一般常識」と言うだけでなく精神医学的にも正常なのかと言う事を確認するために、一度専門の医療機関で受診する事を願ってやまない。

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