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鳥取の映画館だからこそ出会った映画〜三宅唱監督特集に寄せて〜

4月、湯梨浜町にあるjig theaterに通いまくった。
三宅唱監督の映画を観るためだった。

<自己紹介>
東京出身。2020年3月から、鳥取在住。
教員(今のところ、英語)。28歳女性。
ひとり暮らし。本好き。趣味は積読、カフェ巡り。(元々は観劇。)
苦手なことはスポーツを上手にやることと細かい手作業。
2023年1月、潰瘍性大腸炎を発症し、難病と向き合う人生がスタート。
Podcast「Book Club」運営中。https://note.com/bookcloub

『ケイコ 目を澄ませて』から辿る

鳥取で「映画館で映画を観ること」

3月、日本アカデミー賞で岸井ゆきのさんが、主演女優賞を受賞した。
三宅監督の『ケイコ、目を澄ませて』での演技に対してで、ちょうど3月にjig theaterでかかることになった。
(にしても、ボクシング映画で主演をすると、賞をもらえるジンクスでもあるのだろうか。)
それ以外に私が三宅監督について知っていた情報は皆無だった。

鳥取の映画館事情は厳しい。東部には鳥取駅前の鳥取シネマしかなく、シネコンはない。シネコンは、米子にあるが、ひとつのシネコンだけで全ての作品をさらえるわけもない。中部には、倉吉のパープルタウンに映画館がある。
jig theaterは、そんな鳥取に新しくできたミニシアターである。「戸惑い」を案内する映画館として、2021年コロナ禍の鳥取にオープンした。

このような状況もあって、東京であれば小さい映画館まで探せば、いつまでも上映されているような作品も、鳥取ではすぐにその期間を終えてしまう。とりあえず次の作品へ、場所を明け渡さねばならない。

もし、東京に住んでいた頃の私なら、どこまでこの映画を必死に観に行っただろうか?
エンタメ業界で働いていれば、「仕事のため」と思って観に行ったとは思うが、何を観に行ってもいい状況であれば、好きな舞台のために同じ2時間をかけたかもしれない。選択肢が溢れている。選ばねばならない。

逆に鳥取で暮らしていると、選択肢はほとんどない。面白そうなイベントがあれば、映画がかかれば、逃さずに行かなくてはと思ってしまう。

ケイコと出会う

『ケイコ 目を澄ませて』は、仕事を休んで復帰を4月に控えていた私にとって、久しぶりに観に行った映画だった。

ケイコは常に真剣だ。体も追い込まれる。「強い」と弟に言われながらも、彼女自身の自己認識はちっとも強くない。安易に恋愛話や、家族との御涙頂戴のエピソードに流れない。その切実さが、自分に近く感じられた。彼女は再び戦いに向かうのだろうか、いや向かうはずだ。
ケイコは、私が今まで出会ったヒロインの中でも指折りの「カッコイイ」主人公だった。

英題にもなっている「Small, Slow but Steady(小さく、ゆっくり、でも着実に)」は、自分にとっても繰り返し大事にしたい言葉になった。撮影中にも繰り返し言われていたという。一歩一歩だ。やることを少しずつ着実に。

そんな風に出会ってしまったので、三宅監督特集にも通うことに決めていた。

三宅監督特集を鳥取で

劇場で観るために、特集上映を追いかける

4月後半から、GWにかけて、三宅唱監督の特集上映が行われた。この鳥取で。

高校生3人の不明瞭な青春劇『やくたたず』、俳優と「やり直し」をテーマにしたような『Playback』のモノクロで撮られた初期作品。HIPHOPの作品作りをただ撮った『ザ・コクピット』。HIPHOPの劇伴とただ歩き続け追われるだけの時代劇『密使と番人』。函館で撮られた3人の俳優による青春劇『きみの鳥はうたえる』。ドキュメンタリーと少年たちの恋愛劇を生み出した『ワイルドツアー』。そして、『無言日記』と言うiPhoneで撮られた映像日記。

そして、5月4日には三宅監督のトークショーまであるというので、4日までに全ての作品を追いかけることにした。というか、いつの間にかそうなってしまった。
パンフレットがわりに、本屋・汽水空港で、三宅監督特集のユリイカを購入して、予習。
4月の土日の間に1日に2,3本観た日もあった。作品を観なくてはと必死になっていた。実際、特集上映となると、過去作品を次に劇場で観れる機会がいつ訪れるかはわからない。(都会にいようと、田舎にいようと同じ条件だ。)

そうやって通っているうちに、jig theaterに通い詰めている人ともなんとなく顔見知りになっていく。観終わった後は、お互いにああだこうだ、受付にいるjig theaterの柴田さんと話し込むことになる。
東京にいたら、私は受付で立ち止まるタイプにはなれなかっただろう。毎日通い詰めているような人が大勢いて、もっと映画好きの人がいて、「私から話せることなんて」と思って、次の予定のために走って出てしまっていたと思う。

私が「切実に」なる理由

2時間を予定されていたトークイベント

これもまた東京だったら、完売なんてこともあったかもしれない三宅監督のトークショー。jig theaterは廃校になった学校を使っているので、劇場の隣の音楽室だった部屋に移動して行われた。恐らく会場にいる多くの人が、やっと三宅監督に対面し、その想像以上の気さくさと、明瞭な作品に対する語りに魅了された時間だったと思う。

そうこうしているうちに、時間がどんどん延長された。3時間くらい行ったらしい。
というのも、私は、この日に限って「東京行きの最終便に乗って実家に帰る」と言うミッションを抱えていた。劇場のある湯梨浜から空港までは車で35分。泣く泣く質疑応答の前に駆け出した。

そんなトークショーの最後(他の人にとっては、まだ山場の前だったかもしれないが)に、三宅監督がコロナ前に小説を読みながら、「ある魅力的な人物を描くために物語がある。物語は料理で言う「器」」と気づいたと語った。
物語があるから、登場人物がいるのではない。その人物を描くために物語が選ばれていく。三宅監督が、ケイコを描くために選んだ物語が『ケイコ 目を澄ませて』だったのだ。安易な「器」にするのではなく、どこまで「切実なところ」を描けるか、と監督が語った時、私が作品を観て感じ取ったものは「切実さ」だったのだと腑に落ちた。

映画館に通う理由。それはどこか他人の「切実なところ」を覗き見たい、他人のどこかの国の物語を「切実に」求める自分がいるからかもしれない。
映画を観ている間は、鳥取にいることを忘れ、自分であることを忘れ、東京の誰かに、フランスの誰かになれたりする。
家で見てしまうと、どこか没頭しきれない。没頭しなくていい「余白」や日常が用意されてしまう。「切実に」求めることができない。
そうやって、現実からの逃走線を引くために、これからも映画を観続けるだろう。

追伸:そろそろ趣味を「映画鑑賞にしたら?」とも思いつつ、映画オタクにはなれていないことに気づいているので、名乗れずにいます。皆さんは、どこまで行ったら、「趣味:映画鑑賞」にしますか?

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