見出し画像

戦国大名の結婚事情~存在感のあった「公家の娘」

 駿河の戦国大名・今川氏親(いまがわうじちか)の正室だった寿桂尼(じゅけいに、写真)は、晩年病気がちとなった氏親の政務を補佐し、夫の死後も3代にわたって当主を後見した。有能な「女戦国大名」との評価が高く、氏親の死の直前に制定された分国法・今川仮名目録(いまがわかなもくろく)の制定に携わったという説もある。こうした女傑のイメージからは以外に思えることだが、寿桂尼は公家の娘である。

公家の娘はなぜ降嫁したか

 寿桂尼の父・中御門宣胤(なかみかどのぶたね)は、藤原北家勧修寺流という名門貴族である。応仁の乱以来、朝廷の儀式が衰退したことを憂えた宣胤は、当代最高の知識人であった一条兼良の教えをこい、若い公卿らに有職故実の指導をして朝廷儀式の復興をはかった。宣胤自身もまた、書や和歌に巧みな優れた知識人であった。


 公家の娘が戦国大名に嫁ぐメリットとしては、何があったのか。氏親から宣胤に金品が贈られたという記録があることから、窮乏していた公家にとって、地方の有力大名からの援助はありがたいものだっただろう。宣胤も返礼として古典文学の書写を贈っており、大名の側も都の文化に触れられるメリットがあったといえる。

 また、公家にとっては都が危険になったときの避難先を確保しておくという意味もあった。事実、宣胤の子宣秀ら中御門家の人々は駿河を訪れ、盛大なもてなしを受けている。大名としても、名門貴族の娘が嫁いでくるのは名誉なことであり、朝廷とのつながりができるのも歓迎すべきことだった。

乱世ゆえに不幸になった女性も……

 だが、政略結婚の道具となった公家の娘たちは、必ずしも幸福な生を送れるとは限らなかった。武田信玄の正室・三条の方は、太政大臣も輩出した家格である三条公頼(さんじょうきんより)の次女である。三条の方自身は公家の娘として丁重に扱われたようだが、信玄との間に生まれた子供たちは幸福には恵まれなかった。

 長男の義信は謀反の疑いをかけられて自害させられ、北条氏政に嫁いだ長女の黄梅院は、北条氏との同盟の破綻によって離縁され、夭折した。なお、父の三条公頼は、1551(天文20)年の周防国下向中、大内義隆に対する陶晴賢(すえはるかた)の謀反に巻き込まれ、他の公卿とともに殺されている。各地の戦国大名と婚姻関係などのつながりを作っても、武力を持たない公家は実際の暴力の前には無力だったのだ。


 菊亭晴季の娘・一の台も悲劇的なケースである。晴季は、豊臣政権とのつながりを深めるために豊臣秀次に娘を嫁がせる。しかし1595(文禄4)年、秀次は謀反の疑いから自刃させられ、一の台を含む妻子も皆殺しにされた。秀次の義父に当たる晴季も連座し、越後国に配流となる。晴季にとっては大きな誤算であった。晴季自身は翌年赦免され、秀吉の死後従一位への復帰を果たしている。

(※本稿は、「最新研究が教えてくれる! あなたの知らない戦国史」(辰巳出版)に寄稿した内容をもとにしています)


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?