本当に自分の好きに生きていいの?
最近、題名にもあるように、自分の好きなことで生きるって、本当にそれでいいの?好きなことやってたらたまたまお金稼げるようになった人がいってるだけじゃないの?とかいろいろ考えていたのですが、それに対して自分なりの答えのようなものが少しだけできてきたので文章にしてみようと思います。
よく言いますよね。好きなことをやろう、って。
好きなことも見つからなければ、そんなことして将来は大丈夫なのか。上げようと思えばこの言葉に対する批判なんて無限に上げられそう、、、
でも最近は、確かにそうかもな、って思ってきたんです。いろんな本とか、ツイッターとかYouTubeとかnoteとかいろんなインプットをメモしてきた成果ですかね。決して自分の発明的な考えではないですが、自分がこの考えについて納得できた記念の文章だと思って読んでくださればと思います。コメントくれたら泣いて喜びます。批判あればしてください。喜びます。(こういうnote出す人嫌いとか言われたらへこむかも、、、)
前置きは置いておいてそろそろ始めます。まず考えるのが、僕らはどこへ向かうのかということ。つまりこのまま世界が発展したらどうなるのか、ということです。
これに対しては明確な答えがあります。発展のゴールは好きなことを好きなだけして生きていく世界です。これはファクトフルネスからの引用です。(ちゃんと引用しないと誰かに怒られそうですが、めんどくさいのでゆるしてください、、、)
一昔前まで(一昔前という曖昧な表現は私の知識不足ゆえです、、)、人間の活動のほとんどは「~すべき」というべき論で語られていたと思います。絵画や芸術でさえ、政治の道具として使われ、自分の好きにやっていたかと言われればはなはだ疑問です。中世の芸術品は王への献上品として王の権威を高めることに貢献しました。農民はどうでしょう。武士階級はどうでしょう。心からやりたいことを全員が実現できる環境だったでしょうか。違います。なぜかといえば貧しかったからです。生きていくことに精一杯だったからです。生きるために働くべきだったし、働くことが正解だったし、迷う暇もなく明日を生き抜くために目の前に山積する仕事をこなす毎日だったんです。
それが近世にはいり、変わってきました。町には農民や商人が中心となってできた純粋な芸術出現しました。裕福になったからです。日本でいうと江戸時代の元禄文化、化政文化あたりが最初でしょうか。芸術というのは富の象徴でした。なぜなら芸術は無駄なことだからです。中世のころは中央集権のための権威を高めるために利用されていましたが、それが変わったんです。農民、商人が無駄なことである芸術にお金を出し、それで生活できるようになる芸術家がいる。芸術が中央集権のための道具でなくなり、ある種民主化されたという点でこの無駄が生まれた瞬間はとても大事であるように思います。
つまり、裕福は無駄を生み出すんです。裕福であるってことはすなわち無駄なことができるってことだと思うんです。無駄って素晴らしい。
どこかの芸術家がツイッターでいっていました。「芸術は無駄なものだけど、無駄なものが存在していない社会は恐ろしい。」
完全に同意します。無駄なことができるというのは、裕福の証なんです。無駄なことができない社会というのは貧しい社会か、ある種中央集権を極めた社会(PHYCHO-PASSの世界のような感じ)の二択であろうと思います。現代に生まれたことの幸福を味わって、無駄なことをしたらいいと思います。
世界が裕福になれば、それに応じて好きなこと、無駄なことをして生活する人が増えていくのは自然なことです。ファクトフルネスからの引用になりますが、世界は驚くべきスピードで裕福になっています。これはファクトです。無駄なことをしていいんです。それが許された時代なんです。
今は過去と現在を比較して「無駄」=「裕福」という定理を導き出しました。世界が驚くべきスピードで裕福になっているのならば、無駄なこともたくさんできるようになる。無駄なことできるんだったら何しようか。まあ好きなことやってみればいいですよね。こんな感じで好きなことをやることが少し正当化できたように思います。
次は切り口を変えて、未来から考えてみようと思います。
今は変化の速い時代だってもう令和に入ってからでも100回くらい聞いてるのではないかというくらいよく聞きますよね。確かにそう思います。インターネットによって地域のトレンドはすぐに世界のトレンドになる。過去にはスマホほど短期間で社会のインフラになったものってないんじゃないですか?将来はスマートフォンについての記載が世界中の歴史の教科書に載ることは確実だし、一問一答の答えの欄にはスティーブ・ジョブズが、スマホを作った人みたいな感じで、活版印刷を作ったグーテンベルクや、上記期間を発明したワットと同列に並ぶんだろうなあと妄想したりします。
そう、それでは、変化の速い時代だから、結論未来はだれにも予測できないよねってところに話を着地させますね。新海誠のアニメがシェークスピアと同列になるかもしれないし、完璧な翻訳機が完成して外国語という概念がなくなるかもしれないし、EUが拡大して地球共和国ができて標準語がスペイン語になるかもしれないし、マジで未来はわからない。つまり正解なんかなくて、正しいことなんてない。
一昔前までは法律を極めれば安泰とか、英語を喋れれば、手に職をつければたべていけるとかいわれていた。この前提が覆るかもしれない。
この前提自体も、職業を自由に選べるという前提のもと成り立つもの(職業が選べなく、生まれによって決まっていたらそこで悩むことはない)ですから、本当に最近、下手したら戦後に言われ始めたことかもですね。だとしたら、簡単に覆るのも少し納得といった感じです。時の淘汰を経ていない考え方だからです。
もう働かなくていい時代がもうそこまで来ているのかもしれない!未来なんかわからない。正しさ、べき論がなくなった段階であなたは何を基準に行動するんですか?迷います。めちゃくちゃ迷います。まるで会社を選ぼうとする就活生のように悩みます。今までは偏差値という正しさというレールがある中での競争だったけど、そのレールが初めてといっていいほど多くの分岐が表れる。迷うはずです。
こんなことを言っているとPHYCHO-PASSというアニメで、縢くんと常守朱の対話を思い出します。(詳しく書くと長くなるので前提知識がある体で話します。知らない人は調べるか、飛ばして読んでいただくかしていただければと思います。すみません。)縢君に対して常守朱は進める進路が多すぎて、公安に入ったことが果たしていい選択だったのか相談します。それに対して縢君はシビュラがすべてを決めてくれるこの世界でそんなことに悩んでことが信じられないと言い、縢自身は幼いころに潜在犯に認定されてから自分の意志で行動できていないことから自分の意志で考動した彼女に対して怒りをあらわにします。犯罪係数を現在の裕福度に変換したらそのまま現在の問題に当てはめられます。つまり、裕福でない人はお金を稼ぐためにある程度決まったことしかできない。まるで中世に農民の家庭に生まれた子供みたいに。それに対して裕福な人は何でもできる。だからこそ悩むんです。
読者が限られるようなことを書いてしまい申し訳ありません。結論を書くと、好きなことって何だろうと悩むことはとても幸せな悩みであり、裕福だからこそ悩んでるんだってことです。それはよりよく生きるためのものであって、生命に必要なわけではない。きっと、小さいころに誕生日に欲しいゲームカセットを選ぶくらいのテンションで、選べばいいんです。だって無駄な悩みだから。
話をまとめますと、未来のことなんてわからないから正解なんてないし、じゃあそんな中で何を頼りに歩けばいいかというと自分でしかない。自分の好きなことでもなんでもいい。正解なんてないのだからまあ楽しいことをやるのがいいのでは?てな感じです。
長くてすみません!長くなってしまったのでいったんここまでの話をまとめます。
好きなことをやろう!の根拠
①過去から見て、発展のゴールは好きなことを好きなだけやれる世界だから、どんどん好きなことやっていいんだぜ!
②未来から見て、将来に正解はなくて、何しようか迷ってるのだったら、どうせなら楽しいことをやろうよ!
こんな感じです。
このまま続けて話しますと言いたいところなのですが、続きは次のnoteに書きたいと思います。
次のテーマは、「やりたいことばかりしていたら世の中崩壊するんじゃないの?」に対するアンサーです。
ここまで読んでくれた人は果たしているのでしょうか??
読んでくれていたら本当にうれしい。よみました!だけでもコメントくれたら泣いて喜びます。まじで。
そんな感じで。またお会いしましょう。
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