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ランニング

ランニングの対話

ある日ある瞬間、ふと決意する。私はもっと健康的でなければいけない。もっと強くなければいけない、と。高い志を持ち、近所の公園にあるランニングコースを走ることにした。それは、単なる運動ではなく、何かを始めるということ。その行為が、私の存在を少しでも価値あるものに変えるものだと信じたうえでの単なる運動だ。

走り始めた瞬間は、目標がはっきりとしているものだ。体力をつけたい、健康でありたい、そして心を強くしたい。目的があるからこそ、足は軽やかに進む。最初の数分間は、風を切り、心が解放されているように感じる。しかし、時間が経つにつれて、その最初の意気込みは徐々に薄れていく。10分、20分と走るうちに、身体は疲れ、呼吸も荒くなる。そうすると、ふと疑問が頭をもたげる。「なぜ私はこんなにしんどい思いをして走っているのだろうか?」

私は人生の縮図を見たような気がした。走り始めた時の明確な目標は、疲労と共に霧の中へ消えていく。まるで生きる意味を見失ってしまうあの感覚だ。走り続ける理由が曖昧になり、何のために走っているのかわからなくなる。それでも、途中でやめるのは何かに負けたようで悔しい。だから、ただ決めたコースを走り切ることにする。しかし、その理由は曖昧で、どこか空虚だ。

人生もまた同じだ。私たちは、ある目的を持って生まれてきたと信じる。しかし、その目的は時間と共に霞み、時には完全に見失うこともある。それでも、私たちは走り続ける。なぜなら、止まることができないからだ。立ち止まることもあるが、それにも限度がある。結局、また歩き出さなければならない。それが人生という名のランニングコースだ。

気晴らしとしてのランニング

私は走りながら、この苦しさを紛らわすために考える。これは、パンセの「気晴らし」の概念に通じるものがある。私たちは生きるために、何かに夢中になり、忙しくしている。人生の意味を考えることなく、ただ前に進むための「気晴らし」を見つける。

しかし、この「気晴らし」の考え方に共感してきたものの、最近はそれだけでは面白くないと感じるようになった。人生がただの「気晴らし」だとしたら、それはあまりにも無味乾燥ではないか。悲しすぎる。正しいか否かだけでなく、楽しいか否かという判断基準も大切なのではないかと思うようになった。

楽しさの追求

何かを作ること、メールを返すこと、そして走ること。それらすべてが、死から目を逸らすための気晴らしだと言われれば、確かにそうかもしれない。そこにはどこか知性的な雰囲気が漂う。しかし、それだけでは物足りない。人生にはもっと楽しさや喜びがあってもいいはずだ。

私たちは何のために走るのか、何のために生きるのか。その答えは一つではなく、何度も変わっていく。だからこそ、私たちは生きることそのものを楽しむことが大切だ。意味を追い求めることだけでなく、その過程で感じる楽しさや喜びを大切にする。ランニングも人生も、その意味を見失ってもなお、私たちが走り続ける理由がある。それは、ただ生きていることそのものが、何かしらの必然を感じざるを得ないのだ。

ランニングコースを走りながら、私はその美しさに気づく。いや美化してしまった。私の悪い癖は、事実にフィクションを入れることだ。すなわち、話を盛ってしまうことだ。まぁ、これも私の走り続ける理由なのかもしれない。

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