心はどこにあるの?『ソードアートオンライン(SAO)』で心身論を考える
あなたはソードアートオンラインに描かれるようなVR世界で、人生を豊かに過ごすことができると思いますか?
こんにちは。ソードアートオンライン三期、放送延期になってしまって泣きそうです。でも、2020年7月期のアニメは超名作ぞろいでめちゃくちゃ楽しみです。
はじめに
題名にも書いていますが、私は名作と呼ばれる作品の多くには哲学的な問いが隠されていると思います。今回はその第一弾として『ソードアートオンライン』(長いとめんどくさいのでこれからはSAOと書かせてください)を取り上げます。
SAOの中でしばしば取り上げられる問題は彼らが戦う世界、つまり現実とは真逆に描かれる「非現実の世界」「VRMMOの世界」「アンダーワールド」というのは、現実世界とどのような関係なのか。そして、何が現実なのか。現実とは何か。
今回は、SAOにおける現実とは何かということについて、心身論という視点から考えてみようと思います!
まずは、SAO良く知らない!という人のためにめっちゃ簡単に内容を説明すると、バーチャル世界の中で、命を懸けて戦い、友達を作り、愛情を育むという物語です(SAOに詳しい人、こんな簡易な説明ですが怒らないでくださいね、、、)。もっと知りたい人は本作、見てみてください!絶対後悔はしません!!くそ面白いです!!!!!!
ネットゲーマーについて
皆さんはネットゲームに夢中になっている人を見て何を思いますか?
まあ、ネガティブな感情を抱く人が大半だと思います。
なぜか。その理由はきっと、現実から逃げているように感じられるからではないでしょうか。
現実でキャリアを積むことを諦めて、ネットの世界に逃げて、現実を見ないようにしている。過去の僕を含め多くの人はネットゲーマーをこんな風に思っているでしょう。
ここでいうネットゲーマーには、SAOの登場人物のほとんどが含まれます。
現在のネットゲーマーと、SAOの登場人物は、現実とバーチャルの比率に関して、バーチャルにかける比率が大きいという点が共通点です。
次に、少し長めのセリフを見てください。
私は知ってる。私は信じてる。現実はここにあるって。この世界と、ここにつながっているたくさんの仮想世界は絶対に虚構の逃げ場所なんかじゃない。私にとっては本当の生活と本当の友達と本当の出会いや別れや、笑顔や涙がある現実なの。みんなもそうでしょう。この世界が、もう一つの現実だって信じてるから頑張れるんでしょう。なのにこれはただのゲームなんだって、これはバーチャル私の偽物なんだって切り捨てたら、じゃあ、私たちの本当はどこにあるの!?
これはSAOのあるシーンで出てくるセリフの一部を抜き取ったものです。
私はSAOをみて、バーチャルの可能性を信じたくなったし、少なくともただのゲームで終わるものではないと感じました。
SAOを見たことある人ならば、バーチャル世界でも豊かに過ごすことができると信じているのではないでしょうか。
私が思うに、「バーチャル世界で豊かに暮らすことができるか」についてYESと答えようとするとき、数百年もの間議論が交わされた哲学の問題にある種の答えを出す必要があるのだと思います。
それが、心身論です。
逆に言うと、心身論に答えを出さないと、バーチャル空間の繁栄はないとも言えます。
では、心身論とはどんなものなのでしょうか。なるたけやさしく説明しようと思います。
(ここだけの話、こういう話が嫌いな人は読み飛ばしてしまっても大丈夫ですよ)
心身論とは
一言でいうと、心と体は一緒のものである(心身一元論)であるか、心と体は別物であるか(心身二元論)、どちらであるかという問いです。
例を挙げて説明しますね。
例えば、心身一元論の立場からすると臓器移植には反対します。なぜなら、心と体は一つのものであり、片方が失われればそれは人間ではなくなってしまうからです。この例でいうと、命があったとしても臓器(体)が完全でなければ人間でなくなるのです。体が完全でなければもうそれは自分ではないのです。
しかしこれが心身二元論の立場になると、臓器移植には賛成します。なぜなら、体は心の入れ物に過ぎないからです。入れ物を修理したって本体は何も変わりませんよね。だから臓器移植に賛成なんです。
では問題。エジプトのミイラは、どちらの立場に立って作られているのでしょうか?
正解は、、、
心身二元論です!体は入れ物に過ぎず、心は生きている。いつか心がここに帰ってくるかもしれないから、入れ物は大切に保管しておくんです。エジプトには死者の書がありましたよね。体は現実世界にあり、魂は死者の世界に行くというのはまさに二元論的な考え方ですね!
逆に火葬は心身一元論の立場です。命がなくなってしまったのならば、体ももう必要ない。心のない体はもはや人間ではないですから、焼いてしまっても大丈夫なんです。
これは補足になりますが、現在では心身一元論が圧倒的優位です。脳科学により、心は脳にあると考える立場が強くなっています。
まあ、心が外側にあるということは科学的には全く証明できず、つまり心が体の外側にあると主張するということは現在の科学を否定することになるので、そんな事なかなか言えませんよね、、、
さあ、基本知識がそろってきました!そろそろ皆様お待ちかねのSAOの話に入っていきます!
SAO世界と心身問題。心身一元論
まず皆さんが疑問に思うところはこれではないでしょうか。
「SAOと心身問題に、なんのかんけいがあるんだ!!?」
まずはそこから説明します。
VRの中で生活するとき、意識はVRに、体は現実世界にあります。
これは、心はVRに、体は現実世界にあるといいかえることができます。(段々と心身問題に近づいてきました!)
このVRと現実世界の関係を、心身一元論の立場から見てみると、どうなるでしょう?
心身一元論の立場は、心と体は一緒でないと人間ではないとします。ということは、VRの世界と現実の世界を切り離して考えることはできません。VRとは、現実を拡張した世界であるという思想から抜け出すことはできないのです。
つまり、VRと現実世界の主従関係が覆ることは、決してないのです。
心身一元論者は、「VR世界の中で人生を豊かに生きることができるか」について、NOと答えるでしょう。現実世界に従属しているVR世界で、現実世界より豊かに生きることなどできないと考えます。
上にも書きましたが、今の世の中では心身一元論者が圧倒的優勢です。ですから、VRに否定的な意見を持つ人が多いのも、心身論の観点から説明できます。
いやしかしSAOサバイバー(?)としてはVRの良さを伝えなければ!
よし!ここから気合を入れて、心身二元論の話をしようと思います!
SAO世界と心身問題。心身二元論
「我おもう、故に我あり」でよく知られるデカルトは、心身二元論を支持する人の代表として挙げられることが多いです。
デカルトは人間の体を含む物体は機械みたいなもので(これは機械論ってやつ)、決められたことしかできないと考えていました。
机からスマホを落とすと、物理法則に従って決められたルートで落ちていきます。人間の体もそれと同じで生まれてきたときから死ぬまで、まるで机からスマホが落ちるように、物理法則によって決めれられたルートを歩むのだと考えます。
しかし、これでは自由が全くない!生まれた瞬間から、もっと言えばこの世界ができた瞬間から僕の人生は物理法則によってきめられていたなんて信じられない!だって僕らはかんがえて、自分で決めて、行動するじゃないか!
デカルトも同じことを考えたんだと思います(私の妄想)。
だから、自由を、物体ではない「心」に求めました。
心は体と別物であるから物理法則と関係なく自由に考え、決定することができる。そう考え、デカルトは心身二元論を考えました。
心身二元論の立場をとると、VRというのはどこまでも自由です。VR世界というのは現実世界には存在しない、まさに「心」の世界。特にSAO世界というのはほとんど物理法則に縛られることなく、「本物の自由」を手に入れられる場所なのです。
このように考えるので、心身二元論からすると、VR世界はみんなが望んだ「ユートピア」でもあるわけです。
立場の違いで、意見は全く違うものになるんです!
上のほうでも書きましたが、現在は脳科学の発展もあり、心身一元論が圧倒的優勢です(皆さん、こころは体の外側にあって、脳みそはその外側にある心と体をつなぐ役目をしていると言ったら信じますか???大多数の人は信じませんよね、、、)。心と体が別のものであるとしてVR世界を肯定するのはかなり難しいと思います。
しかし、筆者はもちろんSAOのファンであり、どうしてもSAO世界を、心身論の観点からも肯定したいのです!!
そこでいろいろ資料を探した結果、ある考えにたどり着きました。
「拡張した心」という考え方です。
SAO世界と心身問題。拡張した心
拡張した心とは、心身問題の根本である「心はどこにあるか」に対する考え方で、比較的新しい考え方です。
例えば数学のテストを受けるとき、暗算だけで解答する人はあまりいませんよね。ほとんどの人は問題用紙の空いたスペースなどに筆算などの計算の過程をメモしますよね。これが、心を拡張させた、ということです。
脳で考えていたことを、外部に出力する。計算を書いた紙は、脳が行った計算の延長線上にあると言えそうじゃないですか?
そうです。つまり、その計算を書いた紙こそが「拡張した心」なのです。
もう少し踏み込んでみます。
例えば私が「売れる新製品を考えなさい」と上司から言われたとします。その時私は何も行動せず、ただそれについて考えただけでは「考えた」とは言えないと思います(屁理屈は言わないで!)。
試供品を配ってみたり、競合他社の調査をしてみたり、いろいろな行動を通して得られるものこそ「考える」ということなのではないでしょうか!
行動せず、心だけで完結するものってあるんでしょうか。
きっと行動して、何か外側から刺激やら影響やらをを受けて、心で考えて、行動して、という繰り返しこそ、人間の心が行うことなんです。
少し複雑な話をしてしまいましたが、つまり、道具とか、行動とか、そういうものまでひっくるめて「拡張した心」ということができるんです。
近くにあるメモ帳、スマホ、パソコン、言語や行動までもが私たちの「拡張した心」の範囲内なのです。そんなのありえない!!という人にはこう言ってあげましょう。
「あなたはスマホやパソコンなしに調べ物ができますか?言葉なしにコミュニケーションをとれますか?これらの道具は、あなたの心が何かを考え、感じるために絶対に必要な道具です。あなたの心はこれらの道具がないと動作しないと考えると、その道具も心の一部とみて何がいけないのですか?」
これをSAO世界に例えてみると、SAO世界というのは、茅場をはじめとしてキリト、アスナなど、みんなの「拡張した心」が重なった場所なんです。
現実世界ではただ寝ているだけに見えるSAOプレイヤーも、拡張した心の世界で行動しているんです。現実世界でメモ用紙に計算すること、言葉や文字を使ってコミュニケーションをとるのとまったく同じようにSAO世界でコミュニケーションをとり、友達を作り、恋をするんです。
違いはありません。どちらも「拡張した心」の中で行われていることです。
このように考えると、SAOプレイヤーも、ネットゲーマーも、部活をやっている高校生も、本を読んでいる人も、みんな同じフィールドにいるんです!区別することはできません!!!
結論
今回は心身論について、「心身一元論」、「心身二元論」、「拡張した心」という三つの視点から書いてみました。
結論を書いてみると、一元論ではSAO世界を含むVR世界を現実の下位互換として、二元論では上位互換として、拡張した心では同等のものとして扱うということです。
また、心身一元論という圧倒的優勢を誇る立場からSAO世界を否定するのに抵抗するために心身二元論を用いようとしたが、あまりにも科学的ではない。そこで、拡張した心という考え方を使えば、SAO世界を肯定できますね、というのが話の筋でした。
まとめ
何とか心身論の立場からSAO世界を肯定することに成功したと言いたいです(言ってほしいです)。
わたしは名作と呼ばれる作品の多くには哲学的な問いが隠されているという仮説を持っています。
哲学的な問いは答えがありません。だから考えさせられます。それがいわゆる作品の余韻につながるのだろうと思っています。
「あなたはソードアートオンラインに描かれるようなバーチャル世界で、人生を豊かに過ごすことができると思いますか?」
これは最初に私が掲げた質問です。心身論は、この答えのない問いについて考える一つの方法に過ぎません。
この文章をきっかけとして、ソードアートオンラインについて、アニメについて、哲学について1人でも考えてくださる方がいらっしゃったら本当に嬉しいです。
こんなに長い文章を読んでくださった方々にか感謝しかありません。本当にありがとうございます。
ぜひ、何かコメントを頂けると泣きながらジャンプして喜びます。
では、また!!
参考文献
・河野哲也『暴走する脳科学 哲学・倫理学からの批判的検討(光文社、2008年』
・心身(物心)二元論とは?例や問題点をわかりやすく解説(最終閲覧:2020年5月3日)
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