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1話:創業前夜

こんにちは。
会社を2年前に創業しまして、日本でWEBマーケティング支援ツールの開発とサポートをしています。
そして、中東でも事業をスタートさせてこれから伸ばすところです。

創業は2016年10月で、ちょうどこの9月で2周年です。
社員数は9名で、そのうち2018年4月までは4名ですので、半数以上の社員がこの半年以内に入社してくれた社員です。

ここまでの業績は、

■1期目
売上:約3億円
営業利益:約2800万円

■2期目
売上:約12億
営業利益:約6300万円

という感じです。(ざっくり)
2期目はもう少し利益を出すこともできましたが、オフィス、設備投資、採用、新規事業とそれなりの投資をしての結果なので、まあ悪くはないと思ってます。

うちは資金調達を方法にかかわらず行っていないので、外部の方に褒められたりということは無いのですが、それでも

「どういう会社なの?」

と聞かれることが増えてきたので、2周年記念ということで少し書いてみようと思う。(そこそこ長いです。)

【創業2年・年商12億】創業からここまでを振り返ってみる。

創業前夜

当時僕は、成長著しいニュースアプリを開発する会社の広告事業部で働いていた。

社員30人で、ビジネスサイドが立ち上がったばかりの会社。
そこから3年ほどで社員が120人、売上が数億から100億規模になるまで働いた。

それまでは某口コミサイトで営業マンとして働き、日本全国を出張で飛び回り、月額◯万円を年契約で獲得してくるという営業を1年半。
マザーズへの上場も経験した。

しかしITサービスとは言え、その会社ではテクノロジーに触れることはほぼなく、気合で営業していた。
若かったし、いかに仲良くなるかで結果が大きく左右されるような、ノリ営業だった。
(と思ってる。その当時はきちんと提案してたと思ってたけど、今思うとノリと勢い営業なのは間違いない。笑)

そこからこのニュースアプリの会社に移り「アドテク」というものに出会うわけなのだけど、ここでの経験はハッキリいって超辛かった。笑

原因はどこの会社にでもありそうな当時の上司との相性の悪さ。
ただ僕が気に食わなかっただけかもしれないが、今思っても当時のあれは異常だったように思う。
(何があったかは本人の名誉もあるので割愛する)

そしてついに限界を越えたストレスで全身に原因不明の蕁麻疹がでた。
3つぐらいは皮膚科に行ったがどこに行っても治らない。
薬を塗っても治らない。
シャワーを浴びたり、体が温まると異常な痒みが襲い、掻きむしると一瞬気持ちいいが、2秒後にまた凄まじく痒くなる。

そうなってくると、できると思ってた事も簡単な仕事もできなくなる。
ミスは余計するし、打ち合わせをしても上の空。
たった今クライアントが言ったことを聞き返したりする。

そんなことが続くと自分は無能で何もできないと思うようになる。
もうすでにそのときには、全員が敵に見えて、全員が僕のことを嘲笑っているかのように見えていた。

(今考えても、なぜそうなったのかはわからない。あれをどう防げたのか?は今でもわからず。ただただ「自分が上司になったらこれはしないようにしよう」をたくさん教えてもらったことだけは確か)

小さい頃から、正直何事もできる寄りの人間だと思って生きてきたので、この時は現実を知らされたと言うか、絶望を知ったと言うか。

この会社は高学歴や業界のハイキャリアが集まっていたので、「やっぱり俺にはレベルが違った。ここに来るべき人間じゃなかったんだ」と心の底から思うようになる。

無能だと気付かされた瞬間だった。

そして、よく飲みに行って話してた友達に

「もういいんじゃない?十分がんばったよ」
と言われた時は、

「もうここで俺のビジネス人生は終わったな」
と思ったのを今でもハッキリ覚えている。

友達の家に向かう途中の、JR総武線下総中山駅にある場末の安い立ち飲み屋で、涙がこぼれそうになるのを隠しながら1杯200円の薄いビールをたくさん飲んだ。

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当時の地元の仲良しグループとの写真(筆者:右から2人目)。楽しかったけどこの時も蕁麻疹出まくりで痒さと気持ち悪さを隠して遊んでた。あてもなくいろいろなところに連れ出してつるんでくれたみんなには今でも感謝してる。


会社員適性に対する絶望

正直に言うと、その辛すぎる経験から僕は早々に退職を決める。

この時27歳。
もう一度転職して1からやり直す。というのがどうしてもイメージできず次に何をするかは一切決まっていなかった。

と同時に、「自分は会社員に向いてないのでは?」と思うようになる。
すべての仕事を否定されていたから、会社員としての業務能力がないんだと自分で感じていた。

当時自分にとってはこの会社が全てで、自分のキャリアの中でも一番の会社で、今となっては恥ずかしい話だが、結果を出して役員になりたいと思ってたし、面談などでも上司にそう話してた。
(結果を出せば役員になれるという発想自体がそもそも間違いなのだが、そんなことにすら気づくのはまだまだ先の話)

そんな会社に完全に拒否されたと思っていたから

「何かを自分でやらなければ。」

自然な流れでそう思うようになる。
もうこの会社でやっていくのは難しい。辞めて自分で生きなきゃいけない。

思えば思うほど焦り、本当にいろいろなことに手を出した。

会社を立ち上げて資金調達までした先輩の会社を手伝ったり、独立してる人に話を聞きに行ったり。

当時バズったこの記事を書いて本も出版した阪口さんに直接会いに行ったりした。

※この時、阪口さんに少なからず影響を受けて立ち上げたブログが後々の起業のキッカケを作ってくれることになる。

と、そんなことをしながらも退職を決めていることを部署のトップに告げた。

「君に力があることはわかってるからもう少し別のチームで続けてみては」

当時の部署のトップから出てきたのは意外すぎる言葉だった。

すんなり退職になると思っていただけに面食らったわけだが、もともと強い意志で入社していただけにこの言葉は嬉しく、その言葉の真意まではわからなくても、「もう少しだけ頑張ってみようかな」と思うには十分だった。

立ち上げチームがあったことと、そのチームに異動になる=直属上司が変わるということだけ確認して、もう少しだけ続けてみることにした。

しかし、会社には残ることにしたものの急にすべての気持ちを切り替えることは当然できなかった。

業務と関わる人が変わったので蕁麻疹も少しずつ治まってきてはいたものの、相変わらずみんなとは打ち解けられず、色眼鏡で見られていると思いこんでいた。

ドラマのように何かが劇的に変わることはなく、そこそこの仕事をそこそこの成績でこなすということが続いていく。

結局、その後異動を繰り返し当時あった広告に関するチームの全てで仕事をすることになる。

後から振り返ると、この時期は多くの人が引き止めたり社内の様々な企画に呼んでくれたり無理やり入れてくれたりして居場所を作ってくた。
正直素直に受け入れることができずにうまくいかないことも多くてあまり楽しめなかったけど。みんなが敵だと思ってたけど、思い返せば本当にそんなことなくて、別に一人でもなかった。当時は気づけなかったけど、あの時声をかけてくれた人のことはハッキリ覚えてるし忘れない。

そして、最後に運用型広告のチームに移ったのだが、これが僕の転機だった。

そのチームでは、運用型の広告を販売していた。
1クリック◯円課金、もしくは1000回表示◯円課金というように、配信された分だけクライアントからお金をもらう仕組。

自分たちメディア側にとっては(詳細は省く)
「なるべく高く買ってもらいつつクライアントの費用対効果を最大化する」ということがミッションになる。


数値改善×即時性の楽しさを知る

このチームでの仕事、というか運用型広告をセールスすることに関しては、きっとこの時点での天職だったに違いない。

今思い返してもそう思っている。

運用型広告の「使った分だけ課金」という特性により、広告主が「変化やチャレンジ」を受け入れやすい環境と、考えた提案・打った施策が次々と実行されて即時に結果に現れてくる面白さ。

施策がハマって広告主の予算がどんどん伸びていく時は本当にエキサイティングで、朝起きた瞬間から何度も何度もレポートをリフレッシュして数値の細かな変化を見てはああでもないこうでもないと考える。

新規の営業に行けば、様々な施策を行ったことがある人であればあるほどトークの引き出しは増え、小規模から一部上場企業まで様々なクライアントを開拓できた。(こうなってくるとやる気も出てきて、空き時間や移動時間にFacebookなど他の媒体に出てる広告をスクショで取りまくって、あとで調べてメールでアポ取りしまくっては営業に出かけてた)

結果もようやくついてきて、新チームに異動後、客ゼロ・売上ゼロから始まった仕事は、3ヶ月目でチーム約15人の中で1番になることができ、その後半年間ほどは目標の200%、チーム自体も自分のノウハウをどんどん伝えることで全チームの中で1番の売上になることができた。

この時のセールスと数値改善の経験は、後の仕事においてかなり大きな経験だった。

数値を見る以外にも、様々なツールの使い方を覚えまくったのもこの時。いかに多くのクライアントのレポートを短時間で整理・把握するかが成績に直結していたため、仕事を効率化させるツールを調べては本気で使い倒して様々なことを覚えたし、WEB広告の配信やトラッキングに関する技術の勉強もした。それまでノリ営業だったから使えなかったエクセルやSpreadSheetの関数も1週間で大体覚えた。そういったことを繰り返していくうちに、やればできるじゃんと少しずつ自身を取り戻していくようになる。

当時、会社は経営に関する重要な数値などはすべて社内に開示していたため、営業の提案に必要な数値だけでなく、メディアとして収益性を保ちつつクライアントの効果を保つための数値の見つけ方など多くのことを学んだ。 

毎週送られてくる他部署の数値がどう営業に相関するのか?

開発、マーケ、データ改善、営業とすべての部署の施策やKPI設定、数値の捉え方、活かし方など毎週すべてを穴が空くほど読んだと思う。

自分ならどうするか?
自分の業務にどうクロスオーバーして考えられるか?
将来自分が起業したらどこで参考にできるか?

など、本当にいろいろなことを考えていた。

クライアント営業の限界

そんなこんなで、ようやく結果を出すことができたわけですが、同時に今の営業の動きでは限界があると考え始めるようになる。

それは、日本では「広告代理店」の力が強く、クライアントの社内に広告運用チームがあることは少なく、予算配分や運用をほぼ全て代理店に任せていることが多数。
(たぶん、長く業界にいる人には当たり前なんだろうけど当時の僕は「なんで営業に行くといちいち代理店紹介されるの?」と思っていた)

どんなにレポート上効果が良くても、他社のプロダクトでどのぐらいの結果が見えてるかがわからないと、他がもっとよければ急に予算を下げられたり停止したりしてしまう。

代理店側に情報量が圧倒的に多く、急に予算縮小や出稿停止になってしまう。

「どうしたらこれをなくせるんだろう?」

と考えるようになるのですが、ここで僕はひらめき、行動に出ることになる。

1-1話:すべてを変えることになる「筋肉」と「ブログ」へ続く




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