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わたしのキャリア〜ファーストキャリア編「憧れだけでは食えない」〜

社会人になって何年目なのか、段々とわからなくなってきた。
とりあえず、7年目に突入しているらしい。
年齢的にも、もうすぐ30代になるアラサーになった。

そんな私の短いキャリアの中でも、それなりにターニングポイントがあった。

就活なんてしたくなかった!

大学生活は順調に進んでいた。1年半、ミュージカルサークル漬けで過ごした後、交換留学へ。休学・留年もなく、3年生の3月を迎えた。
就活の解禁の時期だった。

ミュージカルサークルの先輩達は、「アーティストとして生きるか、社会人になるか」という葛藤で就活を苦しんでいた。役者をやりたい、ダンサーをやりたい、劇団に入りたい……
そのせいか、「社会に出ること=苦しいこと」というイメージがなんとなくできていた。
就活前に朝井リョウさんの『何者』を読んで、より就活への恐怖心が高まった。始まる前に気持ちが終わった。(なので、このタイミングで読んではいけない。

留学後、次第に教育関係にも興味を持っていた私は、「今の私の経験じゃ、教育業界につながるような志望理由書は書けないしな」と諦めていた。
そんな中、教育系団体を立ち上げた友達に、休学して手伝ってもらえないかと誘いを受けた。自分にとっては、思ってもみないチャンスだった。とりあえず、忙しすぎたミュージカルサークルは辞めてしまった。
思えば、浪人もせず、休学も留年もせず、全て決まったタイミングで生きすぎていた。立ち止まるのにもいいだろう。
と父親に話すと、バッサリ。「さっさと就活しなさい」と言われる。その上、コーチング的に「それであなたは何を求めているの?」みたいなことを聞かれだし、説得する気が失せてしまった。嫌々就活を始めた。

結局、ミュージカルサークルでの体験をもとに「学生時代に頑張っていたことは…」と話す就活を過ごす。
最終的に、3000人ほどの応募者がいた芸能プロダクションに、たった9人の採用者のうちの1人として選ばれた。
舞台業界で生きるのが運命かもしれない。
激務だろうが、好きな舞台のためなら頑張れる。
そう覚悟していた。はずだった。

憧れの業界で働く=「幸せ」ではない?

社会人1年目のゴールデンウィーク明け。死んでしまうのではないかと思うくらい憂鬱だった。
研修を終えて、配属された部署は、会社内で1番花形とされていた部署だったが、希望の部署ではなかった。

舞台業界に憧れていた私は、いつの間にか芸能プロダクションでマネージャーになっていた。

現場マネージャーとしての私はポンコツな部分と、まあまあ普通な部分とのアンバランスさが激しかった。遅刻はしないし、連絡を怠るわけではない。休みの日にかかってくる電話にも、きちんと出ていた。ただ、ものすごく手先が不器用なので、コートをかけたりもできなければ、うまく日傘もさせない。マネージャーとしては、致命的である。「反省するのに改善されないよね?」と詰められては、パニックになっていた。
華やかな業界の裏で、年功序列の中、圧倒的に地味な仕事が続く。
「私、何のために大学出たんだっけ?」と不安になってばかりだった。

「石の上にも3年」というし、辞めたくないとは思っていたが、先輩を見ても、長時間労働に疲弊しながら、働き続けている世界だった。上になればなるほど、休みはない。「振休」のはずの上司が横で働いていたり、海外旅行先からメールしてきたりすることもあった。休みと仕事を分けられる業界ではなかった。

この仕事合わない?

どこか「この仕事は合わないのではないか」と転職も考え出した。
そして、マネージャーの仕事で中高生と関わる中で、学生時代に興味のあった教育の分野に再びチャレンジしたいとも思うようになった。忙しい合間を縫って、転職活動もするものの、どうにも振り切れないでいた。民間で教育となると、どうしても夕方から夜にかけての仕事が多い。が、また同じように不規則な時間の仕事はしたくはない。何より、子どもが1番長くいる場所=学校に関わりたいと考えた。そして、教員免許を取りたいと決意した。

その間も、現場で渡される朝ご飯を食べるとストレスなのか背中に激痛が走ったり、仕事場に行くのも億劫になったり、いつまでも寝ていたい気分になっていった。大学3年の私に向かって、「さっさと就活しなさい」とアドバイスしていた父も、「そんな会社辞めたら?」とまでいってきたので、相当だったのだろう。心療内科にも通い、診断書を出すか持ちかけられたりもして、「ああ、これくらいで診断書出してくれるんだ」と思った。結局、不規則な仕事なので、複数の医師でまわしている診療受付時間が長い病院にしかいけず、あまり対応に満足はできなかった。
が、そこで話していたカウンセラーに
みうらさんは、いろいろやりたいことがあって、それで一杯一杯なんですね
と言われた時、自分の気持ちが舞台から離れてしまったことに気づいた。そうか、私は次に進みたいのだ、と。

結局、2年目の秋には、教員免許を取るという理由で、退職を申し出た。

そして、部署の役員と面談になる。その役員のパートナーは、副校長を務める教員の方だった。
「そんなんじゃ、また次の仕事もすぐ辞めるぞ?」
と呪いの言葉をかけられた。
「はい。(まあ、未来のことなんて誰にもわからんけど)」
と答えながら、憧れの業界への切符とおさらばした。

「この世の中、こんなに仕事あるのに、1番合わない仕事選んじゃっただけだよ」
と友達に慰められながら、私は退職届を出した。

ファーストキャリアを無駄にすること

仕事を辞めたタイミングで家族で食事に出かけた。
就活中の弟に「そんなんでファーストキャリア辞めるの?」と詰められた。

おっしゃる通りである。
ファーストキャリアの段階でしか、入りづらい業界も多い。憧れの業界をすぐに諦めた私も、根気がない。認めよう。

でも完全に無駄だったかどうかは、わからない。
ひとつには、私は「諦めること」ができた。
憧れの業界でも、私は何十年もあんな働き方で生きることはできない。子供の頃からの不器用さを治さなければ、うまく働けないだろう。
それならば、「諦め」ようと思えた。

辞めたとしても無駄にするかしないかは、自分次第だと思う。「憧れだけでは食えない」タイプらしいと自分のことがわかったのは、痛手は負ったが大きな学びだった。

#わたしのキャリア

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