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復活

頬を伝う涙が綺麗な透明色をしているのは、なぜか。
私はそこに狂気や奇怪なことがあるからだとは思わない。涙を流すということは、ただ涙を流すことなのであって、そこに悲しいから泣くのだと意味を与えることはできない。例えば、何か大切なものを失ったとき、私は悲しいからと言って泣くことはないだろう。しばらくして肌に感じたその温度を、乾いてしまって軋むその感触に、後から涙を流していたことを知るのだ。

透明とは何か。部屋に篭っているときに聴こえてくる蝉の声のことか。季節が巡り、去年も蝉について考えていたことを思い出した。昼も夜も関係なしに大きな声で鳴いている蝉を。幾夜の苛々とした私の神経を逆撫でするこの声について考えない訳にはいかなかった。退屈を。日中は静かである。芭蕉の句のように、空虚さにさえ染み渡っていくようである。私はひとつの穴を見ているのだ。バケツの底をよく見てみると良い。私はいつも見つめている、永遠にある底を。暗くて何も見えないだろう?

私は世界をグロテスクなものとして見たくない。エロティックであるより、純情であるし、熱狂的であるより、静穏である、恍惚であるよりかは、鎮静されている。人間も同様である。清く美しい状態が好ましい。しかし、現実はどうだろうか?

私は人々の心の中に罪の意識を見る。人々は赦されたいと心の底では思っているのでは無いか。さて、人間の罪とは何だろうか?生きていることか?罪悪感からか人は部屋でじっとしていることが出来ないようだ。ボードレールが言うように、我々は病室のベッドを移動したがっているただの患者に過ぎないのだろうか。私たちの魂はここでは無いどこかへ行きたがっているのだろうか。

人間は、生臭くて、狡猾で、気持ちの悪い存在でしょうか?それとも、欲望のままに動く機械ですか?

では、誰があなたを美しくしてくれるのですか。

私は許されたかった。生きていて良いのだと証明して欲しかった。人々は綺麗な死に方をたくさん発見してきた。あらゆる悲劇は美しい自殺である。しかし、人がそれに倣って死んでいったのだとすれば、こんなに狂気的なことは無い。

罪よ、私はこんなにも罰を受けたがっているというのに、罪人として過ごすことがこんなにも苦しいとは思わなかった。

誰も彼もが、孤独だ。他人が入って来れない領域がある。世界とは、他者である。

しかし、無様でも生きなければならない。罪を正しく見つめなければならない。それが世界に収監されている罪人としての在り方ならば、規則は守られるべきである。私たちに与えられたのは僅かな暇に泣くことくらいである。そのとき流れる涙はどんな色をしているのか?

生きろ。生きる他に道は無い。

私が作る物語は必ずハッピーエンドで終わらせると決めているのだから。

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花がみんな咲いている
鳩よ、石食ってるのか?
蝉がじりじりと
風景が煌めいている
空が青いから

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