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「仕立て屋伯爵」第2話

第2話

 目の前に湯気の立っている料理が並ぶ。こんなものははじめて見たと思いながら、昼間のことを思い出す。
 それは仕立て屋のカミーユの元で働くことを承諾した翌々日のこと。早速必要そうな荷物をまとめてカミーユの店に行くと、そこにはすでに俺用の部屋が用意されていた。俺用の部屋は、カミーユの自宅兼仕事場である家の二階にある。見た感じ、家族全員分に足りるほど部屋数がないけれど、どうしているのだろう。
 そんな疑問もよそに、カミーユが口を開く。
「ソンメルソ様には、今日からしばらく僕たちの家族同様に過ごしていただくことになります」
 そう言ったカミーユは、あの日俺を出迎えた弟……アルフォンスというらしい……に指示を出して、俺のことをすっかり庶民の服に着替えさせた。この服はアルフォンスが仕立てをはじめたばかりの頃、彼のサイズで練習用に仕立てた服なのだそうだ。
「これからはご自分で着替えをしてもらいますからね」
 着替えさせられた俺にそう言うカミーユに、黙って頷く。
 今まで着替えなんて使用人に任せていたから、どうやって服を着ればいいのかがわからない。
 そんな俺の戸惑いに気づいたのか、アルフォンスが口を開く。
「ソンメルソ様用の服は、単純な作りで着るのも簡単なものです。
 上着は被って袖に腕を通すだけ、ズボンは穿いてウエストのボタンを留めるだけです。
 今まで着ていた服よりも単純でしょう」
「まぁ、たしかに……」
 言われてみれば、普段着ていたアビ・ア・ラ・フランセーズと呼ばれる服はブラウスを着てタイツを履いて、キュロットでタイツをおさえつつ……等々、冷静に考えると面倒な手順が多いものだ。それに比べれば、被って穿いて留めるだけというのは実にシンプルだ。これなら俺にもできるだろう。
 着替えて、カミーユの家と職場での決まり事などの説明を受けている間に、おいしそうな匂いが漂ってきた。そういえば、気がつけばアルフォンスが姿を消している。
「ああ、晩ごはんの時間ですね。
 続きは晩ごはんを食べて、落ち着いてからにしましょう」
 そう言って、カミーユはにこりと笑って杖をつき、部屋から出て行く。俺もそのあとについて、一階の応接間の隣にある居間兼食堂に向かう。
 居間にはいると、大きな円形テーブルの上に湯気の立った料理が並んでいた。
 おそらく、家族全員分を一度に盛っているのであろう。大きな器の中になみなみと野菜がたっぷり入ったスープ。それに、チーズを乗せて焼いたパンを雑多に盛った大皿。それから、鉄製の取っ手付きの平たい器には、焼き色のついたソーセージがぎっしりと並んでいる。
 そんなテーブルの横には、椅子が七つ並べられている。椅子の数だけスープ皿を並べているのはアルフォンスだ。
 そこで俺は疑問に思う。
「この家にはご婦人がいたはずだが、なぜアルフォンスが食事の準備を?」
 俺の問いに、アルフォンスはきょとんとして返す。
「え? ずっと俺がやってるからですけど?」
「ん? では、ご婦人はいったいなにを?」
「ああ、義姉さんはクロッシェレースって言うのを編む仕事があるので、ふだんはそっちを重点的にやってもらってます」
 それを聞いて、思わず血の気が引く。
 レースを作る職人がいるような仕立て屋に、いわば弟子入りしてしまっただなんて。これはとんでもないことになったぞ。
 思わずわなわなする俺に、すでに椅子に座ったカミーユがにこにこと笑いながら言う。
「この店にはたくさんのニードルレースも蓄えてあります。
 くれぐれも悪い考えは起こさないようにしてくださいね」
「ひっ……はい……」
 レースを蓄えてすらいるのか、この店は。
 そうなると、気をつけなくてはいけない。レースに下手なことをすると、この店を懇意にしている他の貴族を敵に回すことになる。なぜならレースは、貴族の家柄と地位を表すものだからだ。
 改めてとんでもない仕立て屋に弟子入りすることになったと戦慄する俺に、カミーユとアルフォンスが椅子に座るよう促す。
 どこに座ればいいのだろう。このテーブルには上座も下座もないように見える。
 少し悩んで、困ったときにはすぐにしきたりを訊いたり助けを求めたりできるようにカミーユの隣の席に座ることにした。
 座ったはいいけれど、まだ全員揃っていない。まだ来ていないのは、カミーユの弟でアルフォンスの兄のギュスターヴと、その妻リザ、そして息子のヒュースと娘のアンナの四人。ヒュースとアンナは、俺とそんなに歳が離れていないそうだ。
 レースを編む仕事をしているというのがリザで、ギュスターヴはこの店の経理など、雑務を担当しているらしい。
 まだ少ししか顔合わせをしていないけれど。と思いながら待っていると、賑やかな足音と共に例の四人が居間に入ってきた。
 わいわいと全員が椅子に腰掛けたのを確認して、カミーユが声をかける。
「それじゃあ、晩ごはん食べようか」
 それから、食前の祈りの言葉をあげてから、アルフォンスがそれぞれのスープ皿にスープをとりわけはじめた。
 湯気と共に、野菜独特の青さと甘さの混じった匂いが漂う。
 全員に配られたスープは、目の前の大きな器から取り分けられたものだ。毒は入っていないだろう。
 そう判断して、早速スプーンでスープを掬おうとする俺に、カミーユが突然声をかけてくる。
「熱いですから、気をつけてくださいね」
「ん? ああ」
 はじめて見る質素なスープに気を取られて、つい生返事をしてしまったけれど、はっとする。
 もしかしてこれが、兄さんの言っていたあたたかいごはんだろうか。
 紅茶を飲むときのように気をつけてスープを口に運ぶ。熱い。味付けも塩だけで簡素だ。けれども、野菜の味がしっかりと染み出ていておいしい。なにより、あたたかい食べ物をはじめて口にして胸が弾む。こんなに質素な料理でも、あたたかいだけでこんなにおいしいのか。そのことに感動すら覚えた。
 改めてテーブルの上を見る。チーズの乗ったパンに、焼き目のついたソーセージ。どちらもおのおの取って食べているのだから、これらにも毒は盛られていないはず。
 あたたかい料理に味を占めた俺は、夢中でパンとソーセージを食べた。
 あとになって、あれはさすがにはしたなかったと反省するくらいに。

 カミーユの店に来て一日目は、そんな感じで満足のうちに終わった。
 しかし、二日目から早速俺は不満を抱えることになる。
 仕事をはじめる時間になって、カミーユは俺を作業場の片隅に座らせ、まずは針と糸を手渡してきた。
「では、まずは針に糸を通してください。
 これができないと、仕立て屋ではなにもできません」
「は、はい」
 針に糸を通す……?
 裁縫用の針は、糸を通す穴があるというのはさすがに知っているけれど、その穴を見て思わずおどろく。あまりにもちいさい。
 こんなちいさな穴に糸を通すのか?
 不安に思いながら糸を見ると、なんのことはない、糸も十分に細かった。
 これなら簡単に通せるだろう。そう思って糸を針の穴に当てると、糸はくにゃりと曲がって針の穴からそれてしまう。
 なんでだ? 穴に通りそうなくらい糸も細いのに。そう思いながら何度も糸を針の穴に当てるけれども、くにゃくにゃと曲がって通らない。
「これならまだラクダの方が通しやすい!」
 思わずいらついて声を上げる俺を少したしなめてから、カミーユはもうひと組針と糸を持ってきて俺に見せる。
「糸がなかなか針の穴に通らないときは、こうするんです」
 そう言って、カミーユは作業台の上にあったちいさな鋏で糸の先を切り、軽くなめてから針の穴に当てる。すると、俺の悪戦苦闘が嘘のように、糸が針の穴を通っていった。
「どうして……?」
 目の前で起こったことが信じられずついつぶやくと、カミーユは俺が持っている糸の先を指さしてこう言う。
「この糸の先をよく見てください。毛羽立っているでしょう。
 この毛羽立ちがあるとなかなか針の穴に通らなくなります。
 そんなときは、毛羽だった部分を切り落としてから、なめて繊維を落ち着かせるんです。
 そうすれば、針の穴に糸を通しやすくなりますよ」
「なるほど……?」
 そんな簡単なことで糸が通るようになるのか。そこに思い至らなかった自分を恥ずかしく思いながらも、カミーユに促されて言われたとおりにやってみる。
 すると、今度は簡単に針の穴に糸が通った。
「はい、上出来です。
 次は通った糸を片腕分の長さに取って切って、二本まとめて結びましょう」
 自慢げにする俺に、カミーユはにこにこと笑って次の指示を出す。今度はあらかじめやり方も見せてくれた。
 糸を通して、結び目も作れるようになって、これで仕立ての手伝いができるんだな。
 そう思っていると、カミーユはヒュースを呼んで、俺にこんなことを言った。
「では、そこまでできたら次は運針の練習です。
 僕は仕立ての仕事があるので、練習の監督は引き続きヒュースにやってもらいます。
 なにかわからないことがあったら、ヒュースに訊いてください」
「え? 運針? ってなに?」
 俺の疑問もよそに、カミーユは色鮮やかな布が置かれた窓辺の作業台の方へと移動してしまう。あの布は絹だろう。光沢と色柄を見る限り、どこかの令嬢のドレスだと察せられた。
 あのドレスを縫う手伝いをするんじゃないのか? 俺が戸惑いながらヒュースを見ると、ヒュースは俺に端布を渡してきた。
「いきなり依頼品を縫わせるわけがないでしょう。
 均一な縫い目を出せるようになるまで、端布で縫う練習をするんです」
「あー……」
 そうだ。針に糸を通せても、俺はまだ縫い方を知らない。だからもちろん、うまく縫えるかもわからない。
 カミーユが作業している姿を見ると、いとも簡単にやっているように見えるけれど、そんなことは思っていても口に出すことは許さない。という気迫をヒュースから感じる。
 なにはともあれ、ヒュースの手ほどきを受けながら、俺は縫い方……これを運針というらしい……の練習をはじめた。
 やってみるとたしかに、縫うこと自体は簡単だった。けれども、針目を均等に、しかもまっすぐ縫うというのは難しい。何度やっても針目が揃わないし、まっすぐにもならない。
 そんな俺の手元を見てヒュースが言う。
「簡単だと思いますか?」
「……思わない……」
「なら、がんばってください」
 母上のドレスを注文するために、この仕立て屋で働くはずなのに、技術が未熟すぎて働くことすらまだできない。
 その事実が重くのしかかってきて、悔しさとふがいなさで泣きそうになった。

 午前中はみっちりと運針の練習をさせられた。
 指先と目が疲れてよれよれになったけれど、針に糸を通すのすらはじめてなわりには、よくやっている方だというヒュースの言葉に少しだけ元気づけられた。
 もっともその後に続いた、この分なら半年もすれば使い物になるだろう。という言葉にはまた落ち込んだけれど。
 いったん休憩を入れてから午後になり、今度は型紙の作り方を教わることになった。
 型紙の作り方も、ヒュースに教わる。午前中、俺が運針の練習をしているところを見ているヒュースは、とても厳しい顔つきだった。
 それを思い出すと、型紙の作り方を教わるときも気が休まらないだろうなというのは容易に想像がつく。
 カミーユが引き続き窓辺でドレスを縫っている作業場。その片隅を借りて型紙の作り方を習う。
 ……のだけれども、教わる前から俺は気圧されている。作業台の上には、羊まるまる一頭分の羊皮紙が広げられているのだ。
「あの……これは……?」
 俺がおずおずとヒュースに訊ねると、ヒュースはこともなげに答える。
「これからこの紙で型紙を引く練習をしてもらいます」
「こんなに大きな紙で?」
「人間の服の型紙ですよ? これくらいないと書ききれないでしょう。
 大丈夫。鉛筆で線を引いてもらうので、間違えても擦ればある程度消えます」
 思わず脚が震える。だって、俺の家は公文書用の羊皮紙すら調達するのが難しいんだぞ? それなのに、ここは平民が経営する店なのに、羊一頭分もある羊皮紙を、贅沢にも練習に使うと言っている。
 紙の価値がわかっていないのか、それとも、わかった上で使うことができるほど裕福なのか、どちらにせよ空恐ろしい。
 でも、ここで怖じ気づいていては母上のドレスが手に入らない。勇気を振り絞らないと。
 意を決してヒュースから型紙の書き方を聞く。ヒュースは実際にどうやって線を引くのかも見せてくれた。そう、ためらうことなく鉛筆で羊皮紙に線を引いていった。
 ためらいのない姿にはじめは恐れさえ抱いたけれども、あまりにも迷いがないので、次第に安心してきた。ヒュースもたまに線を引き間違えているけれど、たしかに擦れば線がぼやけるのだ。
 そして俺の実践。ヒュースに言われたとおりの長さと角度の線を羊皮紙の上に引いていく。思いのほか簡単に、型紙らしきものができあがった。
「これでいいのか?」
 少し拍子抜けしながらヒュースに訊ねると、巻き尺を手渡された。
「引く手順はわかりましたね?
 では次に、そこのトルソーのサイズで型紙を引いてもらいます」
 巻き尺を握る俺に、ヒュースが指さしてみせるのは、仮縫い用の人型の台だ。あれは男性用のをいつもの仕立て屋で目にしているので存在は知っている。
「でも、あの台のサイズでどうやって?」
 俺の素朴な疑問に、ヒュースは冷めた目で俺を見る。
「なんのための巻き尺ですか?
 それでトルソーのサイズを測って型紙を引くんです」
 それを聞いて、頭の中に馴染みの仕立て屋での光景が浮かんでは流れていく。
 そういえば、俺は服の仕立てを注文するとき、どんな風にサイズを測ってもらっていたっけ。なんとか思い出そうとするけれど、今まで気にしたこともなかったので全く思い出せない。
 それを察したのか、ヒュースが人型の台の側に立ち、指さしていく。
「まずは背丈。背骨の部分の長さを測ります。それから胸回りとウエスト、あと首回りに肩の厚み。
 あとは、このトルソーにはついていないのですが、本来なら腕の長さと太さも測ります。腕に関しては、今回は省略してやりましょう」
「な、なるほど?」
 改めて測る部分を聞いて、思いのほか細かくやらなくてはいけないのだなとおどろく。
 でも、さっきは簡単に型紙を書けたし、この台のサイズでも測りさえすれば簡単に書けるだろう。
 そう思って巻き尺で台のサイズを測りはじめると……
「曲がってる! 背筋は垂直に!」
「ウエストとバストは地面と水平に! 巻き尺をゆがませない!」
「首はきつすぎず、ゆるめすぎないように!」
 次々とヒュースの檄が飛んでくる。
 這々の体でなんとかサイズを測り終わると、メモしたサイズの数値を指さしてヒュースが言う。
「では、この数字を使って型紙に使う数値を計算しましょう」
「え?」
 思わず呆然とする。測った数値をそのまま先ほどの型紙に当てはめていけばできると思っていたのだ。けれどもヒュース曰く、型紙は半身しか作らないものなので、この数値をそのまま使うとおかしい形になってしまうらしい。
 どうしよう。なにを隠そう俺は計算が苦手だ。それが原因で他の貴族に領地をむしられた部分もある。それなのに、まさか仕立て屋で計算をすることになるなんて。
 助けを求めるようにちらりとカミーユの方を見ると、相変わらず悠々とドレスを縫っている。
 俺はヒュースにしごかれながら、なんとか計算をして、型紙を書いた。
 これで一段落かと思ったら、ヒュースが今度は生成りの綿生地を持ってきて作業台の上に乗せる。
「では、次はその型紙をこの布に写してトワルを組んでください。
 これからしばらく、型紙とトワル、それに運針の練習を平行してやってもらいます」
「トワル、というのはなんだ?」
 ヒュースの言葉でわからないところがあったので訊くと、ヒュースはこう説明した。
「服の仮組みです。この時点でサイズを確認して、型紙を修整するためのものです」
「なるほど」
 そこでふと疑問に思う。
 これからしばらくトワルというものを作る練習をするということは、この綿生地を毎回この量使うということだ。
 練習で、これだけの綿生地を……?
 綿生地は絹ほどでないにしろ、決して安いものではない。
 大きな羊皮紙にしろ、この綿生地にしろ、俺からすれば練習に使うにはあまりに高価なものだ。
 これだけのものを、まだ仕事ができない俺の練習用に用意するくらいなら、なにも言わずに母上のドレスを作ってくれてもいいのに。
 それを思うと、目の前にいるヒュースと窓際でドレスを縫っているカミーユが、少しだけ憎らしく思えた。

 それでも約束は約束だ。俺は母上のドレスを仕立ててもらうためのお金をここで稼がなくてはいけない。そのためには、一刻も早く仕立ての手伝いができるようにならなくてはいけない。
 だからせめて運針だけでも上達しようと、毎晩夜遅くまで、ランタンの光の下で練習をした。
 日中はヒュースにしごかれて、夜は運針の練習。
 正直言えば、なぜ平民にここまで従わなくてはいけないんだという思いはある。けれども、毎日食事時に用意されるあたたかい料理を食べると、もう少しがんばるかという気になってしまう。俺も単純なものだ。
 夜遅くまで運針の練習をするようになってから一ヶ月が経った。この店に来たばかりの頃はアスパラガスが旬だったのに、今ではキュウリが旬だとアルフォンスが言っていたっけ、たしかに最近暑くなってきた。
 けれども、夜は涼しい。こんな夜中はなおさらだ。
 ランタンの光で手元を照らして運針の練習をしていると、誰かが部屋のドアを叩いた。
「誰だ」
 咄嗟に振り向くと、ドアの向こうから鈴の鳴るような声が聞こえる。
「ソンメルソ様、まだ起きてるんでしょう?
 差し入れを持ってきました」
 この声はアンナだ。俺は一瞬言葉を詰まらせてから、中に入るよう返事をする。
「おじゃまします」
 そう言って部屋に入ってきたアンナは、俺が運針の練習で使っている机の上に甘い匂いがするカップを置く。
「ホットミルクです。
 そろそろ寝ないと、明日に響きますよ」
 アンナの父親のギュスターヴから聞いている限りでは、彼女はいつも早めに寝ているはずなのだけれど、なぜこんな時間に起きているのだろう。
 じっと見返すことができなくて、視線をさまよわせながら言葉を返す。
「それはそうだが、あの、婦女子がこんな時間に男の部屋に来るのはよくないぞ」
 気恥ずかしさを感じていると、アンナは少し声のトーンを落としてこう言う。
「それはそうなんですけど、ソンメルソ様が寝不足で不機嫌だと、兄さんまで不機嫌になるんで迷惑なんですよね」
「すいません」
 気づかぬうちに多大な迷惑をかけていたことに気づき、縮こまることしかできない。
 申し訳なさを感じながらホットミルクに口をつけると、ほんのりと甘い。どうやら蜂蜜が入っているようだ。
「アンナは、こんな時間まで起きていたのか?」
 俺の何気ない問いに、アンナはため息をついて答える。
「私は起きたんです。
 外を見てください、街の際がだんだん白くなっているでしょう」
 その言葉に窓を見ると、たしかに空が白んできていて、街並みのシルエットを浮かび上がらせていた。
「この時間になったら、もう起きていた方が……」
 俺がついそう口にすると、アンナが低い声で鋭く言う。
「寝て」
「はい」
 腕を組んで立っているアンナの前でホットミルクを飲み干し、針を刺した針山と布を机に置く。それからベッドに向かうのだけれど。
「すまないアンナ、部屋から出てくれないか」
「ベッドに入るところを見ないと安心できません」
「勘弁してくれ! 使用人でもない女性に、ベッドに入るところを見られるのはさすがに恥ずかしいんだ!」
 耐えかねた俺の言葉に、アンナははっとした顔をしてランタンを手に取る。
「それもそうですね、失礼しました。
 では、ランタンを消して私はお暇しますね」
 アンナがランタンの火を消す。窓から青い光が差し込む。青い光が部屋から出て行くアンナの後ろ姿を照らす。
 それを見送ってからベッドに潜り込んでつぶやく。
「ああ、ヒュースだけでなく、アンナにも怒られてしまったな」
 思わず笑いがこぼれる。
 不思議なことに、その笑いに自嘲は籠もっていなかった。


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