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結局、明智光秀は何年生まれなのか

 ドラマなどで本能寺の変が描かれるとき、明智光秀は織田信長より年上の、中年~初老の男性として登場することが多い。

 しかし、実は光秀の正確な年齢はいまだにはっきりとしていない。

光秀の年齢の根拠はあいまい


 世間に最も知られている明智光秀の生年は、享禄元(1528)年で、本能寺の変のときは55歳となる。この説の根拠は、江戸時代の元禄年間(1688~1704)に成立した軍記物『明智軍記』に載っている、光秀の辞世の句である。

 逆順無二門 大道徹心源(逆順二門無し 大道心源に徹す)
 五十五年夢 覚来帰一元(五十五年の夢 覚え来りて一元に帰す)

 この句中の「五十五年」を根拠に「光秀の享年は55歳」、生年は逆算して「享禄元年」ということになったのである。しかしながら、『明智軍記』は光秀の時代から100年以上もたってからの成立だ。誤伝や創作も多く、史料的価値はあまり高くないとされている。辞世の句も後世の創作である可能性が高く、「享年55歳」の根拠としては頼りない。

光秀は12年も年上だった?

 近年、戦国史研究家の谷口克広氏の唱えた説が注目されている。安土桃山~江戸初期の政治・社会状況を記録した『当代記』によれば、「(六月)十三日に相果て、跡方なく散る。時に明知歳六十七」などの記述があるのだ。没年が67歳ならば、生年は逆算して永正13(1516)年となる。従来説よりもかなり年上ということになる。
 『当代記』の編纂者は不明だが、姫路藩主松平忠明ともいわれる。江戸初期の寛永年間(1624~44)の成立で、光秀の時代とも近い。
 『明智軍記』は軍記物語であり、読み物として面白く書かれている。一方、『当代記』は藩主が公式事業としてつくらせた歴史書なので、後者の方が信頼できそうではある。

こうして、明智光秀の生年は永正13年で決着がついた――わけではない。

光秀の生年の真相はわからない

 戦国時代の中国地方を描いた『陰徳記』という書物がある。毛利家臣・吉川氏の家老である香川正矩の手による。成立年代は未詳だが、作者が没する万治3(1660)年以前である。正矩の没後、息子が補完して『陰徳太平記』という軍記物語になった。『明智軍記』よりは時代が近く、鵜吞みにはできないものの興味深い記述もある史料だ。
 その『陰徳記』には、「光秀は子の歳にして、信長に六つの年増なり」とあり、この場合は享禄元年説となる。


 享禄元年説・永正13年説に共通するのは「子年」ということだ。もしかすると、当時は「光秀は子年生まれ」という共通認識があったのかもしれない。『当代記』や『陰徳記』の著者は、「光秀は子年生まれだった」と聞いていたため、逆算して「享禄元年生まれ」または「永正13年生まれ」と結論付けたのかもしれない。そう考えると、どちらの説が妥当かは判断しにくい。
 享禄元年説(享年55歳)・永正13年説(享年67歳)のいずれにせよ、根拠は後世の史料によるしかない。今後のさらなる検証が待たれる。


(本記事は、筆者が「信長と本能寺の変 謎99」(イースト新書Q)に寄稿した文章をもとにしています)

参考文献:小和田哲男「明智光秀・秀光」ミネルヴァ書房
乃至政彦「信長を操り、見限った男 光秀」河出書房新社

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