見出し画像

地震が天下人の運命を変えた?

(※本稿は、「マンガでわかる 災害の日本史」(池田書店)に寄稿した文章をもとにしています)

 歴史の教科書ではほとんど触れられないが、大災害はしばしば歴史の流れを変えている。天下人となって戦国乱世を終わらせた豊臣秀吉は、地震に運命を狂わされた人物だ。

天正地震と秀吉の誤算

 天正地震の起きた天正13(1585)年11月、豊臣秀吉は徳川家康との戦いの最中だった(小牧・長久手の戦い)。前年に長久手の戦いで家康に敗れていたが、10万もの大軍を集めて態勢を整え、徳川攻めを計画していたのである。対する家康の兵力は4万強で、秀吉が出陣すれば家康の滅亡もあり得た。その矢先に天正地震が発生し、秀吉方の大垣城(岐阜県)や長浜城(滋賀県)が被災。総攻撃は中止となり、秀吉と家康の間に講和が成立した。

慶長伏見地震で最も得をしたのは?

 秀吉が天下を統一した後の慶長元(1596)年には、近畿地方を大地震が襲った(慶長伏見地震)。秀吉の居城だった京都の伏見城も倒壊し、秀吉は危うく逃れている。この当時、秀吉は最初の朝鮮出兵(文禄の役)を行ったばかりで、大名たちに大きな負担がかかっていた。そこを地震が襲ったが、ここで秀吉は対応を誤る。倒壊した伏見城をさらに豪華に再建するよう命じたうえ、2回目の朝鮮出兵(慶長の役)にも踏み切ったのだ。地震の打撃からまだ立ち直っていない大名や庶民たちが不満を持つのは当然だった。


 人々の心が豊臣家から離れたのを大いに利用した形になったのが、徳川家康だった。秀吉死後の慶長5(1600)年、家康は関ヶ原の戦いで勝利し、天下を豊臣家から奪い取った。天正地震で命拾いし、慶長伏見地震で天下に近づいた家康。秀吉とは対照的に、家康は災害に助けられて天下を取ったのである。

(参考文献:磯田道史「天災から日本史を読みなおす」中公新書)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?