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Forget Me Not(第13章)


これは何?
 絵を描けなくなった画家である日向理仁を中心に、湖畔で起きた失踪事件の解明を試みるお話。

第13章
 20XX年12月15日。この日の全国紙の一面には、連続して起きた行方不明事件とそれに次ぐ水死体発見の記事が大々的に、しかし冷静に掲載されていた。私はこれまでに何度も、一つの砂粒をも落とさぬ機械のような精密さをもって、徹底してこれを読み込んだ。あるいは、事件現場に残された指紋一つ、血液の一滴残らず観察し採取する鑑識のような綿密さで。限りなく正確な事実のみが浮かび上がらせるはずの真実を探る作業を繰り返した。

そこには、つい今しがた卸したばかりの素材が持つ生々しさと自由さがあった。創作者がいかようにも捉え、調理し、美食家の舌を満足させ唸らせるに足るものがあった。新聞記者はありのままの事実を、そのままの形で伝達しうる言葉を当て、人々と情報共有する技術に精通している。目の前を駆け走り逃げ去ろうとする獣をそのたくましい剛腕で捕らえ、絞め、皮を剥いだもの。たった今まで、生命エネルギーを身体中に伝達していた新鮮な血の滴る肉をある程度綺麗にし、人々に伝える。
これが新聞記者がまとめあげるべき一次情報の姿であり、私が仕入れたのもまさにこうした情報だった。これを自慢の調理器具や調味料で調理し、市井の人々の食するレベルに整えて提供するのが評論家や小説家などの表現者たちだ。この事件は彼らの格好の標的となった。

 

 私はその様子を第三者的立場で俯瞰している他なかった。なぜなら、あまりにも遠すぎる立場であり、またあまりにも近すぎる立場でもあったからである。私は私の身を守る必要があり、それに必要な距離を測り、離れた。それだけの時間と行動的余裕はあったのだ。
ロクスケという40歳過ぎの新聞記者である男の気遣いがこれを可能とした。彼はフリーの記者であることを強みに、サラリーマン記者が手を出せない事実にも誠実に手を出し、いやらしい下心を源にする誘導的な文体作成に心を誘惑されることも、しがらみに付き纏われることもなかった。自分の中に育んできた信念を指針に記事を書くことで一部の人間から絶大な信用を得ている記者であった。遺族として事件に関わった身としてはこうした記者が必要だったし、弱い心が毒される前に自分を奮い立たせ、自分自身の道を歩くことを欲している人間にとってはこうした友が必要だった。


「今夜、良かったらうちへ寄らないか?」
今朝送ったメールでの呼び掛けに応じてくれたロクスケが、厚手のダウンコートを脱ぎながら家に入って来た。雨の滴を玄関からリビングまで大量に垂らしながら、そんなことお構いなしに「よう、元気か?」と朗らかな笑顔で言った。雨の滴なんて後で拭けばいいし、そもそもいつの間にか乾いてしまう。そんなこと、どうだっていいのだ。

「おれは相変わらずさ。けれど、この冬の寒さをひとりきりで越すにはちょっとしんどくってな。孤独も煮詰めすぎちゃダメだ、なんて思っているよ」
そうだろ?という顔つきで私はロクスケに問いかけた。彼は選んだレコードをプレイヤーに掛けながら答えた。
「そりゃそうだ。おれはフリーの新聞記者でひとり暮らし。結婚したことはないし、今は彼女もいない。君は画家でひとり暮らし。部屋に籠もってばかりいちゃあ、気が沈むのも当然だよ。でもな、おれたちには美味いウィスキーがあるし気の利いた音楽がある。そしてそうした人類の文化を尊く思い、共に楽しめる友人がいる。この憂鬱な世界にも、誰にだって救いがある。君が今夜、おれを呼んでくれたようにな。」
部屋の中にはエンリコ・ピエラヌッツィのピアノジャズが流れていた。暖炉の薪が燃える音と交じる。インプロビゼーション。

 私は魚介のペスカトーレとサラダの仕上げをし、白ワインと一緒にダイニングテーブルに運んだ。
「君の料理はいつ何を食べても美味いな、理仁。」
「ここでは良い素材が安く手に入るからな。たぶん、よそに行ったらこうはいかないよ」
「でも君なら、たとえ素材の質がいくらか落ちたところで何かしら上手い具合に調整ができるだろうよ。おれはそう思うぜ」
「・・・本当にそう思うのか?なら、食べ終わったらぜひ見て欲しいものがあるんだ」
 私たちは食後にアトリエに移動した。絵の具やイーゼル、キャンバスが雑然と、椅子までもが散らかっている様子が湖の冬の寒さをより強く感じさせる。


「まずはこの絵を見て欲しい」
私は1枚の油絵を取り出した。
「キャンバスいっぱいに広く、真夏の湖の姿を描いたんだ。ヨット遊びをする人、釣りをする人。湖からいただく恩恵を小さな身体にたくさん受ける。その喜び。この絵は名誉あるコンテストで大賞を受賞した。湖が、そしてこの町が幸せだった頃のその幸福感を捉えているとして。そして今でも数千万円の値がついている」


私はそこまで説明すると、元の保管場所に戻した。
「この絵は君にどう響く?」


ロクスケは少し間を置いて答えた。
「とても、とてもいい絵だ。失礼があったら聞き流して欲しいんだが、おれの書いた記事の中にもこの絵と同じような性質を持つものがある。目の前の、そこに確かにある事実を、それらの自然な本質を着色なしに書き切ることができた記事。そんな記事にはある種の輝きを感じるものなんだ。これまでの20数年間の記者人生でたった数度しかないんだが。そしてそれと同じものを、君の絵に見た」
ロクスケはこう話し終えた後、不思議と興奮している自分に気付いて驚き、その熱を覚ますようにワインを口に流した。
「どうもありがとう」
私は短く言葉を切った。


「ありがとう。本当に。今夜君に来てもらえて、そして自分の信頼する仕事人でもある君からそんな称賛の言葉をもらえて、おれは嬉しいよ。」
本当に嬉しいのか?なら、どうしてそんな寂しそうな表情でいるのだ?ロクスケは理仁の表情から真実を探り出そうとして、無意識に記者の目を向けていた。


「じゃあ次に、この絵を見てくれるか?ここ数年で描き上げたものだ」
私は部屋の中央に置いてあるイーゼルに掛けた白布を持ち上げ、ロクスケに絵を披露した。初めて他人に見せる。どこか知らないバーカウンター。バーテンダーと思しき男が1人、画面の端に半身で写っている。照明の影に隠れて、顔はよく分からない。ただ、性別は男だ。画面中央のカウンターには1個のカクテルグラス。中には赤い液体が入っている。鑑賞者の視線はそこに集中するように誘導されるが、その液体の放つ光の妖しさに目が眩む。


「君が今見ているその赤。それはおれの血液だ」
私は淡々と話した。
「おれはもう、人々を解放するような温かな作品を描くことができなくなった。さっき見せた湖の絵は、おれにとってはもう失われた光なんだ。もう2度と生まれ得ない。おれの中からは。おれの中にあった善き心、つまり創作の素材はどこか他所へ行ってしまった。最近はずっと、画商からこう言われているんだ。『君の絵はもう死んでいるよ。曇った空から時たま刺す細い光すら捉えることができなくなっている。私の経験上、そうなった画家はもうおしまいなんだよね。』あんまりだぜ?だからおれは、その時描いていた絵と一緒に死のうと思った。イーゼルに掛けた絵の背面から銃口を胸に向けて、引き金を引いた」


私はその当時を思い出すように、胸の辺りをさすっていた。ロクスケは、弾丸がイーゼルと紙を貫き破って理仁の身体に達した瞬間を、それが今まさに目の前で起こっている質感をもったイメージとして捉えていた。


「だけどな、未だにこうして生きちまってる。死ねなかったんだ。あまりにもひどい痛みで気を失った。そこをたまたま訪問して来た画商が助けてくれたと。なんて話だ、て君は思うだろう。おれも同じさ。苦痛に苦痛をべったり上塗りしただけだった。だけど、この絵が残ったんだよ。心中しようとしたこの絵ともう一度向き合い、筆を取った時何かが目覚めた。おれは今、この絵を感じてくれる人を探している。この絵を頼りにしている人がいるはずなんだ。おれがそうだったように」


ロクスケはいまや記者でもなく、友人でもなく、純粋な何者でもない存在としてそこに立っていた。

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