【気まぐれエッセイ】厨ニ病的なイタさを救済するには
誇大的自己って聞いたことあるだろうか?
幼い頃なら誰しも持っている非現実的な全能感、万能感、優越感などのことだ。
通常は他の子どもたちとの関わり合いの中で、一旦それを傷つけられ(自分だけの思い通りになるわけじゃないと知る)、自分なりに自信を築きなおしていく。そうして培った自信は、幼い頃に持っていたような自己中心的なものではなく、もっとバランスのとれた現実的で頑丈なものだ。
だけど私は、誇大的自己を打ち砕かれた後、上手に健全な自信を再構築することができなかった。
だから未だに、幼い頃に持っていた全能感を、取り戻そうともがいている。正しい方法で健全な類の自信を構築するのではなく、あの頃失ったものをまだ、そっくりそのまま取り戻したいと思っているのだ。
そんなことは不可能で、万が一叶えられたとしても、不健全なこと(自分も周りも幸せにしないこと)だと十分わかっているのに。未だにしがみついてしまうんだ。敵がひとりもいない温かな空間で過ごせた幼い日々の記憶に。
取柄がなくちゃいけないだなんて、いつから思うようになったんだろう。
生きているだけで丸ごと愛され、居場所があったあの頃に、還りたい。今でも家族や彼氏は何にもない私を愛してくれるけど、大人になると勝手に、「もういい歳なんだからそれじゃいけない」って思ってしまうんだ。
親しい人たちとの会話で意見を述べていると、「外の世界には居場所なんてないくせに、皆が優しいからって偉そうなこと言っちゃって。井の中の蛙だね」っていうもう一人の自分の声が、聞こえてくるんだ。
その度に私は、「ビックになってやるから見てろよ!」なんてこっぱずかしいことを、もう一人の自分に返している。
いいカッコしたくて無理をして、痛い目に遭う。ときどき間違った方法で自分の存在をアピールして、後々恥ずかしくなる。昔から私は、そんな経験をたくさんしてきた。
私は間違いなく、思春期の男子的なイタさを持っている(笑)
思春期の男子的なイタさとは、最終形態まで突き詰めていくと、世間に自分の力を知らしめるために大勢の人の命を奪い、その後自殺してしまうようなイタさのことだ。
※もちろん私は人を殺したいと思ったことは一度もないし、今後もないと思います。そして当然、すべての男性にこのような罪を犯す可能性があると言いたいわけでもありません。また、犯人を擁護するつもりはないし、亡くなられた方には……かける言葉も見つかりません。心より、ご冥福をお祈りしております。もしこの記事に不快な想いをされた被害者遺族の方がいらっしゃったら、申し訳ございません。
自殺間際に無差別殺人を犯すのは、男性ばかりだ。女性が人を殺す場合、大半が嫉妬や恨みによるものか、金銭目的、もしくは猟奇的殺人ではないだろうか。名誉欲を満たすために人を殺める女性は、あまりいない(どちらがマシかとか、そんな話ではないよ)。
男性は、自分の力を誇示したい、つまるところ「ビッグになりたい願望」を持っている人が、やはり女性より多い気がする。
これは、多くの女性が持つお姫様願望と似ているけど少し違う。女性のお姫様願望は、もっと小さなお城の中でも満たすことができるものだ。例えば参加した合コンで一番ちやほやされたいとか、彼氏に大切にされたいとか、女友達に憧れられたいとかね。日本中、世界中に自分の名を轟かせたいとか、歴史に名を残したいとか、大勢に尊敬されたいとか、そんな壮大な出世欲とは、違うのだ。
ビックになりたい!
その願望を、健全な方法で成せなかったことこそが、殺人と自殺の理由だろう。犯人が何を語ろうと、亡くなっていてもう何も語れなかろうと、自殺間際に犯した行動そのものが、殺人の理由も、自殺の理由も物語っていると私は思う。人の命を奪うことは、当たり前だけどちっとも名誉なことじゃないのに。そういった判断ができなくなるほど、自尊心が傷付いていたのではないだろうか。
女性はそこまで強い名誉欲を持っていないことが多いし、例え持っていたとしても、それを満たせなかったからと言って自分の命を終わりにするような重い罰を与えるほど、自分に厳しくない。多くの女性は、子どもを守る本能からか、自分自身のことも守るのが得意だ。平たく言うと、カッコつけるためなんかに無茶をしない。その代わり、ご飯を食べるためになら(子どもに食べせるためになら尚更)、住む場所を確保するためになら、つまり生きていくためになら、鬼にでもなれる。それが女性だ。
だけど私は女でありながら、思春期の男子的なイタさを間違いなく持っている。
ではなぜ私や、そういったイタさを持つ多くの人たちが、無関係な人を巻き込むような、人としてあり得ない残虐な行動をせずに済んでいるのか、またそんなことがしたいだなんて気持ちが微塵も湧かないのか。
それはやっぱり、ありのままの自分を愛された経験があるからではないだろうか。
どんな犯罪であっても、被害者を守るためには、加害者が加害者になる前に救済する必要があるのだと思う。被害に遭われた方、そのご家族にとっては腸が煮えくり返るほど悔しい話ではあるだろうけど。もし私が身内を殺されていたら、絶対こんな風には思えないし、第三者だから言える浅はかな意見かもしれないけれど。
そして私の言っていることは、犯人にとっても軽薄な意見だろう。「人を殺したのは、愛されていなかったから」なんていう短絡的な決めつけは、それこそ殺してやりたくなるくらいムカつくことかもしれない。
それでも、同じ類のイタさを持つ私と彼らの決定的な違いは何だったのかと考えたとき、やはり一番に思いつくのは、愛された経験や愛し合う人の有無だ。
人格を形成する大切な時期に親や養育者から与えらえれるはずであったものを、十分に与えられることなく大人になってしまった人の心を、果たして他人がどれだけ満たせるのかと考えると、加害者の救済なんて気が遠くなるほど難しいことにも思える。
最終的に自分を満たせるのは自分しかおらず、その力を養うためにもっとも効果的な栄養が愛情だからだ。特に、幼少期に無条件で与えられるそれは、人を人らしい方向へと導いてくれる。
それじゃあ、私たちにできることはないのだろうか。
「家に帰って家族を愛しなさい」
これは、世界平和のために何をすればいいかと問われたときの、マザーテレサの返答らしい。
私たちにできることは限られているけれど、ひとりひとりが、身近な人たちのことだけでもちゃんと大切にできたなら、愛されない人は生まれないよね。
そして忘れちゃいけないのが、自分を愛してあげること(ナルシストという意味ではなくて)。これが正しくできる人は、人の命を奪うことはないと思うんだ。
私は、私を愛してくれる大切な人たちを、これからもうんと愛していこうと思う。自分のことも、目一杯大切にしてあげよう。
そしてもういい加減、まやかしの自信を追い続けるのはやめにして、健全な自信を、積み上げていこう(夢を諦めるとか、そういうことではなくてね)。
恥をかいてもいい。
それが第一歩だ。
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