書き損じのエッセー
人間という存在の不安定さのために苦難したことがある者ならば、絶望という感覚を知っているだろう。登山者でもゆらゆら散歩する者でもいいが、たとえばもしもあるとき、わたしは目を覚まして、もしくは夢の中で、視界が暗いことに気づき、しかしながらわたしは歩いているのではないかということを朧げにそう思ったとする。また全身の感覚が徐々に快復しているように思えてきたとしたら。わたしは地面が土であると思った。耳鼻はおのおのに風を感じ、一方に木々枝葉の音を聴き、一方に夜の露の湿った、ハーブと土の匂いを嗅ぎつける。私は森の中にいるのだと思った。夜中の森だと思った。そのとき手元に持っていた懐中電灯の光が消えてしまった。電池が切れて、なんだ馬鹿みたいなガラクタを握ったままでいる。森は以前の森ではないような気がした。やがて取り戻したはずの感性が、さらに暗くなってしまった視界の絶望に、その軀を顫え縮こまらせる。本統は走り疲れてしまいたかった。途端に風が止み、草葉の顫えは治り、花の香りも露の香りもしないところで、この遅れてゆく気持ちをそのままに森を歩いた。この森は森閑としている。人間という存在の不安定さが絶望を原因とするならば、実存的な諸問題について扱われなければならない。そしてそのことが絶望となる場合にもこれは言える。つまり絶望とはいつかの森の中を散策していた光景の遣る瀬なさ。その精神的な苦痛をよし絶望的だということはできる。しかしながらそればかりでなく、実際的に私は視界を失っていた。あの暗がりの森の中で、わたしは人明かりを探しに行ってもよかった。朝を待ってもよかった。だけれども森の歩き方は無数にあって、月明かりでさえも森林の房にいくらか当たっていくうちに微かになって、さっきまで照らしていた懐中電灯の光に比べれば、心許ないことはわたしの目にも明らかで、それぐらいの明るさ、たかだか数メートル先の低木しかわたしにはわからなかった。もしもこれが夢の中であったならば、現世のわたしが目をさますまで永遠に夜の森であるような気がした。それほどに森閑としていたから、たとえ夢であったとしてもこの一生をと思って、この夢がさめてしまうまでの時間、夢の中のわたしがいなくなってしまうまでの時間、この長さを歩かねばならなかった。それもわたしは森のあちこちに目印をつけるのだが、本質上それがこの夢からさめることの手助けにはならないだろうし、わたしにとってわかることの数々は、目印以外にはないのである。わたしはもうすでに夢からさめているから、その森の目印以外のことについてはるかに多くのことがわかるが、それを現世のわたしと比して絶望していると言うことはできない。あの夢を経験したわたしは、あの森の中で絶望していたが、森林の房に塞がれて月明かりが見えなかったし、森林を伐採して月夜だとみとめても依然、森は森であるし、懐中電灯が使い物にならなくなるまえから、光の力を借りていたが、そこで行っていたことというのは、現世に帰るための努力ではなく、目印をつけることであった。もしも現世のわたしがあの夜努力をして世界の外へ抜け出そうとしたならば、そしてその世界のわたしが別の世界へ移動するとき、わたしにとってのわたしの要件を損ねず、わたしであると貫徹したまま帰ってきたのだとすれば、わたしは二つの世界を架橋する存在として、一方の世界に対して、絶望の覆いはある程度外されたと言ってもよいのだろうが、つまりあの夜のわたしは完全にはわたしではない。いくらか絶望の度合いが下がるということが、外部の世界との連絡が自由になるということだとしたら、一方でわたし自身も絶望しているわけである。以後わたしはいくらも反顧を止まなかった。それはわたし自身に対しての幾つもの世界を予想する、もしその予想に対して自己が自己の世界性を保ったまま各々の世界性を破壊するでもなく、自己のうちにその世界性を獲得するならば、もっとも普遍的な自己になるのである。
もしも地球人と火星人がともに同じ土地で暮らさなければならなくなったとしたら、われわれはタコのような宇宙人を想像してしまいたくなるが、たとえば地球環境化と全く異質な環境で発展してきた歴史がある火星上に地球人と見かけが違う生命が存在するかもしれない可能性を想像することができる。火星人は見かけのちがいはおろか、われわれの感覚器官にないようなあらたな器官をもつ生命だとしたら?地球上でも渡り鳥は磁気を読み、蝶や蜂などの昆虫が人間の色相とは違う領域で対象を認識していることはすでに知られている。問題は人間の知的水準に到達している生命が地球上に存在していないことであり、そのような場合、人間は自然に対して征服する意思を表明してきた。もしも地球上にかくかくしかじかの理由から火星人が訪れてきて、人間と同様に文明を築いてきた知的生物とコミュニケーションを図らなければならないとき、それは人間が下等生物に対してする態度が通用する状況ではなく、ロシア人とアメリカ人が外交、貿易するのと同じく、ある状況次第では戦争もありえるような均衡した関係が望ましいとき、地球人と火星人に問われる共生関係はいかなるものだろうか。たとえば、火星人のフォルムが個体的である場合、火星において文明が発達しているならば、なにかしらの言語モデルを用いていることを想像できるかもしれない。つまり人間が社会を形成してきたのと同じように、社会契約が生存の条件である場合、火星人もまた火星の自然を征服することによって、都市を繁栄し、法律をつくり、民衆的なイデオロギーを形成したかもしれないということである。そうであれば、翻訳の機会が生じることは避けられない。火星人との身体的差異が与える影響は、火星人の寿命が短いとわれわれにとって感じられる場合、もしくは火星人の体感時間がわれわれよりも短いと感じられる場合も、種に対しての個体の流動性が活発である場合にも、火星人の都市像がわれわれのものよりもそもそもリバタリアン的な性質を持っていることを推測することができる。つまり個体の繁殖の頻度や個体数の多寡は、同じ集団であっても集団の意味を変えてしまう。いまの例で言えば、多死多産な社会においてはある個体が長寿であるよりも種の存続のために個体が多様的に分散されているほうが合理的である。そのことから福祉政策や市場に対する政府的な働きかけはリスクとなるために小さな政府を志向する。はたまた反対のことをのべるなら、火星人の人口が安定している場合、大きな政府が志向されることは想定に易い。この水準からして翻訳の機会は生じているのであり、人間にとって運命とさえ思える生と死の事実でさえもある生命体からは別様に感じられるような概念だとすれば、われわれはいままでタコのような見た目から、足が八本あるからその数学的体系は八進数であると想像を膨らませてきたわけだが、よくよく考えればその数学とは人間独自の視覚的情報から、つまりわれわれの身体構造が偶然にも指十本を視認できるからだのつくりになっているからで、もしも火星人の視覚が発達しておらず、そのかわり聴覚優位の数学を体系づけてきたならば、その軟らかい足は弦を表現するために使うのではないだろうか。仮にそうであるとするならば、三角関数の概念周辺を基点として情報を変換することで、相互の数学理解につながるだろう。そのほかの文化的交流もよいものになる予感がする。しかしながらときにわれわれが考えた火星人というのは随分人間らしくなかっただろうか。同じ四次元時空上に存在し、生死の概念はおろか肉体と知性を持っていた。われわれはこれらの共通する事項から貿易することに成功したのである。つまりわれわれは人間の拡張として火星人に接することで、ただ見知らぬ土地に観光して帰ってきたかのような気持ちになった。先の数学の例で言えば、最後の最後まで地球人と火星人がともに理解に苦しみ、やがて難攻不落に終わってしまった数学があるのではないだろうか。たしかに最初交流したとき、かれらはりんごを指差して「キュウ」と言い。それから太陽を指差して「キュウ」と言い放ったことがあった。わたしも続けて「キュウ」と言ったらかれらは嬉しそうにしていた。そのときも理解に苦しんだが、しばらくして交差点で信号を待っているとき、かれらがまたしても「キュウ!」「キュウ!」「キュウ!」と叫んだので、わたしはピンときて「球」「球」「球」と一個一個指差しながら言ったら、かれらは非常に喜んだ。喜んだので「丸」「丸」「丸」ということを教えてあげた。「ミャル」「ミャル」「ミャル」と聞こえてきたのは非常に嬉しかった。嬉しいことばかりではない。わたしはかれらに理不尽に怒られたことがあるし、わたしがかれらを怒るときはかれらはなにもわかっていない。わたしが怒っていることくらいはわかるみたいだが、かれらと過ごすのにはとにかく骨が折れる。つまりわたしはこの段階で地球人としての拡張を火星人に適用するのを一旦憚る必要性に駆られたのである。翻訳の本懐とは経済人が貿易するように行うものであるばかりか、政治的な友好関係を築くものでもあるからだ。わたしは火星人と仲良くなりたいと思うとき、不快に思うようなことはできるだけしたくない。かれらが嫌がったエピソードを記憶して、その掟を守ることで信頼を獲得する。地球人と火星人との異質さは、相互信頼の末、取引が行われることに有意義なのである。また残酷なことを言えば、翻訳の本質上政治的であることを措くならば、互いに敵愾心を向けることも別の意味で有意義であると言わねばならない。
われわれが人間として見做しがたい幾つかの宇宙人についても想像してみよう。たとえば生殖活動においてある一定の植物のように自家受粉できるようなフォルムをしており、しかしながら自足する手段は光合成ではなく、雑食であるような宇宙人を。思えば、地球上でそのような知的生物がいないのは、動かない植物の特権であるような気がするが、まさに動かないゆえに動物の認識機能と植物のそれでは大きく異なるのだと言わねばならない。とはいえ第三惑星にそういった存在が実在することを否定することができないので、仮にも実在するとする。そこで先の火星人と同様にわれわれと交流しなければならない状況であるとすれば、どうすればよいだろうか。われわれは先ほど交流する手段として翻訳という概念を用いたが、つまり交流するためにはなにか共通項があり、その共通項を基点に概念の限界を探っていくのだが、今回の場合、宇宙人は男女の性が完全に分裂しておらず、そのことによる文化的基盤が地球人とも火星人とも異質であるケースである。通常文化的基盤が遠く離れたものであれば、信頼を集めることは困難である。さて、生殖に関して自由であるということは、われわれの恋愛に対する悩みを超越しているという言い方はできるだろうか。少なくとも文学にとっていつも主要な関心事に措かれてきたのは、恋愛であったことを考えるならば、人間の条件とまで言ってしまいたくなるが、男が女に向かう、女が男に向かう性向は、単純に生殖する本能に差し向けられているというのだろうか。もしも第三惑星に住まう宇宙人が決して植物のように静止されていて、そこに社会性などはなく、太陽でも宇宙エネルギーでも構わないがその自生に事足りて、ショーペンハウアーの言うように低次のエロースしか持たないのだとしたら、それは恋愛の自由ではなく子孫繁栄の自由である。しかし仮にもわれわれと交易できるような知性を持ち、われわれにとって人間らしいと見做せるならば、われわれの恋愛は成熟したと言えるのではないだろうか。個体における自己特定性が、われわれにとっても運命的な死への経験に恐怖心を抱かせるとすれば、この宇宙人はたしかに肉体的な痛みを嫌うが、自己がまるっきり消えてしまう恐怖を感じづらいのではないだろうか。というのも自家受粉は無性生殖とは厳密に違うが、その多様性は他家受粉に比すれば落ちる。もしもこの宇宙人が無性生殖であり、厳密に自己分裂を行うならば、その場合、自己の記憶が引き継がれるのかは全くわからないし、認識機能を持つ場合、自己のクローンと遭遇したとすれば両者の差異は分裂以後の経験によるものだけだから、その場合は自己のそうなり得なかった可能世界の個体とコミュニケーションをとることとなる。個体の運命は生死だけども可能世界として死んでゆくのである。自家受粉も一定このことは言えるかもしれないが、より多様性を持って新たな子孫が生まれるならば、自己という精神現象のそれも生得的な性質と経験から創造される「ほかの誰でもないわたし」という一貫したアイデンティティのもと運命を感じながら生きてゆくのである。種子を残したら死ぬということがわかっている精神状態において、成熟するまでの期間というのはアンビバレントかもしれないが、また「わたしは子を残すために生まれたのだ」という謂いもたしかにあるだろうが、しかしこういう気持ちを一定抱えながら、過去の出来事や現在の生活を肯定しなくては、子孫繁栄の自由もないとすれば、この宇宙人にとってその実存的条件とはその過程にもあるのである。半永続的に種が存続する世界観において、男女の営みが確実であるようなとき、その恋愛的性質は個人の経験を重視する。
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ほんとうは続きを書きたかったけれど、こちらの執筆の仕方の問題、時間がかかり過ぎてしまった。それで議論しようと準備していた問題にリアリティが感じられなくなってしまった。こんなにもったいないことがあるのだろうか?時間をかけて書いた文章が無に帰するというのはなんとも言えない。ほんとうはこの後、エイリアンのバージョンをいくつか挙げて、話をする予定だった。頭が三つある異星人や、個体的というより集合的だと思える異星人について、しかしながら、自分で書いておいて馬鹿みたいだが、なぜエイリアンを例に用いたのか?わたしはエイリアンを空想しながら、常に人間を例示していたのではないか。人間を地に描きながらコスプレをさせ、そのコスチュームをはがすという愚行を犯していたのだと、真面目にそう思う。公開はするけれど忸怩たる思いだ。わたしの情熱だけを認めてほしい。ほんとうは書きたいことがあった。わたしの関心は集合意識のようなものが、個人を裁くようにして全体を裁けるのかということや、それらを評価し、表現する枠組みをさらには具体化するということであった。具体化に伴い、時間や記憶のアポリアに衝突し、法の実効支配がある時間には行われた出来事を現在において効力を行使する可能性や、未来への可能性としてあらかじめ規制すること、これは表現を変えれば人間の意志についての問題であるが、わたしはそれを身体的な問題と定義した。つまり、もしも体中の幾億の細胞や、また器官が自由意志を持つ場合、過去から未来を横断するような一貫した法の力によって秩序づけられなければ、持続することなどありえるのだろうか。心臓が異常にポンプし血管内が損傷したり、呼吸が乱れたりすることで人体が成立しないのであれば、もはや自由ではない。なぜならば心臓が自由でいられるのは、人体が自由であるからだ。同じくして心臓を構成する筋肉やその他諸々の部位についてもそれらを自由にしているのは、このことなのである。ある意味で言えば、万人の万人に対する闘争を避ける国家という存在意義を象徴している見向きもある。そこで人体の側からは部分的な偏愛はありえない。血圧を高める要因はいろいろあるが、適正な血圧でなければ、人は死んでしまう。あえて精神という語を用いるならば、この法の力と法に従う意志の間に意義がありうる。こういうことを言うと人を機械的に見過ぎているという反発を受けるかもしれないが、それでも人間の自由は限りなく少ない、このことは分かってもらえるのではないか。諍いに割って入っていっても、たかだか喧嘩の仲裁もできないこと、他人の心がわたしにはわからないが、わたしの心も他人にはわかってもらえない、十年後のわたしが何をしているのか全く予想がつかない、また明後日の自分もわからず、下手したらどこかで野垂れ死んではいないか不安になる。絶望の謂いとは人間そのものである。しかしながら絶望という言葉をよくよく考えてみると、不思議なことがわかる。「望ることを絶つ」「望ることを絶える」この「望る」という語は、実際にその視界を失っても、見るという積極的な動作を思い起こさせる。つまり見るという意志に反して、その否定として見えないのであって、生命現象としては見たいと願っているはずだ、実際生命は絶たれていない。ふつう屍体に対して絶望的であるとは言わず、絶望的であるから死ぬかもしれないことと、絶望=死は厳格に区別されなければならない。むしろ絶望的であるから希望的なのである。わたしがつくづく言いたいのは、この生命の灯るうちに為すことに為せるものは少ないが、何も為せずなくなったものはない。そしてもしも人々にこのような精神的自由が認められるならば、機械的に記述された世界をわたしは想像できない。わたしは世界を構築するのではなく、世界に参加している。世界はやはり世界だけで独立することには持続的でいられない、参加者の存在が世界性を担保しているということも言えるからだ。そこでわたしは意志をもつ者として最高の仕事を残していきたいと、心から思っている。