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植物的生活ー僕のボタニカル・ライフー

アトリエやお庭の植物の写真・映像を撮り始めてからしばらく経ったけど、自然の命の美しさと、尽きない不思議にむしろどんどんのめり込んでいる…。

なんでみんなこんなにも違っていながらとても一部では似ていて、美しいくらいにシンプルな構造のようで実はすっごく複雑で、毎日少しずつ変わりながらも季節を巡って変わらないリズムを続けているんだろう。


植物は動かない。

いつからか何故か、漠然とそう思っていた。

でもある日に突然、本当は彼らは毎日動いていて、そのことに気付いていなかっただけだったんだと発見して、感動するということがあった。

僕は度々、頭を打った時なのか、社会に揉みくちゃにされた際の処世術なのか、とても当たり前のことをすっかり忘れていることがあって、本当は後から思い出しただけの事実に関して「大発見だ!!」なんて叫んで勝手に一人で騒いでいたりすることがある。

今回でいうところのそれが、「植物は動いている!!」なんていう、馬鹿げたことなんだけど。

傍目に見ればすごく愚かなわけだが、忘れていたことを思い出して勝手にキャッキャと喜んでいるわけだから、すごく平和だと思う。

そしてそれに近いような愚かさはみんなの中にも割とあるはずだと信じることで、僕自身の情けなさを肯定して安心しようとするのもまた僕の習性だ。


それにしてもなぜ、動いていないようにさえ見えるほどにゆっくりな彼らと生きていると、動きを留めずに変化し続けて生きていくということをむしろ強く意識させられるんだろう。

細胞は生死を繰り返し、いずれは老いて、死んでいくこの自分という個体。

死という静寂に抗うために、絶えず新陳代謝させて体を新しく作り変え、なんとか生きながらえている僕たち。

植物のようにどうせ僕たちもいつかは死んで、次なる自然の命たちに栄養を贈ることになるわけだ。

以前は、内面的な部分において自分がすっかり変わってしまうということがとても怖かった。

いや本当は今でも怖いし、時々すごく不安になる。

そんな不安を解消するために、みんなにとって分かりやすいラベルやカテゴリを自らに課してみたりしたけれど、その度に窮屈になっていき、苦しくなった。

みんなにとって分かりやすいラベルをおでこに貼ってみることは、他者への優しさや社会的意義みたいなものを盾にして、根本にある不安からその場しのぎ的に逃避していただけだったということが、今ならわかる。

植物と生きていると、安心して変化を続けながら生きていていいんだと思わせてくれる。

そう、だったら生きているうちは自然の命から、もう本当に受け取れる限りの命の恵みを感謝して受け取って、刻一刻と変化しながら、この一瞬一瞬を愛しんでいようと思う。

そして受け取ったその恵みと、耐えない変化を思い切り表現しながら生きてみることが僕の役割なのかもしれない。

僕もまた植物のように、素直な心のままに生きることを通して、誰かに自然の祝福を贈ることができるんだ。


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