友達と知り合いの間は?

 市民活動分野では著名な方が(あくまでもご自分で)市民活動やNPOを説明したり、マネジメントに関する講座をする際、使わないようにしているワードというのをご紹介いただいたことがある。
 20くらいのワードの中には「共生」や「コミュニティ」も出ていた。そう日本でいま「地域」も含めてこれらの言葉はとても危ない域にいる。

コミュニティというとどうしても、「地域を意識する」その場合は「地域」も「コミュニティ」もイデオロギーだ。ローカルまたはエリアでの紐帯を意味するときは政治的な意味を帯びる。日本的な自治体、自治組織、互助的組織という意味になってしまう。
こういった議論は、従前はテンニースの
【ゲマインシャフト(共同社会)】
自然な「本質意志」にもとづき、結合を本質とする基礎的集団。家族・友人仲間・近隣などを例とし、成員は感情的・全人格的に融合する。前近代的な社会類型。
【ゲゼルシャフト(利益社会)】
人為的な「選択意志」にもとづき、分離を本質とする機能的集団。企業・大都市などを例とし、利害・打算で行為する。近代的な社会類型。ゲマインシャフト(共同社会)の対概念
の古典的な社会集団の二分を思い起こさせる。
 しかし、いまや家族すら変容しているし、「コミュニティ」もいろいろな形で使われている。
 こんな興味深い記事にであった。

記事の柱は、タイトルどおりにメーカーの商品開発のためにオンライン上に「コミュニティ(つながり、紐帯)」をつくり、という話だが、そこでドイツのスポーツクラブの話がでてくる。
 ドイツのスポーツクラブの話は実はなかなかに難しい。これこそ文化の違いというところがある。サッカーのクラブを例に出して紹介されることも多いが「街(地域)」をベースにして、○○をあげて応援するという言われ方をする。これはアメリカのアメリカンフットボールでもそうだ。街の誇りとか言われるが、おそらく彼らのニュアンスと私たちのニュアンスは違うようだ。もっといろいろな面での「参加」がキーになっているようだ(財、労働、意識、そして「コミュニティ」など)。
 この文の中には、ドイツでの友達と知り合いの差(呼び名すら)がでてくる。そして、その間にスポーツクラブに参加しているものどおしの友達に近いつながりの関係、日本語にしたら仲間とでもいうのだろうか。SNSが浸透し、人間関係の取り方がかわり、私たちにも似たような人間関係の変化が現れてきているように思う。
 友達(友人)と人にはいいつつほぼそれほどの関係の人はおらず、知り合いはSNSなどでも増えている人も多いだろう。その間にある人間関係。それを果たして「コミュニティ」とよぶのか?日本では違和感がある。ではなんと表現されていくのだろうか。それとも日本は日本文化の中で、そうは整理されないのだろうか。

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