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映画『アヒルと鴨のコインロッカー』 | どこの国で生まれたかなんてアヒルと鴨の違いくらい些細なことだと知る

『アヒルと鴨のコインロッカー』(2007)を映画館で観た日のことを今でもよく覚えています。

エンドロールで泣きながらボブ•ディランの「風に吹かれて」を聴き、曲が終わって館内が明るくなっても涙が止まらず、私は1人で映画館のトイレに駆け込みました。

あんなにも涙が止まらなかったのは、映画を見て改めて、自分の中に「日本人」とそれ以外の「外国人」を強く意識している部分があると気付かされたからだと思います。


伊坂幸太郎は大好きなので、もちろん原作は読んでいました。伊坂幸太郎の本の中でも好きな本ですし、映画も楽しみにしていました。
ただ原作には小説ならではの仕掛けがあり、それをどんな風に映画化するかの方に注目していた気もします。

あらすじはこちら。

大学入学のために単身仙台に引っ越してきた19歳の椎名(濱田岳)はアパートに引っ越してきたその日、奇妙な隣人・河崎(瑛太)に出会う。彼は初対面だというのにいきなり「一緒に本屋を襲わないか」と持ちかけてきた。彼の標的はたった一冊の広辞苑。そして彼は2年前に起こった、彼の元カノの琴美(関めぐみ)とブータン人留学生と美人ペットショップ店長・麗子(大塚寧々)にまつわる出来事を語りだす。過去の物語と現在の物語が交錯する中、すべてが明らかになった時、椎名が見たおかしくて切ない真実とは……。

この映画の瑛太、めちゃくちゃいいです!
というか、瑛太以外で河崎を演じられた人がいたのかな、というくらいの存在。その見た目と演技力があってこそ、この映画が成り立ったと言っても過言ではないと思います。背も高いしイケメンなのに、何故か普通っぽい人も似合うし、そう見える。何ならもっさい感じもできるし、バチバチに決めてイケメンオーラを出すこともできる。

そのほか、濱田岳のオロオロしながらどんどん物語に巻き込まれていく様子と圧倒的な部外者感、関めぐみの稀有な優しさと悲しいくらいの正義感、大塚寧々のドライな雰囲気と言葉がわからなくても困ってる外国人のために動く行動力とその理由。そしてあらすじに名前が出てこない松田龍平が登場した時に全てが納得できるほどの存在感。
それらが奇跡的に組み合わさったことで、伊坂幸太郎の実写化不可と言われた傑作ミステリを映画化できています。


物語は過去と現在が交差し、悲しい結末に向かっていくのですが、物語のテーマにあるのがまさにタイトルにもある「アヒル」と「鴨」です。

(ドルジ)アヒルと鴨、どう違いますか?
(琴美)アヒルは外国から来たやつで、鴨はもとから日本にいるやつ?わかんないけど。
(ドルジ)僕と琴美はアヒルと鴨ですね


小説を読んだ時も、そんなことで呼び名を変えてるのかと思いましたし、ブータン人のドルジが日本で辛い思いをしている様子を読んで、冷たい態度を取る人たちに苛立ちもありました。

けれどそれが映画になり、どこの国の人かもわからない人がバスに乗ろうとして困っているシーンで周囲が困惑していたり冷めた視線を送っているのを見て、私がここにいても同じだろうと気づいてしまったのです。


何の言語かもわからない、英語だって私は話せない。例え話しかけたって、私じゃ何の役にも立てない。
そんな言い訳を並べて、誰か助けてあげられる人いないかな、なんて思いながら、私は通り過ぎるだろうと、わかってしまいました。
私は、言葉がわからなくても助けようと話しかけた大塚寧々ではなく、彼らを無視して自分の予定や仕事を優先させたその他の人たちだし、そういうその他大勢のような人たちが、遠い国から日本にやってきたドルジの心を傷つけ、この国に溶け込ませなかったのだろうと思います。

挙句、ドルジは警察に助けを求めても流暢な日本語を話せないだけで「外国人?」と言われ、話半分にしか聞いてもらえず、その悲劇は起こってしまいました。


……ドルジ、ごめんね。
困っているあなたを助けられなくてごめん。外国人だからと排他的な態度を取る人ばかりでごめん。あなたに寄り添ってくれた優しい人たちを守れなくてごめん。
そして私も、その1人でごめん。


会社の同期にお父さんがアメリカ人でお母さんが日本人のハーフの男性がいます。
最初の配属先が同じだったので仲良くなって、他の同期も含めてよく一緒に遊びに行きました。
ある観光スポットに行った時、彼が「これってどこに持っていけばいいんですか?」とお店の人に声をかけました。100%の日本語で話しかけた(というより彼は英語話せません)にもかかわらず、声をかけられた人はパニックになってしまい、一生懸命英語で何か答えようとしていて、私も彼も「日本語で大丈夫ですよ」と顔を見合わせて笑いました。
2人でめちゃくちゃ笑ったんですけど、その時に「なんか自分は何者なんだって気になるよね」と笑った彼の表情が心の中にずっと残っています。

日本で生まれて日本で育ち、日本語を話すのに外国人だと思われてしまう。見た目が少し違うだけで、「外国人」だと思われてしまう。

私も含めて彼の周りの人たちはみんな、いつも穏やかで優しい彼のことが好きだったし、私の知る限り日常的には嫌な思いをすることはなかったと思います。
ただ、彼の「なんか自分は何者なんだって気になるよね」と笑った顔を思い出すと、私たちにはわからなかった「疎外感」のようなものはずっとあったのかもしれないと、なんだか居た堪れないような、どうしようもない気持ちになります。


映画でもドルジに対して私たちは「外国人だ」と判断します。
ですが不思議なことに、日本語を完璧に話し、日本人を真似た服装をしたドルジに対しては「日本人だ」と疑わないのです。

中身は同じなのに、見た目と話す言葉で「外国人」と「日本人」と分けて判断しているなんて、奇妙で、滑稽で、そして、そんなもので彼の大切なものを奪ってしまったと思うと、本当に悲しい。


「アヒル」とか「鴨」とか違う名前で呼んでしまうけれど、私たちはみんなただの「duck」だと思うと、どこの国で生まれてどこの国で育ったかなんて、それはとても些細で、何わざわざ別の呼び名つけてんだと文句を言いたくなるくらいどうでもいいことに思えます。


その国の言葉が話せなくても今は言語アプリもありますし、ジェスチャーも使えば、絶対どうにもならないなんてことはないはずなんです。
困っている人に声をかけられた時、私たちは助けることができる。

どうにもならないなんてことはないんだよ、
線を引くなよ、
怖がるなよ、
英語が話せないお前が変な英語で答えてたって誰もバカになんてしない、
日本語でもゆっくり話せば伝わるかもしれない、
出川哲朗だって英語ほとんど話せなくても、海外で楽しそうにコミュニケーション取ってるじゃないか!

そう自分に喝を入れたくなります。


どうしようもないほどの切なさと残酷さがありながらも、何故か爽やかさも同時に残る『アヒルと鴨のコインロッカー』。

『アヒルと鴨のコインロッカー』を見て、
今だったら絶対こんなこと起こらないのに!
と早く自信をもって言える日がすぐそこにありますように。


おしまい。

この映画が好きすぎて、昔 仙台でロケ地巡りをしました。
仙台駅のロッカー前で満面の笑みで写真を撮っている女を見たことがある方、もしかしたら私かもしれません。


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