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摂食障害になった時のこと

今の私を構成することになったと思っているひとつの要因、
摂食障害になった時のことを
少し書きたいと思います。

高校3年生の時に、摂食障害になりました。
食べ過ぎる方ではなく、食べなくなる方です。
きっかけは、受験生になるので勉強ばかりの日々になり、
体を動かさなくなるだろうと、今以上に太らないように
食事を減らしてみたことでした。
まずは白米から量を減らしていきました。
そうしたら毎日ちょっとずつ体重が減っていき、楽しくなってしまって。

それから完全に白米を無くし、おかず中心の生活に。
おかずのうち、食べたら太ると思った肉は真っ先に止め、野菜だけは食べてOKにしました。
甘いものも禁止。果物はOKにしていた気がします。
このように、自分に数々の「禁止」を作っていきました。

学校がある日のお昼はお弁当だったのですが、母にお願いして白米は無しにしてもらっていました。
(母は特に気づかなかったみたいです)

お腹が減ると、勉強の合間等にガムを噛んでいました。
当時食べていたガムのカロリーは、一粒2kcal。
これならOKと、自分に許可していました。

食べ物以外でも、受験生だからと、大好きだったゲームや漫画も禁止しました。
思い返せば、当時通っていた高校の先生の
「あなたが1分でも遊んでいる間に、友達は英単語を一つ覚えている」
という言葉に、ずっと囚われ続けていました。

この言葉は、自分に甘い人には良い薬になったかもしれませんが、
私にはとても重く、辛く、今もなお
「人生の1分でも無駄にしてはいけない」のではないかと考えると
恐怖で震えます。

学校から、毎日何時間勉強したかも記録するように言われていました。
勉強中は傍にデジタル時計を置いていたのですが、
あと何分でお昼だ、あと何分で夕飯だ と
毎日毎日食べ物のことばかり考えるようになりました。
自分に許可したものを、唯一食べられる時間だったので。

痩せていたのでいつも寒くて、服を何枚も重ね着していました。
お尻の肉も無くなっていったせいか、硬い椅子に座ると痛かったです。

入試は真冬、当時はノロウィルスが流行っていたのですが、我が家は私以外全員かかってしまいました。
その頃は流石に母も私の異変に気づいており、私にかかったら死んでしまうと思って、必死に私にうつらないように気をつけてくれていたみたいです。

ピークは29kgだったと記憶しています。
体育で馬跳びをした時、クラスメイトが「軽すぎる」と驚いていました。
当時クラスで撮った写真が残っているのですが、痩せてるうえに目つきが悪くて、我ながら怖いです。

どうやって今の40kg代に戻ったかというと
最初はプリンでした。
病気だった頃は(今も治りきったとは思っていないのですが)
何かを食べたらその分太ると思っていました。
でも、そのプリンを食べても、すぐには体重が増えなかったのです。
大した運動をしなくても、人間には基礎代謝というものがあるおかげで
それを上回るカロリーを摂取しなければ体重は増えません。
(私は専門家ではありませんが、そうですよね?)

それで、「あ、これくらいなら食べても太らないんだ」
ということが分かり、
食べたいものをちょっとずつ食べられるようになりました。

因みに病院には一切行きませんでした。
美味しくもない点滴でカロリーを無理やり摂取させられることなど
私にとっては牢獄だったので、両親に
どうか病院には行かせないでほしいと懇願したのです。
(許してくれたので親には本当に感謝しています)

親には心配をかけ、豆腐だけでも食べてと言われて
涙を流しながら食べたりしました。
それを隣で見ている妹にも、本当に辛い思いをさせてしまったと思います。
謝りたい。

今、その頃の自分に言えたらいいなと思うのは
「好きなことは続けていいんだよ」
ということです。
ゲームだって漫画•絵を描くことだって、続けてたら将来へ続く道が開けたかもしれません。
今、色々な職場を経験してきて思うことは、
「好き」という気持ちが1番、前向きに働く原動力になるということです。
(今の仕事には、全然ときめいていません。
仕事については、また別のnoteに記そうと思っています。)

長くなりましたが、ここまで読んでいただきありがとうございました。
もしあなたが、美味しく食べ物を食べられなくなっているのだとしたら、
今日この記事で
私みたいな人がいることを知ってくれて嬉しいです。
好きなものを食べていいし、
好きなことをしてもいいのです。
寧ろあなたの「好き」の延長に
あなただけの道があると思います。
「好き」を殺さなくて大丈夫です。

私みたいな誰かに、この記事が届きますように。

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