見出し画像

家事の価値

突然ですが、昨晩の我が家の食卓。

冷製カッペリーニガーリックシュリンプジャーマンポテト

それに、夫が翌日有休を取ったと言うので、赤ワインに成城石井で買ってきた4種のドライフルーツ入りクリームチーズあたりまえだのクラッカー

写真を撮るのが苦手で、かつ、私のiPhoneは古くてレンズが一つしかないので綺麗に撮れないこともあり画像は残しませんが、絵的にはかなりキラキラな夕食になりました。

こういったものをサラッと作れるのが主婦の強み。
味はもちろん、夫曰く、「家でこんなに美味しいのが食べられるんだから、本当にありがたい」。

娘が高校生の時に、当時付き合っていたボーイフレンドに、「ママが作るごはんが一番美味しい」と言ったら、「それ、買いかぶり過ぎじゃないの?」と言われたと憤慨していたことがある。

「それは多分、彼のお母さんは料理が得意じゃないのね」と言ったのだが、その人をよく知る友人からの情報で、「夜は子供たちに任せて居酒屋に飲みに行ってる」と聞いて納得。そういう主婦もいる。

だから何ですかって話なんだけど。

やっぱりね、家事はできないよりできた方がいい。
基本的な生活が豊かになるから。

深夜特急』で有名な沢木耕太郎さん、世界中を旅して多くの作品を生み出して来られた方だ。そんな沢木さんが、ある時、年長のジャーナリストに言われた。

あなたは不幸な人ですね。子供の一番いい時を見なかったのですね」と。

初めてのお子さんが生まれてすぐに海外に飛び、仕事が終わってもしばらく取材を続け、次にお子さんを見たのは三ヶ月後。驚くほど大きくなっていたという。それを伝えた時に返されたのが上記の言葉。

「一番いい時」を見逃している。そのことが沢木さんを動かした。
できる限り子供と過ごす時間が持てるように生活リズムを変えた。そればかりか、料理をし、洗濯をし、掃除をする。妻に「お嫁に出せる」と言われるほどに家事能力が上達した。それによって、ものすごく自信がついたと言う。

それは仕事が評価されるとか、収入が増えるとかいったこととは異なる、ただの人間としての本質的な自信がついたということを意味していた。日々の生活において、いざとなれば誰に頼らなくても一人で生きていくことができるという自信。それは何にも代えがたいものだった。

ベスト・エッセイ2022『愚かさが導いてくれた道』

世界を舞台に華やかに活躍し続ける沢木さんに生きる自信を与えたのは、仕事ではなく、家事だったのだ。家事ができるってすごいことなのだ。

朝ドラ『虎に翼』が、当初の展開からは予想外な方向(私的には)に向かっていて、「家事一切を引き受ける花江さん VS 家事を一切しない寅子」という構図になっている。「これが男だったら、家事を全て妻に任せても何も言われないのに」という声もあるように、未だに女性が背負うものは大きい。
寅ちゃんは女性だから、家事・育児をすることを当たり前に求められ、なおかつ働くとなったら、男性と同じように働かなければ認められない。前例のない法曹界での仕事だからなおのこと。

花江ちゃんが大変なのはもちろんだけど、寅ちゃんが吊るし上げのようにされたことに違和感を唱える人がいるのも納得できる。

家事・育児と、 仕事との間にある溝は深い。
寅ちゃんの働きぶりは、社会で話題になるほど評価されるのに、花江ちゃんの猪爪家内での働きには全く光が当たらない。寅ちゃんでさえ、その意義に無頓着だった。
これは、未だ多くの主婦が抱えるジレンマではないだろうか。

生活している以上、家事は全ての人についてまわるものなのに、それをする人と、しなくて済んでいる人がいること、なおかつ、家事に対する評価が妥当でないことが問題なのだ。

家事をせずに暮らせるなんて、例えどんなに社会で活躍して稼いでいても、人としては半人前、未熟だ。身の回りのことを親にやってもらっている子供と同じ。

もちろん、収入がなければ食べていけないわけだから、働かずに家事だけしている人は「子供」と言われても文句は言えない。

そうです、そうですとも。
私は養ってもらってるんです、とね。

そうなると、専業主婦と働く夫との組み合わせは、子供と子供の組み合わせということになるのか?
いやいやいやいやいや。

「働くのは当たり前」「家事をするのは当たり前」という前提に立って、自分のことを振り返ってみる。
私が結婚した頃は、DINKS(Double Income No Kids)なんていう言葉がクローズアップされ、何やらきらびやかでリッチな生き方が出てきたな、と思わせられる時代だった。女性の社会進出が一気に進んだ時代でもある。

それでもまだ「寿退社」が一般的で、就活の面接で「結婚したらどうしますか?」と聞かれたり、「自宅から通勤できる人」などというよくわからない条件がついていることも珍しくなかった。

私は「最低十年は働く」つもりで入社したのだが、あいにくストーカー気質の先輩がいて、その職場からは早く逃れたかった。今なら、パワハラだのモラハラだの言って、即人事にかけ合うことも可能なのだろうが。
不本意ではあったが、結婚退職して、以降は派遣社員として出産まで働いた。
出産後も契約は継続するつもりで、出産休暇の際も家に会社のパソコンを持ち帰るなどして備えていたのだが、いざ生まれたのが双子となると、もう仕事も、家事も育児もなんて無理だった。
自分がお風呂に入る時間すらないんだもの。

そうこうするうちに、身近に「子供を預けたくない」と強く思う出来事が起き、それ以降は社会復帰を探ることはなくなった。

子供たちが成長し、手を離れた頃には、遺伝性の難聴がかなり進行し、電話応対無理、接客無理・・など、どんな求人も二の足を踏んでしまい、そうまでして働きたいのか?と自問自答し続け、今に至る。
(もがいていた証拠?に、行政書士や宅建士の資格をとった)

情報(思考)を整理しよう。

家事とは、やらなければ生活の質が下がったり、健康状態や社会生活に少しずつ問題が出たりするのに、賃金が発生しない仕事、すべてのことを言います。

多くが自分自身や家族が快適で健康に生きるための手助けをすることで、しかし、賃金の発生する労働に比べて、軽視されやすい傾向があります。

近藤史恵『山の上の家事学校』

『山の上の家事学校』に出てくるこの記述と、先の沢木耕太郎さんのエッセイは、人生の半分以上を家事をすることで生きてきた私の心をとても楽にした。
家事は決して「働かない人」がしていることではない。
家事をする人は「働いていない」わけではない。
社会的な賃金は発生しないけれど、よく言われるのは、これを外注すると大変な費用になるということ。
つまり私は、夫から賃金をもらって、その対価として家事を提供している。
資本主義的に言えばそういうことだ。
そう言い切ってしまうのは味気ないけれど。
あくまで私は、夫が快適に仕事に専念できて、楽しくプライベートを過ごせたらいいなと思っているだけなので。

家事の価値は低くない。
むしろ高度だ。生活の基本に関わることなのだから。
望むと望まざると専業主婦になっている人たちが、もっと誇りをもって、専業主婦バッシングなどにめげず、家事を楽しんでくれるといいなと思う。
そして、本当は家事・育児に専念したいのだけど、環境が許さない、そんな人たちが報われるといいなと思う。

少し前に書いた、「時短で」「正社員で」「食べて行けて」「夕方子供に会える」そんな生活を望む人には、それが実現されること、そんな社会になって欲しい。

なんだか、また「なんのはなしですか」と言いたくなるほど、話があちこち飛んでしまった。
何が言いたかったんだろう???

ちなみに、今晩の食卓は、鰻のちらし寿司(玉子、きゅうり)、焼き茄子(生姜)、豆腐とみょうがの味噌汁の予定。

そうそう、基本的には「家事をしない」夫ですが、アイロンがけだけは、結婚以来、100%夫の仕事だ。(私のアイロンがけが雑だから)


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?