共生と分断

ちょっと、分断ってことばが出てきすぎなような気がする。
共生いうことばが本来の意味とは違い、どんどんと相利共生、つまり、お互いの利益になるようにというふわっとした形で、派生していっているためなのだろうか。


共生 
相利共生(そうり - ) … 双方の生物種がこの関係で利益を得る場合
片利共生(へんり - ) … 片方のみが利益を得る場合
片害共生(へんがい - ) … 片方のみが害を被る場合
寄生(きせい) … 片方のみが利益を得、相手方が害を被る場合

なんとなく、共に生きることって言っているだけでは実はなかなか、共生を考えることは難しい。そもそもが「違うものであるという前提に立っている」わけで、社会科学の分野でもその前提を踏まえずに言うことはかなり危険だ。念のため、違うことが悪いといっているわけではなく、違いを違いとしてわかっていることが前提で共生を考えることが必要だといっている。
 なので、最近の「分断」の使われ方には、眉をしかめたくなることがしばしばある。共生を前提にした分断とでもいおうか、みなが同じであることを前提にして、対立が起これば、それを分断といっているような気がする。だいたい、対立でいいではないか。なにも分断といった、「集団を色分けする」という意味あいを強く持つことばをあえて使う必要性があるのだろうか。
 そのことは、逆にいまの社会が清廉で道徳的な秩序が前提の強い健康同調社会であることを示しているようにも思える。秩序は強制されるだけで、みな、それに従っているふりをしている。生きづらさは我慢しているあけであり、その健康社会に適応できなければ「病者」のラベリングが待っている。
そうして、道徳的な秩序は守られている。異なる意見を述べ、異なる行動を述べることは対立になる。当然だ。しかし、それを分断という。
 対立と分断
 対立は2つのものが違う意見、反対の意見をもつこと
 分断はもともと1つのものが2つにわかれること
ほら、分断はもともと1つだったわけでしょ?そんなはずはないと、いいたくなる場面で使われているように思えてしかたがない。
ふわっとした共生のあとに分断。それこそ、そのことばを選び使われていることに意図を強く感じている。

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